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第三王子の婚約者~内戦状態の母国から生き延びるため隣国へ送られた王女はそこで出会った王子と恋をする~

仮面カップル


ミモザ、サンザシ、クロッカス……。

色とりどりの花に飾られた馬車に乗って、沿道に集まった大勢の人々に手を振っている。

屋根のないオープン馬車の上で、婚約者のマルゴー王国第三王子ノアは、私の手を取るとそこにキスをした。

「見てごらん、アデル。みんな君の美しさに夢中だ」

 私の淡い赤茶色に巻いた長い髪を、そっとかき上げる。

「まぁ、なにをおっしゃっているのかしら、ノアさまったら。私はこのパレードの主役である花たちの、添え物でしかありませんわ」

 私は彼の、淡いミルクティー色の髪に似合う、深いグレーの瞳を見つめた。

ノアはもう一度その指先にキスをする。

王国主催の春を祝うパレードに、私たち2人が目を合わせ微笑みあえば、人々から歓声と幸福なため息がもれた。

馬車の走る間は、常に笑顔で集まった人々に手を振り続けていなければならない。

長い式典を終えて、王宮へ向かう帰路のことだ。

会場から出発した馬車は賑やかな大通りを抜け、ぐるりと市内を一周する。

「アデル。大好きだよ。君がいてくれて僕は幸せだ」

「まぁ、私もですわ。ノアさま」

 空には春の温かな日差しが降り注ぎ、座って手を振り続けているだけでも、じんわりと汗が浮かんでくる。

ノアと私はそうしている合間にも、互いに身を寄せ合い、微笑み、見つめ合うことを繰り返す。

そんなことを1時間近く続け、ようやくパレードも終わりを迎えた。

町一つ分以上の大きさはある、王宮の敷地に入る。

高い塀に囲まれたその空間は、ここだけが別世界だ。

どこまでも広がる手入れの行き届いた庭園の中央に、国王とその王子たちの住む城があり、広大な敷地の至る所に建てられた館は、それぞれ貴族たちや役人たちの宿舎となっていた。

沢山の花に飾られた馬車は私たちを乗せたまま、王城の脇にある馬車寄せに停まる。

そこを降りてからも、婚約者であるノアと私は自然に手を繋いだ。

目を合わせニコリと微笑みを交わすと、そこに出迎えた人々にも笑顔で手を振り続ける。

城の中に入り、ようやく外との入り口がバタンと閉じた。

その瞬間、私たちはパッと互いの距離をとる。

「お疲れさまー」

「はーい、お疲れさまでしたぁ」

 無人の廊下で、ノアは襟元のボタンを外し、シャツでパタパタと胸元をあおいでいる。

私は肘まである手袋を外した。

「このままあの小さな緑の館に帰るんだろ?」

「そうね、今日の長丁場はさすがに疲れたわ」

 いくら春先とはいえ、ぽかぽか陽気の晴天の下、ずっと笑顔で手を振り続けるのは、精神的にも肉体的も負担が大きい。

城内に入る連絡階段の手前で、ノアは振り返った。

「少しだけなら、僕の部屋で休んでいく?」

「ううん。大丈夫よ。早く帰りたい」

「そ。じゃ、また」

「またね」

 ノアはこちらを振り返ることなく、城の中へ戻ってゆく。

私はそのまま別の馬車寄せまで行くと、待機していた小型の馬車に乗った。

「帰りましょ」

「かしこまりました」

 御者のムチが、閑散とした王宮庭園に響く。

動き始めた馬車の中で、私はようやく1人になれた。

ほっと一息つく。

 今から6年前の10歳の時、このマルゴー王国に嫁いで来た。

正確に言うと、今は婚約状態であり、正式な結婚にはまだ至っていない。

母国シェル王国が内戦状態に陥り、堕落した兄王を討つために立ち上がった父は、争乱を起こす前に一人娘である私を隣国のマルゴー王家へ預けた。

必ず勝って迎えに行くと言われ両親と別れたまま、今は全くの音信不通となってしまっている。

激しい戦闘状態は終焉を迎え、政情も落ち着いてきたという話しは耳にするものの、何の連絡もなく私はここに取り残されたまま、第三王子の婚約者という名目で庇護を受けている。

 ほぼ無人の広い広い王宮庭園を、小さな馬車はコトコトと走る。

そうやってこの国に厄介になることになった私は、王宮の中央に位置する巨大な城の中ではなく、その庭園の隅に建てられた小さな緑屋根の館を与えられ、そこでシェル王国からついて来た侍女たちとひっそりと暮らしていた。

手入れの行き届いた庭園を横断し終える。

「ただいま」

 館に帰った私は、すぐさまコルセットを緩めた。

「セリーヌ、帰ったわ。着替えを手伝ってもらえない?」

「はいはい。お勤めご苦労さまでした。アデルさま」

 白髪を後ろでお団子に束ね、何でもテキパキとこなすセリーヌは、私にとって乳母のような存在だ。

国を出されることになった私が、一人で惨めな思いをしないよう、なにかと気を配ってくれている。

「お仕事はいかがでしたか? 滞りなく?」

「いつも通りよ。ちゃんとみんなの前では、イチャイチャしてきたわ」

「それならよろしゅうございました。ノアさまとアデルさまは、名目上ご婚約状態とはいえ、いつ解消されてもおかしくない間柄。決して気を許してはいけませんよ」

「分かってるわ、セリーヌ」

 立ち居振る舞い、その言動の一つ一つ、どこをどう見られても文句の付け所のないよう、私はセリーヌに完璧に躾けられている。

「いずれアデルさまには、母国シェル王国から連絡がございます。きっと、必ず帰れます。それまでのご辛抱ですから。ですから、アデルさまは……」

 また始まった。

ここへ来た時から、毎日のように聞かされているセリーヌの夢物語だ。

確かにこの国へ移ってからのしばらくは、母やその使者たちからの連絡は頻繁にあった。

幼い私は手紙が届くのを毎日のように待ち焦がれ、母の字を見ては泣いていた。

だけどやがて、それも数日の日を置いて届くようになり、最後の連絡はもう3年以上も前のこと。

「いずれノアさまには、アデルさまではなく国内の有力貴族の中から、お妃にふさわしい方が選ばれます。ですので……」

「ねぇ、ずっと外だったから、喉が渇いたわ。なにかある?」

「では、レモネードを用意させましょう。よく冷えておりますよ」

 小さな庭を見渡すオープンデッキのテラスで、ようやく身も心も解放される。

日陰の涼しいソファに、飛び乗るようにして横になった。

隅々まで入念に手入れの行き届いた庭を眺めながら、冷たいレモネードをゴクリと飲み込む。

ノアとの関係は、私がここで生きていくための保険のようなもの。

母国との連絡が途絶えた今、そんなこと、言われなくたって分かってる。

「はぁ~。この瞬間が一番幸せなのよね……」

 涼しい風が時折ふわりと吹き寄せる。

疲れ切った私は、いつの間にかそこで眠っていた。




第1章


 翌日、王宮のアカデミーサロンに出席した私に、早速エミリーが声をかけてきた。

「新聞を見たわよ。相変わらずノアさまとラブラブね!」

「あら、ありがとう。エミリー」

 私は扇を広げ、にっこりと微笑む。

選ばれた貴族の子弟だけが集まる、学園という名の社交場のようなところだ。

「ノアさまもアデルも、本当にお似合いね。素敵だわぁ」

 彼女は波打つ茶色の髪を振り払い、どこか遠いところでも夢見るように、両手を組み天井を見上げた。

「そう言ってくれるのは、エミリーだけよ」

「あら、だって本当のことだもの」

「ありがとう」

 クスクスと笑い合う。

彼女は私に出来た、唯一気を許せる友人だ。

国力に差のあるシェル王国から豊かなマルゴー王国に庇護されている私が、貴族たちから陰で色々と揶揄されていることを、王宮に出入りする人間で知らない者はいない。

それでも婚約者である以上、対外的には仲良くあらねばならない。

「エミリーがそう言ってくれるのなら、私は安心だわ」

「あ。噂をすれば、ノアさまよ」

 白い衣装に淡いミルクティー色の髪。

真っ白い腰までの長さの、刺繍の入った上着に身を包んだ彼は、18歳になり王族としての特別教育が始まっている。

貴族たちの学園であるこのアカデミーに、もう出席することはほとんどなかった。

それでもたまには、こうして仲の良い友人たちに会うために、通りすがり程度に顔を見せている。

サロンとなっている広間を通る廊下から、彼はこちらに向かって手を振った。

私はそれに、同じようにヒラヒラと振り返す。

すぐに行ってしまった。

「まぁ、世間で言われるほど、仲は悪くないじゃない? 実際のところ」

「それはどうかしら。私にはよく分からないわ」

 心の底からため息をつきたいところを、ゴクリと飲み込む。

エミリーはアハハと笑った。

「ま、それでもノアはいい人よ。それで仲良くやっていけてるんなら、いいんじゃない?」

「仲良く……、ねぇ……」

 それはどうなんだか。

婚約者という肩書きは、この国に長く滞在するための言い訳にすぎない。

それはとても不確実な状態だった。

 私とエミリーの座るソファに、ノアの親友であるポールとシモンがやってくる。

ポールは金髪でひょろりと背が高く、シモンは青みのかかった黒髪に、黒い目をしている。

ポールはエミリーを見ると、意地悪な笑みを浮かべた。

「お、エミリー。こないだ配られた問題はどうだった? どうせお前は、また家庭教師にやらせて終わらせたんだろ

「ちょ、そんなこと、なんであんたに、からかわれないといけないのよ!」

「あはは。せっかく俺が教えてやるって言ったのに、それを無視するからだ」

「ポールに数学を教わるくらいなら、シモンかアデルに教えてもらった方がマシよ」

「え~。なんでだよぉー」

 立ち上がったエミリーの後を、ポールは追いかけてゆく。

エミリーの顔は真っ赤だ。

「とにかく、今度のダンスのお誘いは、他の人にしてちょうだい」

「なんだよ。誰にも誘われないと寂しいから、誘ってくれって最初に言ってきたのは、お前の方だったじゃないか」

 何だかんだと言い争いながらも、この二人はいつも仲がいい。

そんな姿を見ながら、シモンはぼんやりと宙を見つめる。

「あぁ、俺も今度のダンスの相手を確保しとかないとなぁ」

「今度って?」

 シモンはニコッと微笑んだ。

「オスカー卿の馬術競技会のあとの、パーティーだよ」

 あぁ。そういえば、招待状が来てたっけ。

「シモンと踊りたい女の子は、沢山いるんじゃない?」

 彼はそれには答えず、優雅な笑みを浮かべる。

「アデルはまた欠席? ま、たとえ行ったとしても、アデルは見てるだけなんだろ?」

「そうね。そうだと思う」

 他国から来た第三王子の婚約者である私は、公式行事に公務として参加することはあっても、私的な行事に参加することはほとんどない。

たとえ出席したとしても、来賓席に座っているだけだ。

ノアが行くと決めたら、私が同行するかどうかの打ち合わせの連絡が来て、女官長のセリーヌがどうするかを決める。

終了後のパーティーにも、ノアは出席するかもしれないけど、私は行けない。行かない。

「だって、私には場違いだから」

「本当にそう思ってる?」

「迷惑なだけでしょ。隣国の王族っていったって、名ばかりだもの。明日にはどうなっているのかも、分からない身だわ」

 シモンはソファの肘置きに腰掛け、そっと微笑む。

周囲から常に好奇の目で見られている私は、絶対的に謙虚であらねばならない。

気が張るだけのパーティーだなんて、出来ることなら回避したい。

「ノアも気にしてたよ。パーティーは楽しいけど、毎回ダンスの相手を探すのに苦労するんだって」

このアカデミーもさることながら、貴族たちが頻繁に開くパーティーは、社交の場でもあり、男女の出会いの場でもある。

そこでみんな、将来の結婚相手を探すのだ。

「あーぁ。さっさと結婚しちゃえば、俺もアデルみたいに苦労しなくていいのにな」

「結婚じゃなくて、婚約よ」

「あぁ、そうだったね」

「だけどシモンだって、お相手を選ぶには、慎重にならないといけないんじゃない?」

「ヘタに身分があるのは、大変だよね」

 シモンもポールもエミリーも、ここにいるほぼ同年代の子弟は、みな名門貴族の出身だ。

「シモンはダンスの約束をしてくれる人を、探さなくていいの?」

「そうだった。大変だ。こんなことしてらんないよ。じゃ、またね」

 口ではそういいながらも、のんびりと立ち去る彼の後ろ姿を見送る。

家族がいて、ちゃんとした後ろ盾があって、気楽に生きている人たちだ。

私とは別世界の話。

その日はきっと王宮中の人たちが出払って、お城の中も静かだろう。

一人でお茶でもしようかな。

そういえば庭のバラが、そろそろつぼみをつけ始めた頃ね……。

オスカー卿の馬術大会は、毎年開かれる盛大なものだけど、私は一度も顔をだしたことはない。

「アデル」

「ノア? こんなところにいて、大丈夫なの?」

 彼は、さっきまでシモンのいた位置に腰を下ろした。

「少し抜けてきたんだ。どうしてさっき手を振ったのに、こっちに来なかったのさ」

「は? だってそんなの、呼んでたなんて、分からないじゃない」

「オスカー卿の馬術大会の話しは聞いた?」

「聞きました。ノアは出席するんでしょ?」

「うん。まぁね。毎年シモンたちと競争してるからな。今のところずっと引き分けなんだ。あいつらなんか言ってた? その……、競馬の駆け引きとかレース展開とか……。作戦とかなにかさ」

「……。別になにも」

 てゆーか、そんなの聞いてたって教えないから。

競馬のそんな争いになんて、興味はない。

立ち上がろうとした私のスカートの裾を、ノアはキュッと引いた。

「僕は出席するけど、君はまた断るんだろ?」

「そうだと思う。セリーヌが今までに、一度も許可したことないもの」

 私がそう言うと、ノアはフンと鼻を鳴らした。

「そっか。ならよかった。ま、アデルが来ても、楽しいもんじゃないしね」

「そんなことを、わざわざ確認しに来たの?」

「まぁ、ちょっとね」

 ノアは随分と機嫌よくなったようで、数人の従者をしたがえ、足取り軽く城の奥へと消えてゆく。

小さな緑の館へ戻ると、さっそくセリーヌからその話しが出てきた。

「今年の、オスカー卿の馬術大会ですが……」

「えぇ、分かってるわよ。私は不参加なのよね。お断りの手紙を書くから、用意してちょうだい」

「その件でございますが、今年は参加していただきます」

「え! なんで?」

 手にした紅茶のカップを、思わず落としそうになる。

彼女は頭痛でもするかのように額を押さえ、深くため息をついた。

「大変不本意ではありますが、オスカー卿から特別なお声がけが来ております。今年は人気騎手をお呼びしていて、貴族の子弟だけではなく、一般客を入れる趣向とのことでございますので、ぜひアデルさまにもおいでいただきたいと……」

 第一王子であるステファーヌさまと、第二王子のフィルマンさまは、まだご結婚をされていない。

名目上の婚約とはいえ、王子妃と呼べる存在は、この国にはまだ私しかいないのだ。

しかもラブラブ演出をしているため、実情を知らない貴族以外の、世間からの評判は決して悪くはない。

隣国からやってきた悲劇のお姫さまを大切にするノアという存在と、その対象である私は、今回の大会にとって、丁度いい客寄せということなのだろう。

「ノアはそれを知っているの?」

「さぁ。分かりません。たとえご存じだとしても、そうでなくとも、会場でお会いすることはありませんので、ご安心ください」

「そう。……仕方ないわね。なら行ってもいいわ」

 ノアと一緒でないのなら、その後のパーティーに出席することもないだろう。

他の貴族たちとも接触は少ない。

「行って、すぐに帰ってくればいいのでしょう」

「そうです。レースをご観覧されるのは、最終3レースのみでございます」

「なら、楽ちんね」

「野外とはいえ、大勢の一般客の目もございます。立ち居振る舞いには、十分お気をつけくださいませ」

 その日はすぐにやってきた。

緑の草原がどこまでも広がる平野に、楕円形に柵が立てられ、その周囲を取り囲むように桟敷席が組まれている。

馬場を走る蹄の音と、声援を送る観客で大変な賑わいだ。

会場に到着すると、小さな階段を上り、木製のオープンテラスに設置された特別席へ向かう。

ドレスは深い緑色をした、質素で動きやすい野外用のものだ。

初夏を思わせる陽気の下、レースも終盤にさしかかり、満席の会場は盛り上がりに盛り上がっていた。

大歓声に足を止めると、馬場を振り返る。

スタートの合図と共に、8頭の馬が一斉に走り出した。

「ノアさまはどちらに?」

「もう出走済みにございます」

「そう」

 別に、ノアのことが気になっていたわけではないけど、応援することも許されないのね。

階段を上りきると、テラス中央の椅子に案内される。

その両サイドに座っていた、女性二人は、私の姿を見るなり立ち上がった。

スカートの裾を持ち上げ膝を折り、丁寧な挨拶を受ける。

この二人は知っている。

国内有力貴族の娘である、リディさまとコリンヌさまだ。

リディさまは黒目黒髪のキリリとした美女で、コリンヌさまは亜麻色の髪の大人しい方と聞いている。

「まぁ、アデルさまがお越しになるなんて、珍しいことね」

 そう言ってリディは笑った。

「いつも館の奥におられて、こういった社交の場には興味がおありにならないと思っていたのに」

 リディは真っ赤なドレスに身を包んでいた。

「ごきげんよう、アデルさま。今日はとてもよいお天気で、馬術大会を行うには、いい日和ですわね」

 コリンヌはわずかに青みのかかった、白のサラサラとした落ち着いたドレスだ。

いつもおっとりと穏やかに話す。

リディは扇を広げると、フンと鼻をならした。

「アデルさまもおいでになるのなら、もう少し早くいらっしゃればよかったのに。ノアさまは、今年は一番にゴールなさったのよ」

「リディさまは、それはもう夢中になっていらしたのです」

「まぁ、そうでしたの? それは大変面白かったのでしょうね」

 そう言って、私は訓練された笑顔でにっこりと微笑む。

彼女たちも、それぞれの顔に自分の得意な笑顔を浮かべた。

用意されていた一番立派な椅子に腰を下ろす。

そこに座ったというだけで、周囲を取り囲む貴族や観客たちの視線が、チラチラと盗み見を始めた。

つま先から髪の先まで神経を尖らせていないといけない『お出まし』なんて、本当に好きじゃない。

 馬場ではレースが続いていた。

人気ジョッキーの招待レースが始まる。

華麗な馬裁きに、観客は大歓声を揚げて楽しんでいた。

 馬に乗り、広い馬場を駆け巡る。

他の貴族の男の子たちも、競技に夢中だ。

この後のパーティーに参加する予定なのか、一般の客席に、ちらほらと知った貴族の顔もある。

私がここに座っているのは、あとどれくらいかしら。

たしか3レースくらい見たら、引き上げる予定なのよね。

最後までいることもないのに、本当に来て帰るだけなのよねぇ。

だったらお家でのんびりお茶してる方が、本当にラクでいいのにな……。

 日差しが眩しい。

頭上に大きな日よけの幕が張られているとはいえ、かなりの蒸し暑さだ。

時折吹く風も、この人混みの中では何の役にも立たないみたい。

馬場は次のレースの準備中なのか、緑の芝だけが広がっている。

不意に、周囲にどよめきが走った。

見ると、一般客は立ち入りが禁止されているこのウッドテラスに、一人の男性が近づいて来ている。

招待選手である、人気騎手のアーチュウ選手だ。

制止しようとする警備役を押しのけると、彼は真っ直ぐにテラスを進み、私の前にひざまずく。

左手を胸に当て、右手に持った一輪の花を差し出した。

「本日は、麗しきアデルさまにお越しいただき、私の胸はもういっぱいにございます。どうか今日のこの記念に、私の気持ちをお受け取りください」

「お、お待ちください。これでは……」

 ちょっと待って? これって、プロポーズじゃない? 

驚きに手足が小さく震えている。

両脇に控えるリディさまとコリンヌさまも動揺を隠せない。

だってこれは、第三王子の婚約者である、私に対するプロポーズそのものだもの。

どうする? どうしたらいい? 

周囲の視線が、じっと私に注がれている。

こんなもの、受け取れるわけがない! 

私は意を決すると、スッと立ち上がった。

「ありがとう。そのお気持ちだけをいただいておきます。本日のレース、とても感動いたしました。これからのご活躍をお祈りしております」

 そう言って、花を受け取る。

これはきっと、この辺りのどこかで咲いていた野の花だ。

王宮の中では決して咲くことのない、その素朴な黄色い花を受け取る。

「あぁ、ありがとうございます。どうかこの御無礼をお許しください」

 彼は丁寧に頭を下げると、テラスから退出して行った。

見ていた観客から、ドッと笑い声と拍手が巻き起こる。

私はホッと胸をなで下ろした。

 そう、これは彼の冗談だ。

第三王子の婚約者である私にプロポーズしたって、断られることくらい分かっている。

私にフラれた彼は、観客の大きな笑いと歓声を浴びていた。

にこやかに笑顔で手を振り、周囲からのそれに応えている。

私はドカリと……と、いうわけにはいかないので、しとやかに椅子に腰を下ろした。

これは冗談だ。

冗談だと分かっているのに、生まれて初めて受けたプロポーズに、顔が真っ赤になっている。

こんなこと、私にしてくる人がいるなんて、思わなかった。

恥ずかしすぎて前を向いていられない。

扇でその顔を隠す。

「酷い冗談ですわ。アデルさま、お気をたしかに」

「まぁ、コリンヌ。これをちゃんと冗談にするところが、アデルさまのご器量でもあり、ご寛容さの現れよ。さすがですわ。機転の利く方ね」

 リディはニッと意地悪く微笑み、コリンヌは同情の笑みを浮かべた。

帰りたい。

ここにいる誰もが私を笑っているようだ。

恥ずかしくて、とても困っていて、だけどどうしようもなく、胸がドキドキしている。

騒ぎを聞きつけた従者が、テラスに駆け上がってきた。

すぐに退出するよう、私に合図を出す。

助かった。

「それでは、失礼いたします」

 いずれにしても、退出しなければならないことには変わりない。

椅子から立ち上がったとたん、両脇の二人に加え、一般席の観客たちも、サッと立ち上がった。

彼らに見送られ、会場を後にする。

「全く! なんて失礼な男でしょう。後でオスカー卿を通して、十分に抗議しておきます」

 館の従者が、プリプリと怒っている。

その気持ちは十分に分かるのだけど……。

「まぁ、いいではないですか。これは大会の余興みたいなものよ。ちょっとした冗談ですもの。そんなに腹を立てることでもないわ」

 周囲からの視線がなくなって、ようやく自分自身の感情を取り戻す。

彼から受けたプロポーズの仕草が、まだぐるぐると頭を回っている。

片膝をつき、差し出された手に添えられていた花は、いま私の手に握られていた。

これは、彼のプロポーズを承諾したということになる。

「このお花、どうすればいいのかしら」

 初めて受けたプロポーズのお花。

たとえ意味のないものだと分かっていても、大切にしたい。

「ねぇ、お水をあげて。うちまで運んでちょうだい」

「本気ですか?」

「本気よ。お願いします」

 従者にそれを渡し終えた瞬間、誰かが私の手を掴んだ。

「ノア!」

「やぁアデル。アーチュウ選手からプロポーズされたってのは、本当かい?」

「冗談よ。そんなの、ノアが一番よく分かってるじゃない」

「そうだけど!」

 どこで見ていたのかしら。

あのテラス席からでは、ノアがどこにいるのかも分からなかったのに。

誰かから噂を聞いて、誤解してる?

「いくらなんでも、酷いだろう。無礼にもほどがある。いくら人気騎手とはいえ、やっていいことと悪いことがあるじゃないか」

「私は気にしてないです」

「だから君が今日、出席するかどうかを確認しに行ったんだ。あの男が君のファンだって聞いたから。まさかこんなことをするなんて……」

 だって、冗談だもの。

たとえ冗談のプロポーズだとしても、私にはきっと二度とされることはない、初めての思い出なのに……。

まだ胸がドキドキしている。

彼のひざまずく姿が、まぶたの裏から離れない。

「その花は捨てないの?」

「せっかくだもの」

「どうして」

「どうしてって……」

 ノアは珍しく、怒っているようだった。

「……。君が、こういう黄色い花が好きだったとは、知らなかった」

「ねぇ、何を怒ってるの?」

「もう帰るのか」

 馬車は目の前だ。

これに乗ってしまえば、私はそのまま、王宮の隅の小さな緑の館へ戻れる。

「帰るわよ。だって、もうここにいる意味はないもの」

 華やかなパーティーなんて、この国の貴族社会に縁のない私には、ストレスでしかない。

「私にプロポーズしてくれた、アーチュウ選手も来るのでしょう? だったら余計に、顔を合わせづらいし」

「どうして? どうしてそんなふうに君が思うんだ」

「だって、単純に恥ずかしいじゃない」

「恥ずかしい? どうして?」

「私にだって、恥じらいくらいあります」

 どんな顔をして、彼と向き合っていいのかなんて分からない。

会ったところで、何の話しをするの? 

戸惑いの気持ちを裏に隠して、澄ました顔して社交辞令を並び立てるなんて、これ以上やるのは、ホント無理。

「じゃ。さようなら」

 馬車へ乗り込もうとした私の腕を、ノアはもう一度強く掴んだ。

「やっぱりダメだ。このまま君が帰ってしまったら、彼が批判を受けることになる」

「どうしてよ。私とあなたがOKなら、それで問題ないじゃない」

「ぼ、僕に……じゃなくて、オスカー卿に恥をかかせた!」

「そんなことないって。誰も誤解なんてしないわ」

「ダメだよ。これは君が考えているよりも、もっとずっと大変なことなんだ」

 彼は強引に私の手を引くと、オスカー卿の城内に向かって歩き始めた。

「ちょ、どこに行くの!」

「君と一緒にパーティーに出席する。そうじゃないと、僕の気が済まない」

 廊下を突き進む。

庭を挟んだ回廊の向こうに、パーティー会場が見えた。

出席している女性たちはみんな、華やかなドレスに身を包んでいる。

「待って。私は野外用のドレスよ。ノアは乗馬服のままでいいかもしれないけど、このドレスで出席するわけにはいかないわ」

「着替えなんて、ここに持ってきてないだろう?」

「当然よ」

「なら、そのままでいい」

 扉の前まで来た。

会場は目の前だ。

これが開けば、もうノアと口げんかなんて出来ない。

それを知っているノアは、グッと私を引き寄せる。

「ほら。これは……。大切なお仕事だから。アデル。みんなの前だ。ちゃんと婚約者をやってくれ」

「……。これは、アーチュウ選手と、オスカー卿のためなのね」

「そうだ。すぐに終わらせる。だから少しの間だけでいい。僕に付き合ってくれ」

 その彼の言葉に、私は自分自身に魔法をかける。

「分かった。ノアがそう言うなら、そうする」

 扉が開いた。

予定外の私の登場に、会場全体がどよめく。

ノアは優雅な笑みを浮かべ、手を差し伸べる。

私たちは微笑みあい、互いの手を重ねた。

「さぁ、アデル。足元に気をつけて」

 ノアのエスコートで、階段を下りる。

その注目を、私たちは一身に浴びていた。

彼は耳元でささやく。

「せっかくの君の登場なんだ。思う存分、見せつけたい」

 広間の中央に連れ出すと、すぐに彼は私にひざまずく。

左手を胸に当て、右手を差し出した。

プロポーズの仕草だ。

周囲からドッと笑いが巻き起こる。

私はノアのその手に、自分の手を重ねた。

音楽が始まる。

それに合わせて、私たちはくるくると踊り出す。

「あぁ、よかった。アデルは僕からのプロポーズを受けてくれたんだね」

「当然ですわ、ノアさま。どうして私があなたからの申し込みを、断ることがあるのでしょう」

 ノアの唇が、私のこめかみにキスをした。

腰に回した手を、さらに引き寄せる。

「よかった。君に断られたら、どうしようかと思った」

 くるくると回るダンスホール。

みんながこっちを見ている。

会場にいたアーチュウ選手と目が合い、思わす視線をそらす。

「ここにいる誰よりも、君を愛しているよ。アデル」

 もう1曲、さらにもう1曲。

ノアはダンスの間中、ぴったりと体を寄せ、甘い言葉をささやき、絶え間なくキスをする。

「僕にとって、君がこの世で一番だ」

 会場には、エミリーもポールもシモンも、リディもコリンヌも他のアカデミーのみんなもいるのに……。

「ねぇ、ちょっとやりすぎ」

「しょうがないじゃないか。僕にこんなことをさせているのは、プロポーズを受けた君なんだから」

 そう言って、また頬にキスをする。

「どうしたのアデル。今日はなんでそんなに恥ずかしいの? いつだってこうしてるじゃないか」

 意地悪なそのセリフに、こっそり肘打ちを入れた。

「ウッ!」

 ノアの顔は痛みに一瞬歪んだけど、私はプイと横を向いて知らんぷりだ。

そんなこと、気にしてあげないんだから。

結局そのまま3曲を踊り、ようやくダンスが終わる。

「もう疲れたわ」

 帰りたい。

花をくれたアーチュウ選手の日に焼けた精悍な姿が、どうしても気にかかる。

つい目が彼を探してしまう。

ノアはしっかりと私をエスコートしたまま、皿に積まれたイチゴを手に取った。

「はい。どこ見てんの。こっち向いて。あーん」

「ちょっと!」

 周囲には分からないよう、ノアの胸を押しのける。

いつでもどこでも、私たちは注目されてるってこと、本気で忘れてない?

「ほら、早く。アデルはイチゴ好きでしょ」

「好きだけど、これは違う!」

「違わないよ。君は僕の手からは、食べられないっていうの」

 彼の顔は寂しそうにうつむく。

さっきの仕返しだ。

その表情に、仕方なく口をあけた。

ノアはイチゴを食べさせると、もぐもぐとほおばる私を見つめ、満足そうににっこりとうなずいた。

「ね、僕にも食べさせて」

 は? 冗談じゃない。

周りがみんな、クスクスと笑っているのが分からないの?

