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天使がくれた恋するスティック

「好き」が動けば、きっと私も誰かを好きになる。恋をする



第1章


 学校の放課後というのは、いつだって事件にあふれている。
それが高校二年生の新学期始まって早々ともなると、なおさらだ。
どんなに地味で平凡で目立たない女子にだって、そんな浮き足だった時期には、思いがけない事件に巻き込まれたりなんかもする。
もちろんそれが、自分であるとは限らないのだけれども……。

 私、持田美羽音は、北校舎と東校舎を結ぶ、日当たりの悪い渡り廊下奥の茂みに身を隠していた。
なぜこんなところでボキボキに小枝に刺さりながら痛みに耐えているのかというと、全ては友人、中島絢奈がワイヤレスイヤホンを落としてしまったことに端を発する。
彼女の誕生日プレゼントとして両親から買ってもらったばかりの最新ワイヤレスイヤホンを、校舎2階の窓から落としてしまったとあれば、探しにいかないワケにはいかない。
たとえそれを落としたのが、私ではなく絢奈自身であったとしてもだ。

 その落としてしまったワイヤレスイヤホンを手分けして探しているうち、事件に巻き込まれた。
放課後の校舎裏なんて、やっぱり一般人モブJKが不用意にうっかり立ち入っていい場所ではなかった。

「あの、4組の坂下くんですよね」

 そう言って彼に声をかけたのは、3組の知らない女の子だ。
「ちょっと話したいことがあるので、いいですか?」といいながら、いきなり彼を人気のないこの場に連れ込んできた。
ただならぬ気配を察知した私は、こうしてとっさに藪の中に飛び込んだってワケ。

「なんですか? てか、誰なの?」

 緊張で全身をカチコチに凍らせた彼女を前に、坂下透真は若干いらつき気味にウンザリとしたため息をつく。
背が高く色白でスラリとした体格のよい彼は、スポーツ万能成績優秀、キリッと引き締まった眉に黒目黒髪のアップバングスタイルという、誰も疑う余地のないイケメンだ。

「人違いなら帰るけど」
「あ、あの! 好きです。付き合ってください!」

 うわっ、いきなりいった! 
白い頬を真っ赤に染め勇気を振り絞った彼女に、憧れと尊敬とちょっぴり好奇の眼差しを向ける。
凄い。偉い。よく頑張った。頑張れ。
知らない人だけどその行動力に応援はする。
きっちりとブローされた髪に、しわひとつない制服。
きっと今日告白すると決めてから、ずっと緊張していたんだろうな。
顔だってかわいいし、背の釣り合いだって悪くない。
こんなかわいい子に告白されたら、女の子から学年人気ナンバーワンでも、きっとあっさりOKしてしまうんだろうな。
カップル誕生の瞬間を目の当たりにして、他人事ながら私の胸は緊張と興奮で高鳴り、全ての神経を耳にだけ集中させていた。

「入学した時から、ずっと坂下くんのことが気になってて……」
「あのさ。俺はあんたの顔も名前も知らないんだけど」
「お、お友達からお願いします」
「……。いや、無理ですね」

 彼はスクショした画面をそのまま貼り付けたような全く動かぬ表情で、自分に恋する女の子を見下ろした。

「告白されたことは黙っとくんで、そこは安心してください。保証します。だからこれからは必要のない限り、話しかけてこないでほしいんだけど」
「お友達からも、無理ってこと?」
「そうですね」
「……。そっか。分かった。邪魔してごめんね」

 彼女は震える体で小さくそう絞り出すと、パッと背を向けた。
古びたすのこを敷き詰めただけの渡り廊下を飛び越え、全力疾走で走り去る後ろ姿はどうしたって泣いているのに、彼にはそんなことは全く気にならないらしい。
聞こえているこちらまでウンザリするほどの長い息を吐いたかと思うと、ゆっくりと歩き始める。
ようやく隠れていたここから出られる。
そう思った瞬間、その無駄に長い足が私の目の前に立ち塞がった。

「でさ、こんなところでなにやってるワケ?」
「あ。バレてました?」
「藪に飛び込んだ瞬間が見えてたんだけど」

 あぁ、左様でございましたか。
隠れていた茂みの中から、もぞもぞと外へ這い出す。
とっさに飛び込んだおかげで、小枝に引っかかりまくった髪も制服もぼろぼろだ。
さすがにちょっと恥ずかしいし、体裁も悪いという自覚はある。

「さっき見たこと、黙っといてほしいんだけど」
「あぁもう。それはもちろんお間違いなく……」
「本当に?」

 信用ないな。
疑り深い目が、表情の動かない顔で見下ろす。
二年生になって初めて同じクラスになったばかりだ。
女子の間でイケメンと有名な彼のことは、こっちが一方的に噂レベルで知っていても、彼が完全モブな私のことを知らないのは当然か。
信用できないのも、当たり前なのかもしれない。

 外見はとてもよく整っている彼だ。
すれ違えば目で追うくらいのことはあった。
この人が仲のよい友達といる時は、この鉄仮面のような無表情も、柔らかく緩むことを知っている。
大きな荷物を持って教室を出入りする人を見かければ、男女関係なくさりげなく扉を開けて、気づかれなくてもこっそり待ってあげていることも。
他の人がぶつかって歪んだ机の列を、こっそり直していることも。
楽しそうに笑う澄んだ笑顔が、一度も私自身に向けられたことがなくても、そういうところは知っている。

「告白、断ったんだ」
「知らない人だったから」
「お友達も無理なの?」
「それが何か自分に関係ある?」

 まだ疑り深い目でこっちを見ている。
よくよく考えてみれば、彼と話すのはこれが初めてだったのかもしれない。

「あのさ。いくらなんでも、ちょっとあの言い方は失礼だったんじゃない?」
「なんで?」

 たとえ私自身が見ず知らずの女の子であっても、女子を泣かせるような男には黙っていられない。

「どうせお断りするにしたって、もうちょっとやり方ってもんがあるでしょ」
「やり方って、どんな?」

 高い鼻と涼しげな目元。
整い過ぎた顔は、見方によってはお高くとまっても見える。
女の子の間では何かと噂の絶えない彼も、実際に同じクラスになって身近に接してみれば、ちょっと顔がいいだけの普通の男の子だ。

「自分のこと好きって言ってくれた人に対して、優しさとか気遣いってものがあってもよかったんじゃない?」
「気遣いって?」
「いや知りませんけど」

 彼はまるで何かの間違い探しでもしているかのように私を見下ろした。
さっきまで低木の小枝だらけの中に無理矢理体を突っ込ませていたのだ。
緑のチェックが入った黒い制服のスカートは汚れていたし、地黒なおかっぱ頭の髪の毛だってくしゃくしゃだ。

「俺なりにちゃんとお願いしたつもりだったんだけど。他にどんな言い方すればよかった?」
「あんな態度で?」

 彼は表情の読めない薄っぺらい顔のまま、わずかに首を傾け、何かを考え始めたようだ。

「えっと……。今日さっきここで見たことは、他でペラペラしゃべらないで、誰にも言わないでおいて……」
「私のことじゃなくて、告白の断り方のこと!」
「さっきの子、知ってる人?」
「いや」
「じゃあなんでそんなことが気になんの? そんな俺に興味あった?」
「別にないです」

 とは断言したものの、女子の間では人気のある男の子だ。
身長と血液型。誕生月とクラスの出席番号はもちろん、入っている委員会だって知っている。
ヘンに探りを入れてるとかじゃなくって、そもそも同じクラスなワケだし? 

「確か同じクラスだよね。しゃべったことないけど」

 だけどこれらは、あくまで同じクラスだからこそ自然に知り得た情報であって、彼自身を知っていると言えることじゃない。

「あぁ。そうですね。クラスは一緒ですね」
「なんで敬語?」
「さぁ」

 一瞬でも相手に引かれたと気づいたとたん、今度はこっちが恥ずかしくなる。
どうせ私は地味で目立たず、教室の隅っこで群れてるモブ女ですよ。
一世一代の告白を前に、準備万全整えてきたさっきの彼女と自分を比べたって仕方ないんだけど、今の私はボロボロだし。
それにしても、いくら顔はよくたってやっぱ性格悪くない? 
ってゆーか有名人とか人気者とかモブとか雑魚とかそういう前に、ほぼほぼ初対面と言ってもいい人間に対して、人としての接し方ってゆーものがあるでしょ。
お互いにだけどさ。

「なんで俺がそんな怒られてんのか、さっぱり分からないんだけど」
「あのねぇ。私も人のこと言える立場じゃないんだけどさ……」

 てゆーか、なんかこの人やっぱ感じ悪い。
なんでこんな話になったんだろ。
さっさと切り上げて早く帰りたい。
そもそも私みたいなのが、こんなクラスでも目立つ人気者としゃべってるなんて。
しかも男子。
もう人生で一生ありえない。
早くここから逃げ出したい。
そもそも私にこんな人としゃべる資格がない。
同じクラスにいても、現世と異世界の住人ほどの格差を自覚している。
王侯貴族と村人Aだ。
このままへらへら笑って謝って、何事もなかったみたいにこれまで通り、互いに空気な存在で……。

「ギイヤァァッッ!!」

 突然上空からの不穏な叫び声に、パッと顔を上げた。
バタバタという強く翼を打ち付ける羽音と、必死の叫び声が耳をつんざく。
激しくもみ合う白と黒の塊が、遙か空の高いところから、目の前にドサリと落ちてきた。

「ヤメロこのクソカラス! ふざけんな、あっちいけや!」

 背に白い翼を持つ小さな人が、カラスと格闘している。
カラスはこの辺りをナワバリとしている大型のカラスで、いつも校舎の高い所から登校してくる生徒たちを見下ろすボスだ。
うっかり弁当やパンを外に置いたままにしておくと、めざとくそれを見つけて奪いとることから、先生たちが何度も追い払おうと試みるも、一度も成功したことはない。
知能も高く罠はもちろん特定の人物には一切近寄らず、一人でいる弱そうな生徒を狙っては、手元の食料を奪い取るという犯行を繰り返していた。
校内での彼のテリトリーにうっかりはいり込もうなら、たとえ相手が人間でも容赦はない。
ギャアギャアと声高に叫び威嚇してくる大型のカラスに、誰もが恐れおののく存在だ。

「コレでもくらえ!」

 そのカラスとほぼ同じくらいの大きさで、白い布で半身を覆い背中に翼をもった人は、腰に引っかけていた「すだち」ほどの大きさのりんごを手にとると、空に向かって勢いよくそれを放り投げた。
ボスの目的はそれだったのか、そのすだちサイズのりんごを追いかけ、真っ黒な翼を広げるとすぐさま空へ飛び立ってゆく。

「あーぁ。あのクソカラスめ。これだから最近の都会のカラスってヤツは。まぁ今日のところはこれくらいで許してやるか」

 体に巻き付けている真っ白な布一枚の衣装は、泥だらけで所々破れてしまっている。
彼はブツブツと捨て台詞を吐きながら、身なりを整え始めた。
突然の出来事に私はもちろん、坂下くんも全然脳内処理が追いついていない。

「あ、あの……」

 こっちに気づいているのかいないのか、私は愚痴をこぼし続ける彼におずおずと声をかけた。

「……。あ、見つかっちゃいました?」

 白い翼を持った小さな人と、ようやく目が合った。
真っ白な肌に幼い男の子のような顔をしている。
金髪のくるくるした巻き毛に目の覚めるような青い目は……。

「え? もしかして本気で天使ってやつです?」
「あ、はい。マジ天使っす」

 いたんだ本物。
彼はその小さな羽を羽ばたかせ、ふわりと宙に浮き上がった。

「あー。結構日本でも有名になっちゃいましたからねー。ほら、今やグローバル社会って常識じゃないですか。天使の世界も一部地域だけでは上手く回ってかないっていうか。あ、『グローバル社会』って言葉、今も使ってる?」

 坂下くんと目を合わせる。
いつも冷静沈着で優等生な彼まで意識がショートしているのか、彼はよくしゃべる天使を呆然と見上げた。

「あー……。多分グローバル社会って言葉、まだ通じると思いますけど。えっと、天使さんはなぜここに?」

 恐る恐る、高い鼻をツンと上に向けた彼に尋ねる。

「今ってほら、春だし? 新しい出会いと別れの季節だし? まぁ、実はあんま季節とか関係ないんですけどね。色々忙しいんですよこっちも。イベント前後とかね」

 よく見ると彼は背に、矢筒のようなものを背負っている。

「ところでさ。僕が見えちゃったこと、内緒にしておいてもらえません? 申し訳ないんだけどさ。査定に響くんで。悪いね」
「査定……。そんなのまであるんだ」

 見た目は本当に可愛らしくて愛くるしいだけの男の子なのに、話す口調や繰り出す仕草は、完全にどっかの古びた昭和臭のする営業職のオッサンだ。

「あ、もちろんお礼はしますよ。タダより怖いものって、ないって言うじゃないですかぁ。こう見えて僕も、いちおう天使なんで。ちゃんとするところでは、ちゃんとしてるんで」

 古いタイプのお笑い芸人のように、軽く流暢なしゃべり口でそう言うと、背にぶら下げた矢筒からマドラーのようなスティックを取りだした。

「はーい。天使からの贈り物といったら、ベタという名の王道です! 恋するスティック! 聞いたことあるでしょ。いつの時代も結局これが一番人気なんですよねー。天使界不動の第1位!」
「恋するスティック?」

 私と坂下くんの声が重なった。

「そういうのって、天使の弓矢とかじゃないの?」
「あー、お客さん。困りますねぇ。時代感覚のアプデは常に必要ですよぉー」

 彼は芝居がかったように派手にうんざりとしてみせる。
得意気な感じでやれやれと首を横に振ると、取りだしたスティックを空中に並べ始めた。
校舎裏のじめじめした空き地で、彼が空中にピタリと止めた位置に、それは留まり続けている。

「弓なんてさぁ、自分使えます? 使ったことあります? ちゃんと飛ばせないわ当たらないわで、評判めちゃくちゃ悪くって。もう120年くらい前には、改良されてるんですよぉー。あぁ、もっと後だったかなぁ? あの時代ってさぁ、あ。もちろん君たちは知らないよねぇ。ちょっとしゃべらせてもらってもいい? あの頃はさぁ、僕らもまだ世間的にもうちょっとありがたい存在っていうかぁ、姿見せたら驚かれもしたし、なんていうの? 世間はもうちょっと……」

 私は彼の愚痴のようでありながら自慢のようでもある話を半分聞き流しながら、空中に並べられたスティックを見上げた。
本体である棒の部分はやや幅広く、白とピンクのカラーが斜線状に入っている。
長さは20㎝に満たない程度だ。
両端のうちの片方が矢のように尖っていて、反対側の矢羽に当たる部分には、翼とハートのマークが付いている。
それぞれ2組4本のマークが対になっていて、『  は』と『  を好きになる』と書かれていた。

「ね。分かりやすく改良されてるでしょ。ユニバーサルデザインってやつですよぉ~。これで事故率も随分低下しました。クレーム対応も激減したと、コールセンタースタッフもイチ推しです!」
「この、『  は』のスティックを刺された人間は、『  を好きになる』が刺さった人のことを、好きになるってこと?」
「はい、そうです! 説明不要の大正解。こちらの手間も省けてます!」

 私はその2組4本のスティックを、まじまじと見上げる。
坂下くんも私の隣で、手の届きにくい高い位置にあるそれをじっと見ていた。

「あ、『ユニバーサルデザイン』って言葉、最近でもまだ使ってる?」
「おい。本当にコレ、効果あんのかよ」

 彼は天使からの質問を完全に無視して、そう詰め寄った。

「あ、疑い深いですねぇー。そういうのは、よろしくないですねぇー。効果は抜群。安心安全。天界マークの保証付きですよ?」
「これを俺たちに渡して、どうすんだ」
「ノルマがねぇ~!」
「あんたの仕事を手伝えってこと?」
「やだなぁ! 一石二鳥のwin-winってもんですよぉ」

 冗談じゃない。
そんなの、相手が例え坂下くんじゃなくったって、こっちから願い下げだ。

「手伝わないから。そんなの絶対」
「あー。違います違います。これはお二人に差し上げます」
「え?」

 天使はこなれた雰囲気で、当たり前のごとくそう言った。

「だからぁ、僕を見ちゃったことを黙っていてくれる代わりに、これを差し上げますって言ってんの。僕のこと、あんまり言いふらさないでくださいねぇー。ま、とか言ったところで、もう壁画とかアニメなんかにもなっちゃってるし、とっくの昔から存在バレちゃってるんですけどねぇー!」

 ガハハと腹を抱えて豪快に笑う天使は、全然天使なんかじゃない。
どこにでもいる面倒くさい厄介な中年オジサンだ。
空中に留まり続けるロリポップキャンディみたいなスティックは、夢見るようにカラフルに輝き続けていた。

「おや? お嬢さん。そんなに見上げて、お気に召しました?」
「ううん。私はいらない。別にこんなのもらわなくても、ちゃんと黙ってるから。持って帰っていいよ」
「えぇ! どうしてですかぁ? 皆さん大変喜ばれますよ」
「いりません。べらべらしゃべったりしないので、さっさと持って帰ってください。逆に欲しくないくらいです」
「えー! だってめちゃくちゃありがたくないですか? こんな便利な道具なのに?」
「マジでいらない」

 私は改めて、見た目は美少年、中身はおっさんな天使を見上げた。

「だって、こんなのウソだもん。こんな道具に頼って好きな人を自分のものにしようなんて、そんなの間違ってる」
「おや。お嬢さんは、好きな人を自分のものにしたいと思ったことがないんですか?」
「そもそも、私に好きな人なんていません。もしいたとしても、そんなの自分でなんとかします」
「はっは~ん。なるほどねぇ!」

 小さな天使はヒラリと空中で一回転すると、自分の鼻先をくっつけんばかりに私に近づけた。
背中の翼をパタパタさせながら、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。

「分かってないなぁ、お嬢さん! あなた、恋したことないでしょ。ダメですよぉー。ちゃんと恋愛しなきゃ」
「そんなの、私の人生に必要ないです。てか、一生無縁なままだと思います」
「ふふん。僕、分かっちゃいましたねぇー。お嬢さんのダメなとこ。皆さん叶わぬ恋のお相手に振り向いてもらおうと、このスティックをお使いになるんですよ。恋の形も人それぞれ。ウソかマコトか、ご自分の目でお確かめくださぁーい!」

 そう言うと、天使は翼マークの付いた『  は』のスティックを掴んだ。
急降下したかと思うと、目にもとまらぬ早業で、それを私の額にブスリと突き刺す。

「ちょっ、何すんのよ!」

 冗談じゃない! 
すぐに抜き取ろうと額に手をかざしたのに、自分ではそのスティックを見ることも触れることも出来ない。

「え。なんで? 消えた?」
「消えたな……」

 一部始終を見ていた坂下くんがつぶやいた。
天使はパタパタと宙に浮かんだまま、ニヤニヤ笑っている。焦っているのは私だけだ。

「ねぇ取って! 今すぐ取ってよ!」
「まぁまぁ。人体に害があるものではないので、そんな心配しなくても大丈夫ですよぉ」
「いいから取って! いますぐ取って! つーか、さっさと取りなさいよ、このバカ天使!」
「おや。皆さん最初はそうおっしゃいますが、案外悪くはないものですよ? 百聞は一見にしかずですぅー」

 空に浮かぶ天使を捕まえようとして思いっきりジャンプしたのに、ひょいと逃げられる。
どれだけ必死になって飛び上がっても、相手は空を飛んでいるのだから捕まえたくでも捕まえられない。

「ふざけないで! さっさとこのスティックを……」

 その瞬間、目の前を大きな黒い影が横切った。

「ギヤァアア!!」

 カラスのボスだ! 
ボスは天使を自分のナワバリに入り込んだ鳥類の類いと思っているのか、鋭いくちばしとかぎ爪でバタバタと執拗に攻撃を繰り返す。

「おいコラやめろ!」

 天使の体が、宙に止まっていた翼マークのスティックにぶつかった。
永遠に留まり続けると思われたそれが、ポロリとこぼれ落ちる。
『  を好きになる』という文字の書かれたそれは、一直線に急降下を始めた。

「危ないっ!」

 それはポカリと口を開けて突っ立っていた、坂下くんの額にプスリと突き刺さる。

「えぇーっ!!」

 彼に刺さったスティックは、キラリと一瞬の輝きを放つと、ふっと視界から消えた。

「な、なんで……」
「うわ。マジか」

 彼はやっぱり表情の乏しいまんまで、自分の額を撫でている。

「ちょ、なんで避けないのよ!!」
「いや、無理でしょ」

 愕然とその場に座り込む。
ちょっと待って。
私、この顔だけはいい冷徹鉄仮面のことが、好きになっちゃうの? 
当の本人はこの状況にあっても、その涼しげな顔を一切崩すことなく、平然と刺さったところを撫でている。

「このクソ天使! いい加減にして!」

 いまだ地面にのたうち回って格闘を続ける白と黒の塊に、私は飛びかかった。
一人と一羽はパッと空へ舞い上がる。

「ちょっと待ちなさいよ! このスティック、どうにかして!」
「はーい。お邪魔しましたぁ! 後はご自身で何とかしてくださーい。こっちのことはお気遣いなくぅー!」

 天使はカラスに追い立てられながら、あっという間に空の彼方へ姿を消した。
全身の気力が吸い取られていく。
自分に何が起こったのか全く理解が出来ないまま、その場にしゃがみ込んだ。

「うそ……。やだ、信じらんない……」
「あーぁ。いっちまったなぁ」

 春のうららかな放課後の青空には、吹奏楽部のトランペットの音と、学校独自のランニングの掛け声が響いている。
恐る恐る見上げると、坂下くんと目が合った。

「……。で、なんか変化あった?」
「別にないよ。そっちは?」
「特にないね」

 はい。嘘です。
私はたった今、ウソをつきました。
スティックが刺さったその瞬間から、色白で背の高い彼が、キラキラと虹色のオーラを纏い輝いて見えてます。
大きな手に伸びた細長い指がピクリと動くだけで、オーケストラの指揮棒に踊らされるように胸の鼓動が飛び跳ねてます。
振り向いた微かな風圧からの芳香にも、息が止まりそう。
最高難易度の間違い探しくらい変化のない無表情が、愛嬌たっぷりに見えて仕方がない。
どうしてこんな愛しい造形を保ったままキープ出来るんだろう。
信じられない。
この世の全てに感謝だわ。

「ホントに大丈夫なの?」

 私の異変に気づいたのか、彼が顔をのぞき込んだ。
彫刻のように美しさをキープしたまま、一切崩れない表情でこっちを見ないでほしい。
目を合わせていられなくて、パッと顔を反らす。

「だ……、大丈夫、大丈夫! 何にも変わってないから。平気だし! ちょっとビックリしただけ。……。それで、坂下くんの方は?」
「別に何ともない。マジで」

 彼はまだ空中に残るハートマークのスティックを見上げた。
天使が中途半端な位置に置いたせいで、その2本は簡単に手の届かないところで留まっている。

「なんだ。じゃあこのスティックの効果って、ウソなんだ。まぁそうだよな。あんな胡散臭い天使、誰が信じるかっての」

 自分の心臓の音がうるさい。
だって、こんな状況で私が彼のことを好きってバレるのって、ちょっとズルくない?
緊張で全身がカチコチに固まってしまっている。
変な汗が後から後から出てくるのは、気のせいなんかじゃない。
こんなの絶対、健康寿命によろしくないって!

「美羽音―!」

 渡り廊下奥の校舎から、絢奈が駆け寄ってきた。

「落としたイヤホン、見つかったよぉ~!」

 半泣き状態で現れた彼女には、この不自然に浮かぶスティックが目に入らないらしい。

「ごめんね。美羽音。探してくれてありがとう!」
「ううん。それはいいんだけど……」

 坂下くんを見上げる。
このスティック、私たち二人にしか見えてない? 
これはこのままスルーしておいた方がよさそうだと、暗黙の了解で確認した彼は、涼やかな顔に洗練された笑みを浮かべた。

「じゃ。俺はこれで」

 か、カッコい~い! 
軽く片手を上げ、背を向ける仕草さえ色っぽい。
もういっそこのまま、アイドルデビューした方がいいんじゃない? 
絶対にワールドツアーも夢じゃないって!

