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名前のトラウマ

「名前を大きく書いてきてね」と先生は言った。
そのまんま受け取った私は、家に勝手からピアニカのケースの表面に大きく自分の名前をマジックで書いた。

それは文字通り「大きく」、つまりピアニカのケースの表面の全てを使って書いた。母はそれを見ていたはずなのだが、その後すぐに幼馴染の親が家に遊びに来た時に、「すごいね、これ」と言われて初めて気づいた。

「大きく」にも限度がある。先生はきっと「見やすく、わかるように」と言う意味で言ったのだ。幼馴染の親に言われた時、初めて心底「恥ずかしい」と思った。

後に私はそれを何とか消そうと思い母に言ったのだと思う。記憶にはないが、母は恐らくそれを父に言ったのだろう。何かしらの薬品でそれを消した覚えがある。だがそれは私の名前だけではなく、ケースの表面の色まで落としたのだが。

非常に格好悪くなった私のピアニカのケースは、当然ながらそのまま六年生まで使用することになった。ただ、色落ちして所々白くなったピアニカのケースの方が、ある意味「笑われた」私の名前を大きく書いたケースよりかなりマシだったのである。

名前にまつわる所謂「トラウマ」は、その他にも多々あるのだが、それ以来自分の名前を書く時に、それがノートだろうが上靴だろうが、非常に躊躇するようになった。

今までの話は、入学して間もない頃のことである。
もう一つ私を悩ませたのは、毎日「強制的」に出される「給食」である。

なぜ毎日牛乳が出るのか?当時あまりアレルギーなど聞かなかったのだが、後々昭和の給食がパンと牛乳がレギュラーなのは、何かしらの陰謀が働いていたなどと言う記事も見たことがある。

一年生の時、牛乳は瓶だった。ストーブはだるま式の燃料がコークスのもの。その上にたらいのようなものに水を入れ、蒸発皿にしていた。
冬はそのお湯の中に牛乳瓶を入れ、温めたりしていたものもいたが、今思えばかなり危なかっただろう。

そして入学したての頃は、その牛乳瓶を運ぶとき落とす輩が一人や二人必ずいて、そのことが問題になったのか、二年生になると牛乳は瓶ではなく三角形の紙パックになった。

私はというと、牛乳は飲めたのだが、おかずの方で好き嫌いが激しかった。
けれどその頃の教師たちはバリバリの戦後の思想を持っており、「好き嫌いしないで全部食べなさい」と、半ば見張るように生徒が給食を食べるのを見て歩いた。

好き嫌いが激しい上に、食べるのも遅かった私は、給食の時間が過ぎて生徒たちが机を下げ、掃除が始まってもまだなお下げた机の間で給食を食べるのを強制された。

今では考えられないことだろうが、それほどに食べ物を残すことに罪悪感があり、貧しい時代を乗り越えた先生を始めとする大人たちの陰謀を感じざるえない。

給食も二年生、三年生になると、与えられた分では物足りない男子たちが私のところに来て「嫌いなものない?」と聞きに来るようになった。
ギブアンドテイク、一挙両得とでも言おうか?
先生が来る前に男子たちがおかずを貰いに来るのだが、意外に早く先生が来た時は、残念そうに男子たちが去って行く。
ある時など好きな唐揚げまで持って行かれて悲しい思いもしたこともあるが。

小食で食べるのも遅く好き嫌いも激しいことは、子供の頃何のステータスにもならない。食べれない自分は、「食べなければ」という罪悪感に変わっていく。栄養を十分に考えられた「給食」は、今でこそ楽しみなものなのだが、「強制」というしがらみがただ「焦り」という罪悪感に変わる。

戦争中、または戦後の「それ」は、「とっくのとう」に「常識」ではなくなったというのに、それをアイデンティティとして振りかざす大人たちに翻弄されつつも、それを飲み込まなければならない「教育」としての「正しさ」は、私をどこまでも狂わせ、社会にも似た学校の枠の中から弾く。
そうした子供たちは後に「落ちこぼれ」と言われるようになる。

※米津さんからの一言
自分のこと書こうよ。と、言われました。


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