「早くしてくれないと、僕がまた食べさせるよ」

 そう言って私を抱き寄せ、またイチゴを手に取る。

「ま、待って待って! 分かったから……」

 と、アーチュウ選手が近づいてきた。

さっきまでの乗馬服から一転、華やかなパーティー用の衣装に着替えている。

「これはこれは、聞きしにまさる仲のよさでございますね。先ほどは大変失礼をいたしました」

「いえ、いいのですよ。僕のアデルが可愛すぎるのがいけない」

 ノアはアーチュウ選手に、にっこりと微笑んだ。

「僕の婚約者が、黄色い花を好きだったなんて、知らなかったよ。君のおかげでそれを知れて、感謝している」

「きょ、恐縮です」

「これから僕は毎日、彼女に黄色い花束を贈ることにしたよ」

「まぁ、それこそ冗談が過ぎますわ。ノアさま」

「はは。ほら、仲直りの印に、アデルの手にキスを」

 ノアに促され、彼は片膝をついた。

私は言われるまま手を差し出す。

アーチュウ選手はそこへそっと唇を寄せた。

その感触にまた胸がざわめく。

きっと今の私は、普段ではありえないくらい真っ赤な顔をしているはずだ。

「い、いい記念になりました。……。ありがとう」

 ようやくそんな言葉を絞り出す。

ノアと彼が固い握手を交わしているのを見ていながら、私は動けない。

アーチュウ選手は私を振り返った。

「それではアデルさま。失礼します」

「え、えぇ……。ありがとう。お元気で」

 恥ずかしい。

帰りたい。

これでもう彼とは、絶対に会うこともない。

去って行くその背中を、つい視線で追ってしまう。

「ね、アデル。喉は渇いてない? 大丈夫?」

 ノアはそんな私を、くるりと一回転させた。

禊が終わり、アーチュウ選手が礼をして離れていった後でも、ノアの猛攻は終わらない。

「頬に髪がかかってるよ」

「もう1曲踊りたいな。ねぇ、ダメ?」

 挨拶に訪れる方たちが現れるたびに、腰に回した手で体を引き寄せ、頬に触れ、額と髪とこめかみにキスをする。

「僕の大事なアデルだからね、これからもよろしく頼むよ」

 延々と続くこの状況に、さすがの私も笑顔が引きつってきた。

こっそり抗議の視線をぶつけても、今日のノアには全く効果がない。

「あ、あそこに君の好きなケーキがある。持って来てあげるよ」

 ようやく体が離れた。

ノアは皿の上のケーキをフォークで切り分けると、それを私に差し出す。

「はい。あーん」

 なんだかもう色々、恥ずかしいを通りこして諦めた。

周囲はもうとっくに見飽きたようで、気にしてもいないみたいだ。

仕方なく口を開けたら、そこにケーキがねじ込まれる。

チョコレートの甘さが口いっぱいに広がった。

「これ食べたら、帰るからね」

「どうしたのアデル。もう疲れたのかい? なんならそこのテラスに座って、お茶にしようか」

 まだケーキを食べさせようとするノアに、私はグッと頬を寄せた。

「か、え、る、か、ら!」

「あぁ、分かったよ。つれないなぁ~」

 そう言いながらも、やっぱりフォークに突き刺したケーキを差し出す。

こうなったらもう、ヤケクソだ。

私は誰もが見ている前で、平然とそれを平らげた。

「まぁ、おいしい。私にはもう、十分すぎますわ」

「まだまだだよ、アデル。せっかくの機会なんだ。君はめったにこういうところには顔を出さないじゃないか。もっと楽しんで行こうよ」

「ですが、私のような者は、ここでは場違いですので……」

 そんなこと、この毎年開かれてる馬術大会にしたって、私の参加をノアが許可出さないだけじゃない。

まぁ、私もあんまり出たくないから、そこは助かってるけど!

「またそんなことを言う。本当に君はしょうがないな」

 だけど今日はもう、これ以上我慢出来ない。

私はノアの腕に自ら腕を絡めると、彼を引っ張りあくまでさりげなく、入ってきた扉に近寄る。

控えの役に合図を出した。

「アデルさま、ご退出にございます」

 その言葉に、会場にいる全員が振り返り、拍手が起こった。

私たちは並んで挨拶をすると、ようやく扉が開かれる。

そこを通り抜け、再び閉じられた瞬間、私は彼からパッと離れた。

「ねぇ、これでもう大丈夫? アーチュウ選手や、オスカー卿の迷惑にはならない?」

 何となく、ノアと体を密着させていた部分のドレスを整える。

自分で蒔いたタネとはいえ、ノアも酷い。やりすぎ。

「……。うん。上出来だよ、アデル」

「そう。ならよかった」

 彼からの言葉に、ほっと胸をなで下ろす。

ノアとは、いつもやっていることとはいえ、今日は妙に恥ずかしい。

ヘンじゃなかった? ちゃんと出来てた? 

正装したアーチュウ選手から受けた、キスを思い出す。

その手をぎゅっと自分の胸に抱き寄せた。

ノアはそんな私をじっと見ている。

「ねぇアデル。僕にもう、こんなことをさせないでくれ」

 さっきまではしゃいでいた彼が、一変してその声のトーンを落としている。

「わ、悪かったわ。ごめんなさい」

 やっぱり怒ってるんだ。

私の対応が気にくわなかったのね。

彼の機嫌を損ねてはいけない。

慌ててその手を後ろに隠した。

「もう、あんなことされても、軽々しく受け取ったりなんかしない。次からはちゃんと、キッパリ断るね」

 それでもまだ、ノアは沈んだままだ。

「ご、ごめんなさい」

「……。アデルは、今日は楽しかった?」

「え? なにが?」

「今日の……、おでかけは」

「え、えぇ。それなりに、楽しかったよ」

 また顔が赤くなる。

今日の私は、本当におかしくなったみたいだ。

表情に出してはいけないのに、ノアの前なのに、あの花はまだしおれずに咲いているかしら。

「アデル」

 ノアが近づく。

頬に伸ばされた手に、私はハッとして触れられる前に顔を上げた。

「ごめんなさい。ノアにはノアの立場があって、そうしなきゃいけないって、分かってるの。ごめんなさい。私が変なことしたから……」

 だけどあの花は、どうしても受け取っておきたかったの。

「……。いや、そんなことは、どうだっていいんだ。今日は僕が……」

「ノ、ノアだって! べ、別にやりたくてこんなことをやってるワケじゃないし。これも全て誰かのため、ううん。私の立場を守るためなのよね。い、いつも気にかけてくれて、あ、ありがとう」

 ノアの手が私のこめかみにそっと触れ、赤茶色の髪をかき上げた。

そんな彼に、慌ててにっこりと最上級の笑顔を向ける。

これが私に出来る精一杯の償いだ。

「私、ちゃんとあなたの望むような、婚約者やれてた?」

「うん。バッチリ。とても上手だったよ」

「ホントに? 平気?」

「うん。いつもありがとう。僕も助かってるよ」

 もう帰らないと。

二人きりになることを、極力禁止されている。

これ以上遅くなっては、私もノアも叱られてしまう。

だけどそれ以上に、今は彼と二人きりでいることが気まずい。

「じゃあ、もう行くね」

「気をつけて」

「ノアはこれからまた、パーティー会場に戻るんでしょう?」

「僕も、そうしなきゃならないからね」

「そっか」

 迎えの馬車まで、彼は見送ってくれた。

「じゃあね」

 互いに手を振って別れる。

ようやく一人になった馬車の中で、私の胸はまだドキドキしていた。

ノアが今日はちょっと怖くて、変だったこと。

アーチュウ選手から渡された花が、とても可憐で美しかったこと。

 オスカー卿のお城を出て、王宮へ向かう帰路へつく。

この馬車に乗っている間だけは、私の時間だ。

遠く広がる草原に見える馬場に、つい目がいってしまう。

だけどそれもすぐ建物に遮られ、見えなくなってしまった。

夢から覚めたみたいだ。

さっきまであれほど賑やかだった馬場に、今はもう誰もいない。

空っぽだ。

車窓の風景は、賑やかな街並みから静かな王宮の庭へと変わる。

館に着いた私を待っていたのは、セリーヌだった。

「アデルさま! 何という失態をしでかしたのですか!」

「なぁに? ノアのこと?」

 馬車を降りるなり、やっぱり叱られる。

「ノアさまのこともそう! 騎手のこともそうです!」

「いいじゃないの。もう冗談ってことに、なってるんだもの」

 私は他の侍女たちに手伝ってもらいながら、服を着替える。

「そもそも、あなたはこの国の人間ではないのですよ」

「えぇ、分かってるわ」

 また始まった。

ここへ来た10歳の時から、延々と聞かされているセリーヌのお説教だ。

「あなたの役目は、この国の貴族たちに決して負けない知識と教養を身につけ、自分たちの誇りと尊厳を守ることです。それが何ですか? 婚約者のいる身でありながら、他の男性からのプロポーズを受けるなど!」

 ようやくコルセットが外れた。

あまりの出来事に、今日はずっと緊張していたのかもしれない。

すぐさまソファに寝転がる。

「大丈夫よ。ノアとはつかず離れず、上手くやってるわ」

「……。後々、辛い思いをするのは、他でもないあなたなのですよ、アデルさま。お気を強く、しっかりと持ち、流されてはいけません。決して気を許してはダメなんです」

「そうね、ありがとうセリーヌ。あなたにはいつも感謝しているわ」

 私が両腕を広げると、彼女は諦めたようにため息をついてから、ハグに応えた。

私は彼女の、年老いた小さな体を抱きしめる。

私がここでなんとか留まっていられるのも、セリーヌがいてくれたおかげだ。

「ね、いただいたお花はどこ?」

 人知れず、野に咲いていた黄色い花は、小さなガラス瓶に生けられていた。

「押し花にしてもいいかしら。素敵なお花ですもの。見たことのない花だわ」

「野草の花ですからね。この王宮では、決して咲かない花です」

「すぐに抜かれて捨てられるから? 花の咲く前に?」

「そうでしょうね」

「ね、やっぱり押し花にしましょう。しおりがいいわ。いいでしょう? セリーヌ」

「……。お好きになさってください」

 侍女たちが、重しとなる本を集めてくれた。

紙の上に、丁寧にその花びらを広げる。

「私のことを、好きだって言ってくれた、初めての方から頂いたお花なのよ」

「……。それは、よろしゅうございましたね」

 何重にも重ねた紙の上から、本を重ねてゆく。

「この重しの下で、きれいな花として残るのね」

「放っておいてはいけません。それなりのお世話が必要です」

「それは任せて。そういうの、実は結構得意なの」

 お茶が運ばれてくる。

私は花の上に積み重なった重しを見ながら、静かに微笑んだ。




第2章


 その翌日、小さな緑の館は、ちょっとした騒ぎになっていた。

黄色い花だけを集めた、大きな花束が朝一番に届いたのだ。

侍女たちが居間の壁際にそれを飾っている。

「まぁ、これは誰から?」

「ノアさまからでございます」

「……。そう」

 なんだ……って、思っちゃいけないのよね。

彼はとても体面を気にする……、いえ、気にしなければならない人だから、よほど昨日の私の振る舞いが、気に入らなかったのだろう。

じゃないとパーティー会場で、あんなにはしゃぐ必要はなかったし、こんな花束だって、今まで贈られたこともない。

よほどあのプロポーズを受けたことが、気に障ったんだ。

昨日のノアを思い出す。

私は彼を、怒らせてしまった。

「退屈な花ね。これじゃ押し花には向かないわ」

「ですが、見事に咲いております」

「アカデミーへ行く準備をするから、手伝ってちょうだい」

 気が重い。

ノアと顔を合わせたら、なんて言われるだろう。

一番に謝る? 

お花のお礼は、やっぱり言わなきゃダメ?

「行ってきます」

 小さな馬車に乗り込む。

本当はアカデミーだって、あまり行きたくないけれど、他に行く所もない。

私に許されているのは、この広い王宮の片隅にある館から、お城のアカデミーの間を行き来することだけだ。

馬車に揺られるわずかな時間で、気持ちを立て直す。

負けちゃダメ。

泣いていいのは、あの小さな緑の館の、自分の部屋のベッドで一人になった時だけだ。

 いつものように、裏口の馬車寄せから城に入った。

豪華な装飾に囲まれた城内をゆっくりと歩く。

ふかふかの赤い絨毯が敷き詰められた石造りの廊下から、扉のない広間に入った。

様々な形のテーブルに、ソファや椅子がいくつも並ぶそこは、誰もが自由に出入りすることが許されている、王宮で唯一の場所だ。

私が腰を下ろすと、早速エミリーがやって来る。

「今朝の新聞、見たわよ~。ほら、持って来ちゃった」

 私は扇を広げ、見ていないフリをしながら、それを見る。

「結構大きく載ってたよー」

 アーチュウ選手とノアと、私のことが書かれた記事だ。

その様子を絵にしたものも、載せられていた。

そういえば私は、彼のことを何も知らない。

「恥ずかしいから、そんなの見せないでよ」

 とか言いながらも、本当は気になって仕方がない。

チラチラとその記事を横目で盗み見る。

「アデルが帰ったあと、ノアは大変だったんだから」

「どうして?」

 私は懸命に、記事の文章を目で追っている。

今朝の新聞かな。

うちでちゃんと読んでおけばよかった。

「アデルと出て行ってから、また着替えて再登場したんだけど、もうずっと元気がなかったのよ。ため息ついたりイライラしたり……」

 ポールとシモンもやって来る。

「ノアもいつもなら、それなりにパーティーを楽しんでるのにな」

「機嫌悪かったよ。まぁ、他の人たちには、いつも通りに見えたかもしれないけどね」

 なんだ。アーチュウ選手は既婚者なのか。

だったら本当に、アレは冗談だったんだ。

そんなことでノアを怒らせて、バカみたい。

「アデルがいるときは、どんな時も大体上機嫌なのにな」

「途中で帰ったからじゃない?」

「帰ったのか、帰したのか……」

 ふと気づけば、三人の視線が私に集まっている。

「べ、別に! アーチュウ選手のプロポーズは、冗談だって分かってるわよ。やだ。私があんなプロポーズに、そんな本気になるなんて、あるわけないじゃない」

「アデルは気にならないの?」

「ならない!」

「そっか」

 エミリーの手が、私の手に重なった。

「アデルには、好きな人はいないの?」

「好きな人だなんて、作ってどうするの?」

 恋だなんて、私には無縁だ。

この広いアカデミーサロンに集まった男女を見渡す。

「いずれみんな、親の決めた相手と結婚するのよ。そんなこと、考えるだけ無駄じゃない。私はそれが早かったから、余計な気を回さなくて済んだけど」

 立ち上がる。

恥ずかしい。

生まれて初めての、この先は一生、きっと二度とされることもないプロポーズに、調子に乗った自分が笑われているみたいだ。

「恋愛なんて、くだらないわ。そんなお話しに興味はないの。ごめんなさいね」

 逃げるように、バルコニーへ滑り出る。

自分には全く無縁のことに、どうして悩む必要があるの? 

この国で誰かに恋をするなんて、そんなことはありえない。

形式的な婚約とはいえ、自分にはもう決まった相手がいる。

その人に嫌われないようにしているだけだ。

だってそうしていなければ、今ここにだって私の居場所はない。

ここから眺めることの出来る景色は、どこまでも広大な王宮の中にある、高い塀に囲まれた庭園で、細部まで決して手を抜くことなく整備されている、作られた場所だ。

 不意に、サロンがざわつき始めた。

振り返ると、黒く短い上着に銀の刺繍を凝らした男性がこちらに向かってくる。

「フィルマンさま!」

「やあ。たまには可愛い弟の、婚約者さまの様子でも見に来ようかと思ってね」

 くるくると巻いたクセのある黒髪の下の、黒い目がニッと微笑む。

「こんなところにいらっしゃるなんて、珍しいですね。どうされたのですか?」

 フィルマンさまは、ノアの一つ上の兄だ。

この国の第二王子。

「昨日からなにかと、世間じゃ君とノアの話題で持ちきりでね。その真相を確かめに来たんだ」

 そう言うと、彼は私に手を差し出した。

ダンスのお誘いだ。

「しばし、お相手願えませんか?」

 突然の申し出に、断る理由も思いつかない。

仕方なくそこに手を重ねる。

「はは。ノアに見つかったら、俺も怒られるな」

 フィルマンさまの手が、グイと私の手を引いた。

それに釣られて、足元がよろける。

「俺が気軽にお誘い出来る女性ってのも、アデル以外なかなかいなくてね。ノアにはちょっと、我慢してもらわないと」

 力強い動き。

ノアにはない自由奔放なリードの仕方だ。

音楽もないなか、フィルマンさまの手の上で、くるくると踊らされている。

「ど、どういったご用件でしたか?」

「ん? ちょっと君の顔が見たかっただけだよ」

「またそんなご冗談を……」

 腰に回された腕で強く引き寄せられ、体を反らす。

フィルマンさまの支えがなければ、倒れてしまいそうだ。

「君は先日、プロポーズされたそうじゃないか」

「ノアさまという婚約者がおります」

「はは。そのノアにも、みんなの前でプロポーズされたんだろう?」

 そ、それはそうかもしれないけど、全く事情は違うし! 

ようやく引き上げられる。

やっと普通に立てるようになった。

「で、君は結局、どっちを選んだの?」

「ノアさま以外、おりません!」

「真面目だなぁ。だけど、それでは俺も世間も面白くない」

 今度は体を密着させる。

スローステップでそっと耳元にささやいた。

「例えば、他の誰かが気になったりはしないの? 俺ならすぐに紹介してあげられるけど」

 その言葉に、私はダンスの手を振り払った。

「いくらフィルマンさまでも、それ以上は許されません」

 彼は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに大きな声で笑いだした。

「あははは。やっぱりアデルはアデルだなぁ!」

 わざとらしいほど、丁寧に頭を下げる。

「これはこれは、大変なご無礼をお許しください」

「フィルマンさまこそ、冗談が過ぎます。からかいにいらしただけなら、もうお帰りください」

「うそうそ。本当はこれを渡しに来たんだ」

 そう言って、胸のポケットから一通の手紙を取りだした。

「これは?」

 白い封筒に、マルゴー王家の紋章で封がされている。

「ステファーヌの、誕生日会の招待状さ。俺も、今年こそ君も来るべきなんじゃないかと思ってね」

 ステファーヌさまは、第一王子だ。

毎年開かれるお誕生日会に、今まで私が出席したことはない。

「これは、兄さんから直接俺が預かったんだ。本当だよ。君に届けてくれってね」

「ス、ステファーヌさまにまで、ご心配をおかけしているのですか?」

「んん? あぁ……まぁ、そうかな。とにかく、当日は楽しみにしているよ」

 ウインクを投げて、フィルマンさまは去ってゆく。

これは事件だ。

いくら私でも、このお誘いを断れないことくらいは分かる。

「馬車を! 今すぐ館に戻ります!」

 それからの数日は、アカデミーに顔を出す暇も与えられず、セリーヌからの厳しいレッスンが待っていた。

第一王子のお誕生日会となると、国内の上級貴族だけを集めた特別なパーティーだ。

ノアと2人、公式行事には何度も出席したことはある。だけどそれは、ただ座っているだけでよかったものだった。

だけど今回は違う。

私にとっての、本当の意味での社交界デビューだ。

「背筋は伸ばして! 指先にまで神経を尖らせるのです。会話は短めに。くれぐれも余計なおしゃべりはしないこと!」

 ここへ来てから、もうずっとこういうレッスンは受けてきたけど、今回はとくに厳しい!

「もういいわよ、セリーヌ。どうせ私になんて、誰も注目してないんだから! 主役でもないし」

「そう思っているのは、アデルさまだけです! あなたは先日の失敗を、また繰り返すおつもりなのですか! 真っ直ぐ顔を上げて、決して笑顔を崩してはいけません」

「とにかく、これ以上は今日はもう無理!」

 ソファの上に倒れ込む。

第一王子からの、初めての私的な招待だ。

それはとても名誉なことだけど、緊張感もハンパない。

「アデルさま。休憩したら、もう一度歩き方と、立ち止まった時の手の位置の確認を。あなたは常に見られているし、監視されているのです。少しでも隙を見せたら……」

 館の外に、馬車の着く音が聞こえた。

侍女たちが何か騒いでいる。

やがてその一人が、部屋に飛び込んで来た。

「何事ですか」

「ノ、ノアさまが、荷馬車でお越しになりまして……」

「なんですって?」

 エントランスから外へ飛び出す。

小さな荷馬車の御者台から、ノアが手を振った。

「やぁ、アデル。久しぶりだね」

「な、なんで?」

「なんでって……」

 そう言うと、彼はそこからぴょんと飛び降りる。

「だって、最近はアカデミーにも顔を出してないっていうじゃないか。だからこうして、直接顔を見に来たんだ」

 その荷台いっぱいに積まれた、黄色い花ばかりのかごを、一つ取り出す。

「はい。どうして毎日贈っているのに、受け取ってくれないんだ」

「いらないって言ったはずですけど!」

「……。そのことで話しがある」

 やっぱり、怒らせてしまったのだ。

彼は花かごを抱えたまま、私の横を通り過ぎた。

仕方なく後をついてゆく。

そのまま二階にある私の部屋へ直行すると、バタンと扉を閉めた。

ノアと二人きりになる。

「はぁ~……」

 彼は大きなため息をつくと、その花かごをテーブルに置き、ゴロリとソファの上にうつ伏せに寝転がった。

私はその向かいに腰を下ろす。

そのまま彼の話し始めるのを、じっと待っていたけれど、全く動きだす様子はない。

「……。どうしたの?」

「……。どうもしない」

 ようやく、むくりと起き上がった。

ミルクティー色の真っ直ぐな髪を、くしゃくしゃとかき乱す。

「アカデミーに何度も行ったのに、君がしばらく来ていないと聞いて、ちょっとムカついただけ」

「私だって、行けない日はあるわよ」

「……。知ってる」

 なんだか機嫌が悪い。

なんなの? 

ふと彼の視線が、背後の壁を捕らえているのに気づいた。

「僕の花は受け取ってくれないのに、アーチュウ選手からもらった花は押し花にして、壁に飾ってあるんだ」

「し、しおりにしようと思ったのよ。だけど、そうするには大きすぎて……」

 もらった花も茎も葉も、そのまま残しておこうと思ったら、どうしても小さく切り落とすことが出来なかった。

「は、花はうれしいけど、そんな気にすることないでしょって話し! 私が軽率だったわ。謝ったじゃない。ごめんなさいって」

 ノアはまだ壁にかかったそれを見つめている。

私はテーブルの上の花かごを膝に移すと、その甘い香りに顔を埋めた。

「なによ。別にしおりにするくらいいいじゃない」

「まぁ、いいんだけどね」

「そのことで、まだ怒ってるの?」

「いや、もう怒ってないよ」

 ノアはフイと顔を横に向けたまま、じっと何かを考えこんでいる。

「……。ねぇノア。ステファーヌさまのお誕生日会には、一緒に参加するんでしょう?」

「うん」

「最近は、そのお作法レッスンで忙しかったのよ」

「……。うん」

「私は今年、初めて行くのよ。ノアはもう、何度か行ったことはあるんでしょう?」

「うん……」

「どんな雰囲気なの? 私は初めてで、結構緊張してるの」

「別に。どうってことはない」

 彼は両手の指を組むと、モジモジとうつむいた。

ノアの様子がおかしい。

不機嫌というより、少し沈んでいるような気がする。

「当日は、ちゃんとエスコートしてね。おかしなことがあったら、遠慮なく教えてほしい」

「……うん」

「……。どうしたの。なにか、気になることでもあった?」

「いや。何もないよ」

 そう言って彼は、ようやく重い腰を上げた。

「君はいつも通り……。そう、いつも通りにしてくれればいい」

「えぇ、分かってるわ」

 そのまま帰るのかと思ったら、しばらく何かを考えた後、ノアはまた腰を下ろした。

そわそわとして落ち着かない。

何かを話そうとしているのに、それを伝える言葉が見つからないみたいだ。

ずっとモジモジしている。

私は何をどう話しかけていいのか分からなくて、ただそんな彼を見ていることしか出来ない。

ノックが聞こえ、扉が開いた。セリーヌだ。

「ノアさま。すぐお戻りになるようにと、お城からの伝言でございます」

 セリーヌの視線は、じっと私たち二人に注がれている。

その視線には、少なくない威圧感が込められていた。

さすがのノアも、セリーヌには敵わない。

「ノアさま。急いでお帰りくださいませ」

「あぁ……。分かった」

 ようやく立ち上がった彼を、私もエントランスまで見送る。

迎えの馬車が到着していた。

彼は大きく息を吐き出すと、横目でチラリと私をのぞき込む。

「ねぇ、また花を贈ってもいい?」

 その言い方は、とてもぶっきらぼうで、優しさとはほど遠い。

「いらないわ。お庭にもたくさん咲いているもの。気持ちだけで十分よ」

「だけど、部屋にはあまり飾ってないじゃないか」

「まぁそうだけど。足りてるもの」

「……そっか。分かった」

 夕陽の中を、ゆっくりと帰って行く小さな荷馬車を見送る。

結局、ノアはなにをしにきたんだろう。

そんなことがあってから、さらに数日が過ぎた。

館に籠もりきりで、ひたすらダンスと礼儀作法のレッスンは続く。

ついにその日がやってきた。



第3章


 ステファーヌさまのお誕生日会は、王宮から離れた私邸で行われるとのことだった。

私とノアは、現地で合流することになっている。

王宮から馬車で数時間の、街外れの森の中にその別邸はあった。

到着すると、すぐに控えの間に通される。

白と深く濃い茶色を基調した色合いの、立派なお屋敷だ。

きっと普段は静かで落ち着いた雰囲気なんだろうけど、今日は沢山のお客さまが行き交い、とても華やかな雰囲気に包まれている。

他の方々は同室の方とおしゃべりをしていたり、周囲の散策をしているみたいだけど、私には個室が用意されていて、そこから動くことは出来ない。

それは、大切に扱われているということなんだけど……。

ノックが聞こえた。

「アデル。入るよ」

 ノアだ。

初めての場所に緊張していたのが、わずかにほぐれる。

「ノアは、先に着いてたのね」

「うん。昨日から泊まってて、今夜もそうする」

「いつもそうしてるの?」

「まぁね。アデルは日帰りなんだろ?」

「そうよ」

 プライベートな会とはいえ、第一王子のお誕生日会だ。

招待されて嬉しくないワケではない。

「ね、きょ、今日のドレス、ヘンじゃない? おかしくない?」

 これからこの国の名門貴族たちに、つま先から髪の先までくまなくチェックされるのだ。

せめてノアからだけでも、事前に「悪くないよ」って、一言言ってほしい。

セリーヌと選びに選び抜いた、白にピンクのラインの入ったスカートの裾を持ち上げる。

「アデルも、外泊の許可をもらったらよかったのに。僕と一緒なら、許可が下りただろ」

「緊張して、そんなことにまで、気が回らなかったのよ」

「どうして?」

「どうしてって……」

 いつも以上に、念入りに時間をかけてドレスも髪も整えたのに……。

ドレスも扇も髪飾りも、全てこの日のために新調したものだ。

「どうして相談してくれなかったんだ」

「なら、そっちから声をかけてくれたらよかったのに」

「そうじゃないだろ」

 ノアは落ち着かない様子で横を向き、まだこっちを見ようともしない。

ため息ばかりをついて、ずっとイライラとしてる。

ドレスのことも今日の装いのことも、私の話しには何一つ返事をくれない。

「私は、こういったパーティーは初めてなのよ」

「第一王子のお誕生日会だからね。この日だけは特別なんだ」

それはきっと、ノアにとっての話しであって、私にとっての話しじゃない。

「なにか言いたいことがあるんなら、早く言って」

 彼はまた一つ、大きなため息をついた。

「本当は君に隠しておきたかったけど、それじゃフェアじゃないって言われたんだ。僕にはよく分からないけど、兄さんたちには、それでは許されないみたいだ」

 ノアの手が、私の手を取った。

パーティーの時間だ。

「それでも、僕の気持ちは変わらないということを、分かってほしい」

「変わらないって、どういうこと?」

「全部今まで通りってこと。僕は僕のままだ。君との関係に、なんの影響もない」

 何を言っているのか、意味が分からない。

ノアが変わらないというのなら、私だって今まで通りだ。

彼は真っ直ぐ前を向いたまま、立ち上がった。

見上げた横顔はいつも以上に厳しい。

そのままエスコートされ、落ち着いた廊下を会場の前まで進む。

「アデル。ここから先は、君は僕の正式な婚約者だ。だから誰よりも堂々としていて」

「任せて。大丈夫よ」

「ありがとう。大好きだよ、アデル」

 ノアのその言葉に、私は魔法をかける。

華やかな第一王子の誕生日会だ。

公式行事という何もかも段取りの決まったパーティーではない。

気を引き締めないと。扉が開いた。

「第三王子ノアさまと、シェル王国王女アデルさまのご入場です」

 広間には、沢山の招待客が来ていた。

みんなステファーヌさまの、気心の知れたお友達ばかりだ。

派手に着飾るわけでもなく、上品な装いでゆったりとすごしている。

美しい髪飾りに、繊細なレース、ひらひらと舞うリボンの数……。

ホームパーティーというには豪華すぎるけど、身内だけの非公式行事だ。

「アデル。ここには着いたばかりで疲れただろう。僕たちの席はあちらに用意されてるんだ。座ってる?」

「まぁ、到着してすぐにそんな態度では失礼だわ。私はこういう場は初めてなのよ。出来れば皆さまにご挨拶したいわ」

「だけど、あまり目立っては……。今日は、兄さんの誕生日会だから……」

 ノアが渋る間にも、あっという間に周囲を取り囲まれ、お構いなしに挨拶を受ける。

「こんにちは。ノアさま。アデルさま。本日はお会い出来て、大変光栄ですわ」

 にこやかに声をかけてくる誰も彼もがみんな、名門貴族の方々ばかりだ。

ノアの隣で腕を組み並んで立っていても、中の様子が気にかかる。

招待客の中には人気俳優や若手音楽家、有名な画家の姿も見える。

あそこにいるのは、リディさまとコリンヌさま? 

ノアが耳元でささやいた。

「大好きだよ、アデル。君が一番だ」

「私もよ。ノア」

 頬にキスしてくるのを、チュっとそのまま受けておく。

ん? あそこにいるのは、いま人気の詩人の方じゃない! 