「ねぇ美羽音。大丈夫なの? 坂下くんになんかされた?」
「え? なんかって、なに?」

 もう心がメロメロに溶かされてる。
頭の中がカーッと熱くて仕方がない。
この目はもう、彼しか映さない。
映したくない。
どうにでもしてくれって言いたいけど、そういうワケにもいかない。

「……。え? されてない。されてないよ」

 絢奈には心配かけたくないから、そこは冷静に判断して誤魔化しておく。

「そう。ならいいんだけど。なんか坂下くんたちって怖いよね。優秀すぎるっていうか出来すぎるっていうか真面目すぎて、うちらとは世界が全然違う感じ。美羽音もいつもそう言ってたよね」
「うん。本当にそう」

 手の届かない人だから、余計に欲しくなっちゃうのは、もしかして憧れってやつ? 
絢奈はまだ心配そうに私をのぞき込む。
そっか。
私の外見、藪に無理矢理飛び込んだせいで、ボロボロだった。
だから誤解したのかな。
彼女に申し訳なく思いながらも、乱れた制服のスカートを何となく整え、大丈夫だからともう一度満面の笑みを浮かべる。

「うちらも帰ろっか」
「そうだね」

 いつものように二人で並んで、永遠にしゃべりながら駅までの道のりを歩いた。
放課後の学校は、やっぱり事件であふれていた。
私はいつものように絢奈の話に耳を傾け、ぎゃあぎゃあ笑いながらも、心はずっと違うことを想い続けていた。




第2章


 今朝はいつもより少し早めに起きて、丁寧に髪を櫛で解く。
短いおかっぱの黒髪だなんて、自分はなんでこんな流行らないダサい髪型してるんだろうって、今さらながらそんなことを思ってる。
今まで気にしたこともなかったのに。
昨晩はお風呂にしっかり入って念入りに体も髪も洗ったから、変な臭いとかもしてないはず。
これならもし、うっかり隣に並ぶことになっても大丈夫。

 スマホ画面の中にある、彼のアイコンを眺めている。
クラスで作ったグループだから、ここから個別にメッセージを送ることも可能だ。
なんか送ってみちゃおうかな。
なんて送ろう。
いきなり送ったら変に思われないかな。
「おはよう」のスタンプくらいだったら大丈夫? 
やっぱいきなりはダメ? 
送りたくても送れないで悩み続ける指先は、なんども打ち込んだ文字と削除と送信ボタンの上を彷徨っている。

 彼に関する情報をどれだけ持っているのか、自分の記憶を呼び起こした。
もっとちゃんと、みんなの話を聞いておけばよかった。
彼はどの電車に乗って来るんだったっけ。
電車通学なのは知ってたし、出身中学も聞いたことはある。
だけど、聞いたことは覚えていても内容までちゃんと覚えていなかった。
バカだな私って。
いっつもそう。

 校舎から入ってすぐの、靴箱のところで待ち伏せしようかな。
それなら待ち伏せされてたなって、バレない? 
ストーカーだとかは絶対に思われたくないから、もうちょっと別の場所にしようかな。
廊下の途中とか、教室の前とか。
だけどそれでも、知らない人から見たら完全にヤバい奴だよね、私。
無理無理。やっぱ大人しく教室に入ろう。
そしたら絶対会えるし。
同じクラスって幸せ。
彼が教室入って来たら、すれ違うフリして「おはよう」って言えばいいんだ。
クラスメイトだし、それくらいは許されるよね。

 大人しく教室に入って、自分の席につく。
彼の席は私から3列廊下寄りの2段前にあった。
こんなに離れてたっけ? 
初めてちゃんと確認した気がする。
ということは、彼が来たらぐるっと回って前方の入り口から外に出れば、すれ違うことが出来るよね。
教室入る時も、絶対に前から入ろう。
彼の横を通るようにしよう。
そうしよう。

 早めに学校に来たところで実際することはなんにもなくて、スマホで撮った英単語小テストの出題範囲単語を見ているフリして、じっと彼が来るのを待っている。
朝の時間って、こんなにゆっくりだったっけ。
いつもなら登校した瞬間すぐに始まるホームルームも、まだ始まらないし、彼もやってこない。
当然単語は頭に入らない。
そういえばスマホゲームのログインボーナス、今日の分まだもらってなかったな。
ゲームアプリを立ち上げ、あっという間にデイリーミッションもクリアしてしまった。
本気でやることがなくなってからようやく、彼が教室に入って来た。

 やっと来た。
何度も何度も頭の中でシミュレーションした通り、ゆっくりとさりげなく立ち上がる……つもりだったのに、ガタンと椅子が不自然に大きな音をたてた。
失敗した。
だけど彼が自分の席に着くまでに、絶対にすれ違いたい。
違和感を持たれないよう一旦教室後ろのロッカー前まで下がると、早足で彼の机が並ぶ列に入る。
急がないと彼の方が先に着席してしまう。
途中他の男子とガツンと肩がぶつかって、「イテーよ」とか言われたけど、そんなこと気にしている場合じゃない。
「ゴメン」とちゃんと謝っておいたから今は許して。それどころじゃない。

「おはよ」
「え? あ、あぁ。おはよ……」

 緊張していたうえに急いだせいか、息は切れてるし随分低い声になってしまったけど、返事を返してくれた。
うれしい。
恥ずかしさにそのまま廊下へ飛び出し、ようやくホッと立ち止まる。
一呼吸置いてから、こっそり後ろの扉から教室に戻った。
本当は前の入り口から入って様子を確認したかったけど、さすがにワザとらしいので今回ばかりは後ろの入り口から入る。
彼はいつもの仲良し男子グループと一緒になっていた。
白いシャツに大きな背が笑っている。
いつか私も、その輪の中に入っていけたらいいのにな。

「どした美羽音。なんかの発作?」

 絢奈が一仕事終えた私を、怪訝な顔つきでのぞき込む。

「何が?」
「急に凄い勢いで教室出て行ったと思ったら、すぐに戻ってきたから」
「……。あぁ、トイレ行こうかと思ったけど、そうでもなかっただけ」
「お腹痛い?」
「……と、思ったけど、速攻で治った」

 授業中に目が合った回数とか、休み時間にすれ違った回数を指折り数えている。
自分から話しかけられたのは、朝の「おはよう」の一回だけ。
普段は全く接点のない人だから、どう話しかけていいのか分からない。
どう近づいていいのかも分からない。
せっかく同じクラスになれたのに。
なんでこれまで話しかけたりしていなかったんだろう。
こんなカッコいい人がこの世にいただなんて、気づけただけでよかった。
ちょっと遅かったもだけど、まぁいいです。
同じクラスにしてくれて、本当に神さまありがとう。
もう一生神さまの悪口なんていいません。

 4時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
待望の昼休みだ。
私と絢奈は、いつも教室で二人でご飯食べてるけど、坂下くんはどうしてるんだろ。
二年生になってからの一ヶ月半、どうしてそんなことすら気にならなかったんだろう。
もうこんなチャンスはないかもしれないのに、どうしてこんな大切なこと、今まで知ろうともしなかった?

 いつもならすぐにお弁当箱を持って絢奈のところに行くのに、今日は教科書を片付けるフリをしながら彼の様子をじっとうかがっている。
隣の席の女の子と、チラッとなにかしゃべったみたいだけど、まぁそこは大丈夫。
彼が誰とでも仲良く気さくに話せる人だっていう証拠。
彼は机の上のシャーペンを筆箱に片付け始めた。
メタリックブルーのきれいなシャーペン。
どこのメーカーだろう。
今度そこもチェックしておかないと。

 彼の所に、いつも一緒にいる男子二人がやって来た。
あの二人の名前、何だったっけ。
それくらいは今度覚えておこう。
いつも三人でご飯食べていたのか。
彼らは坂下くんの机を中心に、お昼のセッティングを始めた。
あの二人ともお友達になっておけば、接触の機会が増えるかもしれないよね。
ことわざにもあるじゃない、将を射んとする者はまず馬を射よみたいな感じ? 
ガタガタと移動を終えた彼と、ふと目があった。
今日はこれで6回目。
ちょっと多くない? 
休み時間ごとに見てたら、そのたびに彼と目が合った。
もしかして向こうも気にしてこっち見てんのかな。
やった。
また目が合ったと思った瞬間、彼がフッと笑った。

「え?」

 気のせいかと思ったけど、絶対気のせいなんかじゃない。
確実に笑ってる。
すぐに前を向いて友達男子と笑いながら何かしゃべってるけど、本気で私を見て微笑んだ。
間違いない!

「美羽音。なにやってんの?」

 いつまでも動かない私の所へ、絢奈の方からやって来た。

「ね、いま坂下くんと目が合ったの! そしたらね、私を見て笑ってくれたの!」
「は? なんかバカにされた? ケンカでも売られたの?」

 彼女は腕を組むとチッと舌打ちし、イラっとした表情で彼らをにらみつける。

「やっぱ美羽音、昨日坂下くんとなんかあったんでしょ」
「違う違うやめて」

 やっぱりまた彼がこっちを見てる。
私はギロリとにらみつける絢奈の視線を遮り、最大限の愛想笑いを浮かべてヒラヒラと手を振った。

「うわ。ホントにこっち見て笑ってるわ」
「でしょ!」

 手を振った私に、彼はちゃんと手を振り返してくれた。
しかもにこにこ楽しそうに笑ってる!

「ね、やっぱり笑ってくれてたでしょ? 現実だったよね」

 嬉しい。
本気で嬉しい。
本当は思いっきりブンブン手を振り返したいけど、恥ずかしいから心の中だけで大きく振っておく。

「あのさぁ美羽音」

 絢奈は先生に怒られないギリギリのラインまで茶色く染めた、肩までの真っ直ぐな髪をサラリとこぼした。

「昨日の放課後、絶対坂下くんとなんかあったでしょ。なにがあったの。場合によっちゃ私も黙ってないから。ちゃんと教えて」
「違う。違うの」
「いいいからちゃんと話して! 私はいつだって美羽音の味方だよ。なにかあったなら絶対にアイツら許しておかな……」

 視界の隅で、彼が動いた。
ウソ。
信じられない。
こっちに近づいてくる? 
彼は王子さまのように優雅な仕草でゆったりと歩いてくると、そのきらびやかな瞳に広がる世界で、私だけを麗しく見下ろした。

「持田さんて、古文の教科担当だったよね」
「うん。そう」

 初めて名前を呼んでくれた。
私の名前、知っててくれたんだ。
しかも教科担当のことまで覚えてくれてる!

「次の時間のさ、単語の小テストの範囲って、21ページから25ページであってる?」
「うん。あってるよ」
「書き下し文のプリント提出って、今日までだっけ」
「うん。放課後集めるから」
「分かった」

 立ち去る瞬間、振り向きざまにまた笑った。
そのキラキラ輝くまぶしい笑顔は、間違いなくこの世で私だけに向けられたものだ。
もう無理。
限界。
意識飛びそう。

「いま笑ってたよね」
「誰が?」
「坂下くん。私に向かって」
「そう? いつもの仏頂面じゃない?」
「いや、笑ってたって」
「よく分かんないよ。アイツ表情筋ないもん」

 すぐ隣にいるのに絢奈は気づかなかったってことは、やっぱり私だけに微笑んだってことで、確定もらっていい?

「私、古文係やってて本当によかった」
「は? ジャンケンで負けただけですけど? 美羽音決まったときめっちゃ嫌がってたよね」
「プリント回収するの楽しみ」
「ホントに大丈夫? 記憶飛ばした? 別人になってるよ」
「絢奈。今日の分は私がやっとくから、先に帰っていいよ。歯医者なんでしょ」

 なんだか体がふわふわして落ち着かない。
頭までぼーっとしてる。
いつもは寝るしかすることのない授業なのに、今日の私の目は、閉じることなくずっと彼の背中を見ている。
早く放課後にならないかな。
そしたらまた話せるのに……。

 6時間目が終わって、掃除になってもまだ頭がぼんやりしていた。
教室の隅っこから友達と話す彼を遠くにまったりと眺めている。
こんなにも近くにいるのに、こんなにも遠い人なんだ。
話しかけようと思えばいくらでも声をかけられるのに、かける言葉が見つからない。
みんな何をしゃべってるんだろう。
話しかけるタイミングって? 
どんな話題を振ればいい? 
どうすれば彼は、私に興味を持ってくれるんだろう。

 掃除時間の喧騒が、耳の奥をかき乱す。
私と彼の間にある距離と隔絶が、世界の終わりを告げている。
目に見えない壁が、お前は彼のいる世界と同じ住人ではないのだと知らしめてくる。
話しかけられるわけがない。
だって私は、この世界で認められた人間じゃないんだから。
気分はすっかり悲劇のヒロインだ。

 綺麗になった教室で、ホームルームが始まる。
空気の入れ替わったようなすっきりした空間に、生徒たちがきっちり等間隔に並んでいる。
私もこの細切れにされた駒の一区画なんだ。この隙間を埋めていることだけが、自分の存在意義のような気がした。
闇に閉ざされた暗黒の世界で、彼を救えるのは私しかいない。
チャイムが鳴った。

「ねぇ美羽音。本当にプリント集め、任せていいの?」
「うん。いいよ。自分でするって言ったから自分でする」
「じゃあ次は、私がやるね」
「うん。歯医者行ってらっしゃい」

 所詮私のような人間には、これくらいしか出来ることがない。
たとえほんの一瞬でも、彼との接点が持てるなら、なんだっていい。
それがたとえどんなくだらない雑用だって、この命をかけて遂行してみせる!

「古文の宿題プリント、集めまーす」

 本当は自分の机で座って待って、みんなが持って来てくれるのを受け取るだけでいいんだけど。
つーか普段はそうしてるんだけど、じっと座って待っているより、今は自分から積極的に動いていきたい。

 教室の一番窓側の列から、順番に回って回収していく。
廊下に近い席にある彼の順番を後の方になるようにセッティングした。
急いで渡してくれる人もいれば、よそ見してしゃべりながらこっちも見ないで渡すのもいる。
机の上に置いてはあるけど、本人不在で勝手に持って行ってくれ的なのもある。
一列目が終了した。
折り返して二列目は後ろから集めて回る。
そうやって教室を何度か往復し、ようやく彼の番が来た。

「古文のプリント集めまーす」

 そう言った私に、無言でそれを差し出した。
彼のぶっきらぼうでやや乱暴ともいえる態度にちょっとムッとしたけど、黙って受け取る。
まぁ、こんなもんだよね、現実は。
一瞬でも彼の手書きの文字が見れてよかった。少
し斜めに傾いたシャープで大きめの文字。
私に出来るのは、ここまでだ。

 古文の教科係が不人気なのは、担当する先生のクセが強すぎるのと、宿題プリントの回収と集計を任されること。
生徒からの提出忘れの言い逃れや質問を言付かっても、だいたい職員室に不在で、いつも姿が見えないのが謎だ。
単純な連絡事項すら直接にはなかなか伝えられず、すぐに返事がもらえないのも、ある意味面倒くさい。

 まとまったプリントの数を数えて、先生から事前に渡されている名簿に提出日を記入しチェックをつける。
ほぼほぼ毎時間ごとに出される宿題の提出日の遅れだとか、そういう細かいところで成績に反映させるとかさせないとか言って、曖昧な態度で脅してくるのもイヤらしいと思う。
9割がた出そろったプリントを出席番号順に並べ終え、準備が整った。職員室へ向かう。

 彼との今日は、これでお終いか。
今朝は頑張って「おはよう」の挨拶は出来たし、そういえば昼休みに向こうから話しかけられたりもした。
上等じゃないか。
これ以上欲張ってどうする。
また明日から頑張ろう。
どうやって距離を縮めたらいいのか分からないけど、伸ばせる限り手は伸ばしていきたい。

 職員室に入り、一昔前に流行った古びたキャラクターグッズが並ぶ先生の机に、プリントの束を置いた。
各クラスから集まってくるプリントの束で、ここだけ紙の山が出来ているから分かりやすい。

「失礼しましたー」

 職員室の扉を開けたら、思いがけずそこに坂下くんが立っていた。

「あ、持田さん。クラスの奴がさ、渡しそびれたって持って来たのがあるんだけど」

 彼の手に、二人分のプリントが握られていた。

「あ。じゃあ、先生の机こっちだから」

 彼と二人、職員室の中でもひときわ目立つ、紙の塔まで戻る。
さっき置いたばかりの束に、新たに追加された2枚をチェックして順番通りに差し込んだ。

「古文の教科担当って、やること多いんだね」
「ジャンケンで負けたから」
「でもいつも、ちゃんとやってるよね」

 褒めてくれた。
作業中、職員室だし彼の前だし、手の震えているのがバレないように、ずっと力を込めて気をつけてた。
だだっ広い職員室で、二人きりのわけがないのに、周囲は先生ばかりなのに、二人きりでいるみたい。

「もう帰るの?」
「うん。坂下くんは?」
「俺も帰る。途中まで一緒に帰ろう」

 は? え? いま何て言った? 
声が小さすぎて聞き取れなかったから、もう一回言ってなんて、絶対言えるわけない。
彼は無言でプリントの束に背を向けた。
私も慌ててぐるっと方向転換を決める。
何となく私が先を歩いて、その後ろを彼がついてきた。
なにこの状況。
狭くてごちゃごちゃした職員室の通路だ。
飛び跳ねるワケにも「なんでなんで」と問いただすワケにもいかない。
「失礼しましたー」と扉を閉める時、彼と並んで軽く一礼した。

 放課後の廊下を、彼と並んで歩く。
あんまり近くにくっつき過ぎるのは恥ずかしくて、だけど遠すぎるのも疑問に思われるから、微妙な距離感を慎重に測りながら保つよう心がけている。

「出席番号確認する時にさ、プリントの位置によっては見にくいこともあるよね」
「同じ教科でも、先生によって違うからな」
「それそれ! 私、一年の時は、数学の山ちゃんだったの。山ちゃんのプリントって、名前書く位置が端っこ過ぎるよね!」
「あ、なんかそれ分かる。俺も気になってた」
「でっしょ! 坂下くんもそう思うってことは、絶対端っこ過ぎるんだって! 山ちゃんもプリント提出多かった!」
「そうだっけ? そんなでもなかった気が……」
「そっか! そうでもないよね! そうでもないない!」
「それより、国際の竹田先生のさー」
「竹田先生? 国際の竹田先生って、あのやたら英語の発音が流暢でたまになに言ってるか自分でもよく分かんなくなって『ま、いっか』ってなって、さっきまでの時間はなに? ってなる竹田先生だよね? その竹田先生がなに!」
「いや……」

 順調に歩いて来た足取りが、靴箱の前で立ち止まる。
え、何か失敗した? 
ヘンなこと言った? 
もしかしなくても、引かれた? 
無意識にビクリと体が震える。
顔を上げることが出来ない。
見下ろしているだろう彼の反応を見るのが怖い。

「ふっ。持田さんって、意外と面白いよね」
「え? そう? そうかな?」

 その瞬間、緊張がガラガラと崩れ落ちる。
面白い? 
面白いってどういうこと? 
このタイミングで、面白い女認定とかいらないし。
なんか変だった? 
どこが悪かった? 
絶望だ。
もう絶望しかない。
終わった。
さようなら世界。
私はもうこの世から消えます。
元々居なかったかもしれないけど。
今までありがとう。

 意識真っ暗で倒れそうになる寸前、靴箱の扉に手を付き体を支える。
最後の力を振り絞って、ローファーを取りだした。
いつもならそのままバンって下に落として履き替えるけど、今日は丁寧にかかとを揃え、キチンと置く。
坂下くんは、靴を履き替えるのだって優雅でスマートだ。
長い手と指の先が、ピカピカに磨かれた靴をそっと持ち上げる。
丁寧に切りそろえられた、シャープな爪の先まで綺麗。

「そういえばさ、今まであんまりしゃべったことなかったよね」
「アレ? そうだっけ? あ、そうか! もしかしたら、そうかも! あはははは……」

 ダメだ。
慣れない行為と緊張が過ぎて、言動がおかしい。
あぁもう、何だか疲れた。
今日のこの数分だけで、一生分の時間を使った気がする。
ずっと一緒にいたいけど、こんなに疲れるんだったら、しんどいかも。

「あ、待って。髪になんかついてる。取っていい?」
「え? うん」

 大きな手がこっちへ伸びてくるのに、思わずぎゅっと目を閉じる。
頭に微かに指先が触れて、私の髪がわずかに乱れた。

「はい。取れたよ」

 見せてくれた白い糸くずは、いつどこでついたんだろう。
触られた部分が熱い。
乱れた髪と心音を、どうやって整えていいのか分からない。

「坂下くんって、電車通学だったっけ」
「そうだよ。持田さんとは路線違うけど」
「え? そうなの?」
「たまに駅で一緒になる時あるけどね。多分気づいてないんだろうなーとは思ってた」

 校門を出る。
二人で校内を歩くなんて、そんな大胆なことは出来ないけど、学校の外でだったら一緒に歩ける気がする。

 私の隣で、彼が笑ったら、世界が笑う。
彼が微笑んだら、世界も微笑む。
楽しそうに話す、掃除道具をしまうロッカーの扉のぐらつき具合の話が、この世の全てだと思えた。

「ところでさ。話変わるけど、持田さんいつもここで中島さんと一緒にアイス食べてるよね」
「そ、そんないつもじゃないし!」

 通学路にあるコンビニ前で、彼に買い食いしてるとこ見られてただなんて、知らなかった。

「今日もなんか食べてく?」
「今日は……いいです……」

 だって、坂下くんの前でアイス食べるだなんて、そんな難易度高いこといきなり出来るワケないし。

「そうなんだ」

 彼が少し声のトーンを落としたことに、急に不安になる。
え、断らない方がよかった? 
やっぱ一緒に食べる? 
いいよ? 
私、坂下くんのためなら頑張ってアイス食べるよ?

「あのさ、今日ずっと俺のこと見てたでしょ。なんで?」
「は? 見てないし!」

 えぇ休み時間ごとに見てましたけどね! 
確かに見てましたけど、バレてたなんて聞いてない!

「アレ? そうだったの? 気のせいだったんだ。何か昨日のことが気になって、俺もずっと見ちゃってたから。それで目が合ってるのかと思ってた」

 そう言って笑う横顔は、絶対にバレてるってバレてる。

「見てないから! ホントに見てないし! 気にしてなんかないからね!」
「えぇ? そうなの?」

 ゴメン。嘘。
めっちゃ見てたし、めっちゃ気にして欲しい。

「え? もしかして坂下くん、迷惑だった? 迷惑ならもうやめ……」

 途端に彼が笑いだした。
通学路の真ん中でお腹抱えて、よろけながら痛そうなくらい笑ってる。

「どうしたの? なんか変なこと言った?」
「ううん。持田さんでよかったなーって」

 彼は笑いすぎて、涙目になっていた目を拭う。
その大きな手がこっちに伸びて来て、きゅっと身構えた。
彼の手は、私に触れることなく引いてゆく。

「俺のこと、見てていいよ」
「本当に?」
「うん」

 そうなんだ。
よかった。
許可もらえた。
しかも本人から直接。
公認された。
うれしい。
照れたように顔をそらす横顔が、わずかに赤らんで見えたのは、気のせい? 
じゃあ見るね。
いっぱい見るね。
飽きるまでずっとずっと見てる。

「私のことも見てて」

 いつも冷静で表情の乏しい顔が、真っ赤になって小さくうなずいた。
彼にしたらうなずいたつもりはなかったかもしれないけど、私にはうなずいたように見えた。
少し先に歩き出した彼の後ろを、ついて歩く。
広い背が前を向いたままつぶやいた。

「あ、明日からよろしくね」
「うん」

 何が「よろしく」なんだろ。
駅で別れたこの人を、見えなくなるまで見送る。
私は自分の駅の改札をくぐると、丁度ホームへやって来た電車に飛び乗った。
胸の鼓動がうるさすぎて、心臓が爆発するのかと思う。
深呼吸して息を整えたら、車窓を流れる見慣れた景色を眺めて長すぎる時間を潰す。
こんなにも明日が来るのが待ち遠しかったのは、生まれて初めてだった。




第3章


 学校最寄りの、同じ駅で降りるものの、使っている路線は違うということは分かった。
一晩寝ながら考えても、結局何が「よろしく」なのかは分からないままだ。
彼の出てくる改札で待ち伏せしてもよかったけど、昨日の今日でソレだと何だかやりすぎな気もするから、やめておく。
SNSでメッセージを送りたいけど、まだそんな勇気はなかった。
朝の混雑した校門をくぐる。

 登校ラッシュの人混みの中で、校舎を前に立ち止まった。
朝でも薄暗い玄関のボコボコに錆びついた扉の前で、必要ないと分かっていても、本能的に身構える。
整然と配置された靴箱で、彼に偶然出くわすことはこれまでにも何度かあった。
だけど今までのそれは、確実に確かな真実の偶然だったけど、これからはそうじゃない。
待ってたって思ってくれるのは、嬉しい? 嬉しくない? 
本当に偶然だったのに、待ち伏せとかタイミング合わせたとか、そんなふうに誤解されて不審に思われたら、きっと「キモい」とかってなるでしょ。
もしかしたら嫌われるかも。
そんなの耐えられない。
一生の不覚。
あり得ない。
絶対無理。
もう考えただけで本気でダメ。

 一人であれこれ思い悩んでいるのに、横を素通りしていく周囲からの視線が痛い。
うん。
単純に邪魔なんだよね、私が玄関前で立ち止まってるから。
だけどここから奥に入るのに、今日はちょっと勇気が必要だったんだ。
だからゴメンね、許して。

 気合いを入れ直し、仕方なく一歩を踏み出す。
本当はここでじっと待ってたら、後ろから彼が追いかけてきて「おはよう」なんて展開を期待してたけど、さすがにそれはなかった。
当たり前だけど、独りで靴箱の前まで進む。
今日この場所に同じクラスの人間が他に誰もいないことに、これだけほっと安心したことはない。
素直に靴を履き替えた。

 朝の校内には活気ある賑やかな笑い声と、騒々しい足音が響き渡る。
教室へと上る階段で誰かとすれ違う度、彼ではないかと緊張している自分に気づく。
今からこんなことでどうする。
教室に入れば、確実にあの人がいるのに。

「おはよー」

 教室の前の扉をガラリと開け、中に入った。
毎朝そう言ってから入るのが、癖になってしまっている。
誰からも返事は返ってこないけど、挨拶だし返事のないことを気にしたことはない。
いつものように視線は真っ直ぐ自分の席に定めて、その方向へ向かって一直線に歩いた。
坂下くんの席に彼がいるのか、気になって仕方ないけど、あえて視線を向けない。
大丈夫。
私は他に気を取られてない。
今はとにかく、自分の席にたどり着いて鞄を下ろすことが最大のミッションだ。

「ふぅ。何とかたどり着いた」

 朝からもう疲れた。
流れてはないけど、額の汗を拭う。
登校してきただけで、ここまでの動悸と息切れがハンパない。
席に腰を下ろすと、できるだけいつものように自然な感じで視線を上げた。

 視界の右隅に、彼の姿が見える。
いつも仲のよい、橋本くんと本田くんも一緒だ。
スポーツ万能でちょっとチャラいけど顔のいい橋本くんと、ガッツリ七三分けなのになぜかカッコいい本田くん。
このハイスペ男子グループに、当然のように近づいて行って話しかけられる女子は、このクラスでは館山さんと古山さんしかいない。
いずれも真面目で成績優秀な美人さんだ。
きっとまだグループ内で付き合ったりはしてないんだろうけど、いずれ自然とそうなるであろう状態なのは、公然の予定。

 机に数学のノートを広げ、宿題をやっているフリをしながら、改めて自分の可能性のなさに盛大なため息をつく。
絢奈はまだ登校してきていない。
いつも時間ギリギリな子だから、きっともうすぐやって来るだろう。
だからさ、どうしてそんな身の丈に合わない人を好きになんてなるかな。
なるわけないじゃない。
キラキラ眩しい彼らは別次元の人類で、同じ時代に同じ種族として、属していることさえおこがましいのに。
相手になんてされないのが分かりきってる相手に、わざわざ挑んでいくほどの勇気もなければ度胸もない。

 ふと先日の放課後、坂下くんに告白した女の子のことを思い出す。
私には彼女のような、勇気も愚かさもなかった。
そう思うと、急に目の覚めた気がした。

「おはよう美羽音。昨日の古文のプリント集め、本当に大丈夫だった?」

 ようやく登校してきた絢奈が、こっそりとささやく。
彼女は明るい栗色の真っ直ぐな髪を、サラリとかきあげた。

「あぁ。全然平気。みんな普通に提出してくれたし」

 本当なら親友に「好きな人が出来たんだ」って、一番に告白すべきなのかもしれないけど、自分でも無謀な想いだって分かってるから、言えない。
身分違いの恋が報われるなんて、夢物語なら沢山あるけど、現実じゃありえない。
坂下くんの笑っている横顔を、遠くからそっと眺める。
見てていいって言われたのは、見てるだけならいいってことだよね。
時空を越えた異世界の住人である彼は、やっぱり違う世界の人だから。

「だからさ、何度もしつこいけど、坂下くんと何かあったんでしょ」

 絢奈はガシリと腕を組むと、怒った顔を近づけた。

「言って。こういうのは、絶対早い方がいいんだから。だって美羽音、こないだからずっとあっちを気にしてるよね」
「ち、違うの。私が迷惑かけちゃって。その……。悪いことしたから……」
「美羽音が? そうなの?」
「う、うん……」

 誰にも言わなければ、自分が隠し通せれば、この気持ちはなかったことになる。
彼と同じグループに属する、長い黒髪の清楚系美人な館山さんが、彼と朝からずっと話してる。
お似合いだと思う。
真面目な優等生同士だし、どう見たってあっちの方が正解。

「まぁ……。美羽音が言いたくないんだったら、それでもいいけど……。困ったことがあったら、ちゃんと話すんだよ」
「ありがとう」

 そうだよね。
彼にしてみれば、私みたいに一方的に好意を寄せてくる相手なんて、珍しくもなんともないんだ。
先日の彼女が簡単にフラれたみたいに、自分もそうなる未来しか見えない。
彼を見ていた視点を自分に戻すと、絢奈と目が合った。

「もしかして、美羽音って坂下くんのことが好きになったの?」
「まさか。なんでそんな無謀なマネを」
「まぁ……。ぶっちゃけ、私もそう思うけど」

 絢奈が何かを察したようにストンと真顔になった。
そんな彼女に、私も素に戻る。

「だよね。基本ないよね。私だってムリだと思うもん」
「ないない。身の丈身の丈」
「美羽音がやっちゃった、その悪いことってのは、もう謝ったの?」
「うん。許してはくれたんだけど、それでも悪かったなって」
「そういうこと?」
「そういうこと」

 絢奈は自分なりに、事態を咀嚼しようとしている。
しばらくウンウン頭を捻っているのを眺めていたら、無理矢理何とか彼女自身の納得が得られたらしいところで、ホームルームの始まりを知らせるチャイムが鳴った。
私は自分に与えられた小さな席で座り直し、姿勢を正してしっかりと前を向く。

 そうだ。
私には、私に手に入る分だけの幸せがあればいい。
それに対して、もちろん努力はするし頑張りもする。
だけど、必要以上のことを望んだって意味がない。
天使との遭遇だなんて、悪い夢だ。
そもそも事故みたいなもんだし。
普通じゃない。
なくて当たり前。
あってはならないこと。
だから忘れよう。
非日常は、日常ではないから非日常と言うんだ。
それを当たり前の当然にしてどうする。
私自身が今まで通り、ちゃんとしていれば問題ないだけの話。

 ホームルームが終わって、授業が始まる。
日常が始まる。
私はここに居る。
普通であることが一番難しいのだから。
波風立てないよう平和を保つことが、どれだけ困難なことか。
それが学校とかクラスとかいう場であれば、なおさらだ。

 男女混合で今月から始まったテニスの授業は、3組との2クラス合同で行われていた。
3、4時間目という昼休み前に組まれた体育という時間割は、神がかっていると言っても過言ではない。
一週間のプログラムの中で、この時間が一番リラックスできる時間だった。

 先生との打ち合いの順番が回ってくる合間の待ち時間で、生徒たちはそれぞれの列に並びながら、思い思いに過ごしていた。
学校敷地内にある2面のクレーコートでは、2クラス分の人数を賄うには、容量が足りなさすぎる。
時間を持て余した私たちにとって、体育の空き時間というのは、いつもとは違う特殊な社交場になっていた。
昼休みでも放課後でもなく、限られた時間を同じ空間で密に過ごしながら、与えられたミッションをクリアする。
出席番号順で分けられた班は、日頃教室内で形成されている固いグループの結束を、あっさりと崩壊させてしまう。
それは通常の秩序が崩れている状態でもあった。
だからこそこういう時には、普段なら決して起こりえない状況が、起こったりもする。

「あのさ、ずっと聞こう聞こうと思って忘れてたんだけど……」
「え! なにが?」

 突然、坂下くんの方から私に声をかけてきた。
あまりの不意打ちに、思わず声が裏返る。
いくら身分階級的拘束解除中の特殊ステージとはいえ、これはあってはならないことだ。
出る杭は頭ひとつ飛びださなければ、雉も鳴かずば撃たれないのに、上位カーストの男子からモブ女に声をかけるなど、自分から進んで注目の的になりにいくようなものだ。
そんな目立つようなこと、なんでわざわざしにくるかな? 
話しかけないでよ、こんな時に!