つい先日も作品を読んで、エミリーと一緒に感動したばかりだ。

はしゃいではいけないのは分かっているけど、余りの興奮に身が固くなる。

どうにか話しかけて、一度アカデミーにもお越しいただければ……。

「毎年、ステファーヌ兄さんは、ここで誕生会をしていてね。お気に入りの私邸なんだ」

 ふらりと私が動こうとするのを、ノアの腰に回した手が別の方向に誘導する。

「見てごらん。この窓からの景色は素晴らしいでしょう? いつかアデルがここに来た時には、一緒に見たいと思っていたんだ」

「ねぇ、ちょっとノア!」

「なぁに、アデル」

 小声で訴える私の手に、ノアはキスをする。

「あそこにいらっしゃる方と、少しお話しがしたいのだけど……」

「僕以外の男に、また気をとられてるの? 君は僕のプロポーズを受けてくれたばかりじゃないか」

「ち、ちがっ!」

「さっきからよそ見ばかりして。僕のこともちゃんと見てくれないと困る」

 美しい女性の2人組が近づいてきた。

「まぁ、本当にお二人は仲がよろしいのね」

「僕のアデルです。よろしく」

「初めまして」

 今日はあとどれくらい、社交辞令の愛想笑いをすればいいんだろう。

顔がそのままの形で強ばってしまいそうだ。

にこやかに雑談に応じながらも、どうしても視線は人気有名詩人であるジャンを追いかける。

彼をアカデミーに招待すれば、きっとエミリーは驚くわ。

他のみんなも絶対喜ぶのに……。

ご挨拶が終わっても、ノアは私を離そうとしない。

少しでいいから、離れたい。

「ね、今日は公式行事ではないのでしょう?」

「うん。そうだね」

「だったら、いつもの演技は不要じゃない?」

「どうして? 僕はいつだって君とこうしていたいのに」

 また髪にキス。

「アデルは本当に、僕に挨拶してくださる方々には、興味ないの?」

「そんなことはないけど……」

 みんな名家のお嬢さまばかりだ。

ステファーヌさまのお知り合いとだけあって、少し年上の方が多くて、礼儀作法も完璧で、私なんかイヤミでもなんでもなく、本当に気にかけていない感じで、逆に気後れしてしまう。

てゆうか、現在15歳の私は、多分ここでは最年少だと思う……。

 フィルマンさまの姿が見えた。

やはり華やかな女性たちに囲まれている。

彼を中心に、軽やかな笑い声がキラキラとこぼれ落ちる。

「ね、フィルマンさまがいらっしゃるわ。ご挨拶に……」

「兄さんのことは後でいいよ」

 そこへ挨拶に向かおうと思っても、やっぱりノアは私の手を取り、指先にキスをする。

彼の手はずっと腰に添えられたままだ。

「ね、ちょっとくらい離れてもいいんじゃない? こんなに、べったりじゃなくちゃダメ?」

「僕は片時も君と離れたくないのに」

「そんなに、私を一人にするのは不安なの?」

「僕は君といたいんだよ」

「ノアの目から見ても、私はここにふさわしくない?」

「そうじゃない。そんなことじゃないんだ」

 窓の外には、針葉樹の涼しげな森と山脈が広がる高原の避暑地だ。

落ち着いた内装も、壁にかけられた絵画も、置かれた燭台も、何もかもが趣味のよいものばかりで、上品な音楽と、甘いお菓子とお茶の香りで、会話も弾んでいる。

「君に会えない間、僕がどれだけ寂しい思いをしているか、どうしたら分かってもらえる? 僕はいつだって君に会いたいと思っているのに。アデルはそうじゃないの?」

ノアはまた手にキスをする。

「まぁ、こんなところで……。恥ずかしいわ、ノア」

 あの方のお顔も見たことがある。

あの方も、あの方もだ。

みんな著名な方ばかり。

どうにかしてノアから離れ、ご挨拶したいのに、ノアは絶対にそれを許そうとはしない。

「ね、ノア」

「ん? どうした?」

「ちょっとだけ離れちゃダメ? 他の人とも、お話しがしたいの」

「今日は……、ずっと側にいて。君だけしか見えない。離したくないんだ」

 会場に華やかなため息が漏れる。

振り返ると、ステファーヌさまがいらしたようだった。

「おや。ノアはさっそくアデルを独り占めにしているのかい? いけない子だね」

 肩までの真っ直ぐな髪が、サラリと流れる。

白金の髪と眩しいほど鮮やかな青い目は、第一王子の名にふさわしい優雅さだ。

「今日の一番のダンスを、アデルにお願いしようと思っていたのに。これではお誘いしにくいじゃないか」

 ノアの目の前で、私にその手を差し出す。

「私の誕生日なんだ。アデルを借りても、今日くらいは許してくれるだろう?」

 ノアはムッとした表情を隠せてない。

ステファーヌさまと、その周囲を取り囲む人々がクスクスと微笑む。

「あぁ、やっぱりノアは難しいなぁ」

「ステファーヌさま。本日はお招きありがとうございます。大変な光栄ですわ」

 そんな申し出をお断りする方が、失礼でしょ。

手を重ねたとたん、音楽が始まる。

「ふふ。こんなことをして、後で怒られるのは私ですね」

 ステファーヌさまはとても洗練されたステップで、優しくもしっかりとしたリードをされる方だ。

軽やかな音楽に、軽快なステップは続く。

「ここへ来るのは、怖くなかったの?」

「そ、そんなことは……。だって、お誕生日会ですもの」

「ふふ。そうだね。君はそういう人だった」

 ステファーヌさまが頬を寄せてくる。

そこに軽くキスをされ、顔は真っ赤になる。

その耳元で王子はささやいた。

「見てごらん。ノアはもうヤキモチをやいてる」

 そのノアの周りを、女性たちが取り囲んでいた。

その姿に、なぜか胸がチクリと痛む。

「アデルはこの会場を見て、どう思った?」

「と、とても素敵で……。私なんかが、ステファーヌさまの最初の相手でよかったのでしょうか」

「むしろ君じゃないと、後が面倒くさいからね。助かるよ」

 音楽が終わると、フィルマンさまが待ち構えていた。

「今日は一番を兄さんに譲ったけど、二番は俺がいただくよ」

 そのまま交代。

次の曲では、フィルマンさまの手の内でくるくるとあしらわれる。

「君は大人気だね。ここにいる全ての女性たちの、憧れの的だ。思う存分、好きなように振る舞うといい」

 そんなことを言われても、素直に「はい。そうします」なんて、言えるわけがない。

ノアの周りには次々と女性たちが集まり、それぞれに挨拶を交わしている。

あれ? リディさまとコリンヌさまも?

「アデル、どこを見ている? この俺と踊っているのに」

 グイと引き寄せられ、額にキスされる。

「お、おやめください。恥ずかしいです」

「はは。君を独り占め出来るのがノアだけだなんて、そんな不公平なことはあるかい?」

「ですが、私は……」

「そんなことはね、俺と兄さんが許さないよ」

 フィルマンさまの手が腰に回る。

ノアと一瞬目が合ったのに、ぐるりと方向転換された。

「ほら。もう君を待つ行列が出来ている」

 次の方と交代する。

初めてお会いする方だ。

自由奔放なお兄さまたちとは違って、さすがに丁寧にダンスをしてくれるし、礼もつくしてくれる。

「初めまして。お会い出来て光栄です」

「どうかお見知りおきを」

 次々と絶えることのないダンスのお誘い。

王宮の舞踏会だと、みんな私に遠慮して、誰も声をかけてこないのに……。

初めてお会いする方々と交わす、他愛のないお話し。

楽しい。

賑やかな会場に、つい視線が泳いでしまう。

あの詩人の方は、ダンスはなさらないのかしら。

他の方とおしゃべりしているみたい。

どうにかしてこちらから、話しかけることは出来ないかな……。

数多くの方々と踊り終えた後でも、おしゃべりは続く。

「まぁ、それではあの絵は、あなたがお描きになったのですか」

「えぇ、そうですよ」

「素晴らしいわ。王宮の中でも、よく話題に上がりますの。ぜひ一度アカデミーへいらしてください。すぐに招待状を送らせますわ」

「ありがとうございます」

 いつの間にか、私の周りにも人垣が出来ていた。

「今度の舞台公演には、ぜひノアさまとお越しください」

「えぇ、喜んで。楽しみにしております」

「アデルさま。ぜひ私とも1曲いかがです?」

 ダンスの相手は次々と現れる。

その誰も彼もが、断りたくても断れない有力貴族の男性だ。

「えぇ、よろこんで」

 流れる音楽に合わせて、その腕に身を任せる。

この方は、ステファーヌさまと大変仲の良い腹心とも言えるお方だ。

確かお名前は、ジョセフさま?

「どなたか、気になる方でもいらっしゃいましたか?」

「えぇっと……」

「ふふ。私に遠慮なさることはありませんよ。今日はステファーヌの誕生会です。多少のことは、何でも許されるのですから」

 ノアの姿が見えた。

彼もすっかり招待客に囲まれている。

本当はノアに相談できればよかったのだけど、彼に近づきたくても、今やそう簡単には近づけそうにない。

それに、本当はさっきだって……。

「あの……。あちらに、詩人の方がいらっしゃるでしょう? ジャンさまとおっしゃったかしら」

「あぁ。今をときめく大変な流行作家ですね」

「わ、私、あの方の作品に、とても感銘を受けまして……」

「なるほど。ふふ。いいでしょう。アデルさまのお役にたてるのなら、私の本望でございます」

 ダンスが終わる。

彼の腕は、サッと私をエスコートした。

迷うことなくジャンさまの元へ向かう。

「こんにちは。どうか私たちも、おしゃべりの仲間に加えていただけないだろうか」

「こ、これは! ジョセフさま。もちろんですとも」

 彼を取り囲んでいた人垣が、私たちのために場を譲った。

「どうぞ。アデルさま」

「あ、あの……」

 緊張する。

彼と話したと言えば、どれだけエミリーは驚くだろう。

お気に入りの詩編のこと、言葉の解釈や、創作の裏話。

その時どこで何を思って紡いだのか、話題は尽きない。

誰かと話して、本当に心から、こんなにも楽しいと思えたのは、久しぶりかもしれない。

「あぁ、ジャンさまとお話しできて、とても楽しかったです」

「それは僕も同じです。アデルさま」

 一礼をして、そこを離れる。

人気作家の彼の周りには、すぐに新しい別の輪が出来ていた。

隙をみて、空いていたソファへ腰を下ろす。

ようやく一息ついた。

 喜びと緊張に、まだ胸がドキドキしている。

広間に集まった人々は、軽やかに優雅に、それぞれ楽しんでいるようだった。

開け放された窓からは温かな春の風が吹き込み、王宮の大胆な豪華さにはない、シンプルながらも洗練された装飾は、ステファーヌさまの潔いご気性そのものだ。

 ふと自分がいま、たった1人だけで座っていることに気づく。

ノアと来たつもりだったのに、完全に離れてしまった。

そのノアは、コリンヌさまとダンス中だ。

ゆったりと流れる音楽に、穏やかなダンス。

ノアのリードで、彼女の白く軽やかなスカートが翻る。

「アデルさまは、今日はどうしてこちらに?」

 ふと気づけば、リディが隣に座っていた。

「ステファーヌさまのお招きを受けたのです」

 それ以外に、どんな理由があるというのだろう。

「まぁ! ……。ふふ。そうでしたわね」

 彼女は扇を広げると、その顔を半分ほど隠す。

「とても気丈なお方だとは思っていたけれど、ここまでとは思いませんでしたわ。ですが、これで少し私たちの気も軽くなりました」

 リディが隣に来てから、ここにいる女性たちの視線が、集まっているのを感じる。

彼女たちはチラチラと絶え間なく、私を盗み見る。

「人生は、楽しんだ方が勝ちですもの。アデルさまも、そうお思いでしょう?」

「えぇ、もちろんです」

 彼女はその言葉に、クスリと微笑んだ。

「そうよね。私も勘違いをしていたわ。あなたはノアさまの正式な婚約者さま。そうなるように、すでに躾けられている方ですもの」

 真っ赤なドレスをきらびやかになびかせ、立ち上がる。

「私も負けてはいられませんわ」

 リディはそのまま、パーティー会場へと戻っていく。

ノアが私に気づいたようだ。

こちらに向かってやって来る。

途中リディは彼に何か声をかけたのに、ノアはそれをすり抜けた。

目の前でひざまずく。

「どうか僕と、1曲踊っていただけませんか?」

 彼はにっこりと微笑み、手を差し伸べる。

本当はもう疲れていて、少し休みたいのに……。

ノアはそれを察してくれない。

「あの……」

 どうしよう。

断りたいけど、周囲の視線が気にかかる。

私は仕方なくその手を取った。

「1曲だけね」

「嫌だ」

 立ち上がった私の頬に、ノアはすかさずキスをする。

「どうして僕から離れたのさ」

「離れたって……。ステファーヌさまのお誘いを断れる?」

「断ればよかったじゃないか」

「そんなの無理よ」

「ずっと側にいてって言ったのに」

 ノアが怒っている。

踊り出したダンスのリードが、いつもより荒い。

さっきまでノアと踊っていた、コリンヌと目があった。

「ノアだって、他の人と踊っていたじゃない」

「大体、リディとコリンヌの順番だよ。今日はコリンヌの番だったってだけ」

 リードするノアの手が、強く私の手を引いた。

「早く大人になりたい。そうすれば君を、もう誰にも渡さないのに」

「私は誰のものでもないわ。私は私のものよ」

「そうかもしれないけど。じゃあ、君のものの中に、僕を入れて。いや、違う。もうこれから先、僕以外の人とダンスはしないって、約束して」

「どうしたのノア。今日はおかしいよ」

「君が約束してくれるなら、僕はもう君以外の女性と踊ったりしない」

「ねぇ、本当に。何を言ってるの? ノア、今日は変よ」

「約束してくれないと、ダンスは終われない」

 そんな約束、出来るわけがない。

「……。もう知らない。好きにして」

「じゃ、そうする」

 ノアの手が頬に触れた。

その瞬間、唇が重なる。

「ちょ……。ん。はな……はな、し……」

 押しのけようとしても、キツく抱きしめた腕が放してくれない。

彼の唇は何度も吸い付いてくる。

「おっと、失礼」

 ダンスの途中だったのに! 

突然立ち止まってしまった私たちを、誰もが避けなければならない。

ぶつかってしまいそうになるのを、ノアはそのままバルコニーへ連れ出した。

ようやく彼の腕から離れる。

その瞬間、唇を拭った。

「酷い。初めてだったのに!」

「そうだよ。そもそもそれがおかしいんだ。僕たちは恋人同士のはずなのに」

 周囲から、クスクスと笑われているのが聞こえる。

ノアはそれに笑顔で手を振っているけど、私は恥ずかしくて顔を上げられない。

手すりに身を寄せ、誰もいない外に向かって、小さく抗議の声を上げる。

「こんな席じゃなかったら、怒ってた!」

「どうして怒るの? 僕はもう一度したいくらいなのに」

 頬に触れようとする手を、そっと払いのける。

ステファーヌさまのお誕生日会で、喧嘩して騒ぐわけにもいかない。

だけど私の目だけは、ノアをキッとにらみつけたままだ。

「なんでこんなことしたの」

「キスしたかったから」

「もうしないで!」

「だったら、拒否すればいいじゃないか」

 もう一度唇が重なる。

泣き出しそうなのを、じっと我慢している。

こんなところで、抵抗出来ないって分かってて、ワザとしてくるノアはずるい。

見上げる目から、涙がこぼれた。

「! ……。ゴメン。やりすぎた」

 ノアはビクリと驚いたものの、すぐに謝罪の言葉を口にする。

泣き顔を見られないよう、彼は私をそっと自分の胸に抱き寄せる。

「最低」

「そんなに怒るとは思わなかった」

 ノアの胸に顔を埋める。

怒りと悔しさと恥ずかしさで、本当は叫びだしてしまいたい。

「しばらくこのまま、隠しといてあげるから、だからこれで許して。すぐに泣き止んでくれ」

 彼の両腕が背中に回される。

耳元で謝罪の言葉を繰り返しているけど、もう絶対に許さない。

ノアなんか、もう嫌い。

「ほら、アデル。そろそろ機嫌をなおしてくれないと、さすがに兄さんに申し訳ない」

 彼をチラリと見上げる。

そんなことをささやくわりには、まだノアの機嫌も悪い。

「ね。もう泣き止んだ? あっちに行って、今度こそ休もう」

「……。泣いてないから、大丈夫です」

 私は怒っている。

それくらい、さすがにノアも分かっている。

「はは。じゃあ、なおさらよかった」

 彼はふわりとした笑みを浮かべたけど、その横顔は険しいままだ。

私だって、顔は笑ってるけど、心底腹を立てている。

それでもいつもの私たちに戻ると、ノアはそっと私を会場へエスコートする。

「ね、何か飲む? アデルの好きな、クルミのケーキもあるよ。洋梨のパイも」

「いらないわ。お茶がいい。冷たいの」

 ノアは給仕にそれを注文すると、そのまま空いていたソファに座った。

手にキスをする。

「ご機嫌は直った?」

「直ってない。今は我慢してるだけ」

 彼は握った手を何度も握り返しながら、ずっと繋いだままだ。

「それは、兄さんの誕生日だから?」

「それ以外に、なにかある?」

「はは。じゃあ、ステファーヌ兄さんに感謝しないといけないな。おかげで僕は、アデルに怒られないですむ」

 自分の顔が、怒りで赤くなっているのが分かる。

とにかく恥ずかしい。

早く帰りたい。

あんなことをされたのに、平静を保っていられる自分のことも嫌でしょうがない。

ノアも怒っている。

それでも静かに微笑んだ。

「君が、本当にそう思ってくれているのなら……。僕はうれしいよ」

 明らかに表情は固く沈んでいるのに、何の気もなく、そんなことを言えてしまうノアが悔しい。

この人は本当に、この場さえ乗り切れればそれでいいんだ。

ステファーヌさまが近づいてくる。

「やぁ。随分楽しんでくれているみたいだね」

 ノアが立ち上がるのに続いて、私も立ち上がった。

「兄さん。お誕生日おめでとう」

「ステファーヌさま。おめでとうございます」

「ありがとう」

 型どおり決められた笑顔を浮かべた私たちに、ステファーヌさまは、フッと笑みを浮かべた。

「丁度いい機会だと思ってね。アデル。君に紹介したい人がいるんだ」

 フィルマンさまに連れられ、リディとコリンヌが進み出る。

「アデル。君もこの二人のことは知っているね。将来、ノアの妃候補となる方たちだ」

 ステファーヌさまに紹介され、二人は膝を折り頭を下げた。

「どうかよろしくお願いいたします」

「微力ながら、ノアさまにお力添えしたいと思います」

「いずれも、将来王室の支えとなるのにふさわしい方々だから、仲良くしてやってくれ」

 そう言って、ステファーヌさまとフィルマンさまは微笑む。

ノアはじっと前を向いたまま動かない。

婚約者候補? 私以外にも? 

そんなの、初めて聞い……。

私はにっこりと微笑む。

「もちろんですわ。お二人とも尊敬すべき方だと、以前から密かにお慕いしておりましたの。共にノアさまを支えていただけるのであれば、これほど心強いことはありません」

 私はそう言うと、彼女たちの手をとった。

「どうかこれからも、よろしくお願いします」

 違う。

私だって、ちゃんと知っていた。

分かっていた。

ノアには私ではない、国内の有力候補の中から、ちゃんとしたお妃が選ばれるんだって。

だからオスカー卿主催の馬術大会にも彼女たちはいたし、私の知らない所でも、常にノアは、そんなお妃候補となりうる女性たちと会っていたんだ。

「ありがたいお言葉ですわ」

「もったいなくございます」

「ねぇ、アデル。僕は……」

「ノアにもそろそろ、しっかりしてもらわないと。ちゃんとアデルの方は心得ているじゃないか」

 ノアの言葉を、ステファーヌさまは遮る。

「いつまでも現実から逃れていてはいけないよ。お前にもこの国に生まれた王子としての役割がある」

 広間には優雅な音楽が流れ、集まった人々はダンスをしたり、おしゃべりに花を咲かせたりしている。

リディさまとコリンヌさま以外にも、多くの女性たちが招かれていた。

先ほどから執拗に感じる視線の痛みは、気のせいなんかじゃない。

「恋人ごっこはお終いだ」

 そう言うと、ステファーヌさまは微笑んだ。

その第一王子と同じ笑顔で、リディとコリンヌが応える。

「まぁ、そんな。『恋人ごっこ』だなんて、お戯れがすぎますわ」

「そうですよ。私もリディさまに賛成です。仲睦まじいということは、それだけでよいことでございますもの」

 私も彼女たちと同じ、決められた笑みを返す。

「ふふ。お二人とも、ありがとうございます」

 そうだ。

分かっていた。

知っていた。

だから決して、本気にしてはいけないんだって、自分でもあれほど……。

不意に、フィルマンさまの手が私の腰に回った。

「さぁ、こんなつまらない話しを、アデルもいつまでも聞いていたくはないだろ? 君にはまだ別の仕事がある。さっきから順調に挨拶はすませたみたいだけど、お気に入りは見つかったかい?」

 その腕に連れ去られるように、私はその場を離れる。

「君には第三王子のお妃候補として、もう一つ役割があるだろう。この国には、才能がありながらなかなか世には認められない素晴らし力がある」

 ノアは、リディさまとコリンヌさまに囲まれたまま、ステファーヌさまとまだ何かを話している。

「君にはそういった才能たちの、後ろ盾になってほしいんだ。いつまでも王宮の片隅に、じっと引きこもってばかりいてはダメだ。そうだろう? 君には君の立場にあった役割というものがある」

 今や、この会場にいる女性たちの目は、全てリディとコリンヌに向けられていて、多くの男性の視線と注目は、私に向かっていた。

「君が思うより、この国で君は尊重されているし、世界は広い。君はシェル王国の王女なんだ。それなのにどうして、王宮の隅っこに隠れてばかりいる」

「ですが私には、そのような資格は……」

「資格? 生きて恋をすることに、どんな資格がいるって?」

 そう言った私に、フィルマンさまはウインクを投げる。

「大丈夫だ。君の国のことは心配する必要はない。君はこの国にとって、我がマルゴー王家にとっても、大切なお客さまだ」

「だけど……」

「ほら、難しい話しは今はやめよう。せっかくのパーティーが台無しだ。それとも本当に、お気に入りは見つからなかった?」

「お気に入りって……。私に、パトロン……に、なれとおっしゃっているのですか」

「そう。君がよいと認めれば、世間も注目する。もちろん、恋をするのも自由だ。ノアがそうであるようにね」

 目の前には、ノアのお妃候補である女性たちと、王室の支援を望む若き才能が集められている。

「ノアばかりが君に隠れてこんなことをしているなんて、許せないだろう? 君にも君の人生を楽しむ権利はある。少なくとも俺は、そう思ってるよ」

「それで、今年は呼んでくださったのですか?」

「アデルももうじき、16になる。ちょうどいい機会だと思ったんだ。それに、君にもちょっとは貫禄をつけてもらわないとね」

「貫禄?」

「お妃争いに、負けないように」

 そんなこと、考えたこともなかった。

フィルマンさまを見上げる。

彼はその顔に、優しい笑みを浮かべた。

「君は自由なんだよ」

 添えられていた手が離れる。

その瞬間、私を取り囲む人垣があっという間に出来た。

「アデルさま。これは私の作曲した楽譜です。ぜひ王宮の舞踏会で聴いていただきたく……」

「次の舞台では、大がかりなカラクリ仕掛けを試したいと思っておりまして、そのための装置なのですが、ぜひアデルさまのご意見をうかがいたく……」

「実は、田園の風景画はどうかと考えておりまして……」

 私はにっこりと静かに笑みを浮かべたまま、順番に語る彼らに耳を傾けている。

『大人になれ』と、言われているのね。

私もノアも。

話しを聞いているフリをしながら、その内容は何一つ入ってこない。

「素敵ですわ。ぜひ皆さま一度、アカデミーでご紹介させてください」

 そう答えるだけが精一杯で、自分が何をしているのかも分からない。

こみ上げてくる感情は、悔しさなのか、怒りなのか、悲しみなのか、憎しみなのか……。

 私に必要とされているのは、あくまでその地位や肩書きに対する役割を果たすことであって、個人の感情や好き嫌いなんて、誰も聞いてくれない。

「本当に、素晴らしいお誕生日会だわ」

 そうだ。

セリーヌに教わったんだ。

立ってる時は、手の位置に気をつけろって。

背筋は必ず、伸ばしておくようにって。

いつでもまっすぐ前を向いて、どんな時も微笑みを絶やさず、にこやかに微笑んでいるようにって……。

「アデルさま。お迎えの馬車が到着したとのご連絡でございます」

「そう。すぐに行くわ。では皆さま、ごきげんよう」

 その場を離れる。

歩き出した私に気づいたノアは、すかさず真横に付き添った。

手を握られる。

「僕をおいて、1人で行く気だったの?」

 来た時と同じように、私たちは見つめ合い微笑む。

そうすることが、決まりだから。

退場の挨拶をすませ、廊下へ出た。

扉が閉まったことを確認して、彼の腕から離れる。

疲れた。

今日一日だけで、とんでもなく疲れた。

「……。君も、ずっとここにいられたらいいのに」

「そんなの、無理に決まってるでしょ」

「ゴメン。傷つける気はなかったんだ」

 傷つける? 傷ついたの? 

誰が? 私が? 

誰に? 何に対して? 

そんなこと、ノアには関係ない。

立ち止まった彼を置いて、誰もいない廊下を私は先に歩く。

「僕があの館を出たのは、君から離れようとしたんじゃなくて……」

「ノア。どんな言い訳も、私には必要ないわ」

 そう言って振り返る。

私は私の役割を果たさなければ。

ノアは今、私にそれを求めている。

「分かってる。そうしなければいけなかったんでしょう? 誰のためでもない、あなた自身の立場がそうさせてるだけ。私もそう。あなたと私は同じ。だから、気にしてないから」

「僕の気持ちは、ずっと変わらない」

「私もよ、ノア」

 彼の頬に、そっと手を添える。

いつも見慣れた決して崩れることのない優しい笑顔が、今だけはなぜか険しい。

「もう行かないと、あなたまで叱られてしまうわ」

「馬車まで送るよ」

「ううん。一人で大丈夫だから」

「だけど……」

「ノアは来ないで。一人にさせて」

「……。じゃ、また」

「うん。またね」

 ノアには別の、ちゃんとしたお妃が選ばれる。

政情不安定な外国から来た厄介な姫より、国内の有力貴族の娘を妃に迎える方が、ノアの将来にとって大切なことだ。

優秀な兄王子二人を持ち、国政にやっと参加させてもらえるようになったばかりのノアを思えば、彼の立場も理解出来る。

そういうことなんでしょ?

 一人馬車に乗り込んだ。

数時間の短い滞在を終え、帰路につく。

胸が苦しい。

だけどこれは、どういう痛み? 

私には私の役目があって、ノアにはノアの立場がある。

それは生まれた時から決まっていて、どうあがいたって逃れられるものではないのだ。

頬を伝って何かが落ちる。

初めての感触が、まだ唇に残っている。

もしかしたら、ノアにとっては初めてじゃなかったのかもしれない。

別に何の意味のない、そう、あの黄色い花のプロポーズのような、冗談のようなものなんだ。

それに思い至った時、私はぎゅっとその全てを拭い去った。




第4章


 それからの数日、私は小さな緑の館に籠もっていた。

長雨のせいで気分が落ち込んでいたのが、きっとそうさせた原因なんだと思う。

エミリーや他の数人と、何度か手紙のやりとりはしていたし、ステファーヌさまのお誕生日会で挨拶をした、2、3の男性からも手紙が届いている。

サロンや展覧会への個人的なお誘いと、アカデミーへの招待を念押しする内容だ。

書斎の窓の外には、遠くにノアのいる城が見える。

 あれからノアは、パーティーに戻って楽しんだのかしら。

もしかしたらノアにはもう、心に決めている人がいるのかもしれないな。

いつかあんなふうに、私に紹介したりするのかしら。

「僕の彼女をよろしく」なんて。

降り止むことのない小雨が、さらさらと耳に残る。

そんなノアの声と仕草を、やたら鮮明に思い浮かべてしまう。

「考えたって仕方ないものは、考えてもだめね」

 彼とのことは、自分の中で整理をつけなくちゃ。

とっくの昔にそうしたつもりだったのに、古傷が疼くように痛むのは、この長雨のせい? 

 書斎の机に戻る。

セリーヌに用意してもらった紙とペンを取り出すと、サラサラとそれを走らせた。

私の16歳の、誕生日会への招待状だ。

明日はこれをアカデミーへ行って、みんなに配ってこよう。

用が済めば、すぐに帰ってくればいいんだし。

「早くこの雨もやめばいいのに……」

 窓の外は、どこまでもどんよりと続く雨空だ。

私は書き上げた招待状を、もう一度数える。

いつもなら、ノアとポールやシモンたちの分も渡していた。

そうじゃないと、彼はアカデミーの友人たちと、なかなか会う機会もないから。

だけど今年は、どうしても彼らの分を書く気になれない。

エミリーと他二人の女友達に書いた、たった3通の招待状をそっと引き出しにしまう。

 翌日、アカデミーへやって来た私は、サロン前の通路で壁に身を隠していた。

いつもより早めに来たおかげで、あまり人もいない。

普段は見かけないご老人たちが、ゆっくりお茶をしている。

エミリーはまだかしら。

もしかして今日は来ない? 

しまった。

それを確認してから来ればよかった。

まぁ、会えないなら会えないで、誰かに伝言を頼めばいいだけの話しなんだけど……。

「アデル。何してるの?」

 ノアだ! 