「アレ刺さった後、どんな感じしてる?」

 そう言うと彼は、自分の頭をもぞもぞと撫でた。

「え? え? なんのこと?」
「いや。アレと言えば、放課後のアレに決まってるでしょ。持田さんの額に刺さったアレ」
「あ……。あぁ、アレね。私は平気。何ともない。さ、坂下くんこそ、大丈夫だったの?」

 自分の声が、何気にひっくり返っているのが分かる。
緊張しすぎて、上手く口が回らない。
彼が近くにいるのは分かっていた。
なんでこんな近くにいるんだろうって、チラチラ見ちゃってたのがいけなかったのかもしれない。
私はただ、近くに立っているだけでよかった。
話しかけなくても話しかけられなくても、ただ側にいるだけで十分楽しかったし、嬉しかった。
よそ行き声で、精一杯の作り笑いを愛想よく浮かべる。
絶対に自意識過剰なのは分かってるんだけど、今の私は、この場所にいる全員から注目を浴びているような気がしている。

「なんか気のせいか、若干違和感があるんだよね。持田さんは?」
「え? 違和感?」

 まだ会話を続けるつもりなんだろうか。
彼はゆったりとした仕草で、また自分の額を撫でた。
打ち返されたテニスボールが、パコーンと気の抜けた音を立てて跳ね返る。
彼は周囲の反応に対して、無防備にも程がある。
どうすればこの会話を、早く終わらせられる?

「違和感があるなら、病院行った方がいいかも」
「……。なんて説明すんの?」
「いや、なんか気になりますって」
「ふっ。なんだそれ。説明になってないし」

 笑った。
坂下くんが笑った。
一瞬の出来事だったけど、彼の静止画みたいな表情が、確実に緩んでいる。
その笑みが眩しく思えるのは、きっと今日のぽかぽかした春の陽気を、テニスコートがはね返したせい。

「刺されたのって、デコだっけ」
「え? あ、うん」

 慌てて額を覆い隠す。
その仕草を見られていることすら恥ずかしくなって、短い前髪をぐいぐい引っ張って、また誤魔化す。
坂下くんの浮かべる微笑みからは、絶対に癒やしの波動効果が出ている。
間違いない。

「持田さんは、本気でなんともなかったんだ」
「うん! 私は平気!」

 本当は全然平気じゃないけど。
ぎゅっと胸が苦しくなるのは、頭から他のことが全部吹き飛んじゃうのは、絶対普通じゃないって分かってる。
そんな私を、彼が心配してくれている。
何か言わなきゃ。

「だけど違和感あるなら、本当に病院行った方がいいかもよ。カラスに襲われましたとか言ってさ」
「あぁ、なるほどね」

 こうやって何気ない会話を、普通に出来ることが嬉しい。
周りに他の人が沢山いるのに、それでも自然に話せることが嬉しい。
めちゃくちゃ意識してるのに、意識なんてしてないみたいに居られることが嬉しい。
だけどそんな平和は、一瞬にして崩れた。

「わー。どうしたの? 坂下くんと持田さんがしゃべってるなんて、珍しいよね」

 出た。
彼といつも一緒にいる、一軍女子の館山さんだ。
透けるような白い肌に真っ直ぐで艶やかな黒髪は、間違ったことなんてただの一度すら考えたこともないようなストレートさだ。
正統派清楚系美人の彼女からは、謎にいい匂いまでする。
絶対に私にはだせない空気感だ。

「昨日さ、カラスのボスに襲われたんだよ。俺と持田さん」
「え。大丈夫だったの?」

 館山さんの無垢で純粋すぎる顔が、本当に心配そうに私をのぞき込む。
そんなに気にしてもらう程のことなんてないのに、逆にこっちが申し訳ない。

「う。うん! 大丈夫。平気へいき!」
「あはは。まぁ、そうだよな! 何もない、何もないよ」

 彼はふわりとした口元にキラリとした目つきで、いかにも「本当は別に何か全然ありましたけどね!」みたいな笑みを浮かべた。
それじゃもっと聞いてくださいって言ってるようなもんだ。
こんな雰囲気醸し出していたら、ますます周囲が気にするじゃない。
くだらない秘密を隠し持ってる私を、ピュアな館山さんは本気で心配してくれてるのに。

「えー! やだぁ。あのカラスってさぁ、ホントに怖いよね」
「まぁ、何でも目に付いたものは追いかけていくからな」
「坂下くんでも襲われるの?」
「襲われるっていうか、襲われてるのを見ちゃったっていうか……」
「えー! じゃあ、ボスに襲われてた持田さんを、坂下くんが助けたってこと?」
「ある意味」
「そうなんだー! 持田さん、大変だったんだね」

 どこまでも澄んだ黒い目が、汚れのない純真な心でのぞいてくる。
その後ろで彼は、ニヤニヤと得意気に笑ってくる。
これはもう諦めて、愛想笑いするしかない。

「あはは。まぁ、そうなのかも……」

 顔も可愛ければ性格もいい館山さんは、普段から仲のいい坂下くんと、どうやって追い払ったのーとか、いつもは校内のこの辺をうろついてるよねーだとかいう会話を、自然と始めてしまった。
流れはそのまま「二人の会話」になってゆく。
彼と館山さんは、いつも一緒にいる仲良しグループなのだ。
突然のありえない偶然で事故的に彼と秘密を共有することになっただけの私に、この親密さはない。
やがて話題は移り変わり、二人が話す内容に半分も追いつけなくなった。
当たり前だ。
私なんかよりずっとずっと彼女の方が、積み重ねてきた日常の厚みが違う。
このタイミングで、主人公クラスのヒロインを前に、モブ女が退場しなくてどうする。
そういう流れでしょ。

「あ。じゃあ、またね」

 ニコッと義務的に笑顔を浮かべ、小さく手を振る。
都合よく次の次の次のラリーの順番が回ってきたことだし、正しい選択をしたはずだ。
館山さんにも、私が急に坂下くんとしゃべり出したことに、疑問を持たれるようなことはなかったはず……。

 平静を装い、何でもない顔をして隣になった女の子と「先生の球出し、微妙じゃない?」なんて言いながら、意識はしっかりと彼の動きを追っている。
友達としゃべりながらテニスボールを地面に突いてるところとか、肩をぐるぐる回してるところとか。

 ふとした瞬間に、彼と目が合った。
照れたようにうつむかれたりなんかすると、こっちまでキュンとくる。
彼が人差し指で、ぐいぐい前を指さすから、「なに?」って首をかしげたら、声を出さずに口の動きだけで「前、前!」だって。
自分の前の列が空いていたことに気づいて慌てて前に詰めたら、それ見てまた笑ってる。
恥ずかしい。
でもなんかうれしい。
また目が合った。
あんなに遠くて別次元だった人が、私を見てくれている。
もうそれだけで十分な気がした。

 体育の授業が終わって、昼休みになった。
お弁当を食べ終えた後のつかの間の平和な時間に、私と絢奈はいつものように定位置である廊下の窓から身を乗り出し、スマホにつなげたイヤホンを分け合って世界を共有していた。
絢奈との時間は楽しい。
何も考えずに、ただ話しているだけでいいから。
新しく見つけた配信者のこととか、新作MVのこととか、いつだって「楽しい」を分け合える。

 そうやって楽しんでいたところへ、突然坂下くんが割り込んで来た。
私の隣に立つと、驚いて見上げた私を、さも当たり前のように見下ろす。
絢奈もびっくりしてたけど、彼女はとっさに、何でもないことのように普通に振る舞った。

「いつもさ、ここで二人で何してんの」
「何って?」

 私たちにとっては丁度いい高さの窓枠も、彼にとっては少し低いらしい。
上体を曲げ、腰をずいぶん後ろに引いている。

「いつも楽しそうにしてるなーと思いながら見てた」
「……。坂下くんが見てたの?」
「そう」

 隣に並んだ彼の腕が、もぞりと動く。
こつりと肘が当たったけど、見た目には制服のシャツが触れ合っているかいないかくらいにしか見えない。
当たったままの肘を彼が動かそうとしないから、私も動けない。

「俺にもイヤホン貸して?」

 突然の申し出に、思わず絢奈を振り返ったら、「いいよ」とうなずいた。
私の耳にあったイヤホンが、彼の手に転げ落ちる。
絢奈のイヤホン、こんなに小さかったっけ? 
それは私にあった時と同じ右の耳にはめられた。

「あ。これヨルナラの新曲? 俺も聞いてるよ。好き」
「坂下くんも好きなの?」
「うん」

 いつもは高いところにある横顔が、今は目線の下にある。
目を閉じて微かに漏れる彼の鼻歌が、さっきまで繰り返し聞いていたラブソングと重なる。
甘い声で届かぬ想いを歌っていたのは、誰だったのか分からなくなる。

「あ。好きって、この曲のことだからね」
「分かってるよ!」

 急にそんなことを言うから、聞かされたこっちの方が茹でタコみたいになってる。
彼にまでそれは伝染して、ついにイヤホンを外した。

「もう。そういうの恥ずかしいからやめて」

 彼の手が伸び、私の短い髪をかき上げる。
むき出しになった耳にそっとはめ込まれたイヤホンは、耳の穴から少しずれていた。

「また後でね」

 なにがまた後? 
そんな約束、いつしたっけ? 
混乱する私を残し、彼は悠々と男子トイレに消えた。
この世の何よりも宇宙一真っ赤になった顔を、思いっきり絢奈に見られている。

「……。な、なに?」
「別に」

 絢奈は何かを察したように長いため息をついた。

「ま、坂下くんとは何かあったんだろうなーとは思ってたけどさ」
「何にもないから! マジで本当に完璧に何にもないから!」
「うんうん、分かったよ。美羽音がそう言うなら、そういうことにしておく」
「違うって!」
「はいはい違う違います違うよねー」
「だからホントに違うから!」
「違うよねー。あー違う違う」

 絢奈なのに分かってくれない! 
彼女が私をからかってるのか怒っているのか分からないまま、始業開始のベルを迎える。
彼女にイヤホンを返した時、これが自分のだったらよかったのにと、ちょっと思った。

 放課後になって、帰宅の途に就く。
教室を出たところで、ふとスティックが気になった。
廊下のいつもの場所から、下をのぞき込む。
あれから数日が過ぎているのに、私にはしっかりと見えている宙に浮いたままの不自然な矢は、やっぱり他の人には見えていないらしい。
窓枠一つ向こうにいる男子だって、おしゃべりに夢中のままだ。

 天使がくれた恋するスティック。
あれが偶然にも私に刺さらなかったら、どうなっていたんだろう。
もし刺さってなかったら、こんなに気持ちは動かなかった? 
あの事故が起こる前まで、私は坂下くんのことをどう思っていたんだろう。
そんなことも今は思い出せない。

「やっぱりアレ。他の人には見えてないんだね」

 不意にその彼が隣に並んできた。
白いシャツに覆われた大きな体をかがみ込ませたまま、自分の額を撫でる。

「やっぱ俺、病院行った方がいいのかな」
「そんな違和感ある?」
「持田さんは?」

 また名前を呼ばれた。
この声で自分の名を告げられると、こんなにもきゅっと胸を締め付けられるとは思わなかった。

「特に、気になることはないけど……」
「ふーん」

 すぐ隣にいるのに、顔が見たいけど見れない。
すぐ側に彼の手があるのに、見ているだけしか出来ない。
多分彼はいま、真っ直ぐに視線をスティックに向けていて、私の方は見ていないはずだから大丈夫なはずなのに、なぜかそれを確認することが出来ない。

「刺されたのって、どの辺りだったっけ」

 彼は窓枠に乗せた自分の腕に顎を置いた。
そのまま首だけ向けて下から見上げてくるから、こっちの方が緊張してしまう。

「おでこの、真ん中あたり」
「ふーん」

 彼の長い指先が、私の前髪に触れた。
それをかき分け、額を顕わにされる。
そんな彼を直視出来なくて、私はまたぎゅっと目を閉じる。

「ふっ。ホントだ。何ともなってない」
「でしょ?」

 触れられていた前髪の感触が離れ、パッと目を開いたら、彼は笑っていた。

「なんで目を閉じたの?」
「なんか恥ずかしいから!」
「なんで?」
「なんでって……」

 そんなの、意識してるからに決まってるし。
じっとして居られなくなって、目を反らす。

「ね、俺の刺さったところもどうなってるのか、見て?」
「は?」
「自分じゃ自分のデコ見れないんだよ。だからさ、どんなになってる?」

 そうやって自分の頭を突き出すから、ますます驚いてびっくりしてるしドキドキしてる。
なにこの絵面。
なんで私は彼の、前頭部を見せられてるんだろう。

「赤くなったりしてない?」
「えっと……。ちょっとよく分かんないかも……」
「もっとちゃんと見て」

 そんなこと言われたって、前髪があるから、頭皮なんて見えるワケないし! 
それでも彼は頭を突き出したまま動かないから、仕方なく手を伸ばす。
触れていいのか許可を取った方がいいのかな? 
でもこれは、いいってことだよね。

 恐る恐る触れた髪は、思っていたのと全然違っていた。
見た目には黒くサラサラとした柔らかな髪に見えるのに、触れると太くて固くて芯がしっかりしている。
男の子の髪になんて、初めて触ったかも。
自分のとはやっぱり違う。

「変になってない?」
「なってないよ」
「そっか。ならよかった」

 そう言って上目遣いに見上げた顔が、ほんのり照れていたようで、その反応にこっちまでどうしていいのか分からなくなる。

「持田さんのが何ともなってないなら、きっと大丈夫だとは思ってたけど」

 彼の視線は、明らかに私の額を見ていた。

「ちょ、あんま見ないでくれる?」
「なんで?」
「恥ずかしい」
「見てていいって言ったのに?」

 額を覆い隠した手をどかそうとして、彼の手が私の手首を掴む。
遠慮無く近づいてくる顔には、もう我慢の限界。
これ以上接近されたら、心臓と一緒に爆発しそう。
耐えきれずにまた目を閉じたら、彼の手が離れた。

「あのさ、さすがにここでキスなんてしないから」
「……。はい!?」
「そんな真っ赤になって目を閉じられたら、誤解するでしょ」
「そんなの誤解だから!」
「だから誤解だって言ってるし!」
「誤解だって!」
「知ってるよ! じゃあ目を閉じないでくれる? 誤解するから!」

 ここが放課後の始まったばかりの、教室前廊下だってことをすっかり忘れていた。
ざわざわ歩く生徒の群れが、こっちを見て「何やってんだあの二人」って顔してる。
隣にいた男子もチラチラこっち見て呆れてる。

「だから誤解されるって言ってんじゃん!」
「お前が誤解するようなことするからだろ!」

 見つめ合ってるのかにらみ合ってんのかすら、もうよく分かんない。
だけどこの状況がとんでもなく恥ずかしいってことだけは、お互いによく分かってる。

「帰ろっか」
「うん」

 二人揃って逃げるように廊下を後にする。
彼の背中を追いかけて、階段を最初の踊場まで降りきった頃には、もう一緒に声を出して笑っていた。

「だから俺も、恥ずかしいんだって」

 そう言った彼の手が、私に触れた。
指と指が絡み合う。
しっかりと手を繋いだまま階段を降りるって、以外と降りにくいんだな。
そんなこと知らなかった。
ふらついて転びそうになった私を、とっさに支えてくれる。

「手繋いでると、案外危ないね」
「う、うん。そうだね」

 それでも自分から手を離したくなくて、せめてもう少しだけと思った手は、彼の方からも離されることはなくて、見えてしまった階段の終わりに、こんなにもガッカリしている。
この階段って、こんなに長くて短かったっけ?

「こ、今度からは気をつけような」
「うん」

 最後の段を下りきって、ようやく互いの手が離れた。
彼は私に顔を見せないようにして言ったから、今どんな表情をしてるのかが分からない。
まだ手に残る感触が、もっと繋いでいたかったって言ってるのに、靴箱は目の前だ。
もう一度繋ぎたくても、履き替えるなら絶対に手を離さないといけないじゃない。
もっと一緒にいたい。

「コンビニ寄ってく?」
「え?」
「何か、買いたいものとかないの?」

 何か買う物あったっけ? 
シャー芯はあるし消しゴムもある。
修正テープ? 
もしかして坂下くん喉渇いてるとか?

「……。持田さんに用はなくても、俺にはあるから、一緒に来て……」
「うん……。いいよ」

 校門を出る。
駅まで向かう道のりにもコンビニはあるけど、セズンじゃなくてロートンがいいとか言うから、駅のいつも使う方面とは違う西口の方に回る。
ロートン限定でなおかつ期間限定の何とかがあるからとか色々言ってたけど、少しでも一緒に居られるなら、私には理由なんてなんだってよかった。
店に入ったら、彼が一生懸命説明していたものはとっくに終わってなかったけど、付き合わせたお詫びにアイスおごってくれるんだって。
一度は断ったけど、いいからおごらせて欲しいんだって。

「じゃあ今度は私が、なんかおごるね」
「うん。そしたら次は頼むわ」

 約束が出来た。
初めての約束。
マンゴー味のアイス買って同じのを食べたけど、アイスは溶けるから失敗だった。
すぐに食べないといけないから。
今度は溶けないやつにしよう。
坂下くんは、アイスは棒付きのやつが好きなんだって。
カップで食べるより食べやすいから。
私はどっちだって美味しければ食べるけど、「そうだよねー」って同意しておいた。
食べたアイスの棒を記念にスマホで撮っておきたかったけど、ヘンな人と思われたくないから泣く泣くゴミ箱に捨てて歩きだす。
「また明日」って改札の前で手を振って、それぞれの電車に乗った。




第4章


 付き合ってるとか付き合ってないとかの境界線って、どこなんだろうとか思う。
そりゃもちろん、ちゃんと告白してからお互いに「付き合おう」ってなって、付き合うのが正解なのは分かってる。
だけど「好きです」って言って、「ありがとう」のその先って?

 昨日の夜、坂下くんからメッセージが送られてきた。
スタンプでも絵文字でもない、『おやすみ』っていう文字だけのメッセージ。
画面上に映し出されるそのたった4文字が、彼らしいとも思う。
デフォルト表示で誰だって同じフォントなのに、彼から送られた文字だけ柔らかく温かく見えるのはなんでだろう。

 登校して教室に入ろうとしたら、廊下の前で偶然彼とすれ違った。
聞き取れるギリギリの声で「おはよう」って言われたから、「おはよう」って返す。
昼休みには、彼はいつものように仲良し優等生軍団と一緒で、私と絢奈はお弁当を食べ終えたら廊下に出る。
なんでわざわざ外に出るようになったかなんて、もう忘れてしまった。
ここだと誰にも邪魔されない二人だけの世界になれるし、「教室」という枠組みから、昼休みの一瞬だけでも抜け出したかったからなのかもしれない。

「ねぇ。本当に美羽音は、坂下くんと付き合ってないの?」
「ないない。なんで私みたいなのが、アレな人たちの中に入れると思う?」
「……。まぁ、美羽音はそういうタイプじゃないけど……」
「でしょ? 無理して背伸びして自分作ってなんて、これ以上無駄なこと他にある?」
「ないよね」
「でしょ? 可能性100%ないことに、挑戦なんて出来ないよ。好きとか嫌いとかっていうレベルじゃなくてさ」
「じゃあ好きでもないってこと?」
「そういうことだね」

 あははと笑って見せる私を、絢奈のわずかに茶色がかった瞳がじっと見つめる。
どこまでも透明に奥底まで見透かそうとする視線に、ズキリと胸が痛んだ。

「美羽音がそう思ってるんなら、私はそれでもいいけどね」
「だって、結局はそういうことになるの、分かってるもん」

 告白する勇気なんてない。
私はあなたのことが好きです。
だから私のことも好きになってくださいなんて、そんなの言える? 
オレ様キャラかよ、お前こそナニ様だって話だ。

 午後からの授業はいつも通り退屈すぎるほど問題なく過ぎ去って、放課後を迎えた。
部活に行く子とかと、だらだらしゃべってるのに紛れて、ふと坂下くんの席を見る。
彼はもうその場所にはいなかった。
まぁそんなもんだよねと、今日も歯医者に行くとかで、私が先に帰した絢奈の代わりに、古文の教科担当として集めた宿題プリントの束を整える。
枚数を確認しながらふと彼の名前を見つけ、手が止まった。
今日は何回目が合ったっけ。
結局朝の「おはよう」しか今日はしゃべれなかった。
こっちから話しかけてもいいのかな。
でも話しかけるって、なにを?

「えっと、どこまでチェックしてたっけ……」

 もう一度プリントの束をめくり直す。
「館山遥」の文字を見て、ビクリと全身が大きく震えた。
絢奈がいなくてよかった。
ヘンなところで動揺してしまったのを見られなくて。
彼女の字は、印字された文字みたいにしっかりした文字だった。
綺麗な字。
字まで綺麗。

 教室を出る。
期待してなかったわけではないけど、やっぱり私と絢奈の定位置に、あの人の姿はなかった。
彼と館山さんは、確か風紀委員だったはず。
二人で一緒に、委員会でもあったのかな。
だとしたらやっぱり、今は一緒にいるんだ。

 職員室の扉を抜け、先生の机にいつものように紙の束を重ねる。
ざわついた放課後の廊下へ戻った。
職員室脇の階段を下り、靴箱までの最短ルートを通る。
北校舎と東校舎を結ぶ渡り廊下を越えれば、靴箱はその先だ。

 その渡り廊下に、坂下くんがいた。
大きな背を丸め、ペットボトルの水を片手に、しゃがみ込んでいた。
終わりのホームルームの時までは長く伸ばしていたシャツの袖を、今は肘までめくり上げている。
その太く伸びた力強い腕に触れられたことがあるのだと思うと、自分が特別な存在になったのかと勘違いしそうになる。
形のいい耳にキリッとした目、しっかりした眉。
うっすらと桃色に色づく唇から漏れる声が、もう一度私の名前を呼んでくれればいいのに。
ぼんやりと上を向いている彼は、他の人からすればただ空を眺めて黄昏れているようにしか見えないかもしれないけど、私は知っている。
彼の視線の先に、宙に浮かぶスティックがあることを。
もしかして、私をここで待っていてくれた? 
そんな淡い期待なんて、持つ方が間違ってるんだよね。

「あれをさ、放置しておくのもどうかと思ってるんだけど」

 黙ったまま隣に立って並んだら、彼はそう言いながらゆっくりと立ち上がった。
そっか。
この話出来る人、他にはいないからだ。
だからここで私を待ってたんだ。

「確かにそうだよね。でもどうやって取る?」

 坂下くんが思いっきりジャンプしても、届かないであろう位置の高さに留まっている。

「あのさ、本当になんともないの?」
「何ともないって、何が?」
「あぁ……」

 急につかれた彼の大きなため息に、反射的に素の自分で答えてしまう。

「なんともないって、自分の方こそどうなの?」
「だってさ、『おやすみ』って打っても返事返してこないから。もしかして迷惑だった?」

え? そんなこと気にしてたの? 
坂下くんが? 
なんで?

「いや……。なんか……その。突然だったから、誰かと間違えて送っちゃったのかなーなんて……」
「そんなの、絶対間違えるわけないから……」

 この人は、私からの返事が欲しかったの? 
そんなのちゃんと言ってくれなきゃ、一生気づいてなかった。
送られてきたことに驚いてうれしくて、何度も指でなぞっては眺めてたのに、返すことまで思いつかなかった。

「ごめん」

 平静を装っているふうに見えて、彼の目はわずかにふてくされていた。
ごめんね。
ごめんなさい。
でもなんでそんなに怒るの? 
そんなちょっぴりむくれた横顔に、つい可愛いと思ってしまう私はやっぱり変?

「なんか今日もずっと怖い顔してるから、俺は嫌われたのかと思った」
「そ、そんなことないって! 返事送る。ちゃんと送るから!」

 慌ててスマホを取り出す。
『おやすみ』の返事に『おやすみ』『お休みなさい』『また明日ね』と続けて打って送り、スタンプも付け加えた。

「いや。いまおやすみって言われても……」
「え? なに? じゃあ『ただいま』とか? 『おかえり』? 『もう帰るね』? 『バイバイ』の方がよかった?」
「違うでしょ」

 不意に肩を抱き寄せられ、彼の顔が近づく。
キス……。
されるかと思った。
鼻先が触れ合うかと思った距離で、パッと彼の方から離れた。
驚いた私は、つい後ろに一歩下がってしまう。

「ご……、ゴメン……」

 まだ心臓がバクバクいってる。
彼は真っ赤になった顔を両手で覆って、しゃがみ込んでしまった。

「ゴメン。ホントごめん」
「あ、あはは。よかった。今日はもう坂下くんとは話せないのかなーって思ってたから。やっと普通にしゃべれた」

 全然普通じゃありませんけどね! 
彼に負けないくらい私だって真っ赤だ。
リンゴ以上トマト超えは確実。
もしかしたら、赤いインクのペンよりももっと赤かったかも! 
彼はこちらに背を向け、顔を覆い隠したままつぶやいた。

「俺さ、よく怖いって言われるんだよね。そんなつもりは全然ないんだけど。怒ってないのに怒ってるふうに見えるって。だからもう、嫌われたのかと思った」

 遠くから蜃気楼のように眺めていた人が、突然現実の目の前に現れた。
教室の隅で、校庭の端っこで、異世界の住人として眺めていた人が、私に話しかけてくれている。

「そ、そんなこと思ったことないって!」

 仲のよい男友達とふざけている時も、化学の実習で他の班の人としゃべってる時も、授業中のちょっとした雑談タイムでも、彼の微笑みはいつだってまぶしかった。
直視することすら叶わなかった光景が、いま手の届く範囲にすぐある。

「本当に? 俺のこと怖くない?」

 彼は自分の頬を両手で引っ張り、表情を整えている。
そんな仕草すら愛おしく思えて仕方がないのは、やっぱりあのスティックのせい?

「怖くないよ。ほら、顔がいい人って、どうしても冷たい印象になるから」
「やっぱ冷たく思われてたんだ」
「カッコいいから!」

 この流れでそう言っちゃうのは、セーフだよね。誤解されないよね?

「さ、坂下くんって、カッコいいからさ。そういうこと言われちゃうんだよ、どうしても。一般論として!」

 ヘンに思われないように、アウトライン越えないギリギリで言えたよね? 
大丈夫だったよね?

「それさ、いつから思ってた? ずっと前から? いつ?」
「い、いつって……」

 返事に困る。
いつからだっけ。
全然記憶にない。
気づいたらそう思ってた。
だけどそれって、最近の話? 

「ひょ、表情がないなーとは思ってた。いつも冷静っていうか……」
「それはきっと、俺も緊張してたからだよ。持田さんと話す時は特に。実際話してみれば、俺だって怖いとかそんなことなかったよね?」
「ま、まぁ……」

 いつからだっけ。
彼のことをいいなーと思うようになったのは。
スティックの刺さった時? 
だけどずっとずっと前から、本当はそう思ってたような気もする。

「よかった。一度しゃべってみたいなーって思ってたんだよね。そんな機会もなかったけど」

 彼は置いてあった鞄を手に立ち上がった。
何となくそわそわしているから、私も落ち着かない。

「あ、もう持田さんも帰るでしょ? 途中まで一緒に帰ろ」
「うん」

 歩き始めた彼の隣に、しっかりと並んで歩き出す。

「またコンビニ寄っていい?」
「いいよ。前に坂下くんとも約束してたし」

 それを聞いて、ほんのちょっぴり赤くなった彼を見て、また手を繋ぎたいと思った。
伸ばせば簡単に届く距離だけど、簡単には伸ばせない。

「今度さ、地域清掃活動があるでしょ? その時に持って行く軍手、持田さんもう持ってるのかなーと思って。それ聞こうと思って、ずっと待ってた」
「あ。私も親に買って来いって言われてるんだった」
「毎年の恒例行事だから、西門出てすぐのコンビニに、たくさん置いてあるらしいよ」
「えー。ほんとう?」

 あれ。そんな話してたっけ? 
だけど一緒に居られるなら、なんだっていいや。
私たちは必要にかられてコンビニに行く。
理由は学校行事で必要なものを買いに行くため。
それがもし彼と同じ軍手だったとしても、学校近くのコンビニで買った一種類しか置いてないワンサイズのものだったんだから、お揃いになるのは仕方がない。
そういうこと。

「これ、なんかちょっと小さくない?」

 目的のものを購入して店を出ると、彼は135円のそれを自分の手にはめた。

「ほら。なんかギリギリじゃない?」

 指の長さは何とか足りているみたいだけど、手を入れる口の部分が手首まできちんと覆いきれていない。
ちんちくりんだ。
私は彼と同様に、ビニール袋からゴソゴソと真新しい軍手を取り出す。
黄色いブツブツの滑り止めがついたそれは、粗い縫い目がずっしりと重かった。

「うわ。すご。やっぱ軍手ってゴツいよね」
「見せて」

 二つの手を並べて見比べる。
軍手の大きさは変わらないのに、中に入っている手のサイズ感が全然違う。
彼はずり落ちそうなほど小さな軍手をはめた手を、何度も握っては開いて感触を確かめた後で、私の明らかにぶかぶかで指先のだぶついている軍手を見つめた。

「これでもう大丈夫だね」
「うん」

 大きな手を真っ直ぐに差し出すから、私も同じように手を伸ばし重ね合わせる。
同じサイズの軍手同士はピッタリと重なり合うのに、はめている手の大きさは重ならない。
彼の指が指の間をすり抜け、ぎゅっと手を握った。

「かわいい」

 なんで軍手越しにそんなことするの? 
ちゃんと外してからやってよって、言いたいけど言えない。
彼が「かわいい」って言ったのは、本当に135円の軍手のこと? 
互いに手を見つめながら「そうだね」って答えたけど、それは軍手のことじゃなかったって、信じてる。

 荒い布越しに伝わる熱が、ゆっくりと離れた。
この軍手、絶対大事にしようって決意した自分は、自分でもバカだって分かってる。
だけどそう思ってしまうのは、仕方ないじゃない。
もう一度、今度は素手で手を繋ぎたいなーなんて、ずっと考えながら駅までの道を並んで歩いた。




第5章


 地域清掃活動の日がやって来た。
絢奈とかクラスの他の子はみんなダルいとか休みたいとか言ってるけど、私にとって、この日がこんなにも楽しみだったことはない。
買ったばかりの新しい軍手は、ちゃんと忘れずに持って来た。
あれから坂下くんとは、教室で一言もしゃべれていない。
その代わり、スマホでのメッセージのやりとりは続けている。

『おはよう』
『もう学校着いた?』
『掃除大変だね。なんかやっぱりちょっとやだ』
『雨じゃなくてよかった』
『延期になるだけだもんね』
『昼休みなにしてたの?』
『絢奈とオンラインゲーム』
『今度それ俺にも教えて』

 校庭で何となく集まって、「道路に広がるなよ」とか小学生みたいなことを先生に注意されながら、歩いて10分程度の距離にある河川敷に移動する。
私が普段使う駅とは反対方向の道だ。
ごちゃごちゃした街から一本裏道に入ると、小さな戸建ての家が並ぶのどかな住宅街が広がっている。
古ぼけた小さな橋の手前で、ベンチやすべり台、バネの付いたパンダの乗り物のある、辛うじて公園っぽいところへ下りた。

「あー。本日の清掃活動は、我が校と地域の皆さまとの交流を深めるだけでなく……」

 濃紺のだっさいジャージ集団の中に、坂下くんの姿を探す。
彼とお揃いの軍手だなんていう浮かれた状況が所詮幻想だと分かってはいたけど、本当にお揃いの軍手が多かった。
みんなあのコンビニで買ってたんだ。
よくよく考えてみれば、このジャージもお揃いだよね。
同じ学校なんだし、お揃いは全く不自然じゃない。
もちろん絢奈ともお揃い。

「あ、美羽音も西門のコンビニで買ったの? 私も今朝ないの気づいて買ってきたんだー」
「おー。思い出してよかったね」

 きっとクラスの半分、学年の3分の2は同じ軍手だ。
坂下くんの隣にいつも当然ように並ぶ館山さんとも、みんなお揃い。

 1年は学校から一番遠い陸上競技場で、私たち2年は河川敷。
学年が上がるごとに学校から近い場所になるという謎システムのせいか、3年生は学校周辺の清掃と毎年決まっている。

「では各自、始めてください」

 学年主任の挨拶が終わって、それぞれが思い思いの場所に散らばっていく。
1、2、3組がその場でゴミ拾いと草刈りを始める中、私たち4、5、6組は橋を渡って対岸へ移動した。

 長い冬が終わり、ようやく芽吹き始めた今が伸び初めの草の芽を、次々と引き抜いてゆく。
ゴミは見つかるものの、それほど量は多くない。
潰れたペットボトルとへこんだ空き缶。
誰かが落とした帽子に手袋。
すっかり茶色くなったカチコチの野球ボールに、小さな子供用の靴下などなど……。
そんななか、クラスのアイドル館山さんが、ふと私と同じ軍手でつぶやいた。

「実は私、一昨日この辺りで自転車の鍵を落としたんだよね」
「え、そうなの?」
「館山さんって、家この辺なんだ」
「どんな鍵?」

 とたんにクラスの男子たちがざわめき始める。

「キーホルダーをつけてたの。自転車の鍵だから、赤い自転車のキーホルダー」

 かわいい女の子は、言うことも全部かわいい。

「じゃあ見つけたら、教えるね」
「うん。ありがとう」

 彼女がにっこり微笑むと、そこだけ春の陽気が何割増しかになってる気がする。
坂下くんは気にならないのかな。
いつも仲良しの美人さんが、他の男子と仲良くなるの。
自分のすぐ真横にいるのに、坂下くんじゃない他の男の子が、彼女に話しかけてる。
あぁでもきっと、草むしりしながら同じジャージを着て、普通に話しながら無くした鍵をカッコよく見つけヒロインを喜ばすのは、彼の役目だ。
それを私が邪魔しちゃいけない。

 思い出の軍手を汚さないようにしようと思っていたのに、気づけばむしり取った草の汁や跳ねた泥があちこちに染みこんでいた。
しまった。
やっちゃった。
こんなになってしまったら、彼との思い出まで汚したみたいな気がする。
それを彼に報告したくて、さりげなく彼を探した。

 いつもの無表情で無心に草むしりをしている彼の軍手は、とっくの昔に泥だらけになっていた。
真面目に草むしりやってるんだ。
汚れとか気にするものでもないしね。ゴミもちゃんと拾って。
偉いね。
最初っから使い捨てするつもりで買った、安っすいコンビニ軍手だもんね。
いらないよね。
置いとく必要もないし。
その他大勢の生徒たちと違って、彼にはやらされてる感がないのがいいよね。
きっと私は洗ったりも捨てたりも出来ないけど、彼はあっさり捨てちゃうんだろうな。
今日が終わったら。
この思い出も一緒にね。

 本当はずっと彼を見ていたいけど、あんまり見ているのもよくないよね。
不自然だしヘンに思われちゃう。
私の軍手は、同じ軍手でも他の人とは違うものだったのに。
なんで軍手? 
もっとかわいくていいものにしとけばよかった。
アクセサリーとか、赤い自転車のキーホルダーとか。
そうじゃないから、私はこういう私なんだろうな。
そもそも、そんなかわいい買い物に、一緒に誘われたワケじゃない。
男子どもの噂話が聞こえる。

「おい聞いたか。館山さんが自転車の鍵を、ここで無くしたらしいぞ」
「マジか」
「今はスペアキー使ってるらしい。見つけて渡せば、ワンチャンしゃべれるかも」
「おー。じゃあ真面目に探すか」
「あはは。お前下心丸見えだな」
「だっさ!」

 そうだよダサいよ。
そんなもんは人に言われなくたって、完璧分かってるよ。
それでも近づきたいから、少しでも話したいから、カッコ悪いって分かってても、ヘンだと思われたって行くんじゃないか。

 クラスの男子たちだって、そんなこと言ってるのは、本当は単に清掃作業がダルいだけだって分かってる。
だからなんだっていいんだ。
私にやる気を出させるネタさえあれば。
だけどだからって、かわいい女の子に無駄に興味本位で群がる男どもは許せない。
彼女の安全は、私が守らなければ。

「ねぇ美羽音。館山さんが自転車の鍵探してるらしいよ」
「え? そうなんだ。じゃあ探さなきゃだね」

 勝負だ野郎ども。
クラスのヒロインに手を出したければ、私を倒してから行きな! 
急にやる気を出した私は、スクッと立ち上がる。
さほど広くはない河川敷に、高校生3クラス分約100人程度が集まっているのだ。
始まって数十分もすれば、もう真面目に清掃活動してる奴らなんてほとんどいない。

「え? どうした美羽音。なにやる気出してんの?」
「だって。自転車の鍵探さなきゃ」
「……。いや、それは分かるけど、ついででよくない? スペアキーはあるみたいだし、とりあえず困ってはないみたいだし」
「館山さんは、探してるんでしょ」
「まぁね……」

 絢奈に「あんた誰?」みたいな目で見られたって平気。
暖かな日差しがぽかぽかと降り注ぐ春の河川敷で、自転車に乗ったおじいちゃんがのんびり土手の上を走っている。
近くの小学校から集団下校途中の新一年生たちが、黄色い旗を持った保護者に付き添われて帰宅訓練をしている。
ひらひらと羽化したばかりのモンシロチョウが目の前を横切った。

「私、館山さんを助けに行ってくる!」

 私が彼女を守らなくて、一体他に誰が守るんだ。
強大な魔族からお姫さまを救うのは、いつだって彼女に寄り添う勇者の役目。
彼女にふさわしい相手かどうかは、私が見極める。

「じゃ。行ってくる」
「お、おぅ。頑張れ……」

 大丈夫だ。勝算はある。
すっかり草むしりに飽き始めた高校生の群れは、すでにてんとう虫を捕まえたり、四つ葉のクローバー探しを始めている。
それ以外の人間は、土手の坂に綺麗に一列に並んで、お昼寝という名の天日干し状態だ。
本気で清掃活動をやってるのが、どれだけいるのだろう。
本来なら私も寝たい。
今すぐ柔らかな草の上に寝転がりたい。
だが今だけはダメだ。

「館山さん。自転車の鍵無くしたって本当?」

 真面目に掃除を続けている、希少種な彼女に近づく。
まずは情報収集からだ。
一緒にゴミ拾いを続けていた坂下くんも、私を振り返った。

「え? う、うん。だけど、もう諦めてるから……」
「せっかくだし、一緒に探そう」

 彼女から、落とした場所やその状況などの詳細を聞き出す。
と言っても、自転車の鍵だ。
L字型のよくある一般的なシルバーの鍵らしい。

「赤い自転車のキーホルダーを付けてたの。古いものだから、もう色も所々ハゲちゃってて、ボロボロなんだけど……」
「分かった。見つけたら教えるね」
「あ、ありがどう」

 立ち上がり、これから戦う戦場を見渡す。
クラスの男子どもが探している場所からは、きっともう見つからないだろう。
なぜ見つからないかというと、そこにはなかったからだ。
だとすると、彼女が落としたと証言した場所から、改めて落下地点を想定し直した方がいい。

 土手上の遊歩道まで上がると、一昨日彼女が落としたというその位置から河川敷を見下ろす。
清掃活動は、その場所から主に川下で行われていた。
だったら私が探すのは、人気のない橋脚に近い川上側だ。

「おーい、持田ぁ。やる気だすのはいいけど、あんまり遠くへ行くなよ」

 担任からの気まぐれな心配など、完全無欠の余計なお世話だ。
見当違いも甚だしい。
遠くになんて、行くワケがない。
私はここで、絶対に鍵を探し出す。

 おおよその予測を立てると、捜索活動を開始した。
学校で支給された、錆びついたこの小さな熊手だけが、この戦場での私の味方だ。
しばらくの間、一人無心でガシガシと草をかき分けていた私に、誰かがゆっくりと近づいて来た。

「持田さんも、自転車の鍵探してるの?」

 同じクラスの遠山くんだ。
彼は私のすぐ隣に腰を下ろすと、小さな声でぼそりとつぶやいた。

「俺も一緒に探そー」

 なんだ? コイツも館山さん狙いなのか? 
まぁ大体の男は、きっとそういうものなのだろう。
彼は無造作に伸ばしっぱなしにしている長めの前髪をかき分け、さほど広くない額をボリボリ掻いている。

「私はゴミ拾いに情熱を見いだしただけなんだけど。館山さんの探してる鍵なら、こっちにはないと思うよ」
「……。え、持田さんて、そんなにゴミ拾い好きだったんだ」
「唐突にね」

 遠山くんは私と同じレベルのモブ男子だ。
その他大勢組だから、同属として普通にしゃべれる。
彼は私よりちょっぴり背が高くて、動きに若干粗野な部分はあるけど、まぁよくいる男子らしい男子だ。

「じゃ、俺も唐突にゴミ拾いに情熱を燃やそう」
「ウソ。鍵探してる」
「じゃ、俺も鍵探す」

 クッ、なんなのコイツ? 
そう思ったけど、彼はニコニコと上機嫌のまま、私と同じ支給された小さなサビサビの熊手で地面を掘り返している。

「だって、俺もしゃべりたいもん」
「館山さんとでしょ?」
「……。まぁね」

 私には彼に、どこまで本気でやる気があるのか分からない。
なんだかんだそれらしいことを言いながらも、ぼーっと空を見上げて手を止めたかと思うと、急に「この辺でいいの?」なんて、平気な顔して捜索場所を聞いてくる。
これがもし坂下くんだったら、周りからヘンな誤解を招くかもと逃げ出すところだけど、遠山くんならまぁいっか。大
丈夫だろう。
問題なし!

「先に見つけた方が勝ちだからね」
「ふふ。なにそれ」
「自転車の鍵渡すの」
「勝負だったの?」
「え? 違った?」
「あー。俺は負けないよ」
「私も負ける気ない」

 こうなったらもはや、草刈りとかゴミ拾いなんていう、言い訳がましい言い訳など必要ない。
真剣勝負だ。
熊手で刈り残された枯草をかき分け、赤い自転車のキーホルダーを必死に探す。
実物を見たことないから、どんな赤だか分からないけど、赤ならきっと目立つだろう。
すぐに見つかるはずだ。

 そう思っているのに、出てくる赤はどこからやってきたのか分からない、バラバラに壊れたプラスチックの破片だとか、半分土に埋もれた謎の端布ばかりだった。

「持田さんも、自転車通学なんだっけ」
「違うよ。電車」
「あ、そうなんだ。ちなみに俺は自転車」
「へー」

 自転車の鍵に付けるくらいだから、キーホルダーはさほど大きなものではないはずだ。
彼女が落としたという土手を、もう一度見上げる。

「1年の時ってさ、なん組だったっけ」
「2組」
「俺1組だった」

 あそこから落としたのが2日前なら、それほど日は経っていない。
雨も降っていた記憶はないから、錆びついてもいないだろう。

「あ、ここにもなんか赤いのあるよ」
「え! どれ?」

 そう言って彼が見せてくれたのは、まだ新しい赤い消防車のミニカーだった。

「小さい子が落としたのかな」
「探してるかもね」

 そう言った私を、遠山くんはニッと笑ってのぞき込んだ。

「持田さんって、案外優しいよね。怖そうに見えるけど」
「え? 怖い? どこが?」

 急にそんなことを言われると、いくら私だって周りからの評価が気になる。

「なんか、話しかけんなオーラが出てる」
「そうかな」

 だって今だって、別に普通に話してない?

「私って、そんな風に見られてたんだ」
「余計な話されるの、嫌いでしょ」
「……。今まさにその余計な話してない?」
「あはは。だからさ、そういうとこなんだよねー」
「いやいやそうじゃなくて、今は普通に話してるってこと!」
「あはは。確かにそれもそうだよな」

 彼も笑ったら、案外かわいいな。
遠山くんは私と同じ、ごく一般的な普通の平民男子だけど、細い目が黒くしなやかに曲がると、野生児のような印象がふわりと柔らかくなる。

「ね、本気で真面目に探す気ある?」
「あるある。ほら、一緒に探そ」

 彼は見つけた消防車を握りしめたまま、捜索を再開した。
それをどうするつもり? 
まさか持って帰る? 
ま、彼が見つけたものだし、どうでもいいけど。

「言っとくけど、私は遠山くんと一緒に探してるわけじゃないからね」
「またそんな冷たいこと言うー」
「冷たくないよ! 勝負だって言ったよね」
「あぁ、そうだったね」

 またクスクス笑う彼に、なんだか段々腹が立ってきた。
それでも怖いとは思われたくないから、少し優しくしてみる。

「頑張って一緒に探そ」
「あはは。そうだよね、一緒に探そ」

 いわゆるヤンキー座りで、ダラリと両手をぶら下げている。
右手に熊手、左手にミニカーって、どういう状況だ。
だけど一緒に探してくれるなら、ありがたいのかもしれない。
もし自転車の鍵を見つけたら、彼にだったら館山さんを譲ってもいいかも。
そんなことをぼんやり考えていたら、ザクリと音がして、また誰かがこっちにやって来た。
坂下くんだ!

「こんなところで、何やってんの」

 急に目の前にしゃがみ込むもんだから、私はもう驚きすぎて声が出せない。
明らかに挙動がおかしくなった私と坂下くんの間に、遠山くんが割って入る。

「お前が来たら、持田さん怖がるだろ」
「それはないよなぁ」
「え?」

 同意を求められ、ぐっとのぞき込まれても、返事に困る。
なんで自分がこんなことになってるのかが分からない。
これはどういう状況だったっけ? 

「ほら固まった! 坂下が苦手なんだって、持田さんは!」
「絶対それはない。そんなものはないから」

 彼に力強くそんなことを言われ、また返事に困る。
いつもの自分なら、さっさと首を横に振って否定していただろうけど、今の私にはどうしてもそれが出来ない。

「えーっと……。坂下くんは、き、嫌いじゃない……よ?」

 そう言った私の言葉に、遠山くんが一番びっくりしている。

「なにそのカワイイ反応!」
「いや! ほら! 遠山くんのことだって、嫌いじゃないから!」

 焦って何とか誤魔化そうとする私に、遠山くんはそう言わせたとばかりに、坂下くんをにらみつける。

「お前、持田さんに好かれてるって、そんな自信どっから湧いてくんだよ」
「は? んなの説明とかいるか?」

 ちょっと待って。
なにコレ。
遠山くんと二人なら平気でいられるけど、そこに坂下くんが加わったとなると、普通にいられない。
遠山くんのいらない質問に、照れてる自分が恥ずかしい。
熊手を持ったまま、パッと立ち上がった。

「私、ちょっとあっち見てくるね」

 苦し紛れに、土手上の遊歩道を見上げる。
逃げ出すようにそこへ駆け上がった。
館山さんが鍵を落としたという辺りから、もう一度河川敷を見下ろす。
坂下くんと遠山くんは、スコップと熊手で地面を引っ掻きながら、まだ何かを話続けていた。

 火照った頬を、まだ少し冷たい春風が冷ましてくれる。
なんだコレ。
どういうこと? 
脳内の情報処理が追いついてない。
ぐるぐるぐるぐる。
自分なりに考えてみる。
あぁそうか、分かった。
坂下くんも自転車の鍵を探しに来たんだ。
それで、遠山くんより先に見つけたかったから、だからこっちに来たんだ。
それで、探そうとしたら私もいて、って……。

 ん? ちょっと待って。
入院したお婆ちゃんのお見舞いのために、放課後学校を出たら直接病院へ行くからと、一昨日歩きで登校した彼女が遊歩道から鍵を落としたとしたら、そんなに遠くまで転がってなくない? 
今でこそ草刈りが進んで、枯れ草がほとんど除去されてるけど、その時はまだ草がぼーぼーだったはずだ。
だとしたら、私たちが思うよりずっと、遊歩道付近に転がってない? 
落とした時に近場は探したって言っていたけど、もう一度確認する価値はある!

 アスファルトで固められた遊歩道は、縁も整えられないでガタガタのまま土の上に乗せられているような感じだった。
この近辺をぼこぼこのアスファルト沿いに探せば……。

「なぁ、なんで逃げたんだよ」

 今度こそ真剣に探し始めた私を、遠山くんが邪魔してくる。

「鍵探してるだけだから。ここは私が見るから、遠山くんはあっちお願いしていい?」

 私は下を向いたまま、そう言って少し川上の遊歩道の縁を指す。

「あ? まぁ持田さんがそう言うならいいけど。これはここに置いてっていい? ここで見つけたし」

 彼はずっと握っていた小さな赤い消防車を、アスファルトの上に置いた。

「俺も小さい頃好きだったんだよね。こういうの。落とした子に見つけて欲しいから。絶対この場所から動かすなよ」

 奔放過ぎる長く伸びた真っ直ぐな黒髪が、ふわりと風になびいた。

「分かった。ミニカーには触らない」
「ん」

 背を向けた彼に、私は思いっきり声をかける。

「自転車の鍵、先に見つけたら教えるね!」
「は? 競争してんじゃなかったのかよ」

 濃厚のジャージ姿が、肩越しに振り返りニッと笑った。
彼は熊手を持った手をヒラヒラと振ると、ふらふらと歩きだす。
私には全く乗り気してないように見えるけど、それでも彼は私の指した辺りの場所で、だらりとしゃがみ込んだ。
よそ見しながらでも、ザクザクと地面を引っ掻き始める。
清掃活動の時間も終わりを迎えていた。
担任の先生は一部の生徒たちと氷鬼を始めているし、絢奈たち男女5人は土手に干されたマグロのように完全に終わっている。
急がないと、時間がない。
再びキーホルダーを探し始めた私の横に、坂下くんが並んだ。

「ねぇ。持田さんは本当に、今も俺のこと怖いと思ってんの?」

 さっきの遠山くんの言葉を気にしているのか、彼らしくない小さな声で、自信なくつぶやく。

「そんなことないよ」

 怖いとは思ってないけど、今でも近寄りがたいとは思ってる。
浮かべた愛想笑いに、彼は凍りついていた表情をわずかに緩めた。

「鍵、俺も一緒に探すね」
「う、うん……」

 その申し出は嬉しいけど、本当は一人で探したかった。
遠山くんなら簡単に追い払えるのに、どうして坂下くんにはそれが出来ないんだろう。
やっぱり心のどこかで「怖い」と思ってるのかな。
断りたいけど断れなくて、逆に遠山くんならよかったのになぁとか思いながらも、彼の動かす手をじっと見ている。
……って、ん?