慌てて振り返る。

「な、なんでノアがこんなところにいるの!」

「なんでって……。アデルこそ、どうしたの?」

 一番会いたくない人に会ってしまった。

ノアが私の手を取ろうとするのを、掴まれる前にパッと避ける。

「あ、アカデミーに来ただけですけど?」

「ねぇ、アデル。話しがあるんだ。ちょっといいかな」

 そう言って、真剣な顔をしてじっと見つめられても困る。

私には話しなんてない。

「ごめんなさい、ノア。私、これから大切な用事があるの」

「大切な用事って?」

 私はスカートのポケットから、封筒を取りだした。

「この手紙をこっそり届けたいのよ。だからこうして、ここで見張っていたの」

「それは僕と話すより大事なこと?」

「そうよ。大事なことだわ」

 だって今は、ノアとは話したくないから。

キッと見上げた私に、彼は小さくため息をついた。

「アデル。君が怒ってるのは分かるけど、僕は仲直りがしたいんだ。君の誕生日までにね。じゃないと僕は、どんな気分でその日を迎えたらいいのか分からないよ」

「まぁ、丁度よかったわ。私もそのことで話しがるの」

 私はその3通の手紙を見せる。

「実はこの手紙、私のお誕生日会の招待状なの。今年は仲良しの4人だけでやることにしたから」

「それはどうして?」

「女同士じゃないと、出来ない話しもあるの」

「その日の夜は? 僕はちゃんと、いつものように予定を空けて……」

「だって、最近はとっても忙しいのでしょう?」

「忙しいって、どういうこと?」

 じっとのぞき込む視線に、私は目を反らす。

忙しいって、そんなの言わなくっても分かってるくせに。

「仕事はやりくりしてる。君の誕生日なんだ。そのくらい僕にも許される」

「だって、去年の誕生日だって、結局シモンたちと乗馬に出かけたまま帰ってこなくて、やっと戻ってきたと思ったら、昼寝だけして帰ったじゃない」

「そ、それでも楽しみにしてたんだ!」

「私と会いたいんじゃなくて、シモンたちと遊ぶ口実が欲しいだけなんでしょ。そんなの、これからは自分で都合つけてよね」

「アデル!」

「とにかく、これからは何でも私を理由にしないで。ノアにはノアの世界があって、私には私の世界があるの。それをこの間、ステファーヌさまたちから、教えてもらったばかりだわ」

 ノアが怒ってる。

ノアが怒っているけど、私も腹を立てている。

私はもう、ノアの言いなりにはならない。

「……。分かった。じゃあ、君の今年の誕生日には、僕は呼ばれないってことだね」

「そうね。私だって自分の誕生日くらい、演技も遠慮もしないで気楽に過ごしたいわ」

 ノアはくるりと背を向けた。

従者たちは、その後を慌てて追いかけてゆく。

私もそこへ背を向けた。

だって、本当のことだもの。

私と会う時間がなくても、他の女の子と会う時間は確保されている。

いくら私が彼から庇護を受ける身であっても、心は自由なんだって、そこだけは守っていたい。

「あれ、アデル?」

「エミリー」

 ようやく現れた彼女に、招待状を託す。

「ごめんなさいね。今日は少し体調がすぐれないの。これを他の二人にも渡しておいてくれないかしら」

「アデルからの誕生日の招待状ね。えぇ、分かったわ」

「じゃあね。皆さんによろしく」

 本当に気分が悪いんだもの。

嘘はついてない。

ノアともアカデミーの好奇の目からも、逃げたいだけ。

その準備を理由に、私はまた小さな緑の館に引きこもっている。

 そうやって迎えた誕生日当日は、よく晴れた気持ちのよい朝だった。

庭を囲むゼラニウムやペチュニアの花が美しい。

「ねぇ、やっぱりテーブルを外に出さない? その方がきっと素敵だわ」

「かしこまりました。アデルさま」

 今日は、本当に仲のよいアカデミーの女の子3人にしか招待状を渡していない。

ケーキは侍女たちと一緒に焼いたものだ。

口安めのチーズやサラダ、スープとフルーツも用意してある。

「こんにちは。お招きありがとうございます」

「まぁ、いらっしゃい。今日はありがとう」

 エミリーたちがやってきた。

庭に出したテーブルで、ささやかなお誕生日会が始まる。

「お茶のおかわりはいかが?」

「このクッキー、美味しい!」

「ケーキはアデルが焼いたの?」

 楽しいおしゃべりはいつまでも続く。

アカデミーの先生のこと、新しい詩集のこと、流行のファッションやおまじない……。

「そういえば、この間のステファーヌさまのお誕生日会はどうだったの?」

「あぁ、聞きたいわ! それは素敵だったのでしょう?」

「え、えぇ。まぁ、それはね……」

 苦し紛れに扇を開く。

そんなことを聞かれても、話せることはあまりない。

「ね、どうだったの?」

「あぁ、詩人のジャンさまにお会いしたわ」

 とたんに、歓喜の声があがった。

「素敵! さすがステファーヌさまのお誕生日会ね」

「どんなお話しをしたの?」

「そうね。とても素敵だったわ。そういえば、今度彼をアカデミーに招待するって、お約束したの」

「どうだった? やっぱりカッコよかった?」

「えぇ、まぁ……。作品の印象そのままの、とっても優しそうな方でしたわ」

 エミリーは夢見るように天を仰ぐ。

「アカデミーにジャンさまが来られたら、私はそのまま恋に落ちてしまうかもしれないわ。もしそうなったらどうしましょう!」

「そんなこと、あるわけないじゃない。そもそも、ポールとはどうなってるの?」

「今はポールは、関係ないじゃない」

 そこにいたみんなが、声を出して笑った。

彼女の顔は真っ赤になる。

「だいたい、何でもないんだし……」

「だけど、結構いいと思ってるんじゃない? お互いに」

「そりゃ、嫌いじゃないけど……」

「ね、アデルはいつも、ノアさまとは、どんなお話しをしているの?」

「えぇ?」

「だって、参考にしたいじゃない。この中で、もうちゃんとしたお相手がいるのって、アデルだけなんですもの。ね、別々に暮らしているとはいえ、夜には忍んで来られたりするんでしょう? 今夜の予定はどうなっているの?」

 好奇の目が集まる。

そんなもの、何にもあるワケないじゃない。

「ねぇちょっと待って。私たちは、どちらかというと兄妹みたいなもので、婚約者ってのも……って、知ってるじゃない」

「そんなこと言ったってねぇ!」

 彼女たちは、無邪気にクスクスと笑いあう。

「アデルも、ノアさまのことは好きでしょう?」

「それは、嫌いじゃないけど……」

 そんなこと、単なる政略結婚なんだから何とも思ってないだなんて、言いたくてもハッキリと言えるワケがない。

「えぇっと。今日は、ノアは……。どうしても忙しい用事があって、来られないの。だから、この後の予定なんてのも、特にないわ」

「えぇ? 本当に?」

「そうよ。だって、誕生日だからって、特別なことはないもの」

 今日だってきっと、あんな断り方をしたんだから、他の誰かと会ってるのかもしれない。

せっかく空いた時間なんだもの。

例えばこの間のパーティーの……。

「そうよね。ノアさまとアデルは、もう婚約して長いもの。一緒に住んでいた時期もあったし」

 彼女たちは、一斉に落胆のため息をつく。

「うちの両親だって、結婚してしまえば互いの誕生日は冷めたものだわ」

「お誕生日の日はいつもこの館で、みんなでただ騒いで遊んでいただけだったもの。それがこうやって女の子だけで集まるようになったのは、ある意味進歩かもしれないわね」

「男の子たちがいたら、きっともうお菓子は全部なくなっていたわ。今ごろはテーブルも泥だらけで、台無しよ」

「そうよ。そしたら普段のアカデミーで集まっているのと変わらないじゃない」

「この、女の子だけっていう、特別感がいいのよね」

「去年のアデルのお誕生日会だって、結局ポールが馬から……」

 軽やかな笑い声が響く。

私は冷めたお茶を入れ直した。

やっぱり、ノアたちを誘わなくてよかった。

顔を合わせたら、またいつものように甘い言葉と演技で流されてしまったかも。

私はもう、そんなノアは見たくない。

そんな彼に、流されたくない。

芽吹いたばかりの若葉と花の咲き誇る庭を、冷たい一陣の風が吹き抜けた。

「あら、空の様子がおかしいわ」

「本当ね。これは一雨くるかも」

 それまで青く晴れていた空が、黒く厚い雲に覆われ始めていた。

「まぁ、急いでテーブルを片付けましょう」

 侍女たちが慌てて飛び出してきた。

お菓子やお茶のプレートを移動させている間にも、雷鳴が轟く。

すぐに大粒の雨が降り出した。

大騒ぎをしながら、庭からそのままリビングルームへと駆け込む。

外はすっかり土砂降りの雨だ。

「間に合ったみたいね」

 吹き込んでくる雨に、開け放していたガラス扉を閉めようとしている。

蹄の音が聞こえた。

鳴り響く雷鳴と雨音と共に、二頭の馬がそこへ飛び込んでくる。

「きゃあ!」

「ノア!」

 女の子たちから悲鳴が上がった。

馬はいななき後ろ脚で立ち上がる。

それを手綱で制し、ノアはそのまま馬上から飛び降りた。

ずぶ濡れのまま、もう一人の男性と共に部屋へ駆け込んで来る。

「あはは。やっぱり、ひどい雨になったなぁ!」

「だから降るって言ったじゃないですか」

「服から滲みて冷たいな」

「最悪ですよ」

「アデル、タオル貸して」

 髪から滴る雨もそのままに、ノアは手を突き出す。

「……。持って来てあげてちょうだい」

 侍女から渡されたそれで、彼らはぐしゃぐしゃと頭を拭いた。

「やぁアデル。久しぶりだね」

 呆れて言葉も出ない。

女の子たちも、突然の訪問に困惑している。

「悪いね。せっかくのお誕生日を邪魔して」

 本当に最悪。

って、そう思っていても、絶対に顔には出さない。

ノアは濡れたタオルを、バサリとソファに投げた。

「ノア。そちらの方は?」

「僕の新しい補佐役だ。前のヤニスがね、年齢を理由に引退したんだ。だからその後任についた、エドガーだよ」

 その黒目黒髪の男性は、少し照れた様子で胸に手を当てた。

「このような御無礼をお許しください。ノアさまがどうしても、今じゃなきゃ無理だとおっしゃいましたので……」

 歳はノアと変わらないくらい。

一つか二つくらいは上なのかな? 

エドガーと名乗った彼は、とても申し訳なさそうにしている。

「アデルが悪いんだ。紹介しようと思ったのに、城に来ないから」

「だから、急ぐことなんかなかったじゃないですか」

「エドガーもこれから、この家に通うことになるだろ? だったら早いほうがよかったじゃないか。お使いを頼むこともあるだろうし」

 背はノアより少し高いくらい。

筋肉質のしっかりとした体をしている。

彼はタオルを手に持ったまま、まだ少し緊張しているみたい。

「とにかく。これからはこのエドガーが僕の代わりに来ることもあるだろうから、覚えておいてほしいんだ」

「よろしくお願いします」

 そう言ってエドガーは、私に礼をしたあとで、招待客であるエミリーたちにも挨拶をする。

「彼はシュバリエなんだ。士官学校を首席で卒業したからね」

「まぁ、騎士さまでいらっしゃるのですね」

 どうりで。

名門貴族の方とは、何となく持っている雰囲気が違う……。

「これから、サロンにもお越しになるの?」

 私がそう言うと、ノアはエドガーを振り返った。

「さぁ、どうだろう。僕にずっとくっついていたら、そんな暇はないかもしれないな」

「あぁいうところは……。私には、あまり向きませんので」

 真っ直ぐな黒髪の端正な顔立ちに、女の子たちの興味は、すっかりエドガーに向かっている。

「まぁ、ちょっと素敵な方じゃない?」

「温かいお茶でもいかがです?」

 ノアはエミリーたちの方に向き直ると、にっこりと微笑んだ。

「ありがとう。君たちも、彼と仲良くしてくれると助かるよ」

 早速お茶とお菓子が振る舞われ、すっかり馴染んでしまった。

どこまでも弾むおしゃべりには、終わりが見えそうにない。

「それで、ノアは何をしにいらしたの?」

 私は重い口を開いた。

ようやく彼の視線がこちらを向く。

「君の誕生日を、本当に僕抜きで終わらせるつもりだったの?」

「……。だって、今日はどうしても大切な用事があるから、来られないって、そう言ってたじゃない」

 ノアの眉がピクリと動いた。

彼は私の誕生日会に、来たがっていたのに。

その嘘に、ノアはじっと目を閉じてから、静かにそれを開いた。

「ゴメン。君に、そんな思いをさせるつもりはなかったんだ」

 ノアは濡れた上着の内側から、小さな封筒を取りだす。

「だけどどうしても、今日中にこれだけは渡しておきたかったんだ。雨の中でなら、渋々でも部屋に入れてくれると思ったから」

 一歩近づいた彼の手が、私の手を掴む。

その手に封筒を握らせた。

とても軽くて、カサカサしている。

「ねぇ、これはな……」

 ノアの顔が近づき、頬に軽いキスをする。

女の子たちから歓声が上がった。

「じゃ。すぐに戻らなくちゃいけないから。邪魔して悪かった」

 ノアは庭へ続くガラス扉を開けた。

横殴りの雨が部屋へ吹き込んでくる。

「行くぞ、エドガー!」

 そのまま飛び出した。

土砂降りの雨の中を駆けてゆく。

エドガーもすぐに後を追った。

「ア、アデル? いいの? お引き留めしなくて」

 こんなことまでする必要ないのに。

どうしてわざわざやるの? 何が目的? 

エミリーや親しい友達の前でまで、私に演技をさせないでほしい。

頬に残るキスの感触を拭い取る。

「大丈夫よ。だって、本当にお忙しい方なんですもの。こんな雨の中を来てくださっただけでも、幸せだわ」

 せっかくの誕生日が台無しだ。

私はその顔に創り出した笑顔を浮かべる。

雨がやむのを待って、エミリーたちは帰っていった。

見送りを済ませた私は、ベッドに倒れ込む。

ノアの顔なんて見たくなかった。

もうこのまま一生見なくたって構わない。

彼の行動に意味なんてない。

もう一度自分に言い聞かす。

この胸の痛みは本物じゃない。

これ以上私に、嘘をつかせないで……。

そんなこと考えながら、私は誕生日の夜を眠れずにいた。




第5章


 季節は夏になろうとしていた。

誕生日以降、ノアとは一度も顔を合わせていない。

結局はそういうことなんだろう。

私の気持ちを、ようやく理解してくれたんだと思ってる。

 朝になり、目が覚めれば侍女たちがやってくる。

身支度を終える頃には、朝食の準備が出来ていた。

セリーヌがパンと冷たいスープを運んでくる。

「アデルさま、本日は舞踏会にございます」

「えぇ。分かってるわ」

「陛下の代役として、ノアさまとベルトラン公爵さまのお屋敷へ招かれるのですから、くれぐれも失礼のないようにお願いしますよ」

 それなのに、よりにもよって厄介な仕事が舞い込んできた。

「はぁ~。気が重い」

「いつものように、にこにこ笑っていればよいのです」

「今日のレッスンはお休み?」

「さすがに当日でございますから。本番に備えておいてください」

 舞踏会は夜遅くになってから。

せめてそれまでは、部屋でゆっくり過ごしたい。

食事を終え、うっかりするとすぐに始まってしまうセリーヌの小言から逃れるべく、二階の自室に引きこもった。

ソファに横になると、ついウトウトとしてしまう。

「アデルさま。エドガーさまがお見えです」

 扉がノックされた。

「ん、何のご用?」

 気づけば、すっかり午後のお茶の時間を過ぎている。

侍女は扉の横でモジモジと立ちつくしたままだ。

「どうしたの?」

「それが……。アデルさまに直接お話ししたいと……」

 彼と会うのは、あの嵐の日以来だ。

もちろんノアとも、もう一ヶ月以上会っていない。

仕方なく応接室へ下りてゆくと、彼は軍服をぴったりと何一つ緩むことなく着こなし、座っていた。

私の姿を見かけるなり、スッと立ち上がる。

「お久しぶりでございます」

「そうね。ノアからの伝言かしら」

 私が腰を下ろすと、彼もその向かいに座った。

「今夜の舞踏会の件でございます」

「私は来なくてもいいって? 他の方と行くことになったのかしら」

「いえ。そうではなくて……」

 私の言葉に、彼は少し驚いたような顔をする。

だけどそれは、すぐに真顔に戻った。

「夕食を城で一緒にとりたいとおっしゃっております。必ずアデルさまをお連れするよう、申しつけられております。お着替えになったら、私と馬車でご同行ください」

「……。嫌です」

 そう答えたのに、彼は何一つ顔色を変えない。

黒い目がじっとこちらを見据えている。

「ご同行ください」

「嫌です!」

 キッとにらみつけても、微動だにしない。

私は立ち上がった。

「夕食をここで済ませた後、お城へ向かいます。その時でよろしければ、ご一緒します」

 返事はない。

だったら私にも用はない。

立ち去ろうとした瞬間、彼も立ち上がった。

「ノアさまがお待ちです。どうかご支度を」

「セリーヌを呼んできてちょうだい」

「アデルさま!」

 彼はじっと私を見下ろした。

「仮にもお二人は婚約者同士です。将来の夫からの申し出は、妻としては聞き入れるべきものではないのですか」

「まぁ! エドガーさまは、面白いことをおっしゃる方なのですね」

 ノアはどうして、こんな人をここへ寄こしたのかしら。

「なぜノアさまと連絡をとらないのです?」

「彼からも何の連絡もありませんけど」

「ノアさまは、アデルさまから声をかけられるのを、ずっと待っておいででした」

「そんなの、口ではなんとでも言えます」

「お誕生日の日に、会いに行ったじゃないですか」

「事前にお断りしていたのに?」

 そう言うと、彼はグッと押し黙る。

「時間まで、セリーヌに相手をさせましょう。これから長いお付き合いになるのですから、彼女とも親しくなっておくのは当然ですわ」

 きっとセリーヌなら、エドガーを追い返してくれるだろう。

ノアだって納得するに違いない。

「分かりました。ではそのようにノアさまには報告しておきます。それでよろしいですか」

「あら、セリーヌはよろしくて?」

「結構です」

「ノアには、城には入らず馬車で待っていると、お伝えください」

「……。アデルさまは、なぜノアさまを避けていらっしゃるのですか。ノアさまはずっとそれを気にかけておいでです」

 私は、何も分かっていない彼を見上げた。

「ノアが、私のどこに気をかけると言うのです?」

「あなたは、本当にご存じないのですね」

 エドガーは静かに一礼をすると、部屋を出て行く。

私がノアのことを知らない? 

知ってどうするの? 

ノアだって、私のことを何にも知らないじゃない。

知ろうともしてないくせに。

イライラする。

 窓の外を見ると、本当にノア専用の馬車で迎えに来ていたようだった。

公式行事にも使われる豪華な馬車だ。

動き出すその屋根飾りに、わずかな罪悪感を覚える。

それでも今の私には、ノアと顔を合わせるのは嫌で仕方がない。

本当は舞踏会になんて、出席もしたくないのに……。

 夜になった。

イブニングドレスに着替えた私は、ノアの住む城へ向かう。

馬車寄せで下りると、宣言通りそのままベルトラン公爵邸へ向かう馬車に乗り換えた。

しばらくして、ノアが同じ馬車へ乗り込んでくる。

彼はいつものように白を基調とした衣装を着ていて、私もノアのスタイルに合わせた白をメインとしたドレスだ。

髪色に合わせたティーレッドのグラデーションに金糸で細かい花柄が縫い込まれている。

 無言のまま、馬車は動き始める。

ノアは手袋をつけるのに苦労していて、私はじっと窓の外を見ている。

何か話しかけてくるかと思ったけど、結局到着するまで、互いに一言も口を開かなかった。

馬車が止まると、先に下りたノアは私に手を差し伸べる。

下りるのを助けてもらうと、そこからいつものように自然と腕を組み歩き始めた。

松明の並ぶ通路を、出迎えの従者たちが頭を下げる。

城に入り二人きりになったところで、私はその腕から離れた。

ノアの冷たい声が石造りのドームに響く。

「アデル。今日は国王陛下の代理なんだ」

「分かってる」

 その廊下は、絨毯を敷いていても靴音が響く。

会場前の扉に先に立った私に、ノアが並んだ。

「アデル。頼んだよ」

 その言葉に、私は自分で自分に魔法をかける。

キッと前を向いた。

「マルゴー王国第三王子ノアさまと、シェル王国王女アデルさまのご到着です」

 扉が開かれる。

一斉に視線の集まる中、私たちは見つめ合い、にっこりと微笑んだ。

挨拶を済ませ階段を下りる。

「今夜は君を離さないよ」

「まぁ、それは楽しみですわ」

 フロアに着くなり、ノアは私を中央へ連れ出し、ダンスに誘った。

当然、いつものように、互いの手を重ねる。

「エドガーを送ったのに。どうして来てくれなかったの」

「あなたが来ないから、すねてただけよ」

 音楽が始まる。

軽快なリズムに乗って、私は彼の腕に身を委ねている。

「会えなくて寂しかった」

「私もよ、ノア」

 こんな時でしか、何も言わないノアが嫌い。

私がちゃんと返事が出来ないのを知っていて、ワザと聞いてくるこの人が嫌い。

「ねぇアデル……」

 彼のリードに合わせて、くるりと身を翻す。

「僕を許してくれないか。君の顔を見ない日がこれ以上続くのは、もう耐えられないんだ」

「まぁ、あなたが私に許しを請うことなんて、何もありませんのに」

「本当に?」

「もちろんです」

 それでも、そんな彼の言葉を聞いて、安心している自分も嫌い。

「キスしても?」

「頬になら」

 スルリとダンスの輪を抜け出す。

彼の手が頬に触れ、そこにキスをした。

そのまま腰を抱き寄せると、耳元でささやく。

「今夜僕が踊るのは、君とコリンヌだけだ。彼女とは1回だけ踊るけど、怒らないで」

「まぁ、私がそんなことで腹を立てるような人間に見えます?」

 やっぱりノアは、私が何で怒っているのか、その理由を分かっていない。

優しく微笑んで、彼を見上げる。

「ヘンなノア。気にしすぎよ」

「ならいいんだ。君にそう言ってもらえて、ようやく生き返ったよ」

 こんな言葉をそのまま鵜呑みにするなんて、ノアだって都合がよすぎない? 

コリンヌと踊りたいのなら、いくらでも勝手に踊ればいい。

 早速、公爵夫妻が近づいてきた。

何気ない会話で挨拶を交わす。

あれ、ちょっと待って? 

コリンヌとリディとは、順番に踊るって言ってなかったっけ? 

ということは、私の知らない所で、リディと一度は踊ったということかしら。

そんなこと、どうだっていいけど。

だけどそれは、本当に一度だけ? 

もしかして二度三度? 

遠くに、リディの真っ赤なドレスが見えた。

イヤだ。

彼女に声をかけられる前に、せめて私だけでも姿を隠したい。

絶対に話しかけられたくなんかない。

「失礼。飲み物を取ってまいります」

 そう言って、すぐにその場を離れた。

あぁ。他に誰か知り合いがいたのなら、こんな所からすぐに離れて、どこかに行ってしまえるのに。

辺りを見渡しても、自分から声をかけられそうな、親しい人は一人もいない。

見つからないよう談話室に逃げ込んだつもりだったのに、その彼女の扇とスカートが視界を遮る。

それでも私に対し、丁寧な挨拶をした。

「ごきげんよう。アデルさま」

「お久しぶりですね、リディさま」

 彼女はにっこりと微笑む。

「本当ですわ。ステファーヌさまのお誕生日会以来ですわね。クロードさまのお招きには、来ていらっしゃらなかったのに」

 クロードさま? なによそれ、聞いてない。

「えぇ、とても残念でした」

 リディの艶やかな黒髪からは、知らない香水の香りがする。

「ノアさまは、最近お元気がなかったようですけど、どうされたのでしょうか。アデルさまはご存じ?」

「さぁ。ノアは、私の前ではいつも気丈に振る舞っておりますので」

 そんなこと、知るわけないじゃない。

私が最近、アカデミーに顔を出していないことは、どうせ彼女もここにいる貴族たちも、みんな知っている。

アカデミーに行かない限り、ノアと私が会うこともないのも、本当は仲なんて全然よくないことも、全部公然の秘密だ。

彼女はクスリと微笑んだ。

「彼は本音を話さない?」

「まぁ、なんのことでしょう」

「リディ。僕のアデルに、意地悪なんてしてないだろうね」

 ノアだ。

私の腰に手を回すと、そのまま抱き寄せる。

リディは笑った。

「あら、あなたの心配をしていたのよ。ノア」

「僕の心配をどうして君が?」

「フフ。だって、楽しいんですもの」

 ノアは何だか、気まずいような雰囲気で私をのぞき込む。

「行こう、アデル。リディはいつも、僕にだって意地悪なんだ」

「意地悪なんて、私はされてないわ」

「そうよ、ノア。悪いことを言わないでちょうだい」

「だって、本当のことじゃないか」

「まぁ、アデルさまの前で、私の評判まで下げないでくれる?」

 ノアは彼女の不敵な笑みを聞き流し、私を連れ出した。

「あちらで、ラランド伯爵が待ってる」

 リディはそんな失礼な態度も気にせず、にっこりと微笑む。

「いってらっしゃい、お二人さん」

 会場は濃い茶色と黒を基調とした荘厳な雰囲気に包まれ、金に統一された装飾品が並ぶ。

壁には様々な大判の絵画が掛けられ、その下を華やかな衣装に身を包んだ人々がにこやかに行き交う。

公爵家主催の舞踏会にふさわしい風景だ。

 ノアの隣で、私は自分の本当の顔がどんなものだったかすら忘れるくらい、作りすぎた笑顔で立っている。

何の話しをしていたかなんて、一つも残っていない。

ずいぶんリディと仲がいいのね。

ノアがあんな軽口を叩くのは、私だけだと思っていたのに……。

「ねぇ、アデル」

 彼は私の指にキスをした。

「疲れてない? 少し休む?」

「そうね。その方がいいかも」

 私と会っていない間、リディとどんな話しをしたの? 

いつもどこで会っているの? 

聞きたいことは山ほどあるけど、そんなこと、絶対に聞けない。

ノアは私を壁際の椅子に座らせると、また手にキスをした。

「これからコリンヌをダンスに誘ってくる。これは義務だ。分かってるよね。終わったらすぐにレモネードを持ってくるから、ここで待ってて」

 ノアが離れてゆく。

その真っ白な背中は、彼が一人になったとたん、すぐに女性たちに囲まれた。

私はそんな風景を、遠くから何も出来ずにぼんやりと眺めている。

そうか。

私が婚約者だといっても、その立場が確かでないことを知っているから、だからみんな、あんなにも熱心に彼に話しかけるんだ。

私がここからいなくなる日を、誰も彼もが、まだかまだかと待っているんだ。

 ノアを囲む輪の中に、コリンヌが近づいた。

ノアはすぐに彼女に手を差し伸べ、ダンスに誘う。

彼女はその手をノアに重ねた。

ゆっくりとした、親しげなダンスが始まる。

「まぁ、コリンヌさまとノアさまは、本当に絵になりますね」

「とっても素敵」

 私が座っている横で、女性二人が話し始めた。

「コリンヌさまの穏やかな性格は、きっとノアさまとも合います」

 うん、そうだよね。私もそう思う。

きっとノアにふさわしい女性というのは、こういう人のことなんだ。

ノアがこれから先を共に歩む人は、誰からも祝福され、認められ、褒められる人の方がいいに決まっている。

「そうよねぇ~。コリンヌさまは代々続く公爵家のお家柄。他にふさわしい方などいらっしゃいませんわ」

 とても小声とは思えない話し方だ。

私にワザと聞こえるようにしている。

チラリとのぞくと、視線が合った。

私は彼女たちに、無言で笑みを送る。

「それに、ノアさまには年上のしっかりした女性の方が、見ている側としても安心感がありますわね」

「そうよね。躾も礼儀作法もロクに知らない方なんて。ましてや外国からの……」

「伝統も格式も、あったものではないですわ」

「国にはまだお帰りにならないのかしら。いつまでここでノアさまのご慈悲にすがるおつもりで?」

「みっともないわね」

 クスクスと声が漏れる。

私はセリーヌから厳しく禁止されているため息を、思わずついてしまった。

彼女たちは軽やかな蔑みの笑いと共に、言いたいことを言い終え、立ち去る。

そんなこと、わざわざ教えてくれなくたって、分かってる。

 ノアと踊るコリンヌが、にこりと優雅に微笑んだ。

ノアもそれに応えるように、そっと微笑む。

彼の淡いミルクティー色の髪と、コリンヌの亜麻色の髪が、リズムに合わせて揺れる。

二人はいま、どんな話しをしているのだろう。

ノアはやっぱり、私と踊っている時と同じように、甘い言葉をささやくのかしら。

そうよね、当然よ。

頬や髪に触れ、指先にキスをし、きっと私以上に優しく抱き寄せるの。

どうしてそんなこと、今まで考えたこともなかったんだろう。

 社交界デビューは、憧れではあったけど、憧れだけでは済まないみたいだ。

泣き顔を見せたら負けだって、こんなところで泣くなって、いつも自分に言い聞かせていたのに。

扇を広げ、顔を隠す。

それでもクスクスという笑い声が耳から離れないのは、今もそれが私の周辺で、現実に渦巻いているからだ。

「アデル? お待たせ。レモネードを持ってきたよ」

「ありがとう」

 ノアの差し出すそれを、できる限りさっきのコリンヌに似せて、にっこりと微笑み、受け取る。

彼はそのまま、隣に腰を下ろした。

「どうかした?」

「ううん。あの、今日はごめんなさい。体調がずっと悪くて、それで……。それで、しばらくアカデミーにも行けなかったし、今日の夕食も、あまり食欲がなかったの」

「だから断ったの?」

 彼を見上げる。

互いにじっと見つめ合う。

ノアはどんな嘘でも、私の言葉をそのまま信じてくれる。

彼は優しく微笑むと、そっと赤茶けた醜い私の髪を撫でた。

「あぁ、それならそうと、早く言ってくれればよかったのに。アデルは緊張していたのかもしれないね。国王夫妻の代理だなんて、僕にだって荷が重いもの」

 そっと抱き寄せられ、私は彼の胸に顔を埋める。

「無理しないで。困ったことがあったら、何でも言って。ちゃんと教えて。君のためなら、僕はなんだって出来る」

「ありがとう、ノア」

 そんなことを言っても、だけどそれでも、やっぱりリディやコリンヌとは踊るのでしょう? 

今日の出席を、断ることは出来なかったでしょう? 

お城から緑の小さな館へ戻り、一緒に暮らすことは、出来ないのでしょう? 