「ねぇ。持田さんはさ……。クラスの男子で、他にしゃべったりするのって……」
「あった! 自転車の鍵!」

 見つけた! 
坂下くんのすぐ足元に、赤い自転車があった! 
L字型のシルバーの鍵にぶら下げられた、色の剥がれた古いキーホルダー。
コレに間違いない!

「わぁ、本当だ。よかったね。館山さんに届けてくれば」

 嬉しい! やった! 
喜ぶ私に坂下くんはそう言ってくれた。
だけど違う。
そうじゃない。

「これね、遠山くんも探してたの」
「そっか。じゃあ遠山に渡せば?」
「ね。手、出して」

 私と同じサイズなのに、彼には小さすぎるすっかり汚れた軍手の上に、館山さんの探していた赤い自転車の鍵をのせる。

「え。なんで?」
「私は恥ずかしいから、坂下くんから渡してきて」
「恥ずかしいって、意味分かんないんだけど」
「きっと館山さんは、私からもらうより、坂下くんから渡された方が嬉しいと思うから」
「……。は? 何それ」
「だって坂下くんも、その方がいいと思うでしょ」

 私なんかよりずっと可愛くてずっと美人の彼女の方が、この人にはお似合いだと思うから。

「ねぇ、本気でそう思ってんの?」
「え?」

 不意に彼は立ち上がると、遠くでまったりと戯れていた高校生集団に向かって、大声をあげた。

「おーい。館山―!」

 その声に、学年主任と清掃を続ける彼女が、こちらを振り返る。

「自転車の鍵、持田さんが見つけてくれたぞー!」
「え! 本当に?」

 誰もが認める完璧な美少女が、スローモーションのかかったキラキラしたステップで、こちらに近づいてくる。
走る度に揺れる長い黒髪とピュアすぎる瞳は、少女漫画そのまんまだ。
大変。
坂下くんの隣で、彼女と比べられたくない。
引き立て役には慣れてるけど、今はちょっとキツい。

「じゃ、後はお二人でどうぞ」

 逃げようとした私の腕を、彼がガッシリと掴んだ。

「ちょ、なんで……」
「なぁ。俺いまめっちゃ腹立ってるんだけど、それってなんの気遣い?」
「気遣いとかじゃなくて、当然っていうか……」
「それが持田さんからの、俺への好意ってこと?」
「は? なにそれ」
「違うなら、それでいいから」

 「好意」だなんて、そんな風に受け取ってほしかったんじゃない。
私は自分の立ち位置から外れたくない。
ただそれだけ。
艶やかな髪をなびかせ、とってもかわいい館山さんが息を切らせ駆け寄ってくる。

「坂下くん。持田さんが見つけてくれたって、本当?」
「ほら」

 彼の手が掴んだ腕を離してくれない。
私と同じ軍手のはずなのに、私より小さくて華奢で可愛い彼女の手に、赤い自転車が渡る。

「えー! ホントに見つけてくれたんだ。持田さん、ありがとう」

 ねぇ、もう逃げたりしないから。
放してくれてもよくない? 
純粋な好意から向けられたキラキラな笑顔に、私はなぜか居心地悪くて、よく出来た作り笑いを浮かべる。

「いや。館山さんが、困ってたみたいだから」
「うん。嬉しい。ありがとね。これ、すごく大事なものだったの。無くしてショックだったの。見つけてくれて本当にうれしい」

 ようやく坂下くんの手が離れる。
館山さんは大喜びして、その場できゃあきゃあ飛び跳ねながらはしゃいでいる。
そんなに大事だったんだ。
このキーホルダー。
彼女にこんなに喜んでもらえるなら、見つけてよかった。
「集合―!」という先生の掛け声が聞こえた。

「もう行かなきゃ」

 助かった。二人を残し、逃げるように立ち去る。
その瞬間の、坂下くんの整いすぎた表情のない顔が、冷たく見えたのはきっと気のせいだ。
だから見なかったことにしよう。
ずっと昼寝をしていた絢奈は、ようやく起きあがりまだ重い瞼をこすっている。

「あれ。坂下くんとなにかあった? なんかこっちずっと見てるよ」
「何にもないよ。そんなのあるわけないし」
「だったらまぁ……。いいんだけど」

 学校の体育のジャージって、どうしてこんなに風通しがよくて寒いんだろう。
春先は少しでも日が傾くと、すぐに冷たい風に変わる。
逃げてきた私はジャージのファスナーを一番上まで引っ張り上げると、そこに顔を埋めて見られたくない顔を隠した。




第6章


 あの時どうして彼が怒ったのか、未だによく分からない。
それまで頻繁に送られてきていたSNSのメッセージが、パタリと止んだ。
送られて来ないから返事も出来ない。
私から彼には送れない。

 機嫌を損ねたらしい彼が近づいてこなくなったのは、逆にこれでよかったのかもしれない。
関わりがなければ害もない。
私がこれ以上、彼に嫌われることもない。
元に戻った。
それだけ。

 坂下くんのことをどうしていいのか分からないから、どうしようもない。
恋だって、始めなければ始まらない。
始まらないのなら、なかったと同じことになる。
なかったことにするのなら、始めなくてもいいんだ。

 結局物事を動かすいうことは、何かを始めるということだ。
始めたいと思うのなら、自分から動いて始めればいいのだし、始まらせたくなければ、黙ってじっと事態が過ぎ去るのを待てばいい。
逃げるのも、自分を守るためには時には必要なこともある。
それを決めるのは自分自身であって、他人が決めることじゃない。

 私が見つけた自転車の鍵で館山さんは学校に通い、坂下くんは変わらず彼女と同じグループで仲良く過ごしている。

 清掃活動から数日が経ち、私と彼の関係は今まで通り、「同じ教室にいる人」になった。
お互いに空気のような存在だ。
いや、空気はないと困るから、自分の存在が空気というのも違うな。
空気以下ってなんだろう。
害もなければ気にもとまらないようなやつ。
床に落ちたホコリとか髪の毛? 
机の脚の先についた保護カバーとか?

「持田さんってさ、坂下のこと好きなの」
「は?」

 いつも通りの掃除の時間が、担当場所がローテーションに従い変わって、顔を合わすメンバーも必然的に変わった。
ガヤガヤと賑やかな教室で突然遠山くんにそんなことを聞かれ、動かしていた箒の手が止まる。
彼は雑巾を片手に窓ガラスを拭くフリをしていた。

「なんで? 何を見てそう思った?」

 逆に聞いてみたい。
どうして彼はそんな風に思ったんだろう。

「最近、急に仲良くなったよね。え、もしかして付き合い始めたとか? あ、だったらごめん」
「そんなことないから。全然違うし」
「え、そうなの? じゃあもしかしてなんだけどさ……」

 遠山くんの目が、じっと空を見上げている。
だけどその視線は、本当に空を見ているのではなく、次に話すべき言葉を探していた。

「違っても怒んないでくれる? じゃあ持田さんから、告ったとか?」
「なんで? ねぇなんでそんなことになる?」

 私がそんな勇気と行動力のある人間に見えた?

「そりゃさ、たとえ付き合えないにしても、好きだって言ってくれた相手のことは、嫌いになれないでしょ。実際優しくもするだろうし。心の中では邪魔だと思っててもさ」

 あぁ。なるほど。
だからなのか。
急に向こうから話しかけてきたり、やたら近づいてこようとする今までにない彼の行動が、私の中で腑に落ちた。

「あぁ。なるほどね。それなら分かるかもしれない」

 天使と出会って、スティックが刺さった。
だから私は、彼のことが好きになった。
そのことを彼自信も知っている。

「え? 持田さんフラれた?」
「いや、そういうワケでもないんだけど……」

 そもそも告白なんてしてないし。
ん? ちょっと待って。
てことは、私が彼を好きになったのは、私自身の意志じゃないってこと?

「それはどういうコト?」
「は? 俺に聞かれても。どういうコトなんだろ?」

 二人で一緒に首をかしげる。
あれちょっと待って。
私、本当の意味で、彼のことが好き? 
あのスティックが刺さらなければ、私はどうしてたんだろう。
もしかして、「好き」にはなってなかった?

「仲良くなったのは、偶然そうなってしまったってだけ?」
「あー……」

 遠山くんが一生懸命考えてくれている。
どうしよう。
本当のことなんて言えないし、言ったところで理解されるとも思えない。
そもそも、本当のことってなに? 
私は坂下くんのこと、本当にちゃんと好きなの?

 突然頭の中が、高速回転で混乱し始めた。
その動揺を誤魔化すように、持っていた箒でガチャガチャと床をこする。
遠山くんはそんな私を何かと勘違いして、慌てて気を遣ってくれた。

「いや! 詳しいことまで聞き出したいわけじゃないから。別に誰が誰とどういうきっかけで仲良くなったって、全然別に構わないわけだし」
「もちろんそれはそうだけど……」
「だろ? だったらさ、俺とも仲良くなっていい?」
「え?」

 雑巾を片手にブンブン振り回しながらニッと笑った彼は、これから私をゲーセンかカラオケにでも誘うかのようなノリだ。

「まぁ……。別にいいよ」
「やった」

 そう言った瞬間、彼が一歩近づく。
それまで私と遠山くんの間にあった距離が、ぐんと縮まった。
肩と肩が触れ合いそうな距離だ。

「じゃあさ、ID交換しよ。スタンプとか普通に送るから」
「いいよ」

 ポケットに持っていたスマホを差し出す。
その場で彼も取りだして、私たちはフレンド登録を済ませた。

「せっかくだからさ、今日このあとどっか行く? カラオケとか。他に用事あるなら別の日でもいいけど。いきなりだし」
「うん。一緒にカラオケ行くのはいいんだけどさ……」
「あ、他に誰誘う? 一人は中島さんでしょ。俺も誰が一人誘うか?」

 遠山くんとあれこれ話しているうち、ふと視線を感じて顔をあげる。
気づけば目の前に館山さんがいた。

「あ、あの! 掃除中は、しっかりお掃除した方がいいと思うの! 今は、そういう時間だし!」

 彼女なりに、注意する言葉は選んでいるのだろう。
声はしっかりしているものの、小さな顔を赤くして、おずおずと態度は遠慮がちだ。

「ごめん。そうだよね。ちゃんと掃除するね」

 ニコッと微笑んで、素直に止まっていた箒を動かす。

「ち、違うの。あの、本当はそうじゃなくて……」

 掃き集めたゴミをちりとりですくおうと、しゃがみ込んだ私のタイミングが悪かった。
彼女に言われ窓を拭こうと背を向けていた遠山くんとの間で、私と館山さんの腰と腰がぶつかった。

「痛った!」
「あ……。持田さん、ごめんなさい」

 突然のハプニングに、彼女の顔が今にも泣き出しそうに歪む。

「きゃー! ごめんなさい館山さん! 泣かないで。大丈夫? 大丈夫だった?」

 私なんかよりずっと細くて華奢で弱い彼女に、あろうことかぶつかってしまった。
館山さんも必死になって謝ってくれてるけど、私は衝撃で彼女の骨が砕けてないかの方が心配だ。

「私は平気。館山さんこそ大丈夫?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……」

 館山さんが本当に泣きそうな顔になっている。
こんなかわいい子に心配されて、たとえ死んでも大丈夫にならないわけがない。

「あ、そうだ。あのね、いま遠山くんと、カラオケ行きたいって話しててさ。もしよかったら、館山さんもどう? 放課後古山さんたちと、カラオケ行ったりする?」

 そう言った私に、彼女は心の芯から驚いたような顔をすると、無垢すぎるほど真顔でキョトンと首をかしげた。

「学校帰りに寄り道するのはちょっと。それに私は自転車通学だし」

 あぁ……、なんてイイ子。
真面目で優等生って、本気なんだ。
こっちこそヘンなこと言ってゴメン。
ちらりと遠山くんを見ると、彼はこっちの話を聞いているのかいないのか、ちょっとイラッとした様子で不自然なくらい一生懸命窓を拭いていた。

「残念だったね、遠山! 館山さんはカラオケ来れないってよ!」
「ちょっと待て。なんでそうなるんだよ。俺は持田を誘ってんだけど」

 彼は黒くて長い前髪の奥で、ムッと眉間にシワを寄せた。
明らかに不機嫌になった彼に、館山さんはもしかしたら、ちょっと怖くなってしまったのかもしれない。

「あ……大丈夫。私は行けないから。ごめんね。誘ってくれてありがとう」

 そそくさと彼女は逃げ去っていく。
あれ? 
遠山くんも、館山さんみたいな可愛い子が好きなんじゃないの? 
私より絶対彼女の方がいいと思うんだけど。
てゆーか、余計なことを言ったおかげで、あんなイイ子にまで迷惑をかけてしまった。
どうしよう。
私だって彼女に嫌われたくない。

「ごめん遠山。私が余計なこと言った。館山さんは関係ないのに、巻き込んじゃったね」
「いいよ、別に」

 怒った。
遠山が怒った。
彼は右手に持った雑巾をブンブン振り回しながら、いつものメンバーのところへ戻っていく。
やっぱ男子ってよく分からない。
結局どうすんだカラオケ。
行くのか行かないのか。
行かないなら、まぁいっか。

 遠山くんが明らかに悪態をついている。
仲のよい男友達のところへ戻って、ふてくされた顔で何かを話し、それを聞いた仲間たちが、彼をからかいながらも慰めているようだ。
どうせ私の悪口でも言ってるんだろう。
きっと多分だけど。
別にどっちでもいいけど。

 館山さんのことも気になって、振り返ると坂下くんと目があった。
彼の所へ戻ってきた彼女に、彼の口が「どうした?」という形に動く。
彼女が坂下くんに何を訴えているのかは、こちらに背を向けているから分からない。
それでも熱心に何かを訴える彼女のことを、彼が真剣に聞いているのは確かだった。

 館山さんも、私のことを悪く思ったのかな。
彼女がそう感じたなら、きっと私はとんでもなく悪いことをしたに違いない。
聞きたくないことには、耳を塞いでいればいい。
見たくないものは、見なければいい。
そうやって目に入れたくない光景から、顔を背ける。
掃除の時間が終わった。

 終わりのホームルームの間、今日は何回目があっただろうかとか、何回すれ違ったとか、何回声が聞けただろうとか、そういうことばかり考えている。
彼女は席まで彼と近くて、もうすでにそういう所から違うんだなーとか思う。
持って生まれた才能とか、運だとかいうやつ。
明日の連絡事項なんて何にも頭に入ってこないまま、チャイムが鳴った。

『カラオケ行くの? 館山さんから聞いたけど』

 帰り支度をすませ教室から出たところで、そんなメッセージがスマホに入る。
坂下くんだ。
その文字列を見ただけで、急に足が重たくなる。
だからどうして、そんなことを聞くの? 
行きたければ、館山さんたちと行けばいいじゃない。
私は関係ない。
いつもなら速攻で返信するのに、今は文字を打つ指まで動きが鈍い。

『別に行きたいわけじゃないよ』
『遠山に誘われたって』
『うん』
『大丈夫なの?』

 なんて返事をしよう。
「大丈夫なの?」って、なにが? 
彼は一体、何を心配しているんだろう。
間違った返事をしたくない。
これ以上距離を離したくない。
既読はつけてしまったけど、慎重に考える時間くらいは、あってもいいはずだ。
照りつけるスマホ画面をにらみながら、廊下を進む。
角を曲がった瞬間、ドンと肩がぶつかった。

「おい。前向いて歩けよ。廊下で歩きスマホすんな」
「ごめん」

 遠山くんだ。
誰とDMしているのか見られたくなくて、とっさに後ろへ隠す。

「なんで隠した?」
「なんとなく」
「見られたくない相手?」
「関係なくない?」

 彼は明らかにイラついた様子で鋭いため息をつくと、独り言のようにつぶやく。

「坂下とは付き合ってないって言ったよな」
「言ったよ」

 バサバサした黒く長い前髪の奥で、キレのある細く鋭い目が私を疑っている。
なんでそんなことが気になるんだろうとか、誰かに聞けって言われたから聞いてんのかなとか、もう色々ごちゃごちゃ考えるのはやめた。

「付き合ってない。し、好きでもない。友達。クラスメイト。同級生。同じクラス。遠山と一緒。それだけ」

 私と向かい合う遠山くんの背後で、上階から階段を下りてきた上靴が足を止めた。
坂下くんだ。
最悪。
一番聞かれたくない人に、今のセリフ全部聞かれた。

「本当に坂下とは、何ともないわけね」

 遠山くんは、まだ自分の背後にいる坂下くんに気づいていない。

「うん。そうだよ」
「分かった。じゃあそこはもう信じる」

 坂下くんの視線が痛い。
だけど私はまっすぐに遠山くんだけを見て、彼には気づいているけど、気づいていないフリをする。
遠山くんは、全身の力をぐにゃりと抜いた。

「ごめん。持田さんって、普段あんまり他の男子としゃべったりしてないのに、急にあいつとはしゃべりだしたから」
「そうかな」

 そんなこと、気にしたこともなかった。
確かに坂下くんとはあんまりしゃべってないかもだけど、他の人だなんて記憶にない。
遠山くんが、ふと自分の手を私の肩に置いた。
壁に手をついたようなもんだ。
そこから恐る恐る伸ばされた指の先が、微かに私の髪の先に触れる。

「なんかちょっと、ヤだったから」

 階段でじっと立ち止まっていた、緑の上靴が動く。
わざとらしい足音をたて、坂下くんが下りてくる。
彼は全く感情の見えない顔で下りてきながら、ただ遠山くんを見下ろした。

「お前ら、なにやってんの」
「何でもねーよ!」

 上から見てたくせに。
それを私が知ってるのも、知ってるくせに。
捨てセリフを吐いて、追われるように消えた遠山くんの背に、ぎゅっと胸がえぐられる。
彼の背はよく見る光景だ。
今の私と同じ。
いつも恥ずかしいことばっかりしてる。
だから遠山くんの気持ちが分かる。
私もここから逃げ出したい。

「ごめんなさい」

 二人きりになった廊下で、よく分からないけど怒られる前に坂下くんに謝っておく。

「何が『ごめんなさい』なの?」
「なんとなく……」

 私は遠山くんの見せてくれた勇気を、このまま坂下くんに返そうと思う。
ずっと気になっていた。
どうしても避けて通れないこと。
自分自身がそこに納得できないと、前には進めない。

「ねぇ。坂下くんにはさ、スティックの効果って、なんかあった?」
「ない。ないと思う。俺はなにも変わってない」
「そっか」

 彼も私のことが好きなのかもって思ってたのは、じゃあやっぱりただの勘違いだ。

「持田さんには、効果なかったの?」
「私?」
「うん。スティックの効果」

 相変わらずなんの表情も読み取れない、ツルッとした顔を見上げる。
スティックの効果? 
彼への好意は、事故の前からあったと言えばあった。
だけどそれは、私にだけの話じゃない。
同じように聞かれたら、きっとクラスの女子はほとんどがそう答えるだろう。
そういうのは、恋じゃない。

 じっと見下ろす彼の目に耐えきれず、視線を反らす。
早く逃げ出したいはずなのに、それでも今この瞬間でさえ、彼の手の甲に突き出る骨の形なら、永遠に見ていられると思うのは、どうしてなの?

「坂下くんのことは好きだよ。友達として」

 自分でも驚くほど、正確な愛想笑いを浮かべる。

「同じクラスなんだし、それって普通じゃない?」
「そうだね」
「逆にさ、坂下くんは私のこと嫌いだった?」
「そんなことはないよ」
「でしょ? 今まで、そんなしゃべることもなかったし。接点だってない」
「確かに。そういう意味では、俺と持田さんは友達以下だったかも」

 だから名前を呼ばれた回数を数えていることも、すれ違った瞬間に息を止めることも、スマホの通知音にいちいち身構えることもなかった。
私が彼を好きになったのは、あのスティックのせいであって、自分の意志じゃない。
そんなの本当に恋って言える?

「だから『友達』って言えるようになっただけ、進展はしてるんじゃない? それならあのスティックの効果は、あったって言えるのかも」

 そうやって考えないと、私自身が報われない。
何を考えてるのか全く読めない彼の口元が、不意にフッと緩んで微笑んだ。

「じゃあ俺と持田さんは、お友達からってやつだ」

もう泣きそう。
やっぱり「お友達」だった。
こんなのフラれる時の決まり文句じゃない。
それなのに、私は彼の表情が柔らかく緩むこの瞬間を見るのが、何よりも一番好きになってしまったのだろう。

「あぁ、そうかもね」
「じゃ、これから正式にお願いします」

 完璧な笑顔を浮かべ、彼は手を差し出した。
握手をもとめてくれるの? 
この私に? 
仕方なくそっと指の先だけで彼の手に触れると、彼は自分の指を絡める。
一度だけぎゅっと握られたそれは、すぐに離れた。
「これからよろしく」と言って微笑んだ彼に、「ヘンなの」と言って笑う。

 誰かと友達になる時って、こんな挨拶必要だったっけ? 
穏やかに微笑む彼の姿は、笑っているのに何を考えているのか分からない。
遠くから眺めて楽しんでいたものに、こんなに苦しめられるなんて、知らなかった。

「別にヘンじゃないでしょ。友達なんだから。それとも俺とは、友達にもなれない?」
「なれる。それはなれるよ!」
「よかった」

 少し照れたように、困ったようにはにかむこの人の仕草一つ一つに、全神経が集中する。
どうしたって目が離せない。
だけどこれは、本当に私の気持ち?

「そういえばさ。ずっと聞こうと思ってたんだけど、持田さんのアイコンって、扇風機なの?」
「え? なんで?」
「なんでって、こっちが聞いてるんだけど」

 そんなどうでもいいこと、今はどうだっていいのに。
なんかもっと大事なことを考えなくちゃいけない気がするのに、彼に話をはぐらかされたみたいだ。

「友達になったんだから、聞いてもいいかなって」

 少し照れたようにうつむく彼を見上げる。
こんなこと聞くのが、なんで恥ずかしいんだろ。
別に普通に聞いてくれたらいいのに。

「……。かわいかったから」
「俺はそういうのって、本気で分かんないんだよね」

 彼は軽すぎるため息を盛大につくと、天井を見上げた。

「女子ってさ、もう絶対にソレは違うだろっていうワケわかんないものにも、カワイイって平気で言っちゃうよな。なんで? 理解出来ない」
「どうしてよ! ちょっと変わった形してんのとか、めっちゃかわいいし。見てこの丸くカーブしたフォルムと、絶妙なバランス!」
「いやこれ扇風機だし。てかどこに置いてんの?」
「自分の部屋の、机の上」

 握っていたスマホを開く。
一緒にのぞき込もうとする坂下くんの顔が、ぐっと近づいた。
彼の指が画面に触れ、私のアイコンである扇風機を拡大する。

「そういうの、聞いてよかったの?」
「なんで?」

 至近距離で目が合う。
鼻先同士が触れ合いそうなくらいの距離だ。
あぁ。こういうのが、「友達」っぽいっていうのか。
全く意識してない感じ。
だから「友達」なのか。

「女の子の部屋だから。いちおう……」
「別に関係なくない?」
「か、関係ないことはないけど……。まぁ、持田さんがいいなら、それでもいいよ」

 彼はかがみ込んでいた背を伸ばす。
真っ赤になったのを見せないようにするためだったのかもしれないけど、それじゃ隠せてないよ。

「もう帰るでしょ」
「うん」
「じゃあ途中まで一緒帰ろう」

 そっか。
出来る男は友達でも「女の子」扱いしてくれるのか。
だからきっと他の女子からも、モテるんだろうな。

 歩き出した彼の歩幅に合わせて、私も歩き出す。
体操服って明日いるっけーなんて話をしながら、普通に一緒に教室へ戻って行けるのは、友達になったから。
帰り支度をする彼の隣で机に座って、足をぶらぶらさせながら「さっき何しに上の階行ってたのー」なんて、気軽に聞いてる。
帰り支度を済ませた彼が、肩にサブバックを引っかけた。

「持田さんお待たせ。早く行こ」

 放課後の教室は閑散としていて、でも他に誰もいなかったわけじゃなくて、残っていた数人のうちの誰かは、こっちを気にして見てたのかもしれない。
それでも友達だから、普通にしてていいんだ。

「数Aの佐枝先生がさー……」

 彼の方が先に階段を下りてゆくから、いつも見上げてる頭が自分の目線より低い。
このつんつんした髪はどうやってセットしてるんだろうって、ずっと思ってた。
いつもより少し歩くのが速い彼に、これ以上離されないよう小走りでおいかけたら、踊り場で歩調を合わせてくれた。
階段を下りてから靴箱までは、いつものようにゆっくり歩いてくれる。

「なに? さっきからこっち見てるけど。俺の顔になんかついてる?」
「髪、どうやってセットしてんのかなって」
「え? いや。フォームつけて手でくしゃくしゃってしてるだけ」

 二人でこんな話してるなんて、夢みたい。

「持田さんの俺への興味って、そういう感じなの?」
「聞いちゃダメだった?」
「いや別に……」
「友達なんでしょ?」
「友達だね」

 そう言ってムスッとしたちょっぴり不満そうな横顔も、のっぺりした無表情よりずっといい。
最近は今までよりずっと、彼の色んな所を知れたような気がする。
玄関前エントランスに植えられた開校記念樹の風に揺れる葉音が、青い空に静かに透けてゆく。
今ならこんな風に透明な気持ちのまま、この人に聞ける気がした。

「なんで坂下くんは、私と友達になりたいと思ったの?」
「なに? 友達じゃ不満?」
「そうじゃなくて」
「俺ってやっぱ、友達以下だったんだ」
「違うよ。友達以上に思ってたよ」

 爽やかな青空の下、彼を見上げる。
多分好きだった。
ずっと前から。
この人のことが。

「持田さんにとっての、友達以上って?」
「なんていうか、遠い世界の人」
「……。やっぱちょっと意味分かんない。同じクラスでしょ」

 彼の目がしっかりと私の目を見つめる。
黒くて深い色をした目が、このまま私の全てを吸い込んでいってしまいそう。
それでも友達でいれば、この関係は終わらない。
私はずっと側にいられる。

「俺はちゃんと近くにいるから」
「うん。私と坂下くんは、同じクラスだった」

 友達だから、こうやって一緒に帰ったりコンビニ寄ったりも出来る。
期間限定のアイスの話だって出来るし、「またね」って手を振って、バイバイすることも出来る。
SNSで「宿題やった?」とか、買ったばかりの消しゴムの画像を送り合って無駄に自慢したりも出来る。
「なんで消しゴム?」とか言われて、そのあとすぐに返ってくるのが「俺の使ってるシャーペン」の画像だっていい。
友達だから、そんなことは平気。
お互いに気にしない。
おやすみだって気軽に言える。

 朝は登校して、一番に教室に彼の姿を見つけたのに、すぐ話しかけることが出来なくても、相変わらず普段は館山さんたちと一緒でも、『おはよう』ってスマホに送られて来た文字を見ただけで、私は安心する。
どれだけ遠くても、見ているだけでも、ただのクラスメイトじゃない。
友達なんだ。

 昼休みになって、今日はまだ一度もしゃべってないことが気になって、彼を探す。
今朝はおはようの挨拶を逃しちゃった。
今日の午前中の時間割では、なかなか席を動く理由もなくて、そもそも休み時間ごとに話しかけるのは、いくら友達でもやり過ぎな気がする。
席も遠いし。
大体、いつも近くにいるのは……。

 黒髪の美少女が、坂下くんに声をかける。
彼女はにこにこ笑って、簡単に彼の肩にポンと触れた。
ずっと机に向かって何かを書いていた彼が、それに気づいて顔を上げる。
真剣な顔でノートをとっていた彼の顔が、彼女を見上げ、柔らかくフッと緩んだ。
私の一番好きな瞬間。
彼が微笑む時。

「そっか。私もあの子も、友達だった」

 午後の始業開始のチャイムが鳴る。
生物の先生が入ってきて、散らばっていた生徒たちは、慌ただしく自分の席に戻った。
館山さんはとっくに余裕で着席していて、真っ直ぐな背中に長い髪をサラリと払っている。
彼女は私なんかよりずっとずっと坂下くんと友達だから、メッセもスタンプも今までにたくさん送り合っているだろうし、なんなら私なんかよりも、ずっと一緒にいる時間も長い。
時には通話なんかしちゃって、学校でも沢山しゃべってるのに、ずる……。

「美羽音? どした?」

 放課後になっていた。
絢奈に声をかけられ、我に返る。
雑然とした教室が、ようやく自分自身のものとして視界に戻ってきた。
古びた黒板と等間隔に並んだ机。
好き勝手に動き回る生徒たちの、そのなかの一人に過ぎない。
当たり前だと思ってたことが、当たり前じゃなくなっている。

「なんか、怖い顔してたよ」
「ううん。ちょっと考え事してただけ」

 まずい。絢奈に心配されちゃう。
私がだいぶおかしくなってるのを、彼女に知られたくない。
好きな人が出来たからって、それで頭いっぱいにしちゃうのは、本当に頭悪いと思う。

「なんかちょっと、今朝から頭痛がひどくて……」
「大丈夫なの?」
「多分だけどへい……」

 ガタンと椅子を引く音がして、視界の隅に黒い影がしゃがみ込んだ。
空いていた椅子を引っ張ってきた坂下くんが、そこへ腰を下ろす。

「ねー。パズストするって言ってたよね。今週のイベ、周回してる?」

 いきなり割り込んできた彼に、絢奈はあからさまに機嫌を悪くした。

「あのさぁ、いま美羽音が頭痛いって言っててー」
「治った!」
「は?」
「大丈夫。もう私、全然頭痛くないから」

 不審がる絢奈を横目に、最速でスマホを取り出す。

「最近やってないから、強くないよって言ったよね」
「だから俺もだって。そんでも持田さんがやってるって言うから、こっち来たんだけど。橋本とか本田にやろうって言っても、アイツらパズストはやってくんないからさ」

 来てくれた。
坂下くんの方から。
今日はもう話せないかと思ってたのに。
この人の方から来てくれた!