そんな彼に、私は最上級の笑顔を浮かべる。

「おかげで気が楽になったわ。さ、この舞踏会が終わるまでは、頑張りましょう」

「立てるかい? アデル」

 彼の手が伸びる。

その手に本当にすがることは、決して許されていないのに。

重ねた手は私を力強く引き寄せた。

「よかった。ずっと心配してたんだ。君がアカデミーに来ないから、また僕は君の機嫌を損ねたんじゃないかって。気が気でなかった」

「まぁ、なによそれ」

「だって、空いた時間にアカデミーをのぞきに行くくらいしか、僕は君の姿を見ることが出来ない」

「それでいつもアカデミーに来ていたの? 変なノア」

 クスクスと笑ったら、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「ね、もう1曲踊ってくれる? そうじゃないと、君との時間をすぐに邪魔されてしまうから」

「仕方ないわね。もう1曲だけよ」

 ノアがフロアに立つと、それだけで注目が集まる。

そのお相手は誰だろうと、誰もが首を伸ばし、のぞき込む。

タイミングを見計って、そこに滑り込んだ。

会場に憧れと嫉妬のため息があふれる。

「ね、僕のプレゼントは気に入ってくれた?」

「プレゼントって?」

「誕生日の」

「あぁ、大切に引き出しにしまってあるわ」

「そう」

 彼は、それはとても満足そうに微笑んだ。

嵐の日にもらった小さな封筒は、まだ開けてもいない。

本当は、中の確認すらしていない。

だけど大切にしまってあるのは、嘘じゃない。

「次の君の誕生日に、またあんなことをしたら怒るからね」

「あんなことって?」

「僕をのけ者にすること」

「まぁ、怖い」

「約束だよ」

 グイと手を引かれる。

ノアの唇が、私の口元に触れた。

両手を塞がれているから、それを拭うことも隠すことも出来ない。

ノアはフンと悪戯に笑った。

「これでチャラにしてあげるよ」

 大きくターン。

遠心力に引かれ、ノアと手を離したら、そのまま遠くまで飛ばされてしまいそう。

くるりと回され、また彼の腕に捕まる。

「あはは。アデル、大好きだよ」

 みんなが見ている。

すぐに逃げ出してしまいたいほど、恥ずかしい。

こんなところでキスなんてしないで。

けれど訓練された私の顔は、そのまま穏やかな笑顔を保っている。

リディが呆れている。

コリンヌは笑っている。

さっきまでイヤミを言っていた方々は、眉をしかめている。

それでもノアのステップは軽い。

「ね、僕の誕生日のことも忘れないでよね」

「まだ先じゃない。ノアの誕生日は冬だもの」

「その時はステファーヌ兄さんに負けないくらい、盛大なパーティーにするよ。もちろん君も一緒だ。やっと君を、みんなに自慢できる。僕の素敵な奥さんですよって」

 ベルトラン公爵家での舞踏会は続く。

そこからノアは、決して私を手放すことはなかった。

常に寄り添い、腕を組み、並んで歩いた。

髪を撫で、頬に触れ、そっと指にキスをする。

私は決められた通りにこにこ笑って、時にはノアと見つめ合い、笑みを交わす。

長い長い時間も、ようやく終わりの時を迎えた。

「お疲れさま。アデル。家へ戻ろう」

 ノアの助けを借りて、来た時と同じように馬車へ乗り込んだ。

扉が閉まると、すぐに動き出す。

二人きりになった車内で、私は舞踏会以上に緊張している。

「アデル……」

 向かいに座ったノアが、じっと私を見つめる。

「あの……、ね。そっちの、君の隣に座ってもいいかな」

「どうして?」

「どうしてって……」

 ノアはモジモジと顔をそらす。

そんな彼を見ているのが辛くて、私は視線を自分の足元に移す。

「ごめんなさい。気分が優れないのは、本当なの。ずっとにこにこ笑ってて疲れたわ。こういうお付き合いって、案外疲れるものなのね。私にはまだ、慣れないみたい」

「すごく素敵だったよ。ちゃんと出来てた。誰からも文句なんて言われないさ」

「本当に?」

「うん。僕が言うんだ。間違いないよ」

「ちゃんと、『婚約者』出来てた?」

「あ……。うん。それは……、出来てたよ……」

 彼のその言葉に、私は安心したように、にっこりと微笑む。

その笑顔が、引きつってなければいいのだけれど。

「じゃあよかった。これで誰からも、笑われないですむわ」

「誰が君のことを笑うの? 笑われた? 今日の舞踏会で? なんだったら僕が……」

「違うの、一般的な話しよ。誰か特定の個人の話しじゃないから。あまり悪く言わないで」

 ついため息を漏らしてしまう。

その吐息に、ノアも口を閉ざしてしまった。

王宮までは、まだ遠い。

「ねぇアデル。やっぱり、隣に行ってもいい?」

「はは。ありがとう、ノア。何だかノアと話して、本当に気が楽になったわ。ノアから、ちゃんと婚約者さまを出来てたって言われたのなら、心配する必要はないわね。これからも、この調子でやっていきましょう」

「うん」

 ノアはまだ何かを言いたそうにしているけど、そんなことには気づいてあげない。

「明日は朝寝坊しても平気ね。それはうれしいわ」

「帰りが遅いから。普段の時間に起こされたらたまらないよ」

「ノアはまだ、寝起きの機嫌が悪いの?」

「アデルは? アデルは、朝はもう平気になったの?」

 私はワザと、今度は軽い息をフッと吐いて、静かに微笑む。

会話すら弾ませたくない。

「もう子供じゃないもの。いつまでもグズグズ寝てたりなんかしないわ」

「ねぇ、アデル。僕はやっぱりそっちへ行きたい。行ってもいい?」

「何だか変な気分ね。私たち恋人同士でもないのに、二人きりで馬車に乗ってるなんて……」

「恋人じゃない。結婚を約束した、婚約者同士だよ」

「だけど、そんなつもりは何一つないもの。ノアだってそうでしょう?」

「アデルは、僕のこと嫌い?」

 だからお願い。

そんなことを聞かないで。

これだから二人きりになるのは、どうしても避けたいの。

「嫌いじゃないわ。大好きよ。もちろんじゃない。じゃないと、こんなところに大人しく座って、笑ってなんかいないわ」

「うん、そっか。ならよかった」

ノアは微笑む。

それに合わせて、私も微笑む。

「馬車は、城ではなく君の館の方へ先に寄らせよう。そうすれば、少しでも長く一緒に居られるから」

 ノアは御者に指示を出すと、またじっと私を見つめた。

その視線に耐えられなくて、今度は真っ暗な窓の外を見るフリをしながら、横顔を向ける。

そのまま王宮の小さな館に到着するまで、二度と目を合わせることはなかった。





第6章


 本格的な夏が来た。

私は相変わらすアカデミーへ通い、時折すれ違うノアと手を振り合うだけの日々を送っている。

ノアの方から話しかけてくることはなく、私にも話さなければならないことなんて、何もない。

「リディさまとノアさまは、川遊びにお出掛けになっていたらしいわよ」

「この間、コリンヌさまのお茶会に招待されたら、そこにノアさまもいらっしゃって……」

 小さな緑の館から一歩外に出ると、色んな噂が耳に入る。

「あら。ノアが元気にしているのなら、幸いですわ」

 私はにっこりと、それらに笑顔で応える。

アカデミーのメンバーも、次々に社交界デビューを果たし、色々な話題を拾ってくるようになった。

結局、私自身の身を守っているのは、たとえそれがどれだけ不安定なものであったとしても、「隣国の王女」という肩書きと、その外交的な立場から「第三王子の婚約者」であるという建前だった。

どんな名門貴族のお嬢さまも公爵さまも、その背景に膝を折り頭を下げる。

次第にくだらない噂と好奇の目に嫌気がさし、アカデミーからも遠のいてしまっていた。

「アデルさま。エミリーさまから、お手紙が届いております」

「そう」

 ジリジリと焼け付くような日射しから逃れ、バルコニーの寝椅子で受け取ったそれを、はらりと開く。

手紙は彼女からの、夏のラロシュ子爵家の別荘へ遊びに来ないかという知らせだった。

私は飛び起きると、階段を駆け下りる。

キッチンで銀食器を磨いていたセリーヌに抱きついた。

「大変よ、セリーヌ!」

「まぁ、アデルさま! こんなところにいらっしゃるなんて、何事ですか」

「ねぇ、セリーヌ。エミリーの夏の別荘になら、私も行っていいでしょう? 昔一度、行ったことがあるし!」

「他の侍女たちの前です。静かにしてください」

「セリーヌがいいって言ったら、今すぐにでもここを飛び出て行くわ」

「あぁもう! とにかく一旦お引き取りください」

「ね、お願いね、セリーヌ!」

 招待状をセリーヌに押しつけると、また階段を駆け上がる。

「やった! 楽しみ!」

 廊下で飛び跳ね、くるりと一回転! 

書斎の扉をバタンと閉めた。

お返事を書かなくちゃ。

サラサラとペンを走らせる。

『お招きありがとう。必ずセリーヌを説得して、エミリーに会いにいくわ!』

 その5日後には、私は高原の避暑地へ向かう馬車へ飛び乗っていた。

「アデル、我がラロシュ家の別荘へようこそ!」

「お招きありがとう。エミリー。おかげで素敵な夏になりそうよ」

 馬車を降りるなり駆け寄ってきたエミリーと、互いの手を取りあって喜ぶ。

「ね、いつまでいられるの? 夏の間中?」

「さすがにそれは無理よ。本当はそうしたいところだけど」

「それは残念だわ。だけど、思う存分楽しんでいって! ここでは、あなたを縛るものはなにもないもの」

 深い森に囲まれた、青い屋根の素敵な館だ。

ゲストルームもふんだんにある。

一階のフロアだって、小さな舞踏会を開くのに十分な広さだ。

庭は自然な形になるよう、人の手で植えられた鮮やかな木々が、静かにたたずんでいる。

二階のテラスに案内されると、さっそくおしゃべりが始まった。

「みんなが心配していたのよ、アデル。アカデミーへ全然来なくなっちゃったから。何かあったんじゃないかって」

「だってもう、アカデミーも卒業する歳だもの」

「だけど、アデルは自由に招待されたり、したり出来ない立場だもの。せめて離れの館ではなく、お城にいられたら……」

「ねぇ、そんなつまらない話しはやめましょうよ。もっと楽しい話しがいいわ」

 エミリーはフゥと一つ息を吐き出すと、話題を変えてくれた。

「そうね。私もそっちの方が好きだったわ」

 それからは、刺繍の話し、新しい手袋とハンカチのこと、流行の髪型と靴について。

「凄い。全く知らなかったわ。エミリー。やっぱりあなたは最高ね」

「まぁね。そのあたりの情報収集力は任せて」

 エミリーはニッと笑うと、顔を近づけた。

「ね、実は今日、麓の村で夏祭りがあるの。結構賑やかなお祭りで、周辺からも沢山の人が来るわ。そこへ村娘の服を着て、見物にいくのはどうかしら?」

「えぇ? ……。そんなこと、本当に出来るの? やっても大丈夫なの?」

「大丈夫よ。私、毎年こっそり行ってるの。うちの護衛も慣れてるから、今年くらいアデルも一緒に行って大丈夫よ」

「本当に?」

 彼女は力強くうなずく。

「凄いわ、エミリー! 本当は私も、一度は行ってみたかったの、そういうところ!」

 夕方になり、日が沈むのがこんなにも待ち遠しいなんて、初めてかもしれない。

私たちは侍女から借りた服とエプロンを身に纏うと、外へ飛び出した。

「ね、こんなの初めてよ。ドキドキする!」

「そうでしょう? 私もこのお祭りのために、この時期はここへ来るの。ようやくアデルを誘えてうれしいわ」

 バスケットには、少しのお金を入れてある。これで自分で買い物も出来るんだって!

「大きなかがり火の周りで踊るのよ。それはワルツなんかじゃなくてよ」

「本で読んだことがあるわ。腕を組んで、ぐるぐる回るのでしょう?」

「ふふ。きっとアデルなら、一度見ればすぐに覚えられるわ」

 二人で腕を組み、森の小道を駆け下りる。

真っ白なエプロンとふわふわのスカートは、いつもと違ってとっても動きやすい。

お祭り会場はすぐに分かった。

村はずれの広場に大きな櫓が建てられ、ごうごうと天まで炎があがっている。

村の通りや会場周辺には飲み物や簡単な食べ物を売る屋台が立ち並び、楽隊がひっきりなしに賑やかな音をたてている。

「すごい人ね!」

「アデル。護衛がこっそりついているとはいえ、はぐれないで」

「えぇ、一緒にいましょう」

 人混みの中を縫うように進む。

肩と肩がぶつかっても、ご挨拶もなしだ。

お酒と何かを焼く煙と、色々な臭いが混ざっている。

村中につるされたランプの明かりで、世界は一色に染まっていた。

この屋台では串に刺した肉を、ここでは水飴を。

別のところでは髪飾りや鈴を売っている。

エミリーは一件の店の前で立ち止まった。

「ここのリンゴ酒が美味しいのよ。毎年この時期にだけ出されるお酒なの。ね、アデルも飲むでしょう?」

「お酒なんて、飲んで大丈夫なの?」

「大丈夫。そんなに強くないし、いま、ここじゃなきゃ飲めないお酒よ」

 エミリーが二人分の料金を払う。

店主は愛想良く木製のカップにお酒を注いだ。

「ねぇ、本当に大丈夫?」

「美味しいわよ。飲んでみて」

 エミリーは、私の耳元でささやいた。

「実は私、毎年、このお酒が楽しみで来てるの」

 そう言うと、彼女はそれを一気に飲み干した。

「んー! これよ、コレ!」

 私は恐る恐るカップに口をつける。

甘酸っぱいリンゴの酸味と弾ける炭酸が、口いっぱいに広がった。

「美味しい!」

「でしょ? ね、かがり火の方を見に行ってみましょ」

 彼女に手を引かれ、再び人混みの中を進む。

お酒が入ったせいか、体がぽかぽかして、足元もふわふわする。

「ねぇエミリー? なんだかとってもいい気分だわ」

「ふふ。そうでしょう? あまりハメを外しちゃダメよ。アデルさま」

「まぁ、それはエミリーも同じでしょ?」

「あはは。それもそうね!」

 彼女は人差し指を口元に押し当てると、パチリとウインクした。

火祭りの舞台では、二拍子の軽快なリズムに乗って、村人たちが陽気に踊っている。

王宮の優雅な舞踏会しか知らない私には、全く想像もつかない光景だ。

賑やかに笑い、楽しそうに男女が入り乱れて踊る様子は、見ているだけでも心が躍る。

「ね、エミリー。私にも踊れるかしら」

「もちろんよアデル。ここでちょっと練習しましょ」

 辺りはすっかり夜が増していた。

立ち上る炎から少し離れたところで、私たちは向かい合いスカートの裾を持ち上げる。

「ね、これで合ってる?」

「えぇ、とっても素敵よ。アデル」

 見よう見まねで、拙いステップを踏む。

少し酔っているせいか、足がフラフラとしておぼつかないのに、それがおかしくて仕方がない。

「あはは。また間違えちゃったわ。転んでしまいそう!」

「私もよ、アデル。本当に転んだら笑ってね」

 エミリーと腕を組む。

反対の腕を高く掲げ、音楽に合わせてめちゃくちゃに飛び跳ねる。

「あはは。とっても素敵な夏祭りね」

「ね、後でまたリンゴ酒のおかわりをしに行きましょ」

 目が回る。

私たちはバタンと同時に倒れてその場に尻もちをつくと、大きな声で笑いあった。

「やだ、お尻痛い!」

「エミリー大丈夫?」

 ただそれだけのことなのに、おかしくておかしくて仕方がない。

こんなに笑ったことなんてない。

笑いすぎてお腹が痛い。

 ふと私たちの上に、黒い影が落ちた。

見上げると、見知らぬ村男二人が立っている。

「君たち、どこから来たの?」

「さっきからずっとここで練習してるでしょ。かわいいね」

「中に入りたいんだったら、俺たちと一緒に行かない?」

 歳は同じくらい。

日に焼けた顔に、白い歯を見せてにこっと微笑んだ。

「今夜は祭りの夜だしさ」

「まぁ、今日だけはこういうのもアリってことで」

 手が差し伸べられる。

私には、それをどうしていいのか分からない。

なのに気持ちは、その指先に引き寄せられている。

伸ばされた彼の手が、私の手に触れた。

「俺たちと一緒に踊ろ」

「アデル!」

 私の両肩を、誰かがグッと背中から引き戻す。

短く真っ直ぐなミルクティー色の髪が揺れた。

「ゴメン。待たせたね」

 ノア? なんでこんなところに?

「遅くなった。探したんだ」

 その後ろには、ポールも立っている。

私たちに声をかけてくれた男の子たちは、すぐにどこかへ行ってしまった。

「アデル? どうしたの?」

 ぼんやりとしている私を、ノアがのぞき込む。

夢を見ているみたいだ。

「ノア? 本当に?」

 彼の頬に触れる。

私の触れたそれは、ほんのりと赤みを帯びた。

「本当だよ。ちょっと移動しよう」

 肩に手を添えたまま、私を立ち上がらせた。

ノアは質素な白シャツとサスペンダー、茶色いパンツ姿で、さっきの村男たちと変わらない。

「驚いたのかい? ビックリしたよね。歩ける?」

「えぇ、全然大丈夫よ」

 耳元でささやくノアの顔が、私がそう答えた途端、ムッとしかめ面になった。

「アデル、お酒飲んだの?」

「エミリーは?」

「エミリーは、ポールが相手してるよ」

 ノアに連れ添われたまま、後ろを振り返る。

エミリーとポールは口げんかをしているようだった。

「ねぇ、助けにいかなくちゃ」

「あっちは彼らに任せておきなよ」

「どうして?」

「いいからさ」

 ノアに手を引かれ、お祭り会場から離れた。

夜の草原の小道を歩き、すぐ側に見つけた牧場の柵に腰掛ける。

その手が頬にかかる髪をかき上げた。

「ね、エドガーはどうしたの?」

「なんでエドガーの話し?」

「だって。じゃあなんでポールと?」

 空には一杯に無数の星が広がり、遠くに祭りのかがり火が見える。

真っ黒い牧草は、海のように風に揺らめいた。

ノアの指先が頬を滑る。

そこへ顔が近づいてくる。

「違うのよ、ノア。なんであなたがここに居るのかってこと!」

 その顔を押しのける。

「アデル、酔ってるでしょ」

「私の話、聞いてる?」

「君がエミリーの別荘に行くと聞いたからさ」

 ノアは私の手を掴むと、それを自分の口元にすり寄せ、キスをした。

目を閉じ、頬にすりつける。

「エミリーから聞いたの?」

「そうだよ」

 ノアは唇で私の指を噛む。

目を閉じたまま、ずっと自分の口元に私の手を添えている。

ノアが話すたびに、その唇が触れる。

「もしかして、怒ったの?」

「……。裏切りだわ」

「どうしてさ。僕が会いたいからって、頼んだんだ」

 振り払おうとしたその手を、彼はぎゅっと握りしめた。

ゆっくりと額を合わせてくる。

舞踏会でもないのに、ノアとの距離が近い。

「ね、約束して。もう僕がいないところで、お酒は飲まないで」

「そんなの、約束できない」

「仕方ないな。じゃあずっと見張ってなきゃいけないじゃないか」

「ね、会場に戻りましょ。エミリーを探さなきゃ」

「もう行くの?」

「行くの!」

 立ち上がろうとした私を、ノアは引き寄せる。

繋いだままの両手で、もう一度抱き寄せた。

それでも無理矢理立ち上がったら、彼も仕方なく動いた。

「ん……」

 ふらつく私を抱き留める。

「急に立ち上がったりするからだよ」

「そ、そんなこと言ったって……」

 ノアの体にもたれかかる。

「ふふ。全く。困ったアデルだな」

 そう言うノアが、嬉しそうに見えるのはどうして? 

手を引かれ歩く私が、小石につまづくのを彼は振り返った。

「ね、僕も君が飲んだお酒飲みたい。どこで飲んだの?」

 エミリーはすぐに見つかった。

広場前の土手に、ポールと座っているところを合流する。

エミリーのリンゴ酒を飲もうというノアの提案に、ポールだけが渋っていたけど、結局4人でその屋台前に立った。

「うん。これは美味しいね!」

「でしょう?」

「まぁ、確かに美味いけどさ……」

 エミリーは得意げにフンと上を向いた。

「ポールにはまだ、お酒の味が分からないのね。私はもう一杯飲んじゃお」

「あ~ぁ。やっぱお前最悪」

 彼女は再びグビグビとカップをあおった。

「ねぇ、大丈夫なの?」

 心配する私に、ノアはニヤリと微笑む。

「アデルも飲んだら。僕が見張っててあげるよ」

 ノアのカップが、私の持つカップにコツンとぶつかった。

挑発的なその表情に、私は覚悟を決めた。

「ノアになんか、絶対に負けないから!」

「あはは」

 カップをすっかり空にして、私たちは村の大通りを駆け出した。

ごうごうと燃えさかるかがり火の周りで、ダンスの輪はさらに大きくなっている。

「アデル。おいで」

 ノアの腕が伸びる。

私はその手を掴んだ。

燃え上がる炎に照らされ、頬が火照っている。

飛び交う火の粉が、チラチラと髪をこがす。

ノアの刻む軽快なステップに、何度も笑い転げた。

ぐるぐる回れば世界も回る。

大きな踊りの輪の中で、パートナーが入れ変わった。

踊りの渦の中で、ノアの姿が離れていく。

「あ、ちょっとま……」

 人混みの中、彼の澄んだ瞳と目があった。

ノアは見知らぬ女性と踊りなからも、視線は私を捕らえて離さない。

くるくると絶え間なくダンスの相手を変えながらも、私も彼だけを追いかけている。

「アデル」

 大きなうねりの中を、ノアが戻ってきた。

「ノア、よかった。戻って来た」

「僕から離れないで」

 再び互いの手が触れあい、指先を絡める。

「アデル?」

 その瞬間、私の頭はくらりとして、そのまま彼の胸に倒れ込んだ。





第7章


 不意に目を覚ますと、そこはベッドの上だった。

頭はぼんやりとして、胸焼けがする。

気持ち悪い。

吐き気とズキズキする頭の痛みに、重たい体を起こした。

「あぁ、ここはエミリーの別荘だったわ……」

 窓の外には、針葉樹の森が見える。

服は昨夜の村娘の格好のままだ。

少し焼け焦げたような臭いまでする。

のろのろとベッドから起き上がると、廊下に出た。

すっかりお昼を過ぎている。

「あら、アデルさま。お目覚めですか?」

「エミリーは?」

「まだお休みでございます。昨夜はポールさまとノアさまが、お二人をここまで送ってくださったのですよ」

 身支度を整え、談話室に入る。

しばらくして、エミリーも入ってきた。

ぐったりと疲れた様子でソファに腰掛ける。

「アデル、体調はどう?」

「最悪ね。エミリーは」

「私も」

 互いの視線がピタリと合った。

その瞬間、不意におかしくなって、つい二人で笑いだす。

「ふふ、でも楽しかったわ」

「私もよ。お酒飲んだの初めてだったもの。エミリーは違ったんでしょうけど」

「あら。私だって2杯も飲んだことはなかったのよ。酔っ払うって、こんな感じなのね」

 ノアと二人で歩いた、ランプで繋がれた明かりと村の雑踏を思い出す。

かがり火の踊りの渦の中で、振り返り微笑んだ彼の姿が、まだ焼き付いている。

「ねぇ。ノアは? 今どこにいるの」

「聞いてないの?」

「だって、私もよく分からなくなっていたから……。てゆうか、なんでノアがここへ?」

「ごめんねアデル。ノアさまがどうしても、アデルに会いたいからって……」

「それで私をここへ呼んだの?」

「それもあるけど、私自身が本当に、あなたと会いたかったからだってのは、信じてほしい」

「うん。もちろんそれは、分かってるけど……」

 何となく、ノアと顔を合わせ辛かったのが、別の意味でまた合わせ辛くなってしまった。

かがり火の渦の中で立てなくなって、ノアに倒れかかって、そのまま……。

「ノアさまは、アデルになんて?」

「……。別に、何も言ってないわ。ただお互いに酔っ払って、踊ってただけよ」

「そうなの?」

 そっと唇に触れる。

キスされた気がするけど、よく覚えていない。

「で、どうしてノアがここへ? 今はどこに居るの?」

「ノアさまは、ポールと一緒にシモンの所へ避暑に行くことになってるの。だから、ノアさまとポールは、シモンの別邸にいるはずよ」

 そう言うと、エミリーは手紙を取り出した。

それはノアからエミリーへ送られた、この夏の予定をびっしりと書き記したものだった。

「ほら、ね。ノアさまが私たちに召集かけて、この計画を立てたのよ。凄くない?」

 そう言って、エミリーは笑う。

「めちゃくちゃ綿密に立ててたんだからね。アデルとこの夏を過ごすために」

 確かにノアの文字で、彼が休暇を取る日程から、シモンの別邸移動する方法まで、細かく指示されている。

「ね、これからシモンのところへ、一緒に行ってみない?」

 ノアがこの計画を立てたというのなら、私も彼の夏の予定に入ってたってこと? 

誘ってくれたの? 私を? 

そこには村祭りに参加するための、彼の予定表もあった。

「行ってどうするの? なんだかノアに顔を合わせ辛いわ」

「ね、アデル。アデルはノアさまのことが、好き?」

「……。好きだけど、でもそれって……」

「あの小さな緑の館を出たから? 友達や兄妹以上には見られなくなった?」

 その質問に、なぜかちゃんと答えられなくなっている。

今までなら、即答出来ていたはずなのに……。

「ノアは別に、私のことは自分を取り巻く仲間の一人くらいにした思ってないもの」

「仲間って?」

「シモンとかポール……。エドガーと一緒ってことよ」

「ノアさまは、アデルとの結婚を確かなものにするために館を出たのよ。王族の一員として認められ、ご自分の地位を確保してから、アデルを正式に婚約者として認めさせるつもりなんじゃない。そのために頑張ってるのではなくて?」

「だけどそれは、私のためだとは限らないわ」

「どうして?」

「ノアと私は、結婚出来ないもの」

 王族が一度結婚してしまえば、離婚することは出来ない。

それでも別れる手段を取るならば、“結婚を解消”することでしか、離れられないのだ。

子供も出来ない。

一緒に暮らしてもいない。

結婚の事実がないとなれば、“解消”は可能だ。

ノア自身にそんなつもりはなかったとしても、結局は自分の娘を嫁がせたい、貴族たちの思惑に加担している。

「だから私は、この国でお妃のように扱われておきながら、婚約者のままなんだわ」

「だけどもう、アデルはすっかりこの国の人間よ!」

「ありがとう、エミリー。そう言ってくれるのはあなただけよ」

「大体、第一王子であるステファーヌさまと、第二王子のフィルマンさまがさっさとご結婚なされば、こんなに悩む必要はないのに」

「それだけお妃選びには、慎重でなくてはならないということだわ」

 エミリーは、私の手をギュッと握りしめた。

「ねぇアデル。大丈夫よ。あなたが不安がることはないわ。ノアさまは……。アデルのことを、本当に大切に思ってる」

「だから、それは……」

 本当に、好きになってもいいの? 

政略結婚で、自分の国から逃れて来ただけの私が?

「私とノアは、仲良くやってるわ。少なくとも、喧嘩はしてないもの」

「だけど、それだけじゃダメでしょ」

「ねぇ、エミリー。私はどうしたら……」

 ノックが聞こえた。

振り返ると、侍女の後ろに誰かが立っている。

「あの、エドガーさまがいらっしゃいました」

 そのエドガーは、真っ直ぐな黒髪をうっとうしそうに後ろにかき上げた。

「お取り込み中のところを失礼します。いますぐデュポール伯爵の別邸へお二人でお越しください。ノアさまがお待ちです」

「……。それは昨夜のことで?」

「私に聞かれましても」

 エドガーは、目をそらしそっぽを向いている。

この様子では、何を聞いても答えてくれそうにない。

「私は行くわよ」

 エミリーが立ち上がった。

「アデルも一緒に行こう。ノアさまが待ってるわ」

「……。やっぱり、行けない」

「どうして!」

「お願い。エミリーだけでいいわ。先に行ってて」

「いえ、お二人で来いと仰せです」

 今ノアと顔を合わせたら、まともに話せる気がしない。

彼の前に立ち、その目で見つめられたら、あの手に触れられたら、自分が自分ではなくなってしまいそう。

「まぁだめよ。ノアさまのご命令なのに、逆らうなんて許されないわ。仲良しアピールも出来ないじゃない」

「関係ないわ。シモンのところでしょ。演技する必要はないもの」

「そうよ、アデル。演技なんて、する必要はないわ」

 だけどそれでは、私は今までの自分を全て否定することになってしまう。

そしてその先に待っているであろう、ノアとのこと、彼の立場のこと、彼を取り巻くお妃候補のこと……。

 将来のない私たちの関係に、この国で自分の身を守るだけではなく、セリーヌたち侍女のことも考えなくてはならないのに。

「わ、私は、シモンからのお招きでは、そちらに移ることはできないし……」

「デュポール伯爵のお招きではなくて?」

 エミリーの言葉に、エドガーが追従する。

「……。まぁ、そういうことなら、デュポール伯爵がノアさまとアデルさまをご招待ということなりますね」

「たとえそうなったとしても、やっぱり私は行かない」

「いえ、お二人でいらっしゃるようにと」

「分かったわ、エドガー。じゃあこうしましょ」

 不意に、エミリーはパチンと両手を合わせた。

「ノアさまに、こちらに来てもらいましょう!」

「あぁ、いいんじゃないっすかね。むしろ来たがってましたし」

「それはダメ!」

 ノアとエミリーが好き勝手出来るところへなんてきたら、ますますやりたい放題になってしまう。

「ノアの立場を考えれば、も、申し訳ないけどこの家には……」

「いいんじゃないっすかね。今さら。あの人結構好き勝手やってますよね。基本やりたい放題ですよね」

「あら、私はそれでもいいわよ。楽しそうじゃない。きっと素敵な夏休みになるわ。ノアさまにこちらへ移っていただきましょう」

「待って!」

 本当にダメ。

絶対無理。

村祭りでの、自分のしでかした失態を思い出す。

ノアはどう思った? 

そんな昨日の今日で、ノアと普通に会える自信がない。

恥ずかしい。

「ね、もうちょっと待ってくれない? 今からすぐにってのは無理よ」

「どうして? じゃあ、明日にする?」

「出来るだけ早くお連れしろと。つーか、むしろ急いでくれません? 遅くなれば遅くなるだけ、私が後で色々文句言われるんですけど。逆にアデルさまがさっさと……」

「ちょっと静かにしてて!」

 私とエミリーは、同時に声を上げた。

ムッと眉根を寄せたエドガーは、それでも押し黙る。

「ね、アデルはどうしたいの?」

「……。それは、会いたいけど……」

「ね、だったらこうしない?」

 エミリーが耳元でささやく。

「えぇ? 本気なの?」

「大丈夫。どうせすぐバレるわ。ほんのちょっとの間だけよ」

 そんなことをしたって、何かが変わるとは思えないけど……。

「まぁ……。エミリーがそうしたいのなら、それでもいいわ」

 普通に「こんにちは」って顔を合わすより、ずっといいかも。

どうせこのまま、ノアを避け続けることも出来ない。

だったら、さっさと先に進めた方が……。

「じゃ、決まりね」

「もう。エミリーは天才ね」

「あら、知らなかったの?」

「ふふ」

 互いに顔を見合わせてクスクス笑う。

その横でエドガーの顔色だけがどんどん悪くなってゆく。

「あの……、お二方。何を思いついたか知りませんが、せめて概容だけでも私に教えてくださいませんかね」

「あら、そんなの。敵を騙すには味方からとおっしゃるでしょう? ねぇ、アデル」

「そうね。エドガーはどちらの味方かしら」

「いや、あのですね……」

「ね、アデル。協力するっていうのなら、教えてあげてもいいわよね」

「そうね、エミリー。いずれにしろ、エドガーの助けは必要だわ」

 彼は黙ったまま、何をどう答えていいのかが分からないみたいだ。

エミリーが私にささやく。

「じゃ、アデルさま。ご決断を」

「そういうことで。よろしくね、エドガー」

「くっ。わ、分かりました……。ア、アデルさまのご命令とあらば……」

 私がそう言うと、彼は渋々うなずいた。





第8章


 私たちはエミリーの計画に従い、馬車へ乗りこむ。

ノアたちには迎えに出ないよう、部屋で待っているように、先に伝えてあった。

シモン・デュポール伯爵家別邸に到着すると、私たちはこっそり移動を開始する。

 準備を済ませると、普段は私たちなら入らないような場所へ案内された。

見つからないよう、そこでも物陰に隠れる。

準備の整ったところで、始まりの合図を出した。

しばらくして、予定通りノックに続いて、エドガーの声が聞こえてくる。

「アデルさまとエミリーさまをお連れしました」

 ここからは全く見えないけれど、サラサラと衣ずれの音が聞こえてくる。

と、ノアのため息が聞こえた。

「で、僕は君に、誰を迎えに行けと頼んだんだっけ?」

「アデルさまとエミリーさまです」

「部屋で待っていろって、別人を連れて来るということだったのか?」

「私も脅されております」

 しばしの沈黙。

何かごそごそ聞こえるけど、外の様子は分からない。

「はぁ~……。なるほど。確かに伝言は受け取った。ここには君とアデル、エミリーのサインもある。本物に違いない」

「エミリーの奴、また何か企んだのか?」

 ポールの声だ。

「ホントあいつしょうがねぇな」

「仕方ないよ」

 シモンの声も聞こえる。

「で、本物の二人はどこへ?」

「この屋敷へ来てはおります」

「それを探せと?」

「はい……」

「かくれんぼか」

「勝負は夜明けまでだそうです」

「んだ? ソレ!」

 ポールは相変わらず口が汚い。

ノアが言った。

「シモン。彼女たちは、ここの使用人なのか?」

「えぇーっと。さすがに全員の顔は覚えていないので……、分かりません」

「この者たちは、エミリーさまのところで雇われたものです」

「では、本物のアデルとエミリーは、ここで侍女になっていると」

「んだソレ! クソめんどくせぇ!」

「まぁいいじゃないか、ポール。それで、シモン。女性の使用人は、何人いるんだ?」

「えぇ~っと。いつもなら5、6人程度ですが、今回はノアやアデルが来るっていうから、臨時で増員してて……。12人? くらいか? あぁ、そうだってさ」

「まぁいいだろう」

 ノアが言った。

「では、本物が見つかるまで、このお嬢さま方には、本人の身代わりとして接していただこう。お茶の用意でもして、おもてなしを。いいかなシモン」

「了解」

「ふぅ。仕方ない。探しに行くか」

「俺もやんの?」

「当たり前だ。アデルは僕が探すから、エミリーはポールな」

「また俺かよ。なんで?」

「いいから。真面目に探せよ。たぶん一緒にいる」

 扉の閉まる音が聞こえる。

下ろされていたカーテンが開けられた。

「もう大丈夫ですよ」

 エドガーだ。

私とエミリーは、使用人たちの待機部屋から出てくる。

「わお。随分とかわいいメイドさんだね。すぐにバレなきゃいいけど」

 シモンは私たちを見て、ウインクを投げた。

襟元のキッチリ詰まった、上品な濃紺に白いエプロンの、この家のメイド服を来ている。

「ふふ。絶対に明日の朝まで逃げ切ってみせるわ。ねぇアデル」

「まぁ、こうなったらやるしかないわね」

「で、俺とエドガーはどうすればいいの?」

「黙って見てて!」

「はは。はいはい。分かったよ」

「では皆さん、よろしくね」

 居並ぶ家令や執事たちに挨拶をして、ゲームの始まりだ。

私たちは侍女長に連れられて、こっそり部屋を出る。

「うふふ。なんだがドキドキする!」

「ね、とりあえずどこに隠れる?」

「この屋敷は広いもの。そう簡単に見つかりっこないわ」

「なによ、アデルもやる気出てきたのね」

「当然でしょ」

 廊下から、同じ服を着た侍女が顔を出した。

彼女はジェスチャーで別の部屋の方向を指指す。

そっちにノアたちがいるということだ。

エミリーと顔を見合わす。

「大変、逃げなくちゃ!」

「こっそりね、アデル!」

「静かに、急ぎましょう」

 おかしくて仕方がない。

侍女長に案内され、厨房へ逃げ込んだ。

壁には沢山の銀色に輝く調理器具が並べられ、中央の広い作業台では、パンをこねている真っ最中だった。

部屋中に小麦粉の香りが立ちこめている。

「まぁ、楽しそうね」

「ね、私たちにもやらせてもらえる?」

「明日のパンを作りましょうよ」

 職人さんたちに手伝ってもらいながら、パンの形を整え始めた。

「ね、ウサギなんてどうかしら」

「いいわね。私は何にしようかな……」

 気がつけば、台の上には様々な形のパンが並んでいた。

ウサギに星、天使の羽根、魚にヘビ……。

「ふふ、この細長いヘビは、ポールに食べさせましょう」

「なんでポールなの、エミリー」

「だって、ポールみたいに細長いんですもの。あんなに背の高い人、他に見たことないわ」

 ポールは色白でとても背が高い。

痩せてひょろりとした体格が、どこにいてもすぐに目につく。

サラサラとした白金の髪は、彼の灰色の目によく似合う。

「それにいつも、ぼーっとしているんですもの。何を考えているのか分からないところも、そっくりだわ。口の利き方だって悪いくせに、いつも乱暴な言い方しておきながら、案外周りはよく見ているのよね」

「エミリーは、ヘビが好きだったの?」

「まさか! 嫌いだから言ってるのよ!」

 ノックの音に続いて、そのポールの声が聞こえた。

「捜し物をしているんだ。入ってもいいかな」

 どうしよう! 見つかってしまう! 

慌てるエミリーと私に、職人の一人が声をかけた。

「こちらです。小麦粉を運び込む倉庫です。そこから外に出られますので、そのままお逃げください」

「ありがとう!」

「入るぞ」

 私たちが作業場を出ると同時に、扉が開いた。

教えられたドアを開けて、館の裏へ飛び出す。

「あはは。逃げられたわね」

「危ないところだったわ」

「ポールは一人だったのかしら」

「ノアは? 別行動? 一緒にいた?」

「どうなのかしら、ノアさまも一緒にいるんなら、見つかる可能性が高くなるわね。こっちへ行ってみましょ」

 エミリーは、そう言って正門の方へ回った。

「だめよエミリー。ノアとポールは、別行動してるかもしれないじゃない。もし見つかったら……」

 と、そこに一台の見慣れぬ馬車が止まっていた。

随分と立派な執事服を着た男が立っている。

ピンと伸ばした口ひげを生やしたその執事は、ギロリと私たちを見下ろした。

「全く。第三王子の名を呼び捨てにしたうえに、そんな汚い格好のままでうろつくとは。この家の主の質がよく分かります」

 立ち止まり、その男を見上げる。

どこかの使者だろうか。

かなり身分の高い家からの使いのようだ。

「恥ずかしいことですな。指導出来ないここの執事に代わって、ついでに注意して差し上げよう。手のかかることだ。お前たち、案内を」

 エミリーと二人、顔を見合わせる。

そう言われても、何をしていいのか分からない。

「早く私を案内しろと言っているのです。分からないのですか」

 困った。

だけど、事情を説明するわけにもいかない。

「ど、どうぞ。こちらです」

 私は、ムッとしたままのエミリーを肘でつつくと、館の扉を開ける。

案内すると言っても、応接室がどこなのかも分からないのに……。

「こっちよ」

 エミリーが先に歩き始めた。

「知ってるの?」

「何度か来たことがあるの」

「ゴホン! ここの使用人は、礼儀作法も知らないのか」

 振り返ろうとしたエミリーを、慌てて引き留める。

ここは一刻も早く、ちゃんとした執事さんに交代して……。

「これはトリスさま。なぜこちらに?」

 廊下でばったり出会ったのは、この家の筆頭執事であるニコラだ。

「ニコラ、なんだこの者たちは。相変わらずデュポール伯爵家では、使用人の躾けもできないようだな」

 私とエミリーは、さっきまでこねていたパンの小麦粉で、服が真っ白になっている。

「あぁ、トリスさま。こちらの方々は……」

 ニコラの目はオロオロとしている。

私はとっさに「シッ」と内緒にするよう合図を出した。

トリスと呼ばれた使者の前に進み出ると、うやうやしくスカートの裾を持ち上げる。

セリーヌに仕込まれた、最上級のご挨拶だ。

にっこりと微笑み、わずかに腰を落とす。

「申し訳ございません。大変な失礼をいたしました。ワタクシたちには与えられた言いつけがございますので、ここで失礼いたします」

 その非の打ち所のない仕草に、驚いたトリスの目は丸くなった。

エミリーも続く。

「失礼いたします」

 完璧な挨拶を披露し終え、エミリーと二人、立ち去ろうと背を向ける。

「待ちなさい!」

 その男は、再び私たちを上からにらみつけた。

「この私が、生意気なお前たちに特別な指導をして差し上げよう。感謝したまえ。第三王子のお名を陰で呼び捨てにするような連中に、ノアさまのお世話など任せられるはずがありません。そうではありませんか?」

「あの、トリスさま。この方たちには、別のご用件が……」

「そうですね。そのままではお前たちのようなものは、ノアさまにご挨拶は出来ても、お茶まではお出しすることはできないでしょう。作法を見て差し上げます。お茶の用意を!」

 トリスは自分で扉を開けると、勝手に応接室へと入っていってしまった。

そのままドカリと客用のソファに腰掛け、こちらをにらんでいる。

シモンの家の筆頭執事であるニコラは、困ったように私に視線を送った。

ここまで来たら、仕方がない。

「かしこまりました。それではご用意させていただきます」

 とりあえず挨拶をして、扉を閉めた。

エミリーと並んで歩き出す。

「ねぇ、アデル! 本当にいいの? お茶持っていくの?」

「まぁいいじゃない。てゆーか、あの方はどなた? とりあえずシモンに知らせておきましょう」

「アデルはこんなことしてるって、バレて大丈夫なの?」

「それならそれで、面白いんじゃない?」

「……。アデルがそれでいいのならいいけど……。ごめんなさい。私が変なこと言うから……」

「いいのよ、気にしないで。私も楽しんでるもの。とにかく今は、お茶の準備よ」

 キッチンに入る。

侍女長たちが私たちを待っていた。

「アデルさま、エミリーさま。来客がございました。一時かくれんぼは停止いたしますか?」

「いいえ。続けましょう。そのお客さまに、お茶を運ぶよう言いつかってきたの」

 侍女長の話しによると、客はデュレー公爵家からの者だという。

コリンヌのところだ。

「シモンとコリンヌは、仲がよかったの?」

「我がデュポール伯爵家当主が、デュレー公爵家当主と懇意にしております関係で、幼いころからご交流はございます」

「だけど、だからって、コリンヌのところの執事が、どうしてシモンのところの侍女に口を出すのよ。行き過ぎだわ」

 エミリーの言葉に、そこにいた侍女たち全員が一斉にうなだれた。

「それが……。よくあることでございますので……」

「いつもあんな態度なの?」

「今回は、この別邸にノアさまもいらっしゃっております。それがまたお気に召されないようで……」

「ノアがシモンと仲良しなのは、知ってるじゃない」

「ですが……。あの、デュレー公爵さまとしては、シモンさまとノアさまの仲がよいのが、ことさら気になるご様子で……。デュレー公爵さまには、ご子息がいらっしゃらず……」

 何それ。

意味が分からない。

エミリーは、フンと上を向いた。

「分かったわ。公爵家の執事がなによ。お茶ぐらい私たちで運ぶから!」

「そ、それはどうかご容赦くださいませ! アデルさまやエミリーさまにまで失礼があれば、ノアさまに対する失礼にもあたります。それでシモンさまとの関係に支障をきたすようなことがあれば、シモンさままで……」

 やって来た使者は、執事とはいえ公爵家の使者だ。

その扱いは、伯爵家であるシモンたちにとって、軽々しく出来るものではない。

その家の使者として来たのならば、公爵さま自身と扱いは同等になるのだ。

ましてエミリーとポールは、貴族の子女とは言え、家柄としては子爵になる。

「分かったわ。ここは侍女長たちに従いましょう。用が終われば、すぐにお帰りになるでしょうから、それまでかくれんぼは一時休戦ね。どこかで私たちも、休みましょ」

 私とエミリーには、すぐに別室が用意され、そこに案内された。

屋敷内が急に慌ただしくなる。

使者の対応にシモンが呼ばれたようだ。

ノアとポールはどうしているのだろう。

「あーあ。結局この部屋に閉じ込められちゃったわね」

 そう言って、エミリーは窓の外を眺めた。

太陽はすっかり沈みかけている。

「まだ帰らないのかしら。いつまでいるつもり?」

 不意にノックがして、扉が開いた。

入って来たのはポールだ。

「なんだよ。まだ着替えてなかったのか」

「だって、かくれんぼはまだ続行中だもの」

「そんなもん、中止だよ、中止」

 そう言うと、ポールはソファにごろりと横になった。

大あくびをする。

「どういうこと? もしかして、もう飽きちゃったの?」

「は? 俺はさっきまで寝てたし、ノアも寝てるよ」

「……。どういうこと?」

 エミリーの声が低い。

怒ってる。

ポールはそれに構うことなく、寝転がったまま頬杖をついた。

「お迎えが来てるんだ。ノアに。今すぐデュレーさまのところ来いって言われて、怒って寝ちゃった」

「だからって、寝ることある?」

「お前さ、大体昨日のこと覚えてんのかよ。おかげでこっちは寝不足なんだ」

「き、昨日のことって、なによ!」

 エミリーを無視して、ポールの視線は私に向かう。

「アデルは? 記憶あんの?」

「わ、私もあんまり、覚えてない……」

「はは。これだよ」

 ポールは呆れたように笑った。

ソファから起き上がる。

その顔が急に険しくなる。

「もう、二人とも、絶対、酒は、飲むな」

「……」

 返す言葉が見つからない。

エミリーは真っ赤な顔をして、座り込んでしまった。

「でさ、着替えておいでよ。公爵さまの執事に何か言われたんだって? その格好じゃ勘違いされても仕方ないだろ。俺が部屋まで送ってってやるから、まともな格好しておいで」

 こうなっては仕方がない。

この遊びもお開きだ。

私とエミリーはポールに促され、部屋から廊下へ出る。

「おやまぁ、これはどういうことだ!」

 デュレー公爵家の執事だ。

こんなところで鉢合わせるなんて、最悪のタイミング。

トリスは鬼の首でも取ったかのように、高飛車な態度に出た。

「あなたは、ノアさまお気に入りの、バロー子爵家のポールさまではないですか。それがこんな侍女たちと……。お部屋でなにをなさっていたのです? はしたない。お前たち二人も恥を知りなさい」

 男はハンカチを取り出すと、さも汚いものでも見るかのような目で、私たちを眺めながら鼻をかむ。

「それともこの屋敷では、男は侍女を相手にひと夏を過ごすのが流行なのかな?」

 その汚れたハンカチを、ポイと床に投げ捨てる。

「拾いなさい」

 酷い。

いくらデュレー公爵家の執事とはいえ、失礼すぎる。

ポールに対してもだ。

茶色い絨毯の上に、トリスの投げ捨てた白いハンカチが落ちている。

だけどそれを、このままにしておくことは出来ない。

私が動こうとしたのを、エミリーが止めた。

その彼女がハンカチを拾おうとした瞬間、ポールは両腕でグイと私たちの肩を抱き寄せた。

「こういう遊びも、案外楽しいもんですよ。あんたが邪魔しに来るまで、ノアさまもこの二人と楽しんでらしたんだ。なぁ、そうだろ?」

 背の高いポールの両脇に、私とエミリーはすっぽり抱きかかえられている。

「まぁ、そうだったわね」

 そう答えたエミリーに、ポールは私をのぞき込む。

「なぁ、君もそうだろ?」

「そうね。残念だわ」

「はは。デュレー公爵家じゃ、絶対出来ない遊びだな」

 ポールは私たちを両脇に抱えたまま、クスクスと笑った。

「ポールさま! それではシモンさまだけでなく、ノアさままでそのようなことをなさっているとでも……」

 ドンッ! っと、杖で床を突く、重い振動が響いた。

「夏の別荘で、男の遊びをお楽しみだったのかな。ノアさまは」

「クレマンさま!」

 コリンヌのお父さま、デュレー公爵さまご本人だ! 

私とエミリーは、慌ててポールの背中に隠れる。

顔を見られたら、さすがにバレる!

「やはり、私が直接見に来て正解だったようだ。ポール。ノアさまのところへ案内を」

 そう言われて、私とエミリーはとっさに壁に向かって直立した。

侍女としての、貴人を見てはならないという作法だ。

クレマン公爵さまの、フンという鼻息が聞こえる。

「全く。火遊びも大概にしていただかないと」

 足音が遠ざかる。

ホッと一息ついた。

「びっくりしたわ。どうしてデュレー公爵さまが?」

「ノアに何か用事でもあったのかしら」

「なんの用があるってのよ」

「さぁ。だけど、わざわざノアのところに来るってことは、きっと何か……」

 その瞬間、背後からグイと腕を引かれる。

「ちょっ!」

「何をなさるのです!」

 トリスだ。

「どこで雇われたか知らんが、とんでもないあばずれどもだ」

 そのまま凄い力で、私とエミリーは廊下を引きずられてゆく。

「離して! 離してよ!」

「離しなさい!」

「黙れ! お前らのような口の利き方も知らない、恥じらいも常識もないような者には、戒めが必要です」

 ちょ、やめて……。

何をするつもりなの? 

振り払おうとしても、がっつりと掴まれた手を、腕から振りほどけない。

私とエミリーは、そのまま外へ引きずり出された。

「お前はこっちだ!」

 庭仕事用の道具が置かれた物置小屋に、エミリーが投げ込まれる。

そこに外からかんぬきがかけられた。

「ちょっと! 何するのよ、開けなさい!」

「やめて、誰か助けて!」

 エミリーが中で暴れている。

気づいた数人の男が駆け寄ってきた。

「どうされたのですか。トリスさま」

 シモンの家の者ではない。

この執事について来た、デュレー公爵家の使用人だ。

「この女がここから出て行かないよう、見張っておけ」

「かしこまりました」

「おやめなさい。いますぐエミリーを出して! じゃないと、あなた方は……」

「うるさい。お前はこっちだ!」

「きゃあ!」

 乱暴に引きずられる。

そのまま館の裏へ連れて行かれた。

見えたのは馬小屋の脇にある、飼料置き場だ。

「ここで許しを得られるまで、反省していなさい!」

 固い床の上に投げ出される。

バタンと扉が閉められた。

「待って! やめて!」

 外からガタガタと横木をさしている。

男たちの太い笑い声が響いた。

「ほら、諦めて大人しくしとけ!」

 扉が蹴り上げられ、それにまた全身がビクリとなる。

「あはははは。しょうがねぇ女だな。身の程知らずめ」

 怖い。手足が震えている。

絶望的な恐怖に支配されたまま、薄暗い庫内を見渡す。

積み上げられた藁と麻袋が天上近くまで積み上げられ、壁には鋤や鍬が立てかけられていた。

どうすればいいの? 

助けを求めたくても、薄い木の扉の向こうには、見張りの男たちの気配がする。

怖い。

私は震える手で、干し草用フォークを手に取ると、それにしがみついた。

鼓動が早い。息が出来ない。

寒くもないのに、手足の震えが止まらない。

頭が胸の鼓動に合わせて、振動している。

意識を保っていなければ、そのまま気を失ってしまいそう。

干し草の上にしゃがみ込んだ。

夏の日が沈む。

「あぁ、まただ……。やっぱりこうなるのね……」

 いつまで、こうしていればいいのだろう。

あの時は、本当に朝まで出してもらえなかった。

忘れることなど決してない、嵐の夜だ。

孤独と恐怖。

この世界には、頼れる人間はいないのだと、信じられるのは自分だけなのだと、はっきりと自覚した。

エミリーは? 

彼女は大丈夫だろうか。

酷いことされてないといいけど。

 涙がこぼれ落ちる。

泣いちゃダメ。絶対に泣いちゃダメ。

涙を見せれば、人は笑いバカにする。

私が、私がもっと強かったら。

私がもっと、しっかりしていれば。

自分の身は自分でしか守れないのだと、教えられたじゃない。

それは今だって、何も変わりない。

ここから抜け出すには、どうすればいいの? 

あの時も必死で考えたはずだ。

どうして? 何が原因なの? 

私の何が悪かった? 

自分のどこをどう直せばいいの? 

どうすれば認めて貰える? 

許される? 

私がもっと……。

ドアの外から、物音が聞こえた。

「なに? なんなの?」

 私はフォークの柄にしがみつく。

扉が激しくガタガタと揺らされている。

誰かが入ってくる? 

もし何かされそうになったら、干し草用のフォークを振り回して……。

「アデル!」

「ノア!」

 伸ばされた腕にしがみつく。

彼にしっかりと抱き留められた。

背に回された腕が、壊れそうなほど私を抱きしめる。

「アデル……アデル……」

 耳元でささやく声が、私以上に震えている。

「大丈夫? 怪我は?」

「ないわ。ノア、ノア!」

「どうした?」

「ノア、エミリーが、エミリーが!」

「エミリーは大丈夫だ。先に助けた」

 ノアに連れられ、納屋の外に出る。

そこに彼女は立っていた。

「エミリー!」

「アデル」

 私たちは、しっかりと抱き合う。

「エミリー、無事だったのね」

「ごめんなさい。ごめんなさい、アデル。私のせいで……」

 その前で、私を閉じ込めたトレスとデュレー公爵がひざまずいた。

「こ、このたびは大変な間違いを……。どうか、お許しください」

「デュレー公爵」

 ノアは怒りに震える声を、懸命に抑えながら言った。

「今夜は早々にお引き取りいただきたい。じゃないと僕は、今ここで何を口走ってしまうか分からない」

「……。かしこまりました。今宵はこのまま、失礼いたします」

 執事と並んで、公爵の姿が館の陰に消えた。

「アデル」

 ノアはもう一度、私を抱きしめる。

「本当に大丈夫なのか? 何もされてない? 怖いことはなにも?」

「えぇ、大丈夫よ、ノア。ありがとう」

 流れる涙を、ノアの手が拭った。

「驚いただろ。部屋へ戻って、少し休もう」

 侍女たちに付き添われ、服を着替える。

お湯を使い、体を洗い流した。

食事に呼ばれたものの、何も食べられる気がしない。

丁寧に断りを入れ、客室のドアを閉めた。

真っ暗なままの部屋で一人になり、恐怖が蘇る。

デュレー公爵の執事に握られた腕を、ぎゅっと掴んだ。

目を閉じる。

 怖かったのは、掴まれたことでも、引きずられたことでもない。

自分がこんなにも無力なんだと、思い知らされたこと。

声を上げても、誰にも届かないんだということが、何よりも恐ろしかった。

あの時も同じ。

決して助けが来ないこと。

誰も私を、気にかけてくれる人がいないこと……。

「アデル? 入っていい?」

 ノックと共に、ノアの声が聞こえた。

私はその扉を見つめる。

その向こうにいる人は、あの時と同じ人だ。

「うん。いいよ……」

 ゆっくりと扉は開き、それはすぐに閉じられる。

「そっちへ行っても?」

 私はベッドに腰掛けていて、横になろうとしていたところだった。

月明かりが窓から漏れるその部屋は、とても静かだった。

「うん。いいよ」

 ノアは座り直した私から、少し離れた位置に腰を下ろす。

「なんか、久しぶりだね。アデルとちゃんと話すの」

「そうかな。昨日だって……」

 言いかけて、口をつぐむ。

村祭りのことは、今は話したくない。

今が夜で、暗くてよかった。

顔が赤くなってるのが、バレずにすむから。

「昨日は、まともに話せなかったじゃないか。その前は、なんか知らないけど、全然しゃべってくれなかったし」

 ノアの横顔をチラリと見る。

私はベッドにごろりと横になった。

夜の闇に冷たいシーツが広がる。

ノアもすぐ隣に寝転がった。

「ね、覚えてる? 前にもこんなこと、あったよね」

 ノアの手は、私の指先にそっと触れた。

「あの時のアデルは、まだここへ来たばかりで、何にも慣れていなくて、僕は婚約式で初めて君を見た時、震えてる君を見て、僕が守らなきゃって思ったんだ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「なんで?」

「なんでって……。僕の、お嫁さんになる人だからさ」

「それって、単純すぎない?」

「悪かったね!」

 そう言ってノアは、私の手を握り直した。

 私は怖かった。

知らない場所、知らない国、知らない人たち。

自分の生まれたお城では、いつも大人たちが言い争っていた。

やがて父は不在がちとなり、母は毎日のように隠れて泣いていた。

自分がイイ子でいれば、全てがよくなると思っていたのに……。

「ノアが助けに来てくれて、うれしかった」

「ね、それはいつの話し? 今日のこと? それとも、昔の話し?」

「……。どっちもよ」

 そう言うと、彼は満足そうにうなずいた。

真っ白なシーツの上に、繋がる指先と視線が重なる。

「あの時約束したよね。僕はどんなことがあっても、アデルを守るって。それも覚えてる?」

「覚えてる」

 何が原因だとか、何がきっかけだったかなんて、もう覚えていない。

私はセリーヌと激しい言い争いをして、意味もなく彼女の全てに反抗し、暴れ、泣いて、結果馬小屋に閉じ込められた。

何もかもが憎らしかった。

「驚いたんだ。セリーヌがあんなことをするなんて。酷い嵐の夜で、僕は自分の部屋をこっそり抜け出して、君に会いに行った」

 私は怖くて寒くて、怒りに我を忘れ、正気を失いかけていて、叩きつける雨と鳴り止まぬ風に、扉が開いた時には、ようやく悪魔が迎えに来てくれたのかと思った。

ノアはずぶ濡れで、髪からも滴をたらしていたのに、繋いだ手はとても温かかった。

私はその時、こんなにも温かい手なら、ずっと握っていられるかもしれないと思ったのに……。

「僕は、その時誓ったんだ。あの小さな緑の館を出ようって」

「どうして?」

 あれからずっと離されていた手が、もう一度私を強く握りしめる。

「単純に、セリーヌに勝とうと思ったんだ。セリーヌにアデルが叱られないようにするためには、セリーヌに命令出来るようにならなくちゃいけないんだってね。僕は館を出て、城の人間になることで、それが出来ると思ったんだ」

「……。本当に、そんなことが出来ると思ったの?」

「そうだよ。あの時僕は15で、君は13になったばかりだった。アデルが……。ずっと、泣いたり怒ったり、そんな君を、見ているのも辛かった」

 ノアが館を出て行った日、私の全ての希望が、望みが、奇跡が、可能性が、失われたのだと知った。

ノアがいなければ、私はここにいられない。

また自分は何かを間違えてしまったのだと、そう思った。

「決して、君が嫌いになったとか、嫌になったわけじゃないんだ。ただ、君を取り巻く環境から、ありとあらゆるものから、君を守りたかった。今もまだ……、それが出来ているとは、言えないけど」

 自然と涙が流れ落ちる。

もうとっくの昔に心の奥底にしまい込んで、なかったことにしていた感情だ。

私はノアに、手を離して欲しくなかったんだ。

いなくなってほしくなかった。

今になって、ようやくその本当の気持ちが、何だったのか分かる。

私がすがらなければならないと信じたものは、ただそれだけの感情じゃない。

家族にも捨てられたんじゃない。

ノアにだって……。

「寂しかった。私は、置いていかれたのかと思った。ノアはもう、私のことなんて、何とも思ってないんだって思った」

「それは違う!」

 ノアは勢いよく、上体を起こした。

「約束通り、今日だって助けに来た。アデル。僕はいつだって、君の側にいる。居たいと思ってる。ずっとそれが言いたかったんだ。アデルがどうして、急に聞き分けのいい子になったのかが分からなかった。それまであんなに、あの小さな緑の館の、何もかもが気に入らなかったのに」

 ノアは再び、ドサリと私の隣で仰向けに寝転がる。

彼の白く透き通った肌が、窓から照らす月明かりに透けている。

「僕は、僕がいなくなって、君たちがようやく落ち着いたことに驚いた。アデルはすっかり、僕の知っているアデルではなくなってしまった。あの場所で僕の存在が、どれほど君たちにとって負担だったのかと思うと、今も申し訳ないと思う」

 冷たいシーツの上に、また涙が流れ落ちる。

見られたくないのに、彼はちゃんとそれを指で拭う。

「だけど、にこやかに笑うその目の奥に、何も映ってないことくらい、気づいてたよ。アデル」

 彼の指先が頬に触れ、唇が近づいてくる。

ぐちゃぐちゃになっている自分を見られたくなくて、私はマットレスに顔を埋めた。

「……。アデル、もう少し、もう少しだから。待ってて。僕は必ず、君をちゃんと迎えに行く」

 大きくマットレスが揺れて、ノアはまたごろりと横になった。

「ね、今夜はここで眠っていい? 館の馬小屋の、あの晩みたいにさ」

 そう言って、もう一度私の手を握りしめる。

「いいよ。だけどもう、私を置いて行かないで。一人にしないで……」

「もちろんだよ。約束する」

 私はその手を、そっと握り返した。

ノアもそれに応えるように、もう一度握りしめる。

本当はずっとこうして見つめ合っていたいのに、やがてまぶたは重みを増してくる。

今日一日の疲れと緊張で、もう話してなんていられない。

ノアの指先は、ずっと私の指を優しく撫で続けている。

「ねぇ、ぜったい……よ。やくそ……く、して。わたし……を、ひとり……に……、しな……い……で……」

「うん。お休みアデル」

 深い眠りに落ちようとする額に、ノアの唇がそっと触れた。




第9章


 朝になり、目を覚ます。

すぐ横でゴソリとなにかが動いた。

夏用の薄いブランケットの下で、私のものではない腕が動く。

「誰!」

「誰って……」

 ノアだ! 

「だれ……じゃ、……ないよ。ひど……あれる……」

 ごろんと寝返りをうつ。

ノアの格好は、昨夜のままだ。

「ちょ、ねぇ! 本当にあのままここで寝たの?」

 ノアは目をつぶったまま、ピクリとも動かない。

「ねぇ、どういうこと?」

 白いマットレスの上にうつ伏せになったまま、顔だけをこっちに向けて寝ている。

「お、起きて。起きてってば!」

 肩を揺すっても、ビクともしない。

こんなところ、セリーヌに見つかったら、それこそ何て言われるか……。

ベッドから下りようとした私のお腹に、ノアの腕が回った。

「きゃあ!」

「僕には一人にするなって言ったくせに、君は僕を置いて行くの?」

「い、いいから放して!」

「いやだ」

 ベッドに引きずりこまれる。

ノアは後ろからぎゅっと私を抱きしめた。

「アデルからキスしてくれるまで、放さない」

 重ねられた腕が、意外と重たい。

捕まった腕の中で、私はもぞもぞと体を回転させると、ノアの方へ向き直った。

ノアはそんなことにも知らんぷりで、そのまま眠っている。

キ、キスって、どこにすればいいの? 

ノアのミルクティー色の髪と、その下の眉。

決して触れられなかったものが、いま目の前にある。

閉じられた目とまつげと、鼻筋と、唇……。

私はその唇に、チュッとキスをした。

「はい、これでお終い!」

 ノアは目を開けると、自分の口元を押さえ真っ赤になっている。

「ちょ、待って。ほんとに? え? ねぇ、アデル、もう一回……」

 ベッドから抜け出した私を、ノアは追いかけて来る。

私たちの夏休みが、ようやく始まった。

次の日には近くの川へ釣りに出かけ、雨が降れば部屋に籠もって本を読む。

みんなで作った様々な形のパンを食べ、夜はチェスやカードゲームをして過ごした。

「デュレー公爵さまから、招待状が届いております」

 そんなある日のことだ。

シモンの別邸に一通の手紙が届いた。

「招待状?」

 そこにいた私たちは、全員が顔を見合わせる。

「どういうことだよ。よくそんなもん送ってこれたな」

 ポールが毒づく横で、シモンが封を切る。

彼はそれを一読した。

「今回のお詫びに、みんなを舞踏会へ招待するってさ」

「デュレー公爵家の?」

 それは多分、一般的には名誉なことに違いない。

だけど……。

「行く……の?」

「行かないわけにはいかないだろうな。じゃないと、王族であるノアと公爵家の不仲が成立してしまう。ノアがそれほど、怒ってるってことになるよ」

「怒ってるよ、怒ってるけど……」

「だけど、こじらせるわけにもいかないだろ」

 シモンの言葉に、ノアはため息をついた。

「さて。どうしたもんだか。僕がちょっと行ってご機嫌をとれば、正直それで済む話しだ。公務みたいなもんだよ。一日二日滞在して、ご機嫌とってくりゃいいんだ」

「ノアはそれでいいのかよ」

 そう言ったポールの横で、ノアはじっと何かを考えている。

「なんか、悔しくね?」

 彼の招きに素直に従い、私たち全員で押しかけたところで、いいように扱われ結局は笑いものにされるとしか思えない。

それでは本末転倒だ。

「そうだ。こうしよう」

 ノアはニッと、悪戯な笑みを浮かべた。何か思いついたらしい。

「ここで舞踏会を開くんだ。その招待状をデュレー公爵家に送ればいい」

「シモンの? この別邸で?」

「そう、ホストはシモンだ」

「そんな! それじゃ、デュレー公爵は来ないわ。お詫びになんてならないじゃない」

「僕が行ったところで、どうせうやむやにだれるだけだ」

 身分が違う。

シモンの家は伯爵家だ。

当主であるシモンのお父さまがホストになるのならともかく、この別邸でシモン自身がホスト役となるのなら、絶対にデュレー公爵ご本人は来ない。

「シモンの名前で招待状を出したところで、デュレー公爵は来られない。だけど、僕がここにいる。きっと彼は、自分の代わりにコリンヌを寄こすだろう」

 ノアを振り返る。

コリンヌが、ここに来るの?