ゲーム画面を開く。
昨日の帰り道にそんな話をして、もしかしたらなんて、何日かぶりにプレイしておいてよかった。

「中島さんも一緒にやろう。やってるんでしょ。3人でやれば、野良1人入れてもそこそこ強いし」
「美羽音は頭痛いの、本当に大丈夫なの?」
「うん。もう平気」

 何かを諦めたようなため息をつき、彼女も自分のスマホを取りだした。

「私のことは、絢奈でいいよ」

 そう言った彼女も同じゲームのホーム画面を開くと、坂下くんにフレンド交換のためのIDを見せる。

「じゃ、俺も透真で」
「美羽音は?」
「じゃあ私も、美羽音と透真で……」

 どうして絢奈は、そんなに普通でいられるの? 
坂下くんとさっさとフレンド登録を済ませると、イベントに参加するためのフレンドルームを立ち上げる。

「美羽音がここに入ってこれば、透真ともID交換なしで、すぐフレンドになれるよね」
「わ、私はあんまり、強くはないけど……」

 それを聞いた絢奈は、ちょっとびっくりたような顔をしてる。

「美羽音、このゲームに一時期めっちゃはまってたよね! 課金とかもしてなかった?」
「前はね!」

 スマホを操作する手が、すんごい緊張してる。
あんまり上手いとか強いとか言われると、負けたら恥ずかしいんだから言わないでほしい。
ゲームするのに、こんな追い込まれることある? 

「よし。やるか!」

 気合いを入れ直した私を尻目に、絢奈は突然大声でガハガハと笑い始めた。

「てか、なんでこのメンバー? ありえなーい」
「昨日友達になったから」
「美羽音と?」
「そう」

 彼はすました顔で絢奈に答える。
対戦が始まった。
私は坂下くんの足を引っ張らないよう、サポートするのに必死だ。

「なんで友達なの?」
「秘密を共有しちゃったから?」

 そんなギリギリの会話を絢奈としながら、冷静に淡々と攻撃を繰り出すこの二人が信じられない。
私は自分の顔が緊張と興奮で紅潮しているのを感じなから、それをゲームのせいにして「うわっ」とか、「あ。ヤバい」とか言ってる。

「なんの秘密?」
「秘密だから秘密なんだよ」

 バトルゲームのBGMが、通常モードからボス戦用に変わった。
闘争心を煽り立てる派手な電子音を、私たちはのどかな昼休みの教室で聞いている。

「それは二人の秘密だけど、私も仲間に入れてくれるんだ」
「だって友達からのけ者にされるの、俺だって寂しいし」

 坂下くんの操るキャラが、敵からの大ダメージを受けた。
絢奈はすぐに味方全体に回復魔法をかける。

「そっか。透真は寂しかったんだ」

 絢奈はのんきに笑っている。
次は私の行動ターン。
次のボスキャラからの大攻撃に備え、防御力アップの効果をチームにつけた。
まだ敵のHPは半分も削れていない。

「俺も仲間に入れてくれる?」
「別にいつでもいいよ。好きに話しかけてきて」

 ようやくボスを倒したと思ったら、予定通り第二形態に移行した。
パワーアップした敵から強烈な先制の一打を受ける。
味方全員が、一気に瀕死状態にさせられた。

「そう思ったからさ、だから俺も、思い切って話しかけてみた」
「そっか」

 すぐに回復しないと間に合わないのに、凶悪なドラゴンと化したボスが火を吹いた。
灼熱の炎に煽られ、あっさりゲームオーバーを迎える。

「うわ。やられた」
「つよ」
「てかコレ、絶対勝てない仕様だよね」
「分かるー」

 坂下くんと絢奈は、さっさと戦闘画面から自分のホーム画面に戻って、今回得られた報酬と自キャラの装備について話し始めている。
私はせっかく坂下くんとレイドバトルが出来たのに、負けてしまって情けないのと申し訳ないのとでいっぱいだった。

「ご、ゴメンね。負けちゃって」
「え、美羽音のせいじゃなくない? つーか、めっちゃ強いから普通のプレイヤーじゃ勝てないよ」

 絢奈はそう言ってくれたけど、坂下くんからの返事はない。
彼は相変わらずスマホ画面から目を離さず言った。

「ねーさー。絢奈は翼のヘッドギアつけてんだ」
「そう。攻撃魔法の飛距離が伸びるからね。そういう透真は、土の能力型なんだ」
「変えたいなーとは思ってんだけどねー」

 早速の「絢奈」「透真」呼びだ! 
二人の順応スピードについていけない。

「美羽音は物理攻撃特化なんだ。あはは。なんかそんなイメージあるよね」

 笑われた。
坂下くんに笑われた。
純粋にゲームの話で笑ってるだけなのに、死にそうなほど恥ずかしい。
この人に笑われるくらいなら、さっきの凶悪なドラゴンに骨まで焼かれた方がマシだ。

「そんなの、物理一択に決まってるでしょ」
「うん。物理も強いよね」

 彼は机に肘を突き、その手の上に顎を乗せた。
こっちを見て、にこっと微笑む。
そんな風に笑えば、全部許されると思ってるでしょ。
まぁ許すけど。

 絢奈はあれこれ坂下くんに質問して、彼はにこにこと楽しそうに彼女と話している。
ゲームの話だけじゃなくって、誰と仲がいいとか、最近見た動画とか、好きなミュージシャンの話とか。
私はすぐ隣に座って同じ輪の中に居ながら、2人の会話を永遠に聞きながら相槌を打っているだけだ。

「そろそろ帰ろうか」

 いつまでも続くと思っていた時間を、あっさりと終わらせたのは坂下くんだった。
スマホを制服スラックスの後ろポケット入れると、立ち上がる。

「あーホントだね。もう帰らないと」

 絢奈まで当たり前のように鞄を持つと、彼の隣に並んだ。

「美羽音。なにやってんの」
「え?」
「さっさと帰るよ。なんか他に用事あった?」
「ないです」

 慌ててバタバタと荷物をまとめる。
絢奈は凄い。
なんでこんなにあっさりと彼と馴染めるんだろう。
私は今でも全然上手くしゃべれないのに、普通に出来てるのスゴすぎ。
尊敬する。

「お待たせー」

 教室を出る。
流れ的に、このまま3人で一緒に駅まで帰るんだよね。
私は全然彼とは話せなくて、だから今度は、絢奈が坂下くんと仲良くなって、その前から私の方が先に仲良くなってたのに、でも私よりこの人と仲いい人は他にも沢山いて……。

「じゃ、私今日こっちだから」

 靴箱を出たところで絢奈はそう言うと、あっさりと手を振り私たちに背を向けた。

「え! ちょっと待って、なんで?」

 彼女の腕にしがみつく。
絢奈の乗る電車は、私と同じ路線の反対側だ。
だから駅まではいつも一緒に帰ってる。

「今日も歯医者」
「また?」
「時間あったから、ゲームに付き合ってただけだし」
「本気で?」
「本気だよ」

 彼女は坂下くんにも、普通に上機嫌で手を振る。

「じゃあね! また明日」
「おう。またな」

 二人きりにされちゃった。
こんなところを学校で他の人に見られたらどうしようとか、もう話すこと残ってないとか、はしゃいでいいのか、困っていいのかが分からない。
私は本当に、このまままた彼の隣を歩いていいの?

「どした?」

 先に歩き出した彼が、私を振り返った。

「ううん。なんか最近、一緒に帰るの多いなって」
「そうだっけ」
「そうだよ」

 放課後の喧騒が辺りを包み込む。
サッカー部の掛け声と吹奏楽部の奏でるトランペットの音が、やたら頭に響いて仕方がない。
話したいことは沢山あるけど、それを聞いたら一生後悔しそうな気もしてる。

「……。俺と帰るの、イヤだった?」
「ちがっ、そういうことじゃなくて……」
「友達になったんだからさ、ちゃんと友達でいてよ」

 目の前にそびえたつ、彼の背中を見上げる。
そこから彼の方が先に一歩を踏み出したのか、私の足が立ち止まってしまったのかは分からない。

「そうだよね。友達だもんね」
「うん。友達」

 やっと分かった。
どうして彼といるのが、こんなに苦しいのか。
彼には刺さったスティックの影響は、本当に何にもなくて、魔法にかかったのは、自分だけだからだ。
私は彼に恋をした。
だけど好きになったのは私だけ。
どうしてあの時私はあそこにいたんだろう。
あそこで偶然鉢合わせなければ、そしたら今まで通り、この人は遠い存在だったのに。
あんなスティック、刺さらなけばよかった!

「あれ? どうかした?」

 立ち止まった私を、彼は心配そうにのぞき込む。
目から滲み出した何かを拭った。

「なんか、ゴミが目に入ったみたい」
「そうなの? 洗ってくる?」
「大丈夫。もう取れたから」

 バカみたいに愛想笑いを浮かべて、この場を誤魔化す。
それを素直に信じてくれるから、やっぱりこの人はいい人なんだと思う。
私が好きになっちゃうくらい、いい人なんだ。

「あんなことがあってさ、私が坂下くんのこと好きなのかもって、変に考えないでほしい。気にしなくていいから。今まで通り友達でいて」
「……。そうだよね。いきなりあんなことになって、いきなり『好きになりました』って、そんなことあるわけないよな。困るし。お互いに」
「好きとか嫌いとかそういうことって、操るのも操られるのも間違ってると思う」
「当たり前だよ。俺だってそう思ってるから」
「私もこうやって、普通に話してもらえてるだけ、ありがたいと思ってる」

 嫌がられたって避けられたって、おかしくはなかった。
彼の表情がキュッと引き締まる。

「俺は……。ずっと嫌われてんだろうなって、思ってた。同じクラスでも、話しかけ辛かったし。男なんて全然興味ないみたいな感じで」

 夏が始まろうとしている空はどこまでも澄んでいて、私もこのまま、その青に吸い込まれてしまいたい。
そしてこのままいっそ、本当に消えてなくなればいいのに。

「美羽音とあんなことがあって、本当に突然俺のこと好きになったんだとか、そんなこと全然思ってないし。そんな甘いもんでもないよな。誰かを好きになるって。だからゆっくりでいいから、これから友達として、仲良くしていけたらいいなって思ってる」
「ありがとう」
「じゃ、また。夜にメッセ入れる」

 ごちゃごちゃした駅前はいつもごみごみしてるくせにそこそこ大きな駅で、私と彼の乗る電車は違う路線だから、ここでは予定通りなんの違和感もなくいつも通りのバイバイできれいに別れる。

「またね」

 告白してフラれても、お友達からよろしくなんて、絶対ウソ。
そんなことするくらいなら、きれいさっぱり断ればいい。
お友達からお願いしますなんて、そんな惨めなこと出来る? 
夜にメッセ? 
そんなもの送ってくるくらいなら、無視してくれた方がいい。
彼の背中が見えなくなるまで見送って、自分の改札をくぐる。
ふらふらと足だけ動かして、ホームへの階段を上った。
だけど本当に彼から無視されたら、自分が本気で死にそうになることなんて、自分が一番よく分かってる。

 はっきり「友達」と言われた以上、フラれたのと同じだ。
告白してもないのに、一方的に好きになって、そうだと気づかれないうちにフラれるのも、結構キツいな。
だから恋愛なんてしたくなかったのに、なんでわざわざこんな思いしに行かなきゃなんないんだろう。
彼の考えていることなんて、私にはなんにも分からないから、そのまま何も言わず手を振って別れた。

「これでよかったの?」

 そんな疑問と後悔がぐるぐる頭を回るけど、結局答えなんてどこにもない。
帰宅ラッシュで混雑する駅に、サッと電車が流れ込んでくる。
ごたごたした人込みをかき分けそれに乗り込むと、私は電車に揺られようやく帰宅の途についた。




第7章


 私と坂下くんは友達になった。
だから教室で挨拶したり、スマホでスタンプ送り合ったりするのは、普通のことだと思う。
そんな行為にいちいち意味を見いだそうってのが、そもそもの間違いだし、考え過ぎだったんだと思う。

 化学の実習で名字のあいうえお順に振られた席順は、遠山くんとテーブルは違うけど、同じ通路線上で隣の席になった。
正面の黒板を向くためにきっちり体を前に向けると、狭い通路で肩が触れそうになる。

「そっちの班ってさ、どこまで実験進んでんの? 最初の計算問題って、どうやってやった?」

 遠山くんが話しかけて来るのは、私の隣に座る男子なのに、間に割り込むように入ってくる彼にドキリとする。
試験管に慎重に試薬を流し込む。
透明だった液体は、瞬時に鮮やかな青に変わった。

「あ。持田さんのやつ。俺と同じパターンのやつだ」

 1番から5番の番号を割り振られた液体が、何の水溶液であるかを判断する実験だ。
6人班の中で同じパターンの人はいないけど、班が違えば6人のうち誰か一人は同じ組み合わせの試薬に当たっている。

「後でさ、レポート書くでしょ。何がどの水溶液だったか、答え合わせしよう」

 いいよと返事をしたものの、レポート提出は来週の月曜だ。
今日は木曜日。
宿題として済ませるのなら、誰かと一緒にやる必要はないし、同じ班員同士で結果を照らし合わせれば、正解は簡単に導き出せる。
なんでそんな面倒くさいことするんだろうと、一瞬疑問に思ったまま実習の時間は終わり、次の授業が始まる。
掃除と終わりのホームルームも無事迎え、放課後がやってきた。

 遠山くんと約束したことはもちろん覚えている。
だけど別に、彼だって本当は困っていないはずだ。
掃除の時間に何か向こうから話しかけられるかと思っていたけど、それもなかった。
教室の隅で相変わらず雑巾を振り回しながら仲のよい男子と戯れている彼は、まるで小学生男子だ。
私も似たようなもんだけど。

 このまま約束を忘れたフリして、教室を出た方が勝ちだと覚悟を決めた私は、素知らぬ顔で教科書を鞄に詰める。
準備は整った。
このまま逃げ切ろうと立ち上がった瞬間、彼の真っ黒な目と目が合った。

「レポートするって、約束してたよね」
「したね」
「忘れてた?」
「うん」
「逃がすわけねーだろ」

 彼は私の前の席に、後ろを向いたままどかりと腰を下ろすと、そのまま身を乗り出した。

「はい。やるよ。レポート用紙だして。持ってないなら、俺のあげる」

 約束したのは私だ。
諦めて慎重に鞄を下ろす。
それにしても、もしかして同じ机でレポート書く気?

「ねぇ、このままじゃ狭くない? そっちの席を動かして……」
「俺はこのままでもいいけど」
「狭いから。そこはちゃんとしようよ」

 ふてくされたような顔で、それでも渋々彼は従った。
もうこうなったら、さっさと終わらせて帰るしかない。

「持田さん、レポート用紙いる?」
「自分のあるからいい」

 彼は引きちぎった数枚をくれようとしていたけど、それは断る。実習ノートを開いた。

「すげー。なんか色々書いてある」
「遠山のは?」
「俺? 都田と筆談してた」

 ノートの余白には、確かに今流行っぽいアニメのキャラとか、「授業ダルい」とか動画サイトの雑談が書き殴られている。

「そんなジロジロ見るなよ」
「見てないよ」

 自分から見せてきといて、見るなよとか怒られても。
それこそどうなの? 
とにかくこれを終わらせないと、彼から解放されないことは分かった。
それほど難しいレポートじゃない。
宿題ついでにこの状況をさっさと終わらせられるのなら、一石二鳥だ。

「最初って、なに書くんだったっけ」

 罫線の引かれたB5のレポート用紙に、いきなり実験のタイトルと名前を書き出し、彼は一番に表紙を完成させた。

「【目的】だよね」
「ここの部分をそのまま写せばいいってこと?」
「まぁ、そういうこと」

 彼の書く文字は、思ったより綺麗だった。
古文のプリント集めで見たことはあるはずなのに、記憶には残ってなかったみたい。
絢奈の書くまるまるした文字とも、坂下くんの書く少し斜めになった文字とも違う、細くて繊細な文字だった。

「前に坂下とは、友達だって言ってたよね」

 彼の文字がそんな風に見えるのは、きっと使っているシャーペンの芯が細いせいだ。
カリカリと紙を削るような音を立て、文字を書き写してゆく。

「言ったよ」
「俺とも友達だよね」
「そうだね」
「じゃあ俺も美羽音って呼んでいい?」

 文字を書く手が止まる。
思わず顔を上げたら、彼はうつむいたまま【目的】を書いていた。
いちおう真面目にはやっている。

「それを言いに来たの?」
「は? まさか。実習レポートしに来たんですけど。で、目的の次はなんだっけ」
「実験方法だよね。器具とかやり方とか」
「このノートの前に書いてあるやつか。絵とかも入れる?」
「ビーカーとか? いいんじゃない?」
「俺のこともさ、下の名前で呼んでいいよ。あ、下の名前分かる?」

 彼の頭の中ではすでにレイアウトが決まっているのか、文章を書くスペースを残し、レポート用紙の右側にイラストを描き始める。
何もないところにすっと楕円形を描くと、その先をきゅっと尖らせ、大小のビーカーを3つ重ねて並べた。

「絵、上手いんだね」
「快斗。快斗だから。呼んでみて」

 奥歯をかみしめる。
ねぇ、人の話聞いてる? 
私は彼の望み通り、ありったけの声を張り上げて叫んでやった。

「快斗は絵が上手だね!」
「美羽音のにも描いてやろうか!」
「別にいらない!」
「じゃあいいよ!」

 突然の怒鳴り合いみたいな会話に、教室に残っていたみんながびっくりしてる。
うわ。恥ずかしい。
どうしてこういう時に限って、絢奈はどっか行っちゃってるんだろう。
坂下くんがいなくてよかった。
けど館山さんには、思いっきり見られてるな。

「急に大声だすなよ」

 額を机にくっつきそうなくらい近づけて、赤くなった顔を誤魔化すくらいなら、そんな要求してこないでよね。

「美羽音は恥ずかしいヤツだな」
「快斗にそんなこと言われる筋合いないけどね」
「あはは」

 イラストを描き終えた彼は、まだ真っ赤になった顔をうつむけたまま、実験に使用した器具の名前を記し始めた。

「これ書き終わったらさ、もうさっさと職員室に行って提出してこようぜ。そしたら一緒に帰ろう」

 どうしてさっきからずっと、彼はうつむいてばかりなのかとか、視線が全く合わないこととか、こんな簡単なレポートを急にわざわざ放課後一緒にやろうと誘ってきたのかとか、さすがの私にだって、もう思い当たる節がないわけじゃない。

「坂下と帰れんのなら、俺とも帰れるだろ」
「遠山くんって、電車通学だっけ」
「快斗ね。やり直し」
「……。快斗は、電車通学だったっけ?」
「自転車」
「駅と反対方向なんじゃない?」
「関係ないし」
「なんか用事あんの」
「ある」
「なんの用?」
「は?」

 彼はそっぽを向くと、右手でくるくるとペンを回しを始めた。
ペン回し出来る人、生で始めて見た。

「美羽音と一緒に帰るっていう用事」

 彼とはやっぱり目が合わなくて、真っ赤な顔はやっと上に上がっても、視線は横を向いている。
自分でもそうなっていることに気づいてるから、恥ずかしくなってんだよね。

「いいけど、自転車停めるとこないよ。歩行者多いし、駅に自転車で来る人なんて基本いないから……」
「じゃあ今日は、そこまで歩いていく」

 ほぼほぼ同じ高さにある彼のそんな顔をじっと見つめていたら、何だかもごもごと言い訳を始めた。

「あ……。ほ、本屋! 駅前に本屋あったでしょ。そこに行きたいから、ちょっと付き合って」
「ねぇ、別に本屋さんに行くのはいいんだけどさぁ……」
「あ、だったらゲーセンでも……」

 不意に、誰かが近づいてきた。
館山さんだ。

「わ、私も一緒に! レポート書いていい?」

 彼女はしっかりと胸に鞄を抱きしめ、必死になって私を見下ろす。

「え? あぁ、いいよ」
「ご、ゴメンね、邪魔しちゃって。わ、私も学校で済ましちゃおうかなって、思って。か……、快斗と同じ班だったし!」

 私は彼女のために、隣の机を動かしてこっちにくっつけようとしたら、慌てて館山さんも手伝おうと鞄を肩から下ろした。

「館山は自分で出来るだろ」

 快斗はクラスイチの優等生女子に向かって、無愛想で高飛車に背中をのけぞらせた。

「つーか実習中に、レポート書きながら実験してたの知ってるし。お前もうやり終わってんだろ」
「お、終わってるけど、どうなのかなって。ちゃんと出来てるかとうか、見てほしくって……」

 快斗はなんでそんな意地悪言うんだろ。
オレ様かよ。
こんなに泣きそうになってる女の子を、黙って見過ごせる人間っている? 