「いやいやいやいや、ちょっと待て! それはさすがに無茶すぎる!」

「あぁ、なるほど」

 ポールは妙に納得した様子でうなずく。

「ま、いいんじゃね?」

「それは名案ね! デュレー公爵は、すっごく悔しがるでしょうけど」

 エミリーまで乗り気だ。

「じゃ、シモン。そういうことで」

 シモンはノアからの突然の提案に、ただただ困惑している。

「いやいや無理だって。やったことないんだけど、ホストなんて……」

「いいじゃないか。いずれはすることになるんだ。僕もポールも手伝うよ。それに、アデルとエミリーにとっても、いい経験になるんじゃないの?」

「はいはい! 私は手伝うわよ!」

「俺も~」

 シモンだけが困ったように盛大なため息をつき、ソファにぐったりと座り込む。

「全く。なんて提案をしてくれるんだ……。ふざけんなよ、このわがまま王子……」

「あはは。さぁ、こうなったら忙しくなるぞ。まずは会場となる広間を視察しに行こう」

 みんなで一階の広間へ移動する。

夏の別荘だ。

招待したとしても、2、30人が限界といったところだろう。

舞踏会の規模としては、さほど大きくはない。

「いいじゃないか。仲のいい身内だけの小さな舞踏会なら、ホスト役デビューとしても悪くない」

「ひと夏の思い出?」

「そ。いいだろ?」

「……。そう上手くいくもんか」

 何だかすっかり元気のなくなったシモンを挟んで、ポールとエミリーはやたら張り切っている。

ノアも楽しそうだ。

「ねぇ、ノア?」

「どうしたの、アデル」

「……ノアは、コリンヌに会いたいの?」

「あぁ、会いたいね。ぜひこの屋敷に招待したい」

 見上げた彼は、本当に彼女を呼び寄せたいようだった。

ノアにとってコリンヌは、他とは違う特別な存在のような気はしていたけど、それに間違いはないみたい。

 それからの日々は、本当に大変だった。

招待状を送る相手を選び、それをシモンに書かせる。

その間に客間の整理と楽隊の手配をし、食事のメニューを考えると、仕入れを頼み、使用人の数もさらに追加させた。

「コリンヌは、数日でも滞在出来ないのかな」

「僕が引き留めようか?」

「ノアが?」

「それなら、デュレー公爵も断れないだろ?」

「逆に乗り込んで来たらどうすんだよ」

「さすがに今回は、それはないと思うね」

 ノアとポールは楽しそうにしている。

私はそんなノアの腕を、そっと掴んだ。

「ノアは、コリンヌさまにお会いしたかったの?」

「アデルにも紹介するよ。本当に来てくれればいいんだけど。こればっかりは分からないからね」

「……そっか。そうだね」

 見上げる嬉しそうな横顔に、つい胸が痛む。

私ももっと、楽しそうにしていなければならないのに……。

 ホームパーティーの当日を迎えた。

その日は朝からエミリーが張り切っていて、誰よりも早く起きて会場の飾り付けに口を出している。

「エミリーは、本当に今日が楽しみだったのね」

「もちろんよ。アデルはそうじゃないの?」

 エミリーにですら、何だか本音を言いにくい。

言いにくいけど、言わずにはいられない。

「コ、コリンヌさまは、ノアのお妃候補の一人だから……」

「だからデュレー公爵は、ここまで乗り込んで来れたのよねぇ~」

「そ、それは、やっぱりコリンヌとノアには、仲良くなってほしいっていうか……」

「仲はいいでしょ。じゃなきゃ、呼ぼうとか言わないだろうし」

「え? そんなにあの二人は、仲がよかったの? いつから?」

「えぇ? なに言ってんのアデル」

 そう言うと、ようやく振り向いたエミリーは、私の肩をポンと叩いた。

「さ、もう一度招待客のリストを確認しておきましょ」

 違う。

このままじゃ、素直にシモンの初めてのパーティーを楽しめない。

この大好きな大切なみんなの前で、私は自分の一番みっともない、恥ずかしい姿を見せたくない。

「エ、エミリーは……! コリンヌのこと、どう思ってるの?」

「コリンヌ?」

 彼女は不思議なものを見るように、私をのぞきこんだ。

「どうしたのアデル?」

「だ、だって、コリンヌは、ノアと……。その……。け、結婚したいと、思ってるはずだし?」

 エミリーはポカンとした顔で、私を見つめる。

「だ、だから、コリンヌが来たら、やっぱりノアはそれなりの対応しなくちゃいけないんだろうし、だったら私も、お城の舞踏会みたいに、ちゃんとしなくちゃいけないのかなーなんて。そしたらドレスとかも、もっとちゃんと……」

 突然、エミリーは豪快に笑い始めた。

「やだ。アデルったら、もしかしてヤキモチ焼いてるの?」

「ち、ちがっ、そんなんじゃなくて! だって、コリンヌはそのために……」

「うふふ。アデルかわいー」

 エミリーはニヤニヤしながら、変な角度まで首をかしげ、下から私をのぞき込む。

「えへへ。私は優しいから、ノアさまには内緒にしといてあげるー。すぐにしゃべっちゃうかもだけどー」

「な、ちょっと、なに言って……」

「あ、ほら。愛しのノアさまが呼んでるわよ。いってらっしゃい!」

 彼女にドンと背中を押され、ふらりとよろける。

「アデル? 大丈夫?」

 その私の背に、ノアの手が回った。

そのままの流れで、正面エントランス横の応接室へ連れて行かれる。

「シモンと最終確認しておこう」

 彼もすっかり、この小さな舞踏会に夢中だ。

その準備と段取りについて、一生懸命話している。

あれだけ約束したのに、やっぱり私のことは見てくれない。

「ね、ノアはコリンヌのこと好き?」

「好きだよ。なんで?」

「あ、うん。やっぱり、そうなんだ。わ、私、実はあんまりしゃべったことがなくて……」

「あぁ、来たら紹介する」

 シモンと一緒に、もう一度舞踏会の進行を確認する。

開始時刻は間もなくだ。

本当にシモンのお友達だけが招待されている、小さな小さな舞踏会だ。

エミリーとポールとも、共通の知り合いが多い。

いつもの緊張感あふれる社交界のそれとは違う、本当に楽しい夏のパーティーだ。

ホスト役の誰もがメインゲストを楽しみにしているのに、私だけが落ち着かない。

今日のためにエミリーと新調した、レースのサマードレスの裾を持ち上げる。

「ねぇ、ノア」

「ん、なに?」

「このドレスどう? 変じゃない?」

「大丈夫だよ、問題ない」

 やっぱりノアになんか、聞いてもダメだった。

私たちは、揃って玄関のすぐ脇にある応接室で待機している。

早速、最初の馬車が到着した。

「お招きありがとうございます」

 シモンと出迎えの挨拶を済ますと、彼らはすぐに私たちのところへやって来る。

「初めまして。ノアさま、アデルさま。本日はこのようなご挨拶の機会をたまわり……」

 この方は、このすぐ近くに別荘を構える男爵さまのご令嬢だ。

エミリーもやって来て、気さくに奥へと案内する。

「今日は気心の知れたお友達同士の集まりですから。どうぞ遠慮なさらず、楽しんでいってくださいね」

 ホールには静かな音楽が流れ、開け放された窓から高原の清らかな風がそよぐ。

弾むおしゃべりと軽やかな笑い声に、広間はすっかり満たされていた。

ノアはお客さんに囲まれ、相手をするのに忙しい。

王宮の舞踏会では、彼には気軽に話しかけることも難しい存在だ。

こういう場でもないと、なかなか他の多くの貴族たちと交流も出来ない。

ポールとエミリーも、それぞれのおしゃべりに花が咲いている。

お茶もお菓子も美味しいのに、いつも冷静なシモンの様子が、何だかおかしい。

「どうしたの? なにか困ったことでも?」

 私はノアの周囲に出来ていた輪から抜け出すと、シモンに声をかけた。

「いや、何でもないよ。ありがとう」

 そう言って、またテーブルの様子を確認している。

彼はどうしても、エントランスの方が気になるみたいだ。

広間と玄関を何度も往復している。

「コリンヌがまだ来ていない」

 ポールだ。

「やっぱり、来れなかったのかもな」

「仕方ないわよ、こればかりは。私たちにはどうしようもないわ」

 エミリーも心配している。

「気持ちがあっても、どうしても越えられないものはあるのよ」

 エントランスから戻ったシモンと、目があった。

「やぁ。どうしたんだ、こんなところに3人で集まって」

「別に。何でもないよ」

「そうね、行きましょう。ポール」

 エミリーはポールを引っ張って行ってしまった。

なにやらひそひそと内緒話をしている。

私とシモンは、二人で取り残されてしまった。

「はは。どうやら呆れられたみたいだ」

 だけど私は、コリンヌが来られなかったことに、少しだけホッとしている。

「気にすることないわ。元々ノアの提案が無茶だったんだもの。いくらコリンヌさまでも、来られなかったのよ」

「彼女はやっぱり、俺なんかとは違う世界で生きてるんだな」

 シモンは静かに微笑むと、私に向かって手を差し出した。

「今日くらい、アデルと踊ってもいいかな」

「もちろんよ、シモン」

 夏のそよ風のような、優しい音楽が流れている。

そのリズムに合わせて、そっとステップを踏み出す。

「せっかく君とノアが助けてくれたのに、何だか申し訳ないね」

「どうして? パーティーは上手く行っているわ」

「はは。だけど、あの人は来ない」

 シモンはいつもクールな顔に、寂しそうな表情を浮かべた。

「ま、どうせ高嶺の花だ。無理と分かって手も伸ばそうともしない俺に、踏み台を用意し梯子をかけてもらったところで、目の前にそれが現れたとしても、摘み取る勇気なんてないんだ」

 シモンのパートナーに合わせるスタイルのリードが、ゆっくりと腕を伸ばす。

彼は私の行きたい方向へ、少しの変化も見逃さず、踊りやすいように体を支えステップを合わせてくれる。

「彼女にだって、公爵家に生まれた使命がある。それはきっと、運命みたいなものなんだ」

 彼は誰よりも、大きくてゆったりとしたステップで私をリードする。

決してポールのように背が高いわけでも、体格が特別よいわけでもないのに、どちらかといえば理屈っぽく気難しいと思っていたシモンからは、想像出来ないダンスだ。

「あぁ、アデル。君は何かを考え始めると、すぐに右に曲がろうとするクセがある」

 そう言って、彼は私に合わせて右に曲がった。

「これでは同じところをくるくる回ってばかりだ。相手の男性は誤解してしまうよ。自分は嫌われてるんじゃないかって」

 とか言いつつも、また私に合わせて右に曲がる。

自分でも知らなかったクセだ。

シモンは案外、よく見ている。

「あ! シモンは、コリンヌが好きだったのね!」

「ははは! そうだったのかな? 俺にはよく分からないな。だけどアデルがそう思ったのなら、そうだったのかもしれない」

 彼はその涼しげな黒髪を揺らして笑った。

ようやく気づいた。

だからノアもエミリーもポールも、ここに居るべきもう一人の人を、招待しようとしていたんだ。

「だけど、もう忘れるよ。俺だっていつまでも、儚い夢ばかり見てはいられないからね」

「ずっと好きだったのね」

「初恋だね、きっと。もしそんなものがあるのだとしたら」

 シモンはいつも冷静で落ち着いていて、他の男の子たちよりずっと大人びていて、誰かが一人で座っていれば、いつもその隣に腰を下ろした。

「だけどそんなものは、引きずるもんでもないでしょ」

 そんな彼のリードが、大きく私を引いた。

ぐるりとターンを決める。

「だからもう、今日で終わりにするよ。みんなには感謝してる」

 そんなシモンだからこそ、彼は臆せず私に声をかけてくれたし、私も彼と言葉を交わすことが出来た。

「アデルは俺には、どんな女性が似合うと思う? 今までお付き合いした女性は、どれも退屈過ぎた」

「どれもって、どれも?」

「どれも」

 そんなシモンだから、アカデミー中の女の子と仲がいい。

仲がいいというより、仲が良すぎて色々と……。

「もしかしたら、君が化けていた侍女みたいな女の子の方が、案外合うのかもしれないね」

「それは冗談でもやめた方がいいと思うわ」

「どうして? あんなに可愛かったのに。俺がノアなら、もう一度してって頼んじゃうね」

 頬を寄せ、その低い声で耳元にささやかれると、顔が赤くならないワケがない。

「もう! そんなことばかり言ってたら、ノアじゃなくても怒るからね」

「ははは」

 その視界に、一人の女性の姿が見えた。

およそこれから舞踏会に出席しようとするような格好には見えない、普段着のようなドレスだ。

ドレスというより、それこそ侍女たちの着ているようなシンプルな……。

「コリンヌ?」

 彼女は、駆け寄った私とシモンを見上げた。

乱れた髪に肩で息をしている。

それでもコリンヌは、公爵家の令嬢らしくスカートの裾を持ち上げ、丁寧に挨拶をした。

「せ、先日は、父が大変なご迷惑をおかけしました。アデルさまには、どうか父に代わってお許しを頂きたく、こうして馳せ参じた次第にございます」

 そう言った彼女は、うなだれたまま顔を上げようとしない。

私は慌ててその手を握りしめた。

「そんなこと、私はもう覚えていませんわ。あなたにお会いできて、とても光栄です」

 彼女はひざまずくと、私の手にキスをする。

ようやくコリンヌを立ち上がらせ、再びその手を握りしめた。

「やっとお会いできました。あなたとは一度、ゆっくりお話しがしてみたかったのです」

「アデルさま……」

「コリンヌ! 来てくれたんだね」

 ノアも駆け寄ってくる。

「ノアさま。ノアさまにも、大変な失礼を……」

「そんなことはどうだっていいよ。早速だけど、僕と踊ってくれるだろ?」

「え、えぇ。もちろんですわ、ノアさま」

 ノアの手に、コリンヌの手が重なる。

すぐに踊り始めた二人の姿に、周囲から感嘆の声が漏れる。

「はは。今だけは妬くなよ、アデル」

 ポールが私に手を差し出した。

ダンスの誘いだ。

「何で私が妬くのよ!」

 彼からのその誘いに、私は乗った。

手を重ねた瞬間、ポールはグイと私を引き寄せる。

「だって、さっきまで妬いてたんだろ?」

「や、妬いてません! なんでそんなこと……」

「ウソつけ。エミリーから聞いたぞ」

 ポールの長い腕でリードされると、まるで振り回されてるみたい。

「まずはノアとダンスしなきゃ、シモンとは踊れないんだ。そこは我慢だぞ、アデル」

 ポールは自分の好き勝手に、くるくると私を回す。

大きなリードで体が離れたかと思うと、そのままポールを軸にして反対側にまで振られる。

「ちょっと! もうちょっと優しく踊れないの?」

「はは。俺、ダンスとか苦手だから」

「そういう問題じゃない!」

 全く! 

どうしてエミリーは、こんな自由奔放で好き勝手な人が好きなんだろう。

ポールは今は、自分が楽しいから、自分が楽しいように楽しく踊っている。

ある意味乱暴。

「もうちょっと、ゆっくり! 歩幅くらい合わせてよね!」

「なんでだよ。こんなめでたい時に、そんなチンタラ踊ってられるか」

「ポールも、コリンヌが来てくれて嬉しいのね」

「そりゃそうだろ。アデルは……。あぁ、そうか。妬いてるんだった」

「妬いてません! 私だって嬉しいわよ!」

 ポールがお腹を抱えて笑い出すので、もうダンスなんてお終い! 

怒って途中で抜け出したのに、ポールはまだ笑っている。

もう二度とポールなんかと踊らない。

だからエミリーしか、ダンスの相手がいないんだわ。

 音楽が終わった。

ノアとコリンヌは向かい合い、優雅な挨拶を交わす。

次の曲が始まるタイミングで、シモンはコリンヌの手を取った。

「アデル、お待たせ」

「待ってません!」

「え、うそ。なんで怒ってんの?」

「ノアが踊って欲しいのなら、踊ります」

 ツンと差し出した私の手を、ノアはためらいながらも、すぐに手にとった。

「え、なんで?」

「別に!」

 ノアのリードで滑り出す。

いつものノアとのダンスだ。

何も考えなくても、彼の次の動きが分かる。

ノアも私のステップのクセを知っている。

「あぁ、そうか。アデルは僕に、ヤキモチ焼いてるんだった」

 不意に耳元でささやかれ、つい声が大きくなる。

「だから、妬いてないって!」

「ふふ。そうなの? それは残念だ」

 大きくターン。

その視界に、恥ずかし気に手を取り合う、ダンスを初めて習うカップルのような二人が見えた。

いつも冷静なシモンが、緊張しているのか動きもぎこちない。

さっきまで私と踊っていたあのダンスが、まるで嘘みたいだ。

コリンヌだって、ノアと踊る時は、もっと優雅に完璧なダンスを披露出来るのに……。

「コリンヌはずっと、彼に会いたがってたんだ。シモンはそんなこと、一つも口には出さなかったけど。舞踏会で僕とダンスをする時は、ずっとシモンのことばかり聞いてきてさ。妬けるだろ?」

「まぁ、ノアでもヤキモチを焼くことがあるのね」

「僕はいつだって、君に近づこうとする全ての男に妬いているよ」

 ノアは耳元でささやいた。

ポールがエミリーをダンスに誘っている。

彼女は怪訝そうな顔をしながらも、強引を通り超して、失礼な彼の誘いを受け入れたようだ。

「ね、後のことは任せて、ここからちょっと抜け出さない?」

「抜け出すって、どこへ?」

「ちょっとだけ、ちょっとだから。おいでアデル」

 ノアの手が私の手を引いた。

舞踏会の夜は、賑やかに更けてゆく。

テラスから外に出ると、私たちはこっそり建物の陰に身を潜めた。

「見つかったら、怒られない?」

「シモンのパーティーだよ。誰が怒るの?」

「……。私?」

「じゃあ君に、怒られないようにしておこう」

 ノアの手が私の手を握る。

顔が近づいて、私たちはキスをした。




第10章


 夏の避暑地から王宮に戻ると、いつもの日常が待っている。

私はアカデミーへ通い、ノアは時間を見つけては、そこに会いにくる。

「君もこの城に部屋を持てればいいのに。どうしても聞き入れてもらえないんだ」

「仕方ないわよ。その代わり館を一つ使わせてもらっているのだもの。わがままは言えないわ」

「王宮の客室ならいいって、言うんだ。そんなの僕の部屋から通うには遠すぎる。どうしてだと思う? 完全に兄さんたちからのイジメだ」

「ねぇ、もう時間よ。さっきからエドガーがにらんでる」

「あぁ……」

 ノアは大きなため息をつくと、ようやくソファから立ち上がった。

「夜中に城を抜け出したくても、監視の目が厳しくて」

「これ以上彼を困らせてはダメよ」

「アデルまでそんなことを言うんだ」

 ノアはムッと機嫌を悪くすると、そのまま行ってしまった。

シモンの別邸で、パーティーから抜け出してキスをした。

その時のことが頭をよぎる。

これ以上ノアの近くにいたら、本当にどうにかなってしまいそう。

 その夏の経験を生かして、この小さな緑の館でも、初めてのパーティーをしようという計画が上がっている。

エミリーが言った。

「ま、セリーヌという監視役がいることだし? あそこまで好き勝手は出来ないでしょうけどね」

「それは無理よ。楽しかったけど」

「また来年までお預けね」

「ね、ポールとはどうなってるの?」

「そんなこと、アデルになんて教えないわよ」

「なんで? 別にいいじゃない」

「……。すっごい長くなりそうなんだけど、ホントに聞いていただけますの? 覚悟はよろしくて?」

「もちろんですわ」

「ならよろしい」

 コホンと咳払いしたエミリーに、私はツンと返事を返す。

二人で顔を見合わせると、同時に笑いだした。

やがて庭の木々も色づき始める。

外を吹く風がすっかり涼しくなり始めた。

「アデル、大ニュースだ!」

 その日、ノアはエドガーと共に館の庭へ飛び込んで来た。

「ずっと任されていた治水工事が、ようやく始まるんだ!」

 馬から飛び降りるなり、開け放していた庭から部屋に入ってくる。

「アリフ地方の川で、それほど大きくはない川なんだけど、いつも氾濫してて、そこの河川工事が……」

 ノアが一生懸命話しているのを、私はにこにこと聞いている。

「そう。よかったわね。ノアにとっては、初めての大きな仕事になるのね」

「これから雨の少なくなる季節だから、水量も落ちる。その間に、基礎工事の下見と、実際の工事計画を見直すんだ」

 ノアは、私の手をぎゅっと握りしめた。

「現場を見に行ってくる。ついでに周辺の村や町の様子も見たい。これから日程を詰めるんだけど……。しばらく、王宮を離れることになる」

「そっか。気をつけていってらっしゃい」

「……。工事の下見が、どれくらいかかるか分からないんだ。アリフに行く途中で、道中の町や施設にも立ち寄ることになるかもしれない。せっかくだからね」

「素敵。色んな所を視察してくるのね。ぜひ実りの多いものにしてきて」

「……。一週間や10日どころの話しじゃないよ。最低でも一ヶ月はかかるかもしれない。行くだけで2日3日かかるところだから……」

「アリフの名産って、何かしら。ここよりもだいぶ北よりの地域よね。これからの季節だと冬になるし、日持ちするものじゃないとダメってことね。だったら何か他の……」

「アデル!」

 突然、ノアは怒りだした。

「アデルは、僕がいなくなって寂しくないの?」

「だって、お仕事なのでしょう? 寂しいって言ったって……」

「離れたくないって言った、約束を破ろうとしてるんだよ、僕は!」

 それはそうかもしれないけど、さすがに今回は事情が違う。

返す言葉が見つからない私に、ノアはガックリと首をうなだれた。

「嫌がるか、一緒に行くってごねるかと思った」

 ノアはムッとすねたような顔をすると、くるりと背を向けた。

入って来た庭から出て行こうとするのを、ピタリと立ち止まる。

振り返ったノアと目が合った。

「ここで追いかけてくるの!」

 あぁ、もう。面倒くさい! 

「ノア、寂しいわ。私はどうすればいいのかしら」

 言われたように、彼の背中にしがみついた。

「すまないアデル。だけど僕は、どうしても行かなくちゃいけないんだ」

 ノアは私を抱き寄せると、ギュッと手を握りしめる。

「君も一緒に連れて行ってやりたいが、そうなると、どうしても費用がかさんでしまう。悪いがそれは出来ない」

「えぇ、ノアさまのことを思って、毎日を耐え忍びお待ちしております」

「ダメ、早い。もうちょっとゴネて。やり直し」

「……。どうして私を一緒に連れて行くと、おっしゃってくださらないの?」

「ダメだよアデル。男ばかりの調査隊なんだ。そんなところに君なんかを連れて行ったら、お風呂とか覗かれてしまう。そんなの僕が耐えられない!」

「お風呂のぞきに来るの?」

「例え話だよ。ハイ、もっと続けて」

「……。え~っと。寂しいわノア。あなたと離れて暮らすなんて、考えられない。そんなことに本当になってしまったら、私の心は散り散りになってしまいそう」

 ノアはウンウンとうなずいて、そのまま動かない。

私はこれ以上セリフを思いつけないので、そのまま腕に抱かれている。

その様子を、壁に並んだ侍女たちやエドガーが眺めていた。

恥ずかしい。

やがて彼は耳元でささやく。

「手紙。アデル、手紙書いてって言って」

「手紙を……、書きます。私も書くので、ノアさまも書いていただけますか?」

「もちろんだよアデル。忙しくしていても、心配しないでくれ。暇を見つけたら必ず君に手紙を書く」

「ありがとうございます。それならわた……!」

 唇を押しつけられる。

息が苦しいのに、なかなか離してくれない。

ようやくそれが離れたと思ったら、再びノアは私を抱きしめた。

「ゴメンね、アデル。君に寂しい思いをさせたいワケじゃないんだ。僕も寂しいけど、これが終わったら、僕の誕生日はすぐそこだ。そしたら僕は……」

 エドガーがコホンと大きな咳払いをした。

「ノアさま。そろそろお戻りにならないと」

 彼の言葉を無視して、ノアは私の顔をのぞき込んだ。

「そうだ。出発するまでの数日間は、僕はこの館に寝泊まりすることにしよう。名案だ。そうすれば僕ももう少し君のそ……」

「ノアさま。帰りますよ」

「あぁもう、うるさいな。エドガーのおかげで帰るタイミングを逃した。今夜はここで泊まることにするから、そのようにては……」

 バタンと扉が開いて、負のオーラを全身に纏ったセリーヌが姿を現す。

「ノアさま。お帰りを」

「なんだ、セリーヌか! 君が居てくれるから、アデルは助かってるよ。安心して任せられる。そうかそうか。ならよかった! じゃあやっぱり僕は帰るとしよう」

 ノアは何だかんだ言っても、やっぱりまだセリーヌの迫力には敵わない。

ようやく握られていた手が離れたかと思った瞬間、頬にチュとキスをした。

「また来る」

 それからのノアは、毎日のように小さな緑の館に顔を出し、何だかんだとゴネてはセリーヌとのにらみ合いを続けた。

いよいよ出発が明日へと迫った日、私はノアと最後の夜をすごすため、お城へ呼ばれる。

客間の一つに丸テーブルが置かれ、二人きりの食事が用意されていた。

静かな晩餐が続く。

「やっぱり、最短でも4週間はかかるみたいだ。専門の技術者たちには先に出発してもらっていて、もう調査は開始しているんだけどね。僕が問題点なんかの報告を受け、どうするか一緒に考えることになってるんだ。あぁ、そういえばシモンも一緒に行くことにしたよ」

「シモンも?」

「うん。シモンには、もっと頑張ってもらわないといけないからね。コリンヌのためにも」

「実績を積ませるのね」

「そう。じゃないと、公爵家のお嬢さまは、なかなかに難しいからね」

 食事が終わり、最後のお茶が出された。

給仕が部屋から出ると、二人きりになる。

ノアは立ち上がった。

「アデル。こちらへ」

 差し出された腕の中に、私は吸い込まれるように寄り添う。

ノアはそんな私の背を抱きしめた。

「音楽はなくてもいいよね」

 彼は私の手を取ると、ゆっくりとステップを踏み始める。

「ね、アデルは僕がいない間、何するの?」

「別に何もしないと思うわ。いつものように、アカデミーに通って、エミリーたちとお茶してると思う」

「それだけ?」

 小さくターン。

この部屋のためだけに統一された、赤い絨毯が床にも壁にも敷き詰められ、金の刺繍が一面に施されている。

掛けられた絵は、これからノアの行くアリフの田園風景なのだろう。

荒れ果てた荒野の向こうに山脈が広がり、中央に曲がりくねった川が流れている。

「僕に手紙は書かないの?」

「書くよ」

「無事を祈ってお祈りは?」

「もちろん」

「寂しくて、泣いたりする?」

「ふふ。泣いちゃうかもね」

 そう言った瞬間、ノアはふわりと私を抱き上げると、出窓の縁に座らせた。

「それは泣かないで。アデルが泣いてるって聞いたら、僕は心配で何も出来なくなる」

 彼の頭が、スカートのひだに埋もれる。

私はミルクティー色の真っ直ぐな髪を、指でそっとすくう。

「だから約束して。僕がいなくても、決して泣かないで。君を泣かせるようなことがあれば、僕はいつでも、どこへでも飛んで行く」

「分かった。じゃあ泣かないわ」

「約束ね。君が笑って過ごしていられるくらいの間に、行って帰ってくるよ」

 ノアの背が伸びる。

唇が触れ、ゆっくりとそれが溶け合うまで、重ね合わせた。



第11章


 秋も深まり、吹く風はすっかり冷たくなった。

ノアが王宮を出てから、間もなく3週間が経とうとしている。

手紙は3日とおかずに届けられ、時には町で見かけたとかいう髪飾りや置物なども添えられていた。

『あと10日ほどで帰れるかと思ったけど、もう少し上流の方も見ておいた方がいいってことになったんだ。追加でさらに3日は帰りが遅れるかも。明日には天候を見て、険しい山を登るので、5日は手紙は出せない。戻ったらまた手紙を書くから。心配しないで』

『無事に帰ってくることを、楽しみに待っています』

 そんな返事を書き記し、封をする。

ペンを片付けると、私は書斎を出た。

「セリーヌ。この手紙をノアさまに……」

「アデルさま!」

 その階段を駆け上がってきたのは、セリーヌだった。

「ついに、ついにお迎えがまいりましたよ!」

「お迎え? ノアの?」

「違いますよ、何をおっしゃっているのですか。あぁ、どれだけこの日を待ちわびたことでしょう!」

 そう言って、彼女は涙ぐむ。

「なに? どうしたの? ちゃんと話してくれないと分からないわ」

「シェル王国からの使節団が、こちらに向かっているそうです!」

 急遽王宮へ呼び出された私は、第一王子であるステファーヌさまの前に進み出る。

その隣には、第二王子のフィルマンさまも控えていた。

「おめでとう、アデル。国からの連絡が来た」

 ステファーヌさまはそう言うと、足を組みほおづえをついた。

「使節団の出発に先立ち、その数日前に先発隊が国境を渡ったそうだ。早ければ今日か明日にでも、正式なシェル新国王の伝言を持った使者がやって来る」

「そ、それじゃあ……」

「君は、シェル王国に帰るんだ」

 か、帰ると言われても、もう私の居場所は、ここにしかないのに……。

ステファーヌさまの前で、動揺を見せるわけにはいかない。

強ばらせた顔を横に向ける。

「俺は覚えてるよ。君がここへ預けられた時のこと」

 フィルマンさま、フゥーっと長い息を吐いた。

「君のお父さんと陛下は親交が深かったからね。内乱を起こすと相談を受けた時、真っ先に一人娘の君の心配をしてたんだ。預かると言い出したのは、うちの父の方なんだよ。我が家には娘がいないしね」

 私の家族との思い出なんて、厳しかった父と、それを見ているだけだった母の姿しかない。

屋敷にはひっきりなしに父の客人が訪れ、いつもヒソヒソと密談を交わしていた。

「それでも、幼い娘だけを先に逃がして、身の保身は図ったのかという批判をかわすために、歳の一番近かったノアと婚約することを提案したんだ」

「君がこの国で幸せに暮らしているという対外アピールは、十分父王の援護射撃になったはずだよ。お父上の背後には、マルゴー王家がついてるってね」

 その客人たちは誰もが、私を見て落胆し悲観にくれた。

私が女の子だから、男の子じゃないから。

一人娘ではなく一人息子であれば、父とその周辺の態度はもっと違ったのかもしれない。

私は生まれた時から、ずっとそう感じていた。

だからマルゴー王国へ送られるのは、必要な子として生まれて来れなかった報いなのだと。

だからせめて、それくらいの役は果たせと、そう言われたのだと思った。

「わ、私は、忘れられていたのかと……」

「それに関しては、申し訳なく思っている」

 ステファーヌさまは言った。

「内戦状態だったからね。言い換えれば、反逆、造反、謀反。反旗を翻して戦うんだ。国内の情報統制が厳しくて、私たちも独自に情報を集めることは控えていた」

「それがようやく、君を迎えに来られるほど、落ち着いたみたいだな。無事に帰せるのなら、これほど嬉しいことはないよ」

 私は、手にした扇を握りしめる。

いらない子なら、そのまま捨てておけばいいのに。

私がどれだけ尽くしても、見向きもしなかったくせに……。

必要とされなかった子が、ようやく務めを果たし終えたと判断したから、帰って来いというのだろうか。

それともまた、別の使い道を考えた? 