「見る見る、見るよ! 見ていいんだったら、私に見せて」

 彼女はおずおずと控えめに、それでも抱えていたサブバックを机に置いた。
そのとたん、快斗はバサリと実習ノートを閉じる。

「なにその上から目線。自慢しに来たのかよ。お前はまだみんなから、褒めちぎってほしいんだ」
「ちが……」
「ちょっ、待って。なにその言い方!」

 館山さんは開きかけていた鞄のファスナーをサッと閉じると、それにしがみつくように抱きかかえた。

「ごめん。やっぱり帰る」

 館山さんが泣いている。
実際に涙は流してないけど、私にはそれが見える。
逃げ出した彼女に謝りに行くのは、私じゃない。
快斗だ。

「なんであんな可愛い子を泣かすの!」
「泣いてなかっただろ」
「泣いてたよ!」
「別に可愛くもねーし」
「ねぇ、視力いくつ」
「は?」
「あんたの視力はいくつかって聞いてんの!」
「それを知ってどうすんだよ」
「早く館山さんに謝ってきて!」
「なんで。イヤだ」

 口を尖らせそっぽを向く快斗に、最高に腹が立つ。

「女の子を泣かせるような奴は、私嫌いだからね」
「だから泣いてなかったって!」
「いいから謝ってきて!」

 それでも動こうとしない彼に、こんなこと言うのは卑怯だと分かっているけど、言わずにはいられない。

「じゃないともう一緒にレポートしたり、一緒に帰ったりもしない。本屋も行かない」
「なんだそれ」
「私も帰る」

 広げていた筆箱とノートをバタバタと鞄に取り込む。

「あぁもう分かったよ。分かったからちょっと待って」

 どれだけ呼び止められても、そんなのは無視だ。
先に彼女に謝ってこない限り、もう彼とは口利かない。

「じゃあね」

 教室を出ようとしたら、いつの間にか戻っていた坂下くんとぶつかった。

「あれ。どうかした?」
「一緒に帰ろう!」

 思わす彼の腕を掴む。
見せつけてやるんだ。
悔しそうにしている快斗に。
だって彼はそれほど酷いことを彼女にした。
坂下くんは流れを察して、私に付き合ってくれる。

「いいよ。行こう」

 私は彼を誘い出すことに成功すると、教室を出た。

 薄暗い階段を一気に駆け下りる。
坂下くんは私の後ろから、何も言わないでついてきてくれている。
なんか勢いでこうなっちゃったけど、よく考えたら私にとっては気まずい別れをした後で、彼とちゃんと話すのも、数日ぶりかも。

「だから、なにがあったんだよ」
「快斗がね、館山さんにあっち行けって言ったの。酷くない?」
「遠山が?」
「そう」

 最後の3段を一息に飛び降りる。
こういう話なら、いくらでも出来る。
自然に彼と話を出来るきっかけが出来てよかった。

「館山さんは一緒に化学のレポートやろうって言いにきただけなのに。なんで追い払っちゃうかな。しかも快斗は同じ班だったんだよ? 館山さんかわいそう。男子って、みんなあぁいう真面目で美人な子が好きなんだと思ってたのに。違うんだね」

 靴箱の前で立ち止まる。
精一杯かわいく見えるよう、タメを作って願いを込めて振り返った。

「だって坂下くんも、館山さんみたいな可愛い子が好きでしょ?」
「それは好みの問題じゃない?」
「えー。だって仲いいし、そうなのかと思った」

 自分でも怖いくらい平気そうな笑顔を浮かべ、靴箱から靴を取り出す。
うん。
ちゃんと友達っぽく出来てる。

「坂下くんは館山さんのこと、そうは思ってないんだ」
「いや。可愛いとは思うよ。普通に」
「普通に?」

 彼も靴を履き替えるためにうつむく。
そのせいで表情が見えなくなってしまったのは、ちょっと失敗だった。
私は友達らしく、彼をからかうようにニッと笑ってのぞき込んだ。

「まぁ……。その、すごく人気はあるよね。男から」
「でしょ? だからぶっちゃけ、二人は付き合ってるのかと思ってた!」
「えぇっ? そうだったの?」
「うん」

 彼はとんでもなく驚いた顔をして一瞬動揺したみたいだけど、すぐにそれを戻し立て直した。

「いや、それはないでしょ」
「そうなんだ。でも好きだったとか?」

 ニヤニヤと目を細め口角を上げる。
私もしつこいな。
頭では分かっていても、どうしても止められない。

「ないない、絶対ないって。実は俺、聞いたことあるんだよね。本人に直接」
「なにを?」

 困惑した様子の彼でも、見上げる顎のラインは、本当に綺麗な骨格をしていると思った。

「館山さんに、好きな人いないのって。そんなに色んな連中から告られるんだったら、誰かと付き合ってみればいいのにって」

 彼は少し言いにくそうに、言葉を濁しながら言った。

「そしたらさ、昔好きな人に告白して断られたから、もうそういうのはいいんだって」

 頭の中がその瞬間、勝手に高速フル回転を始める。
記憶に残っている彼女の言動を、一気に総サーチする。
ついさっきの教室で、彼女が恥ずかしそうにおずおずと近づいてきて、発した言葉。
抱きしめたサブバックの形……。

「それってもしかして、快斗ってこと?」
「そこまでは俺も聞いてない」

 快斗と館山さんは、中学が同じだったはずだ。
あんな完璧な女の子が、あんなのを好きなの?

「結構いい奴だよ遠山は。ああ見えて」

 隣を歩く坂下くんは背が高くて、顔を私とは反対側に背けられると、こちらからは本当に表情が見えなくなる。

「だからさ、別に悪くないんじゃない?」

 それは館山さんに向かって言ってんの? 
それとも私? 
聞きたいけど、返ってくる返事が怖すぎて聞けない。

「わ、私はそんなでもないと思うけどなー!」
「でも最近、ちょっと前から仲いいし。ちょこちょこしゃべってたよね。教室以外でも」

 そうだっけ。
そんなこと気にしたことなかった。
つい数分前の、真面目にレポートに取り組もうとしていた彼の姿を思い出す。
不自然なほどうつむいていた彼の頭の中は、本当は何を思っていたのだろう。

「ま、あいつらのことは俺らがあれこれ考えてもしょうがないな。なるようにしかならんでしょ」

 あははと私の頭より高い位置で聞こえる乾いた笑い声が、駅前のよどんだ空気に滲む。

「俺は遠山を応援するけどね」
「私にはすごくうらやましい」

 私は快斗から、はっきりと好きって言われたわけじゃない。
だけど、何となく彼の気持ちは分かる。
どうしてちゃんと言おうとしないのかも。
私はこのまま彼に、言わせないようにしないといけないと思った。

「あの二人の、なにがそんなにうらやましいの?」
「片思いに気づかれないのと、気づかれてるけど気づいてないフリされるのとだと、どっちがいいのかな」

 こんな質問、快斗と館山さんにこじつけて坂下くんにしてる自分って、本当にズルいと思う。
しかもすぐに別れることが出来る、別路線の改札の手前だ。
多くの人が行き交う帰宅ラッシュの始まった駅前のど真ん中で、なにやってんだろ。
都合がよすぎる。

「美羽音は誰かに、片思いしてるの?」

 ほらね。
知ってるのに知らないフリされてる。
スティックが刺さった私は、彼のことを好きだって彼は知ってるはずなのに。
だからもうその答えは、一つしかない。

「してないよ。だって好きな人なんて、いないもん」
「じゃあやっぱり、あのスティックにはなんの効果もなかったんだ」
「え?」
「だって美羽音は、俺のこと好きじゃないんでしょ」

 夕方の駅前の喧騒が煩すぎて、彼の言うことがちゃんと耳に入ってこない。
世界から音が消えた。

「俺はさ、効果あったと思ったんだ。なんか急に美羽音の態度が変わったような気がして。だから俺は、俺の方から声かけるのが平気になったっていうか、普通に話しかけても大丈夫なようになったんだなって思えた。話しかけても、嫌がられないだろう、無視されたりウザがられたりしないだろうって。だから話しかけられた。そうじゃなかったら、ずっと怖くて話しかけられなかったと思う。こんな風に一緒に帰ろうなんて、声かける勇気なかった」
「だって、あんなのウソじゃない。変な魔法とか道具なんかで、人の気持ちを操ろうなんて許されることじゃない。そうじゃない方が本物でしょ」
「確かにそれは、俺だってそう思う」

 うつむいたまま顔を上げられない私に、彼の履いているローファーがまっすぐに向き直った。

「だとしたら、俺とはないってことか」
「坂下くんは、そうだったの?」
「少なくとも、好かれてるんだろうなーとは思ってた。けど、そうじゃなかったってことなんだろ? それとも美羽音自身が、そうしたくなかったか。俺が単純に、あの天使に騙されてたってことだよな。変な勘違いして悪かった。じゃ」

 別れの挨拶にしては、随分あっさりしてない? 
彼は平気な顔して、真顔のまま自分の通るべき改札を抜けてゆく。
あの人にしてみれば、こんな風に簡単に終わらすことの出来ることだったんだろう。
結局そんなに、気になることでもなかったってことなんだろう。
本気で好きになった相手でもない、単純に勝手に好意を向けられた相手に、悪い気がしなかっただけだ。
私が快斗に対して、そう思っているように。

「ばいばい」

 自分から告白しようと覚悟を決めて、彼に告白したわけじゃない。
好きでもなんでもなかった人のことを、勝手に好きにさせられただけ。
それを相手にも知られている上でフラれるって、酷くない? 
なんかすっごい損した気分だ。
あぁ、だけど元々この気持ちはウソなんだから、損とかでもないか。
元に戻っただけ。
だからなんのダメージもない。
傷ついてるこの気持ちも、なかったはずのものだから。

「それでもまだ、私と友達でいてくれるのかなぁ~……」

 涙が出てくる前に、それを拭った。
泣く価値だってないことだ。
だったらちゃんと、素直に好きって言ってみればよかった。
自分の気持ちを誤魔化したり、匂わせるようなことなんてしないで。
やっと分かった。
だからみんな、ちゃんと告白するんだ。
あんなこと、頭のおかしい人たちのすることだと思ってた。
そう思ってた自分の方こそ、本物のバカだ。
だけどもしそうやってちゃんと告白して、それでもこんな風にフラれるとしたら、どうすればいいの?

 その日の夜、快斗からメッセージが入った。
『ちゃんと館山には謝ったから』だって。
何をどう謝ったって言うんだろう。
私も十分バカだけど、彼もよっぽどだよね。
既読だけつけて、ベッドに潜った。




第8章


 坂下くんは元々遠い存在の人で、そもそもお近づきになったことの方がおかしかったんだ。
だからその距離が戻ったのは、ある意味当然とも言えること。
教室はいつも通りの平和さで、私としてはそうやって自分を切り替えていきたいのに、渡り廊下奥の茂みに今も残り続けるスティックが、夢じゃないよと言っている。
刺さった人の気持ちは勝手に動かすくせに、現実の距離までは縮めてくれない。
結局一方通行にしかならないんだったら、そんなのわざわざ魔法にする意味ある?

 掃除終わりと帰りのホームルーム前の隙間時間。
ゴミ収集所に捨てに行った帰り道に、渡り廊下にしゃがみ込んで宙に浮かぶスティックを見上げる。
快斗がやって来た。

「お前、ホントにこの場所好きだよな。なに見て黄昏れてんの? 空?」

 彼は少し離れた位置にしゃがみ込むと、私と同じ空を見上げる。
私はしっかり見えているものでも、他の人には見えているとは限らない。

「……。もしかして、坂下とケンカした?」

 なんでそんなことが気になるのとか、ほっといてくれとか言ってもいいけど、彼とこれ以上先にも進みたくないから、聞かない。
あぁ。
坂下くんも、こういう気持ちだったんだ。

「してないよ。別に普通」
「普通だったら、そんなに落ち込まないだろ」

 真っ黒で伸び放題の髪は相変わらずバサバサで、それでもゆっくりと丁寧に言葉を選びながら話してくれているのは、ちゃんと伝わってる。

「なんかさ、困ってることとか、気になることがあるなら話してよ。別に直接じゃなくてもいいし。タイムラインとかDMでも。そんな深刻なことじゃなくても、『お腹空いたー』とかでもいいし」

 彼はしゃがみ込んだ膝を抱え、その腕に半分顔を埋めたまま視線だけをこちらに向けて微笑んだ。

「つーか、俺も雑談送ってい?」

 快斗はごそごそと自分の携帯を取り出す。
真っ黒な本体に、流行のアニメタイトルから「呪」という一文字を取った篆書体のステッカーを貼っている。
男子がみんな見てるやつだ。

「そのアニメ好きなの?」
「え? うん」
「私も見てる」
「マジか」
「別に今までも普通に送って来てたでしょ」

 快斗と友達になってから、何度か一緒に遊んだ。
カラオケも行ったしゲーセンにも行った。
私のサブバックには、その時とった「もふかわ」というハムスターなのか熊なのかよく分からない真っ白なキャラクターを主人公とする、人気シリーズのキャラの一人がぶら下がっている。
ラッコをモチーフとした「先生」と呼ばれるキャラのぬいぐるみキーホルダーだ。
しかも快斗とお揃いで。
偶然二つとれたから。

「それでももっと、送ってきていいよって話」

 彼はムッとした目で、こっちをにらむ。

「俺がアイコン変えたの知ってる?」
「いつ」
「いまさっき」

 なにそれ。
そんなの詐欺だし。
彼が差し出すスマホ画面をチラリとのぞき見る。
新しいアイコンも、そのアニメのキャラだった。

「この人が好きなんだ。悪役じゃん」
「闇落ちしたのが逆にいいんだって」

 快斗となら、なにも考えなくてもアニメとかゲームの話題でしゃべれるのに、どうしてあの人とは上手くしゃべれないんだろう。
彼はそんな話をしながらも、次々にスタンプを送ってくる。
面白いやつとかかわいいのとか。
それを見ながら笑ってる私も、大概どうにかしてると思う。
ホームルームの開始を知らせる予鈴が鳴った。

「ちゃんとさ、俺とももっと話してよ」

 私が持っていた大きなゴミ箱を、彼は黙って持ってくれた。
片手をズボンのポケットに突っ込んで、先を歩く彼の後を追いかける。
さっきまで親しげに話してたことなんて何にもなかったフリをして、分かれて教室に入った。
席につくと、すぐに担任の話が始まる。
ざわついた教室で、私の席から左前方に座る快斗の右肩を眺めた。

 彼から私に向けられている好意は、本物なんだろう。
スティックなんかなくたって、普通に人は恋が出来る。
私は事故でそうさせられちゃったけど、彼の思いはそうじゃない。
もしあんなことがなかったら、私は坂下くんのことを好きになったりしてた? 
多分、そうはならなかった。
憧れはあっても、ファンとか推しではあっても、「好き」にはなってなかったと思う。
右前方に座る坂下くんの、真っ直ぐ伸びた背に視線を移す。

 彼のことは、いいなーとは思ってた。
だけどそれは一般的に言う「かっこいい」であって、芸能人とかアイドルへ向けての好意に近かった。
絶対に手が届かないからこそ、他の女の子と一緒になってきゃあきゃあ騒げた。
それが恋の原型のようなものであったとしても、その種子が芽吹くことは決してなかった。
それだけははっきりと分かる。

 じゃあもしスティックが刺さってなくて、天使と遭遇しないまま今の状態を迎えていたら、私は快斗と付き合った? 
彼の好意はありがたく思うけど、同じ気持ちで応えられる自信はない。
付き合っていくうちに、好きになっていくのかな。
そうなる可能性、またはそうなってくれる可能性込みで、告白したり付き合い始めるってこと? 
みんなどうやって、好きな人を作ってんだろ。

「じゃあ解散。また明日―」

 先生のその言葉を合図に、縛りを解かれた教室はどっと騒がしくなった。
坂下くんはいつものように優等生軍団である館山さんたちと先生のところへ行って、一緒になんか話してる。
快斗は男友達数人とさっそくゲームを始めていた。

 魔法がかかっていてもいなくても、快斗のところへなら今すぐにでも入っていける。
何してんのー、なんのゲームーって。
だけど、坂下くんのところへは?

「無理無理、絶対無理」

 どう考えたって、自分の居場所はあそこにない。
どうやったら彼の横に入り込める? 
話しかけられる? 
「古文の宿題って、何ページだったっけ」とか言って、白々しいセリフで「なんだコイツ」って目で見られながら、それでも話しかけに行く勇気と努力と苦労と疲労感と恥さらしを引き換えにしても、報われる保証がないのなら……。

 館山さんのつやつやした黒髪が、細い肩の上をサラリと流れた。
あぁ。やっぱり無理。
どう考えたって無理。
あんな美人でかわいい子といつも一緒にいる人の隣なんて、絶対無理。
勝ち目皆無。
私が混ざりに行ったって、完璧な引き立て役にしかならない。
それ以上の存在になれないと最初から分かっていて、あえてそんなとこに自分から飛び込む必要なくない?

 坂下くんだって、人生で二度とありえないような事件を一緒に経験したからこそ、きっと私に話しかけてきたんであって、そうじゃなかったら一生関わることもなかっただろう。

「よし。決めた」

 そうだ。
うじうじ悩むなんて、私らしくなかった。
もう答えはとっくにあったのに、それに気づかなかっただけ。
両方、諦める。
全部、やめる。
坂下くんへの思いは、自分の中で消化して、消し去ればいいんだ。
そのために好きでもない他の人で埋め合わせしようとか忘れようってのも、間違ってる気がする。
自分の本当の気持ちに正直になるなら、坂下くんは諦める。
最初からなかった。
快斗のことはまだ始まってもないし、好きかと聞かれたら正直「好き」ではないから、もし告ってきたらお断りする。
てか、せっかく出来た友達との友好関係を壊したくないから、告られない程度の距離を確実に保って「友達」を継続する。
コレだ。
完璧。

 自分の行動方針が決まったら、スッキリした。
これでもう悩みは解決、問題なし。
久しぶりに晴れやかな気分で、放課後の席を立つ。
帰ろうと思った瞬間、館山さんと目が合った。

「あ、あのね、持田さん。ちょっとお願いがあるんだけど……」

 クラスイチの美少女にお願いされて、誰が断れるっていうんだろう。
彼女から声をかけてくるなんて珍しいと思ったけど、私は素直に応えた。

「なに? どうしたの? 館山さんのお願いなら、なんでも聞いちゃう」
「本当? あ、あのね……」

 彼女の白い頬が、鮮やかなピンク色に染まる。
黒く潤んだ瞳で見つめられると、私だってメロメロになっちゃうのは、もう仕方ないでしょ。

「い、一緒に、カラオケ行ってくれるかな!」
「カラオケ? 今から二人で?」
「二人が無理なら、坂下くんと三人でなんてどう?」

 いや、それはもっと無理ですけど?

「あ、じゃあ私、坂下くん呼んでくるね」

 ピュアな笑顔でそう言われて、断る隙もなかった。
いや、何でも聞くって言ったけど、さすがにそれはちょっと無理。

「うわ。館山さん、本当に持田さん誘ったの?」

 久しぶりに目があった。
直接声を聞くのも久しぶり。
ほんの数日前によく分からない別れ方をして以来、たまに送られて来ていたメッセージもスタンプだけの挨拶も、一切のやりとりはなくなってしまった。
それなのにこんな形で顔を合わすなんて、なんだか気まずい。

「そりゃ、俺と館山さんの二人よりかはマシだけど……」
「だから、誰がいいかなって」
「だったら、古山さんか橋本たちでよくない?」

 そうだよ。
そのメンバーだったら、いつもの優等生仲良し軍団だし。
私が入る必要ないよね。

「あ。じゃあそっちで行ってもらうってことで。私はまた……」
「ダメ!」

 彼女の細い手が、ぎゅっと私の腕にしがみついた。

「持田さんが一緒じゃなきゃ、ダメなの!」
「え? なんで?」
「持田さんお願い!」
「あ……。はい。分かりました」

 そんな必死なお願い、断れるワケがない。
坂下くんも困った顔してるけど、これは他でもない館山さんのお願いなんだから、仕方がない。

「あのさ、カラオケはまた今度にしない? 私、いまちょっと喉の調子がおかしくて、風邪気味なんだよね。どっかでお茶くらいなら出来ると思うけど」

 ウソだけど。
純粋で疑うことを知らない館山さんは、私の言葉を素直に受けいれて考え始めた。

「じゃあ、ドーナツ屋さんでいい? 私、時々あそこになら行くの。あんまり長居はしないようにするから」
「うん。そっちにしようか」

 その方が助かる。
坂下くんをチラリと見上げたら、彼も同意したようにうなずいた。

「ありがとう。カラオケは、また今度にしよう」
「う、うん」

 館山さんだけが、すごく残念そうだ。
駅前のそのドーナツ屋さんなら、近くにある駐輪場が空いてることが多いんだって。
一時間100円の、ここら辺じゃ一番安いやつなんだって。

 自転車を取ってくるという館山さんを、坂下くんと二人校門の前で待つ。
どうしようとかやだなーとか、帰りたいとか思いつつ、彼の隣に居られることをどこかで喜んでいる自分がいる。
館山さんありがとう。
ズルいよね。
でも彼女のおかげで話せてうれしかったし、またこうして一緒に帰るきっかけが出来て、ちょっぴり感謝してる。

「お待たせ」

 自転車を押してきた彼女は、息を切らせながらスッと私の隣に並んだ。
急いで戻って来たのかな。
だけど彼女が並ぶべきなのは、坂下くんの隣じゃない? 
チラリと彼の様子が気になってその横顔をうかがってみたけど、全く気にしてないみたい。
二人は歩き出す。
おかげで私は、この二人に挟まれることになってしまった。
なにこの状況。
どうして私が真ん中? 
ここは坂下くんの役目でしょ。
両手に花的な? 
あ、片方は花でもないってこと? 

 優等生真面目コンビニ挟まれた私は、歩いて15分足らずの道のりを、二年になって最初の期末試験の話題でやり過ごした。

 三人それぞれがドーナツ一つと飲み物一杯を頼んで、テーブルにつく。
館山さんと坂下くんを並べてソファー席に座らせ、私は向かいの丸椅子に座った。
隣のテーブルに座る人と肘がぶつかりそうなほど無理矢理座席を詰め込んだ店内からは、カラフルなドーナツの甘い匂いがした。

「私に何か、話したいことがあったんでしょ」

 分厚い陶器で出来た大きなマグカップからホットミルクティーを一口飲んだ後で、館山さんに微笑む。
そうじゃなきゃ、こんな特殊な状況はありえない。

「う、うん……。よく分かったね……」

 彼女は小さく丸まったまま、隣に座る坂下くんをチラリと見上げた。
彼は狭い座席で大きな体を持て余すように縮こまったまま、彼女に向かって大丈夫だよと、小さく「うん」とうなずいた。

「わ、私ね、カラオケって行ったことないの。だから、行ってみたいなって思って。じゃあ誰を誘おうかなって、なって……」

 坂下くんは居心地の悪そうに体をねじると、テーブルの隅っこに片肘を突き顎を乗せた。

「遠山たちがさ、カラオケに行こうって話をしてたんだって。そこに館山さんが偶然居合わせて、自分も行きたいって言ったんだけど、『お前行ったことあんのか、ないなら来んなよ』って言われたらしくってさ。それで誰かと一回行った後だったら、遠山も誘えるかもーって、なったんだって」
「ちょ、坂下くん。しゃべりすぎ!」

 彼女がこんなに焦っておどおどする姿なんて、初めて見たかも。

「あんまり色々相談してたこと、持田さんに話さないで。恥ずかしいから」
「別に持田さんなら大丈夫だよ。そんなことペラペラしゃべるような奴じゃないし」

 彼のその適当に発言した一言だけで、彼女から全幅の信頼を受ける私も辛いんですけど。

「分かった。今日のことは、他の人には話さない」
「や、約束?」
「うん。絶対。約束」

 そっか。
二人で事前に話し合ってたんだ。
私よりたくさん彼と話せるのは、やっぱり私なんかじゃない。
小指を差し出したら、私の半分くらいの太さしかない彼女の小指が絡みついた。
これで成立。
私は今日のことは、誰にも話さない。
彼女はいじらしいほど丁寧に言葉を選びながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あ、あのね……。私、遠山くんから嫌われてて。それで、持田さん最近仲いいから、どうしたらそんなに仲良くなれるのかなって……」

 あぁ。彼女は心配してるんだ。
そして疑ってる。
私と快斗の仲を。
館山さんのことはもちろん全然嫌いじゃない。
嫌いじゃないけど、いま彼女がしようとしている面倒くさいことは、大嫌い。

「私、快斗とは仲のいい友達だと思ってるけど、好きではないし付き合う気もないよ。てか、告白とかもされてないし。もしそんなことされても、付き合うとかはないと思う」

 彼と遊ぶのは楽しい。
友達になってから、よくしゃべるようになった。
そういえばカラオケとかゲーセンにも何度か行ったな。
絢奈たちと一緒に何人かで。
そのことを気にしてるんだ。

「ゲ、ゲームセンターとかも、あんまり行ったことなくて。それで、同じぬいぐるみ付けてるのが、いいなって。それ、どこで取ったの?」
「あぁ、コレ?」

 みんなで「もふかわ」のキーホルダーをUFOキャッチャーで取って、記念につけたんだっけ。
ゲットしたキャラは人によってそれぞれだったけど。
確かに快斗と私は同じキャラをぶら下げてた。

「館山さん、もふかわのこのキャラ好きだったんだ。欲しいんだったらあげるよ。快斗とお揃いになるし」

 私はそこにいくつかぶら下がった、アニメキャラとかお星さまなんかのキーホルダーのうち、まだ真新しい淡い栗色のラッコのキャラを取り外すと、彼女へ向かって放り投げるようにして置いた。
正直、このキャラに未練はない。
そんなことより、この断罪尋問を早く終わらせたい。
くだらない。
彼女から変な誤解を受けていることもそうだけど、坂下くんから勘違いされたままなのも嫌だ。
そして、もう気にしないって決めたのに、彼の反応をもの凄く気にしている自分も嫌い。

「ホントに館山さんにあげちゃっていいの? 遠山かわいそ」
「これは私が自分で取ったやつだから。快斗は関係ないよ」

 彼女にだって嫌われたくない。
快斗と館山さんのどっちを取るかって? 
そんなの館山さん一択に決まっている。

「本当にくれるの?」
「あげる。私はいらない」

 彼女は、ラッコをモチーフとし片手に剣を勇ましく持つ、手の平サイズのぬいぐるみをとても大切そうに握りしめた。

「ありがとう」

 それを額に押し当て、ぎゅっと目を閉じる。

「だけどこれをもらっても、私は鞄に付けられないから。そう言ってくれて、凄くうれしいし、本当はめちゃくちゃ欲しいけど。きっとこれは、もらっちゃダメなやつだから、返すね。持田さんが持ってるのが、一番いいと思うし」

 彼女自身があえて避けているのか、それとも気づいていないのか、決して言おうとしない正体不明の何かを一瞬口に出そうとしたけど、憶測の域を出ないと気づいてその二文字を飲み込む。
テーブルの上にそっと返された、出戻ってきたラッコ先生のぬいぐるみキーホルダーのチェーンを、自分の指に絡める。

「なんで快斗が館山さんを嫌ってるのか知らないけど、アイツそんなに嫌いじゃないと思うよ。本当は。館山さんのこと」
「それは知ってる」

 彼女の黒く澄んだ穏やかな目が、うっすらと微笑んだ。
この子の目に彼は、どんな風に映っているのだろう。

「化学のレポートをね、一緒に書こうって言った日、覚えてる? 追い返されちゃった私に、持田さんが謝るように言ってくれたんでしょ。それでね、自転車置き場で一緒になって、すぐに謝ってくれたの。さっきは悪かったって」

 彼女は自分のポケットから、河原で無くしたというボロボロのキーホルダーを取りだした。
地域清掃活動で私が見つけた、赤い自転車のキーホルダーだ。

「これはね、快斗からもらったの。小学5年生の時の誕生日プレゼント。選んだのは快斗のお母さんだったかもしれないけど、渡してくれたのは快斗だったから」

 それを握りしめた手に、そっと頬ずりする彼女の恋は、本物の恋だ。

「だからね。その……。もし、快斗のことで困ったことがあったら……。わ、私が言うのも変だけど、相談にのってあげられるかなって……。よく知ってるし。快斗が持田さんと一緒にいて幸せなんだったら、私はそれで……」

 快斗の応援するの? 
この状況で? 
だから私を呼んだの?

「とりあえず何にも困ってないよ。ただの友達だから」

 館山さんがうらやましい。
私も出来ることなら、こんな恋がしたかった。

「ご、ゴメンなさい! 気を悪くさせるつもりはなかったの。あれ? なんでこんな話になった? わ、私は、一緒にカラオケに行ってみたいって話をしたかったのに……。やだ。逆になんか、私の方がやってること気持ち悪いよね。やだ。私なにやってんだろ」
「気持ち悪いとか、そんなこと思ってないよ。カラオケもゲーセンも、落ち着いたら一緒に行こう。喉の調子がよくなったら、絶対行こうね」
「あ……。そっか。そういう話だったよね。ゴメンね。ありがとう」

 彼女が本当にもじもじと申し訳なさそうに恥じているから、私だって許さざるをえない。
可愛いは正義だ。
これで彼女と仲良くなれるのなら、これはこれでよかったのかもしれない。

「館山さんは、快斗のこと好きなんだ」
「う、うん……」
「そっか。分かった。だったらいいよ」
「内緒ね」
「もちろん」

 本気の恋をする女の子に、偽物の私が敵うわけないじゃない。
真っ赤な顔でうつむく彼女の、本当の気持ちが知れてよかった。
それなら私も応援出来る。

「持田さんは、カラオケでどんな曲を歌うの?」
「あー。そうだね。できるだけみんなで盛り上がれる曲がいいかなーって思ってるから……」

 いいなぁ。恋する女の子。
私も一度でいいから、ちゃんとした恋愛してみたいな。
どうすればこんなに綺麗に可愛くなれるんだろう。
鉄壁の真面目優等生が、学校帰りに不要な寄り道なんてしたくないと言っていた女の子が、好きな人とカラオケ行きたくて一生懸命になってる。

 動画サイトで人気曲を検索し、その中から彼女の好みも考慮して、歌えそうな曲を一緒に選ぶ。
男性ボーカルでも女性ボーカルでも、練習してて歌いにくかったらキーは変えられるよとか話してたら、ずっと黙って聞いていた坂下くんが不意に口を挟んだ。

「なんかこのまま、本当にカラオケ行きたい気分になってくるな」
「えー! そんなの無理だよ。こんな大変だなんて知らなかった。いきなりなんて絶対無理!」

 館山さんの真面目さは、天然の真面目さだった。
私は彼女の純真につけ込んで、自分のピンチまで乗り切ろうとしている。

「そうだよ。ちゃんと練習してからじゃないと!」
「無理無理無理!」
「あぁ……、はいはい。じゃあテスト終わってからだね」
「テスト終わって、練習すんでからだよね。ね、持田さん!」
「うん」

 館山さんのピュアな意気込みの前に、自分が恥ずかしくなる。
こんなイイ子と比べられたら、私なんか霞んで当たり前だ。
いま坂下くんはどんな思いで、私と館山さんを見ているんだろう。
カラオケ、行ってみたいけど、この人の前で自分が歌うなんて想像出来ない。

「坂下くんはさ、どんな曲歌うの?」
「……。俺?」
 多分一生聴くことはないんだろうな。
「別に。歌いたいもん歌うよ」
「そのうち行けたらいいね」

 思ってもみない言葉が、サラリと自分の口から出た。
食べ終わったトレイを返却口に戻し、「テスト頑張ろうね」とか言って、自転車を押す彼女と別れる。
夕暮れの、沈む日が延び始めた街を、坂下くんとなんとなく並んで歩く。
こやって一緒に帰るのも久しぶり。
あぁ、久しぶりっていう表現の方が間違ってるのか。
一緒に帰れてラッキーとか?

 ごちゃごちゃした繁華街の駅までの短い距離を、ゆっくりゆっくり歩く。
この時間を出来るだけ長引かせたくて、本当は帰りたくなくて。
何にも話さずに居てくれるのは、お互いに話すことがないからじゃなくて、話したいけど話せることがないから。
私がワザとゆっくり歩いていることを彼は気づいてるはずなのに、こんな速さに合わせてくれているのは、さっさと行ってしまわないのは、彼も私と同じ気持ちだからなんだと、信じていたい。

「あ、ちょっと待って」

 その彼が立ち止まった。
スマホを取り出し、何かをしている。
私はその姿をじっと眺めながら、この時間が永遠に続けばいいと思ってる。
帰ろうとしない彼のことを、自分と同じ気持ちだと、勝手に都合よく解釈してる。
全く表情の動かない彼に、自分の願望を重ねている。
ねぇ。もし今私がここで「好き」って言ったら、どうする? 

「……。私も、あんな風な本物の恋がしたかったな」
「本物って?」
「館山さんみたいなヤツ」
「そういうのに、本物とか偽物とかあったんだ」
「いいなって思わなかった?」
「どうだろ」

 彼は操作していた手を止め、スマホをポケットに突っ込む。
繁華街沿いに通る裏路地で、ぽっかり空いた秘密基地みたいな小さな空き地だ。
取って付けたような商店街の立て看板と、「ゴミを捨てるな」の文字。
なんでこの場所だけ誰からも忘れさられたように、取り残されているんだろう。
この想いは簡単に捨てられるようなゴミなんかじゃない。
ここでこの人と一緒にいたことは、ずっと私に残り続けるだろう。
キュッと固く閉じていた彼の唇が動いた。

「じゃあ早く、美羽音も好きな人見つけないとな」
「なにそれ」
「だって、『本物』の恋がしたいんだろ?」

 たった今、この瞬間に気づいたことがある。
彼は私と話す時、自分の表情を意図して殺している。
私に表情を悟られないように、必死で抑えている。
だからこんなにも、私は彼のことを見失っていたんだ。

「俺は人の気持ちに、本物とか偽物があるなんてのは分からないけど、美羽音がそう思うんなら、そうだってことなんだろ。お前がこれから好きになるのが、どんなのだか知らないけど、それがしたいってんなら、ちゃんと好きな人作って付き合えばいいんじゃね」
「好きな人作るって? 好きな人って、作りだせるものなの?」
「いないんだろ? 今はそういう人。だからそんなこと、言ってんだろうし」

 私の好きな人は坂下くんだ。
すぐ目の前にいるのに。
それを否定されたら、私には本当に何も出来ない。
誰かを好きになることが、こんなにも痛みを伴うものだと知らなかった。

「俺のことは、ホンモノじゃなくて悪かったな。ま、でも冷静になって考えてみれば、当たり前だよな。これまで、ほとんどしゃべったこともなかったんだし。なんだっけ、唯一例外的なやつ。あぁ、一目惚れっての? だけど、そんなんでもないんだろ」
「だって、一目惚れとかじゃないし!」
「うん。だから、早くちゃんとした好きな人を見つけた方がいいよ。美羽音がそうするって言うんなら、俺もそうする」
「そうするって……。なにそれ。じゃあ私が、好きな人なんか作らないって言ったら?」
「それで『じゃあやめます』ってやめられるのが、お前のいう『好きのホンモノ』ってヤツなの?」
「違う。それは違う……よね」
「だろ?」

 この人とようやく目が合った。
私なんかより、ずっとずっと穏やかにきっちりと笑みを浮かべて、しっかりとした意志を持って目を細める。

「だからお互いに、頑張ろうな」

 こんな爽やか過ぎる笑顔を、完璧に作れる人なんて知らない。
「あはは」と笑って歩き出す彼は、予定されていたプログラムで動く立体3D映像みたいだ。
さっきまで一生懸命、何を話すか必死で考えて話していた雑談が、こんなにも白々しくなるなんて。
今の彼の方が、全部嘘か幻みたいだ。
にこにこ笑って「また明日」なんて手を振って、ホント馬鹿みたい。
彼の姿が改札の向こうに見えなくなって、私はようやく自分が息をしていなかったことを思い出した。

 もう二度とこんなことしない。
一生しない。
死んでもしない。
ボロボロ涙が止まらなくて、2分遅れでやって来た夕方の電車は信じられないくらいのぎゅうぎゅうで、どこにも乗れるところなんてなくて、私の入り込める余地はこんなところにもないのだと、走り去る電車を見送りながら余計に泣いた。




第9章


 二年生初めての中間試験が終わって、季節は少しだけ進んだ。
高校生活3年間の中で、二年という学年が一番自由で何もない時だと思う。
新一年生の初々しい可愛らしさと、受験モードが色濃くなってくる三年生の間に挟まれて、ここでも存在が浮いてしまっているような気がする。
昼休みのスマホに、通知が入った。

 快斗からだ。
私が好きだと言った、もふかわのスタンプ。
ぐったりと溶けるように地面に突っ伏して、熊のようなハムスターのようなキャラが「ひま~」と伸びている。
可愛い体つきに似合わない、ムッと怒ったような表情に、ついカワイイと吹き出してしまう。

『暇じゃないでしょ。こっちは忙しい』

 本当は暇だけど。
絢奈とスマホで共有してる音楽を聴きながら、そんな返信を打つ。
快斗だって、わいわい騒ぐ男子の中にいて、がはがは笑ってるくせに。
返事を打ったら、すぐにまた変なスタンプを送ってきた。
こうなるともう切りがないから、既読だけつけて放置しておく。

「ファインプラスの髙畑くんがさ~」

 絢奈は昨日デビューしたばかりの新人アイドルグループに夢中で、すぐ側にいる男子には目もくれない。
少し前まで私もそうだったはずなのに、どうしてこうなったんだろ。

 絢奈の話を聞きながら、気づけば目は無意識に坂下くんを探していた。
教室の隅で彼は相変わらず優等生グループの中にいて、相変わらずかわいい館山さんと教科書片手に何かしゃべってる。
スタンプだってメッセージだって、送ろうと思えばすぐ送れるのに。既読はつけてくれるだろうし、何らかの反応を返してくれるのは分かってるけど、私にはそれすら難しい。
なんでこんなことも出来ない子になっちゃったんだろ。

『今からそっち行っていい?』

 快斗から送られてきたメッセージに、思わずスマホから顔を上げ振り返った。
ざわついた教室を飛び越え、彼の視線は真っ直ぐに私を貫いている。
どれだけこちらが負けないように見返しても、決して彼は目を離そうとはしなかった。
もう限界だ。
彼のことを、このままにはしておけない。

 私の方から目を反らしてしまったのは、彼の気持ちを受け止めきれなかったから。
快斗はすぐにやって来て、空いていた椅子をガタリと動かし、そこへ座った。

「さっきから何の動画見てんの?」
「え? 新人アイドルだよ」

 いきなり割り込んで来た快斗を、絢奈は当然のように受け入れる。

「またアイドルかよ。絢奈は誰推しなの?」

 私の小さなスマホ画面を、三人でぎゅっとのぞき込む。

「私は髙畑くん」
「この後ろの人?」
「そう」
「美羽音は?」

 快斗の指が、私のスマホの縁を撫でる。
彼の短く切った丸い爪は、私の知るどんな爪よりも丸っこかった。

「美羽音は誰が好きなの?」

 小さな画面の四角い枠の中で踊る彼らには、一人一人にメンバーカラーがありキャッチフレーズがあり、個性も果たすべき役割も決まっているのに、私には何一つ決まったことなんてない。

「箱押しだから」
「はは。便利だよな、その言葉」

 彼は自分のスマホを取り出すと、同じ動画投稿サイトを開き、検索をかけた。
私たちが聴いていたのと同じ曲を探し出すと、それを再生し始める。

「俺も聴く」

 彼の閉じられた目を縁取るまつげはバサバサで、その乱れ具合は髪と同じだなと思った。
爪と同じように丸っこい鼻も、柔らかな顎のラインも、全て彼の言動そのままの、やんちゃな感じに見えた。

「なんだよ。こっちばっか見んな」
「見てないし」

 快斗は机に乗せた腕に顎を置き、下から見上げてくる。

「見てたよ。えっち」
「は?」
「俺も見ちゃお」

 彼の人差し指が私の小指の爪の上に乗り、それをぎゅっと下に押しつけたかと思うと、すぐに離れた。

「美羽音は、なに照れてんだよ」
「照れてないし!」
「なー絢奈ぁ。美羽音がウザいんだけど。また今度みんなでゲーセン行こうぜ」
「いいよー」

 絢奈が勝手に返事をして、つい先日やったばかりのUFOキャッチャーの話で盛り上がっている。

「俺、今度はウサギが欲しい。ピンクのやつ」
「アレもかわいいよね」
「欲しいよな」
「分かるー」

 絢奈はどうして、こんなに簡単に誰とでも仲良くなれるんだろう。
なんで普通に話が出来るんだろう。
あぁ、そうか。
分かった。
絢奈みたいにコミュ力高いいい子じゃないと、私みたいな拗らせたのと友達でなんかいられないからか。
だから絢奈は、私と一緒に居てくれるんだ。
ふと快斗の手が、机の横にぶら下げていた私の鞄に触れた。

「ねぇ。なんでラッコ先生のぬいぐるみ外したの? なくした?」
「なくしてない。ちょっと外れちゃったから、家に置いてある」

 館山さんにあんなことを言われた後で、そのままぶら下げておけるわけがない。
いま大人気の萌えキャラだ。
クラスで何人もが同じシリーズのキャラを持ってるとはいえ、快斗と全く同じものを、そのままになんてしておけない。

「なんで外すんだよ。せっかくお揃いだったのに。なくしたんならさ、また取りにいこうぜ」
「だから、なくしてないって」
「じゃあ付けてきてよ」

 私のサブバックにつけられた、キラキラビーズの星をジャラリと撫でる。

「ここに居たのに」

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
いつもは短すぎる昼休みを、こんなに長く感じたことはない。

「覚えてたらね」

 てか、覚えておく気ないけど。
快斗はそれを見透かしたかのように、フッと笑った。

「はいはい。覚えてたら……ね」

 移動教室で廊下を歩く時も、体育の授業の空き時間にも、気づけば彼は私と絢奈の近くにいて、どうでもいいことで絡んできては、冗談ばかりを口にしていた。
男の子にしては少し痩せた細く華奢な体は、どれだけ食べても太らないんだって。
生意気な妹が中学生にいて、ゲームが好きで、甘い白く濁った桃のジュースが好き。
考え込むとシャーペンの頭をガジガジ噛んで、ペンを持つ右手の小指が若干浮かぶ。
チョコよりもバニラ派だけど、チョコミントは平気とか、くだらない知識ばかりが増えてゆく。

「なぁ、コレ見て!」

 ある日の昼休み。
彼は右手の人差し指にチェーンの輪っかを引っかけ、額に傷のある、うす茶色のいかつくてかわいいラッコ先生のぬいぐるみキーホルダーを、ブンブン振り回しながらやって来た。
快斗の口からは、キャンディの棒まではみ出している。

「ようやくついに、ラッコ先生ゲットした」

 当たり前のように私のサブバックの前にしゃがみ込むと、数珠つなぎになっている細かなつぶつぶのチェーンを外し、私の鞄につける。

「やるよ。美羽音のために取ってきたし」
「え。これ快斗が自分で取ってきたやつでしょ? 自分のにつけときなよ」
「俺は持ってるでしょ。だって、いつまでたっても美羽音のラッコ先生、帰ってこないんだもん。やっぱどっかでなくしたんでしょ?」

 いつの話をしてるんだろう。
もう2週間は前だ。
そんなこと、本気ですっかり忘れていた。

「いや、家にいるから」
「ここに戻すために、俺がどんだけ苦労したのか知ってんの?」

 そういう快斗の口からは、彼が話す度に上下に揺れるキャンディの棒がはみ出している。
彼の手の平サイズには満たないけれど、私の手の平とならほぼ変わらない大きさのラッコ先生が、再び凜々しい顔でそこにぶら下がった。

「わざわざ取り直してきたの?」

 キャンディの棒をくわえたまま、彼は機嫌良くニッと笑った。

「いいでしょ?」

 いいけど、よくない。

「困るから」
「なんで? 気にせずもらっときなよ」

 ラッコ先生を付け直して満足したらしい彼は、ヒラヒラと手を振ってすぐに友達のところへ戻って行く。
絢奈と二人、わずかに左の肩が下がった彼の白いシャツを見送る。

「……。美羽音はさ、快斗のことどう思ってんの?」
「どうって?」
「いや……」

 絢奈は自分のスマホを取り出すと、ゆっくりときれいなかたちをした耳にイヤホンを差し直した。

「私もそのラッコ先生、好きだから」

 絢奈のうっすらと紅くリップを塗られた綺麗な唇が、そんな形に動くのが見えた。
手の平サイズの頼もしいラッコ先生は、剣を片手にマントを翻し、まさにこれから戦いに挑もうとしている。

「私も好きだよ。かっこいいし」
「そうだよね。私も今度、ゲーセンに取りに行ってこようかな」

 かき上げられた絢奈の柔らかな髪からは、とてもいいシャンプーの匂いがした。
私も自分の耳にイヤホンを差す。
絢奈って、もふかわ好きだったっけ? 
微かに鼻歌を刻みながら、彼女は私からの、これ以上の余計な推測を拒むように目を閉じる。
絢奈が? 
まさか。
ラッコ先生は何も言わず、ただ鞄の縁で揺れている。
私も強くならなきゃ。
戦い続ける彼らのように。

 スマホを立ち上げ、コミュニケーションアプリを開く。
快斗のアイコンを探し出すと、メッセージを打った。

『今日の放課後、時間ある?』

 それには予想通りすぐに既読がつき、返事が来る。

『あるよ』
『じゃあちょっと話そ』

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
私は彼の示してくれた勇気に、憧れと尊敬と誠意を持って、返そうと決めた。

 待ち合わせ場所をどこにしようか考えて、普通に靴箱のある玄関から校門までの、記念樹の前にすることにした。
これを特別なことじゃなんかじゃなくて、何でもないことのようにしたかったから。

 夏が始まろうとする放課後、時間は決めていなかったけど、約束の場所には彼の方が先に来ていた。
少し暑くなってきた明るい午後の日が、彼の伸びすぎている黒髪を照らす。
つま先で立ったりかかとを落としたりしながら、リズムよく上下に揺れている姿は、ちょっとかっこいいなと思った。

「早いね。いつ教室抜け出したのか、気づかなかった」

 彼はいつものように、ニッとイタズラな笑みを浮かべる。

「なに? 美羽音の方から誘ってくるなんて、珍しいよな」
「そんなことないよ。いつもみたいに普通に、ちょっと話したいことがあっただけ」
「話って?」

 鞄にぶら下がったラッコ先生が、私に勇気をくれる。
嘘が嫌いだというのなら、私は誰よりも一番に、自分に嘘をついてはいけないと思う。
快斗のくれたぬいぐるみを外すと、彼の前に突き出した。

「あのね快斗。私、好きな人ができたの。だからこれは受け取れない。返すね」

 この気持ちはウソであっても、自分に嘘はつけない。
好きになったことは認められなくても、好きだという気持ちは変わらない。
ラッコ先生を握りしめる自分の手が震えている。
本気でぶつかってくる正直な気持ちを本人に返すのは、こんなにも勇気がいる。

「それって俺のこと?」
「坂下くんのこと」

 野球部の打ったヒットの音が、カキーンとこだまする。
吹奏楽部の演奏が、遠くで力強い音楽を奏でる。

「……。なんだ。知ってたよそんなこと」

 快斗は呆れたように息を吐くと、ぼりぼりと頭を掻いた。
私は彼を真っ直ぐに見ることが出来ない。

「美羽音は自分で、知らなかったってこと?」
「そう。快斗から好きって言われて、ようやく気づいた」
「俺、そんなこと言ったっけ」
「……。あ、言ってなかったっけ?」

 ヤバい。
どうしよう。
めっちゃ恥ずかしい。
なんでそんな思い込みした? 
バカだ。
正真正銘のバカだ。
自意識過剰過ぎる。
そんなことあるわけないのに、どうしてそんな風に思っちゃったんだろう。

「ゴメン。さっきの忘れて。私かえ……」
「嘘。好きだよ」

 快斗の手が、逃げようとした私の手を掴んだ。
バサバサと伸び放題の黒い髪が近づく。
私は息を止め、目を閉じた。
頬に柔らかな唇が触れた瞬間、心臓が止まる。
目を開けると、彼は掴まれた手首の先にあるラッコ先生を見ていた。

「美羽音が坂下のこと好きなんだって気づいてから、我慢出来なくなった。まだ付き合ってないんだったら、俺のこと好きになってくれたらいいのにって思ってた」

 ラッコ先生が、私の手から快斗へ移る。
彼は先生の頭をやさしくぽんぽんと撫でた。

「だけどまぁ、バレてたんなら作戦失敗だな。これは返してもらって、自分の鞄に付けるよ」
「あ……。ありがとう……」
「はは。坂下のことで何かあったら、いつでも相談のるから」
「う、うん」
「じゃあな」

 彼はぬいぐるみを持ったまま、バイバイと手を振った。
ラッコ先生の握る剣も、それに合わせて左右に振れる。
あぁ、ごめんなさい。
そしてありがとう。
私は彼に、迷惑をかけっぱなしだった。
最後の最後まで、全部助けてもらってばかりだ。
ちゃんと普通にしてくれた。
本当の強さと優しさの前に、自分の情けない姿が痛ましい。

 やっぱり彼と恋愛した方が、幸せになれたのかな。
自分の「好き」よりも、相手からの「好き」に乗っかってた方が、簡単で楽に違いない。
もうこの先一生自分には、好きって言ってくれる人なんて、いないかもしれなかったのに。
どれだけ後悔がぐるぐる頭を回っても、それでもなお自分が本当に好きな人の前で、他の誰かを「好き」なフリなんて出来ない。
例えきっかけがあんなウソであっても、もう私にとってはウソじゃない。

 気合いを入れ直すため、自分の頬を思いきり叩いた。
バチンという音と同時に、ヒリヒリとした痛みが顔全体に響く。
大丈夫。
私も快斗も、明日から普通にやっていける。
私がそれを望んだし、彼もそうしたいと思っているからこそ、間違いを許してくれたんだから。

 一人寂しい家路につく。
叩いた頬の痛みはすぐに消えたけど、彼に触れられた唇の感触は、いつまでもそこに残っていた。




第10章


 大人気のキャラクターであるラッコ先生は、無事快斗の元へ戻った。
私はそれを見るたびに、ほっとしている。
彼としゃべることはほとんどなくなったし、毎晩のように送られてきていたスタンプも来なくなってしまったけど、彼の鞄に揺られる二つのラッコ先生を見るたびに、その可愛くも勇ましい姿に応援されている気がした。
これでよかった。
普通に戻った。
今まで通り。
友達と楽しそうに騒ぎながら放課後の教室を出て行く彼を、視界の隅で見送った。
私も家に帰ろう。

「絢奈ー。帰りにススバ寄って帰ろー。今月の新作フラペチーノがさー……」

 絢奈はどこにいるんだろう。
教室には見当たらない。
ふと廊下に顔を出すと、入り口を出てすぐの廊下の、いつもの位置に絢奈が立っていた。

「あれ。ここにいたんだ」

 隣に並ぶと、ぼんやりとうつむく彼女をのぞき込む。

「どうしたの?」
「ねぇ、聞いていい?」

 絢奈のサラサラとした髪が、肩からこぼれ落ちた。

「なんでラッコ先生、快斗に返したの」
「好きな人が出来たから」

 そういうと彼女は、凄くびっくりした顔を私に向けた。

「え? そうなの?」
「うん。そういえば、絢奈にはずっと言ってなかったよね」

 彼女のまん丸くなった茶色い目が、ゆっくりと元の大きさに戻ってゆく。

「そっか。坂下くんだ」
「あはは。やっぱりバレてたんだ」
「まぁね。いつ言ってくれるのかなって、ずっと思ってたよ」

 二人で並んで見下ろす窓からは、渡り廊下を挟んだ向こうの校舎が見える。
その窓にも、私たちと同じように誰かが並んでいた。

「快斗にお願いしてみたら?」
「なにを?」
「ラッコ先生欲しいって」
「私が?」
「うん」

 少しすねたように真っ赤になった絢奈は、いつもより綺麗でかわいいと思った。

「二つあるから、もらえるんじゃない?」
「……。なんかそれは、ちょっと悔しいからいい」

 口を尖らせた彼女は、ブツブツ独り言を言っている。
最初の一歩を踏み出す勇気があるかないかで、きっと世界は変わる。

「つーかさぁ。こないだから気になってたんだけど。アレ、なんかおかしくない? あのカラス、多分この学校にいついてるボスだよね。なんで宙に浮いてんの? 新手の飛び方?」
「え? どういうこと?」

 絢奈には見えないはずのスティックが、突然見えるようになった? 
慌てて窓から身を乗り出す。
カラスのボスは、真っ黒な巨体をまだ残されていたスティックの上に乗せ、鋭いくちばしで食いちぎろうとしているのか、執拗にそれに攻撃を繰り返していた。

「あのカラスの動き、やっぱおかしいよね?」
「ゴメン。私、先に帰る!」

 このままだと、カラスに落とされる! 
地面に落ちたあのスティックが、誰かに刺さったりしたら大変! 
人には簡単に手の届かない位置にあったからって、放置しておいたのもよくなかった。
何とかしなくちゃ! 

 階段を一気に駆け下りる。
北校舎と東校舎を結ぶ渡り廊下の、隙間のような場所にたどり着くと、私は持っていた鞄をそのまま地面に放り投げた。

「あれ。持田さん、どうしたの?」

 うわっ。
館山さんと坂下くんだ。
よりにもよって、何でこんな時に?

「鞄、落っことしたよ!」

 彼女が地面に放り投げたサブバックを拾おうとうつむいた。
その隙に、私は坂下くんに視線で合図を送る。
彼もスティックにいたずらしているカラスに気づいたようだ。

「あ、ありがとう。二人はもう帰るとこ?」
「うん。さっき職員室に寄って、体育祭の内容を聞いてきたの。競技の参加者を決めないといけないからって。まずは実行委員をクラスで選ばないといけないんだけど……」

 館山さんのおしゃべりは続いている。
ここは私が何とかするから、彼女を連れて先に帰ってって、合図を送りたいけど、どう送っていいのかが分からない。
こういう時って、どんなジェスチャーすればいい?

「なぁ。向こうでなんか騒いでない?」

 不意に坂下くんがそう言った。
確かにここからは見えない校舎の向こうから、バタバタというボスの羽音が聞こえてくる。

「向こうに何かいるのかな?」

 館山さんがそこに興味持ったら、意味ないじゃない! 
渡り廊下を離れ、奥へ行こうとする彼女の前に、私は立ち塞がった。

「あ、危ないから、早く帰った方がいいよ。ね、坂下くん!」
「別に危なくはないだろ」
「そうだよ、持田さん。むしろ危険なら、先生を呼んで来た方がいいんじゃない?」
「あ、じゃあ私がここで見張っておくから、館山さんと坂下くんは、先生を連れて来てくれる?」

 彼女はポカンと「この人、なにおかしなこと言ってんだろ?」って顔をした後で、彼を見上げた。

「危険そうなら、一旦俺が確認してこようか?」
「坂下くんがいいなら、それでもいいけど……」
「じゃあ私と館山さんが、職員室行ってきていい?」

 とにかく彼女をここから引き離さないと。
そう焦る私の気持ちを知ってか知らずか、彼はワザとのんびり動いているようにしか見えない。

「まぁ別にどっちでもいいけど。じゃあ……、見てくるね」

 ギャー! という、カラスの雄叫びが聞こえた。
鋭い羽音が見えない視界の奥で、バサバサと響く。

「あ。やっぱり気になるから、私も行く」

 坂下くんの背に続いて、彼女がぴょんと建物の陰に飛び込んだ。






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