「アデル? 大丈夫かい?」

「は、はい……」

 ステファーヌさまの言葉に、つい扇を開き顔を隠す。

フィルマンさまのため息が聞こえた。

「それが困ったことに、ノアがすっかり君を気に入ってしまってね」

 そう言って、ケラケラと笑い出す。

ステファーヌさまも指で額を押さえた。

「本当に。預かった大切な娘さんを傷物にして返すわけにはいかないだろう。アイツには本当に、いつもハラハラさせられる」

「政略結婚した相手になぁ! あぁいうのを、バカって言うんだぜ」

「フィルマン。ノアのことは、かわいいと言いなさい」

「あはは」

 ステファーヌさまは、コホンと咳払いをする。

「そういうわけで、とにかく君は、一度は祖国に帰らなくてはいけない」

 じっと見つめられるその視線に、動けなくなる。

私はいま自分が、何を求められているのか、その答えを知っている。

知っているのに、どうしてもそれが言葉になって出てこない。

「ま。俺と交換条件にしてもいいけどな?」

「フィルマンがアデルの代わりに? お前がシェル王国へ行くのか?」

「そう」

「そ、それは……。大変ありがたいお申し出ですけれども……」

 フィルマンさまを見上げる。

彼はニッと微笑んだ。

だけど、そんなことが許されるわけもない。

彼はこの国の第二王子だ。

唯一この場を穏便に済ませる方法を、私は知っている。

ただ笑って、「はい。帰ります」と答えればいいだけ……。

二人を見上げた。

彼らはじっと、私の次の言葉を待っている。

「アデル。正直に言ってごらん」

「どうする?」

「わ、私は……」

 ノックが聞こえ、バタンと扉が開いた。

真っ黒なマントを翻し、肩までの黒髪をサラリとハーフアップに流した男性が現れる。

一見軍服に見える黒い皮の鎧を身に纏い、背は高く体格もよいその人は、ステファーヌさまの前にひざまずく。

「シェル王国より参りました。オランドと申します。この度の謁見、お許しいただき大変恐縮にございます」

 そう言うと、懐から書簡を取りだす。

そこに父の紋章で封がされていることを、私は自分の目ではっきりと確認した。

迎えが来ているというのは、本当なんだ。

ステファーヌさまは、すぐにそれに目を通す。

オランドは私を振り返った。

「アデルさま」

 彼は私の前に膝をつくと、手を取りそれを痛いほど握りしめる。

「随分ご立派になられて……。お久しぶりです。父王にあなたの迎えを命じられ、いてもたってもいられず、こうして馳せ参じました」

 心なしか、声が涙ぐんでいるような気がする。

触れられた手が、痛くて仕方がない。

「あ、あの……。私は……」

「あなたのご両親、新国王夫妻はご無事です。いつもアデルさまの身を案じておりました」

 そこにキスをし、立ち上がった彼の鎧の胸元には、確かに我がフローディ家の紋章がある。

「おとう……、さまの?」

 見上げる私の肩を、オランドは引き寄せる。

固い鎧で覆われた腕に、しっかりと抱きしめられた。

「あなたには大変なご苦労をおかけしました。もう何も心配はいりません。私がついております。共に家へ帰りましょう」

 彼は指先で私の髪をすくいとると、そこへキスをする。

「あの……。父と母は、無事なのですか?」

「もちろんです。無事、大義を成されました」

 体が震えているのは、今にも泣き出してしまいそうだから。

どんなに遠く離れても、思い出はくすんでいようとも、父と母に愛された記憶は残っている。

私の頬を、涙が流れ落ちた。

そんな私に、彼は大きく息を飲み、思いを吐き出す。

「あなたは……。もう覚えていないでしょうが、フローディ新国王がまだ王弟であられたころ、お住まいのあったカラの町で、私とは何度もお会いしていたのですよ」

「カラの町で?」

「私はそこで、あなたのお父さまが開かれていた、スクールへ通っておりました」

 覚えている。

荒れ果てていく一方の国を憂いた父が、新しく優秀な人材を育てようと始めた学校だ。

「身分分け隔てなく接するお父さまの方針で、あなたは井戸の水くみまでさせられておりました。私はそれを、時折手伝っていた上級生です」

「お、覚えております! それは……決して、私には、忘れることなど……、ありえません……」

 王弟の一人娘という立場であっても特別扱いはされず、教師たちから誰の手も貸りてはならないと言われ、おかげで周囲から孤立しがちだった。

どれだけ私が間違えても、転んで怪我をしても、何一つ助けてはもらえなかった。

一人で水くみをしていた時に、どこからか現れ無言で手伝い、すぐに消えてゆく黒髪の少年を、時折遠くで見かけては思いを寄せていた。

「あの頃は陰から手を貸すことしか出来ず、歯がゆい思いをしたものです。今こうしてあなたをお迎えに上がれることに、私は至上の喜びを感じております」

 黒く落ち着いた深い目で見つめられる。

その黒さに吸い込まれてしまいそう。

父は今度は、この人に従えと命じているのだろうか。

私をこの国に送り、ノアに従えと言ったように。

厳しかった父に、認められるなら認められたい。

母にももう一度会って、抱きしめてもらえるのなら、抱きしめてもらいたい。

だけど……。

「オランドどの。確かに書状は受け取りました」

 ステファーヌさまは、それをフィルマンさまに手渡す。

「まずは長旅の疲れを癒やされよ。どこかに客間を用意させましょう」

「アデルさまは、いまはどちらに?」

 一瞬言葉に詰まる。

この質問には、どんな意図が含まれているのだろう。

私がここで置かれている立場を推し量るもの? 

後で訪ねて来る予定がある? 

それを根拠に、私を可哀想だと哀れみ、ステファーヌさまたちを非難する?

「えぇと、今は……」

 私は、どう答えるのが正解? 

ステファーヌさまと目が合った。

だけど答えは教えてはもらえない。

私はそのままを正直に答えた。

「今は、この王宮の敷地にある、別の館で暮らしております」

「では、私もそちらへ参りましょう。これからの話しがしたい」

「オランドどの」

 フィルマンさまは、目を通し終えた書簡を脇へ置いた。

「今宵はお疲れでしょう。この城内に部屋を用意させます」

 オランドはその言葉を無視し、私を振り返る。

「セリーヌどのはお元気ですか?」

「え? えぇ。セリーヌともお知り合いなのですか?」

「私の伯母にあたる方です。ずっと安否を憂いておりました。ぜひお目にかかりたい」

 そう言われては、断る理由も見当たらない。

馬車で館へ移動した私たちを、その彼女は待ち構えていた。

「オランド!」

「セリーヌ伯母さん!」

 二人は顔を合わせるなり、固く抱き合う。

セリーヌの目に涙が流れた。

「まぁ、こんなに大きくなって。元気にしていたのね」

「もちろんです。伯母さんも変わらないみたいだ」

「こんなに嬉しいことはないわ」

 再会を喜ぶ二人に、私はその日の夕食を一緒にとるよう勧めた。

セリーヌとオランドの三人でテーブルを囲む。

「国の様子はどうですか」

「もうすっかり落ち着きました。これから復興に全力を尽くします。ますます忙しくなりますが、やりがいは全然違いますよ」

 今夜のメニューは、オランドが好きだというシェル王国の伝統的な家庭料理が並ぶ。

と、オランドは食事の手を止めた。

「実は……。これは、あまり表には出せないお話しなのですが……」

 彼の黒い目は、じっと私をのぞき込んだ。

「長年の心労のせいか、王妃さまのご容体があまりよくありません。どこが悪いというわけではないのですが、塞ぎがちで、ベッドから立ち上がれないことも多いのです」

「お母さまが?」

「時折襲ってくる発熱と頭痛と……。原因不明の倦怠感が続いております。外では気丈に振る舞っておいでですが、すっかり痩せてしまって……」

 震える手で口元を押さえる。

手にしていたフォークがテーブルから落下し、床に跳ねた。

毎晩薄暗い部屋の隅で泣きながらも、昼間は笑顔を絶やすことのなかった母の姿を思い出す。

「先は、長くないとおっしゃるのですか?」

「いいえ。医師からは、気持ちの問題ではないかと言われております。ですが、急ぎ私が参ったのには、そんな理由もあるのです」

 オランドは、静かに私を見下ろした。

「数日後には、使節団が到着します。彼らが国に戻る時に、アデルさまも一緒に帰れるようにしたいと思っているのですが、あまりに性急過ぎるでしょうか」

「そ、そうですね。冬を過ぎて、春になってからでも……」

「まぁ、冬が来る前に動いてしまわないと、それこそ大変になります」

「私も、それが無難かと」

「そうですよ、アデルさま。善は急げです」

 冬には、ノアの誕生日があるのに……。

次の誕生日は一緒に過ごすと言った、彼との約束を、私はもう守れないの? 

だけどそんな我が儘も、もう言えない。

 それからは、本当に慌ただしい日々が続いた。

急遽連絡を回し、エミリーやアカデミーの友人たちに別れを告げる。

どこへ行くにも、必ずオランドが同行した。

「アデル!」

「エミリー」

 久しぶりの再会に、アカデミーの広間で固く抱き合う。

「驚いたわ。本当に急なんですもの。ノアさまはご存じなの?」

「連絡は入れたんだけど……」

「ったく。マジでタイミング悪いよな」

 ポールは、くしゃりと前髪をかき上げた。

「俺もシモンに連絡入れたけど、返事は返ってきてない。なにやってんだアイツら」

「仕方ないわよ。だって、大切なお仕事なんだもの」

 そうだ。

どんな事情があろうとも、王族に生まれたものならば、私情より公務を果たすのが義務。

ノアの判断は、決して間違っていない。

そしてそれは、父の判断もオランドの判断も同じこと。

ノアだって、大切な仕事の前には、彼らと同じような判断を下すのだ。

「アデル?」

 エミリーがのぞき込む。

「顔色が悪いわ。落ち着かないのね」

 彼女の手が頬に触れる。

私はその柔らかな温かい手を、そっと握り返した。

どんなことがあろうとも、心の内は決して表に出してはならない。

悟られてもいけないのだ。

それが親しく大切な人であればあるほど、余計な心配はかけたくない。

私はにっこりと優雅に微笑んで見せた。

「ありがとう、エミリー。本当に急な話しで、忙しくて。あなたはどこに居ても、いつまでも、私の大切なお友達よ」

「ねぇ、何か助けになることはない? 私に出来ることなら、なんだって手伝うわ」

 本当に私の望みが叶うなら、今すぐここを抜けだしたい。

王宮を飛び出し、ノアのところに走りたい。

偽物の婚約者なんかでいたくない。

王女という立場だっていらない。

何もかも捨てて、今すぐ……。

 だけどそれは、私がここへ来た数年前にも、同じように願った望み。

そして今度は、それが叶ったのだ。

「いいえ、エミリー。ここであなたと過ごした日々は、本当に楽しかった。私の大切な思い出よ。あなたもポールも、いつまでもお元気で」

 ここへ全てを残し、去ろうとする私に、これ以上迷惑をかけることは出来ない。

どうせなら、思い出は美しいままであってほしい。

そして、かつて私が血を吐くような思いで願った望みが叶うのなら、きっとこの瞬間に生まれた新しい望みも、いつの日にか叶うのだろう。

「アデル……」

「ありがとう。大好きよ」

 だから今は、それを信じるしかない。

私の望みがいつか叶うと約束されるなら、私は今は、その流れに従おう。

だって、そうすることしか、そう思うことしか、私には出来ない。

許されていない。

 アカデミーで急遽開かれたお別れ会は、終わりを告げた。

集まった大勢の人々との別れを惜しむ。

オランドも私の隣で挨拶を交わした。

「アデルさまがお世話になりました。ぜひシェル王国へもお越しください」

 あらゆるところへ手紙を出し、別れの挨拶を済ませ、荷物の準備を進める。

大した贅沢をしていなかった私たちにとって、それは比較的簡単なことだった。

衣装や靴が、次々と木箱の中に梱包されてゆく。

書斎の引き出しを整理しようとして、ふと小さな封筒が目に入った。

「これは……」

 ノアが誕生日にくれた品だ。

中を開けてみる。

何かの植物の種が入っていた。

私には分かる。

ノアからの最後のプレゼントは、これになってしまったのね。

初めてプロポーズを受けた、あの黄色い花の種だ。

王宮に咲かない花は、やはり咲けない花だった。

国へ持ち帰りこの種を蒔いたところで、知らない土地に置かれ人知れず枯れてゆくだけの定めなら、ここに置いていく方が……。

廊下に足音が聞こえ、それを片付ける。

「アデルさま。入りますよ」

 オランドだ。

手紙の束を手にしている。

「アデルさま宛ての手紙が届いております。随分親しい友人が沢山おられたのですね。この方々は、どういったお方ですか?」

「アカデミーや、サロンで知り合った方々です」

「ふむ。ところで、一つお聞きしてもいいでしょうか」

 彼はその手紙の束を、机に置いた。

「アデルさまには、確かこの国に婚約者がおられたはずですが……」

「ノア……。の、ことですか」

「あぁ、ノアさまですか。今はどちらに?」

「遠くの、地方へ視察に出ております」

「なるほど。どうりでご挨拶できないわけだ。実際には不仲な仮面夫婦だと聞いてはおりましたが、今度のことは手紙でお知らせを?」

「連絡は差し上げました」

「返事は?」

 首を横に振る。

ノアが、ノアがもしここに居てくれたら……って、思うことは、もうやめた。

私は、自分の意志で動かなくてはならない。

ノアはもう、自分の意志を示している。

「私たちは、それはもちろん、親しくさせていただいておりましたが、それは表向きのことでしかありませんでしたので」

「う~ん。ですが、さすがにこのままお別れというわけにもいかないでしょう。アデルさまがそれでもよろしいのなら、私は構いませんが」

「公務で地方に行かれています。それできっと、お忙しいのでしょう。私もノアさまも、分かっていたことです」

 ノアとの別れ。

いつか来る日が、いま来ただけだ。

そんなもの、早ければ早いほどよいに決まっている。

今というタイミングが、遅すぎただけなのだ。

あの日壁にかかっていた、アリフの荒野を思い描く。

ノアはもう、話しは聞いているのだろうか。

ノアならこの状況を、どう切り返すだろう。

「きっと、プリプリ怒っているかもね」

 だけど、どれだけ思い悩んでも、きっと私と同じ決断を下すはず。

それだけ長い時間を、私たちは共に過ごし過ぎた。

「お怒りでしょうか?」

「さぁ、どうでしょう」

 オランドに背を向け、窓の外を眺める。

明るい部屋から見る窓には、私を見下ろす彼の姿しか映っていない。

「使節団が到着すれば、数日は滞在し、歓送迎会が催されると聞いております。そこで正式にお話しをされては?」

「婚約は、解消となるのでしょう?」

「そうですね。互いにその場で円満に解消を宣言された方が、今後のためにもよろしいかと」

「元に、戻るだけですものね」

「そうです。本来あるべき、正常な状態に戻すのです」

 だから言ってたんだ。

私はどうして、セリーヌや他の人たちの言いつけをきちんと守っていなかったのだろう。

こうなることが分かっていたから、みんな私のためを思って……。

「またそこから、始めればいいのです。今度こそ、互いが対等な立場にたって、お互いの存在を確かめあうべきだと。きっとそういうことなのよ」

 オランドがこの館に現れてから、友人たちから送られてくる手紙が読めない。

もちろんそれを取り上げられているわけでも、隠されているわけでもない。

私自身が、その封を開けられないまま、机に積み上げている。

ノアの字ではない文字で、ノアの言葉を見たら、彼の動向を知ってしまえば、他の余計なことまで考えてしまいそう。

オランドが置いた新しい手紙の束にも、やはり一番見たい手紙は含まれていない。

手紙はちゃんと書くって、あれほど約束したのにね。

「アデルさまの……。ここでの苦労は、私は存じ上げません」

 彼はそう言うと、私の隣に立ち手を取った。

「ですがゆっくりと、これからのあなたと共にあることは可能です」

「それは、どういう意味でしょう」

「そのままの意味ですよ」

 深く黒く、穏やかに微笑む彼の目は、今なら何でも叶えてくれそうな気がする。

「あ、あの、実は、お願いがあるのですが……」

「なんでしょう?」

 やっぱり、帰るのをもう少し延期してもらいたい。

せめてノアと、ちゃんとお別れをしたい。

彼の誕生日を、一緒に祝いたい。

オランドには両親に伝言を頼んで、私は後から遅れて帰るから、だから……。

「あの……、ですね……」

 だけど、アカデミーでちゃんとお別れを済ませ、館の荷物のほとんどを運び出し、セリーヌと侍女たちは、ようやく帰れると毎日のように浮かれていて、私は、私のわがままだけで……。

「ち、父と母への、お土産はなにがよろしいでしょうか」

「お土産ですか? それは、あなたがいれば十分ですよ」

「あ、あぁ。……そうですね」

 自分で自分がイヤになる。

私は彼を、にっこりと微笑んで見上げる。

どうしてこんなにも、言いたいことが言えなくなってしまうのだろう。

オランドは、コホンと咳払いをした。

「実は、私からもお願いしたいことがあるのですが……」

 そう言う彼の顔は、真っ赤になっていた。

「なんでしょう?」

「ダ、ダンスを、教えていただきたいのです。その……歓迎会では、ダンスを踊らなければならないと聞いて……。私も少しは心得ておりますが、なにせ国では戦闘に立つことばかりで、そのような華やかな場には慣れていないのです」

「セリーヌはなんと?」

「お怒りです」

「ふふ」

 その困り果てた顔に、つい笑ってしまう。

彼もその精悍な顔に笑みを浮かべた。

「あぁ、やっと笑ってくださいました。あなたの笑顔が見られて、ようやくほっとできました」

 彼の目は、じっと私を捕らえて放さない。

思わずうつむくと、そのまま部屋を出て行こうとしている。

「では今宵、夕食のあとで」

 パタリと扉が閉まった。

私は一人になった部屋で、自分の胸をぎゅっと抱きしめる。

オランドのことは、信頼していいのか、疑っていいのか、まだ自分の中ではっきりと決まっていない。

彼が私に尽くしてくれるのは、義務か権利か。

仕事として尽くしてくれているだけなら、構わない。

だけど、彼がそうしたいと思ってやってくれているのだとしたら? 

ノア以外の男性から向けられる視線に、意味など感じたことはなかったのに……。

 食事のあとは、約束通りオランドのダンスレッスンに付き合った。

セリーヌの厳しい指導に、戦歴の猛者である彼すらビクビクしている。

「目線は前!」

「はい! あの、て、手は、この位置でよろしいでしょうか?」

「もう少し高く! 角度を上げて!」

 そういえば、誰かのダンスレッスンにこんな風に付き合うのは、初めてだな。

ぎこちないステップ、オランドからのリードなんて、もちろんない。

触れただけで分かる筋肉質な腕に手を添え、体の大きな彼に身を寄せている。

「背筋が曲がっています。あなたは背が高いのですから、相手の女性に合わせてもう少し……。あぁ、もう!」

 あれこれ言いかけたのをやめ、セリーヌは盛大なため息をつく。

「全く! これでは、帰ってからが思いやられます。あなたがこんな様子なら、城の中は一体どうなっていることでしょう」

「アデルさまには、文化、教養面で貢献していただけたらと。これほど頼もしいことはありません」

「それはいいアイデアね。アデルさまはこの国でサロンを開き、数々の著名な方々との交流を……」

 不意に私の頬を、大粒の涙が伝う。

「アデルさま?」

 それに気づいたオランドが、のぞき込んだ。

「どうかされましたか? 私が何か、失礼でもいたしましたか」

「あ、いえ。別にそういうわけじゃなくて……」

 この人は悪くない。

この人たちは、誰も悪くない。

オランドもセリーヌもお父さまも、お父さまの兄王さえも。

だけど涙が流れてしまうのは、こんなにも胸が苦しいのは、私が見てはいけない幻を、ここで見てしまったせい。

「何でもないのです。なぜか……、あぁ、どういうことでしょう……」

 流れやむことのない涙を、何度も振り払う。

「失礼します。お許しを」

 オランドの太い腕が、私を抱き上げた。

そのまま階段を上がると、二階のバルコニーへ出る。

冷たい石造りのベンチに、私を下ろした。

「寒くはないですか?」

 彼はしっかりと私の肩を抱き寄せる。

嗚咽と凍える風のせいで体が震えているのに、オランドの胸は私の知る誰よりも大きくて温かかい。

晩秋の月が照らす。

「……。何か、思うことがあるのなら、何でもおっしゃってください。突然現れた存在で……、私では、頼りにならないかもしれませんが。これだけは覚えておいてください。私はいつでも、必ず、どんな時もあなたの味方です」

 触れる腕はノアよりもたくましくて、言葉はいつだってノアよりも丁寧で優しくて、ノアよりもずっと……。

「泣きたいのなら、胸も貸します。私の全ては、あなたのものです」

 流れる涙を、彼の指が拭った。

「私とのダンスが嫌でした? それとも触られるのが苦手?」

 背に回された腕が、もう一度しっかりと私を抱き寄せる。

彼の手が頬に触れ、顎を持ち上げた。顔が近づく。

「キスは?」

 そのまま触れてくるかと思った唇は、重ねられることなく離れた。

オランドは立ち上がる。

「……。やめておこう。ここは冷えます。早めに部屋におかえりを」

 翌日には、使節団の一行が城へ到着した。

大きな馬車から降りて来たスラリとした使者が、ステファーヌさまとフィルマンさまに挨拶をする。

馬はどれも肥えて毛艶もよく、兵士たちの衣装も立派なものだ。

一緒に運ばれてきた宝石や金貨、布や生糸、工芸品や装飾品は全て、マルゴー王家へと献上される。

「で、出立はいつ?」

 ステファーヌさまに呼ばれ、庭に出されたテーブルで一緒にお茶をしている。

「明後日には発とうかと思っております」

「随分と慌ただしいね。もっとゆっくりしていけばいいのに」

 オランドは、彼の手には小さすぎるティーカップにゆっくりと口をつけ、フィルマンさまは角砂糖をそのまま口に放り込んだ。

「アデルの準備は? 出来てるの?」

 ステファーヌさまはくるみのスコーンを取ると、それを皿に乗せ私の前に置く。

「はい。特に必要な物もございませんので。身の回りのちょっとした品くらいで……」

「ノアから連絡は?」

「わ、……。私からも、送ってはおりますが、返事はまだ来ておりません。少し遠くまで足を伸ばすと言っていたので、それで遅れているのかも」

 馬で3日はかかる距離を、手紙でやりとりをしている。

私が連絡を入れてから、ノアからの返事はない。

最後の手紙で山を下りるまで5日はかかると言っていた。

だけどもう、その5日はとうに過ぎている。

「きっと、向こうでの仕事が楽しくなってしまったのでしょう。初めての大きな公務ですもの。私のことなんかより、そちらを気にかける方が、彼にとっては正しい選択ですわ」 

 フィルマンさまは、じっと私を見下ろす。

そのまま両腕を組んだ。

「アデルは、本当にイイ子だね。いつもお利口さんだ」

 ステファーヌさまは、カップを置いて一息つく。

「ノアの心配はしなくていい。こちらには無事の連絡が入っている」

「なら、なおさらですわ。私が心配することはございません」

 震える手を、テーブルの下に隠す。

顔は笑っているから、きっと大丈夫。

「お二人には、大変お世話になりました。これでなくなるような縁ではないと、信じております。ノアさまにも、どうかよろしくお伝えくださいませ」

「では、明日の送別会で」

「はい!」

 私の作れる最上級の笑顔で、元気にお二人に応える。

そうだ。

これで切れるような縁ならば、私とノアだってきっと続かない。

たとえどんなに離れても、手紙のやりとりは出来るし、会おうと思えば会える。

本当にこれで終わりでないのなら、きっと……。

 ステファーヌさまとフィルマンさまが退席していくのを、丁寧に見送る。

残された私とオランドは、お茶のおかわりをした。

「いよいよ明日ですね」

「はい」

 秋の日差しが、ぽかぽかと降り注ぐ。

「もう心残りはございませんか」

「このまま、永遠にお別れというわけではございませんもの」

 私もそろそろ、覚悟決めないと。

十分にその時間はあったはずだ。

「さぁ、私たちもお暇いたしましょう。今日中には全て片付けてしまわないと。明後日にはここを離れます。今夜があの館での、最後の夜ですわ」

 立ち上がった私を、ノアより背の高いオランドがエスコートする。

「ここはもうすっかり秋も深まっておりますが、シェル王国の首都は、もう少し季節も待ってくれています」

「そうね。ずっと南にあるもの」

 オランドを振り返ると、さっきと同じ完璧な笑顔を浮かべる。

もう迷いはない。

「今から楽しみだわ」

 早めの夕食を済ませ、最後のダンスレッスンが始まる。

「明日はよろしくお願いしますよ、アデルさま。私は作法も礼儀も何も心得ておりません。あなたのサポートがなければ、必ず笑われます」

「まぁ、大丈夫よ。オランドも基礎はしっかり出来ているもの。あとはタイミングを合わせるだけだわ」

 彼の大きな手が腰に回り、そっと手を重ねる。

ゆっくりとした音楽が流れ、練習を積み重ねた簡単なステップを踏む。

そうだ。

ノアが私のことを忘れたっていい。

いつかきっと、彼は忘れてしまうだろう。

彼には沢山のお妃候補がいて、これからの日々が待っている。

それでも私が彼のことを忘れなければ、この気持ちは嘘にはならない。

「他の令嬢からダンスを誘われたら、どうすればよいのでしょう」

「男性から誘わなければ、誘われることはございませんわ」

 ノアにはノアの世界があって、彼には彼の自由があるのなら、私にも私の世界があって、私の自由もある。

そうありたいと思うならば、より一層私たちは、何者にも縛られない存在でないといけない。

「なら、私からお誘いするのは、アデルさまだけですね」

「今はその方が無難かと」

「誘われた女性は、お断りすることは出来ないのですか?」

「もちろん出来ますが、そうと分からないようにお断りするのがマナーです」

「随分と難しいものですね」

 あぁ。きっと、お父さまやお母さまが私を国外へ逃したのも、ノアがこの小さな緑の館を出て城に入ったのも、きっとこういう気持ちだったに違いない。

私はそれを、ずっと勘違いしていた。

だから今度は、私がそれを返す番なんだ。

 オランドが私の手を引いた。

大きくターン。

そこからすぐに立て直す。

「すっかりお上手になられました」

「アデルさまと踊っていない時は、どうすれば?」

「他の方とおしゃべりをなさっていて。きっとオランドはモテモテよ」

「はは。だといいのですが」

 そうやって、私の周囲の人たちが幸せになるのならば、私がそのお役に立てるのならば、私が父の後ろ盾になれたと言われたように、今度はノアの後ろ盾になりたい。

先も分からない、名もないどこかのただの娘と婚約をさせられる、幼い第三王子などという弱い立場ではなく、他国に強い繋がりのある、立派な王族の一員として、ここで認められるように。

私はそういう存在になりたい。

オランドの雄々しい顔が近づき、耳元でささやく。

「困っている時は、助けに来てください。合図を決めておきますか?」

「ふふ。そうね、何がいいかしら」

「左手で右の耳を触るというのはどうでしょう」

「いいアイデアね。ではそれで」

 不意に、騒ぎが聞こえてきた。

エントランスで侍従たちが慌てている。

駆けてくる足音が聞こえ、乱暴に扉が開かれた。

オランドは私を背に隠すと、スラリと剣を抜く。

「アデル!」

 飛び込んで来た男との間に、オランドが立ちはだかる。

鍛え抜かれた体で構えた剣に、ノアは立ち止まった。

それを見たエドガーも剣を抜く。

「何者だ、控えよ!」

「ノア! お待ちください。この者は怪しい者ではございません!」

 オランドを押しのけ、私は前へ出た。

「アデル!」

 ノアは私の背を抱きしめる。

飛びつきすがりつくように、きつく抱きしめた。

「アデル、アデル!」

 ノアの体が汚れている。

服も髪もボロボロだ。

どれだけの距離を、馬で飛ばしてきたのだろう。

ノアはオランドをにらみ見上げた。

「何者だ。誰の許可を得てここにいる!」

「ノア。この方は私の護衛役です。父の遣わせたナイトです」

「父? シェル王国の?」

「そうよ。だから、心配しないで」

「どういうことだ」

「どういうことって、そういうことよ」

 ノア。どうして帰ってきたの? 

いっそ顔を見なければ、このまま綺麗にお別れ出来たのに。

ノアのミルクティー色の髪が、その髪によく似合う、懐かしい深いグレーの目が、私を見る。

「アデル、話しがある。ちょっといいか」

「今日はもう遅いわ。それに……」

「アデル!」

 ノアが私の腕を強く掴んだ。

このまま彼と二人きりになったら、私がどうなってしまうか分からない。

「今日は、この館で最後の夜よ。それを台無しにしないで」

「最後? どういうことだ!」

「明日はお城で、私を迎えに来た使節団との宴があるの。そこで正式にお暇を頂いて、私はこの国を発つわ」

「なんだって? いつの間にそんなことになった。どうしてそんな大切なことを、自分一人で決めたんだ。僕が帰って来るまで、どうして待てない!」

 返事が出来ない。

私には答えられない。

ノアはここに来るまでの間に、そんなことすら考えられなかったの? 

ちょっと考えれば、すぐに分かることじゃない。

掴まれる腕が痛い。

逃げ出したいのに、逃げられない。

今さら何を言ったって、私たちの意志ではどうにもならないことなのに。

「アデル! 君はそれでいいのか? それを自分で、君は許可したのか!」

 オランドと目が合った。

私は左手で、右の耳に触れる。

それを確認したオランドの手が、私の両肩に乗った。

「ノアさま」

 彼はあくまで穏やかに、ノアに話しかける。

「明日は大切な宴がございます。本日はお疲れでしょう。早く城へお帰りになって、明日に備えた方がよろしいかと」

「その手を離せ!」

 オランドはそんなノアに対しても、全く物怖じすることなく私をのぞき込む。

「アデルさま」

「……。ノア、痛い。離して」

 彼の怒りに満ちた目が、私を貫く。

それでも、掴んでいたノアの手が離れた。

その瞬間、オランドはその隙間に入り込む。

「今宵はお引き取りを。明日またお会いしましょう。その時にゆっくりお話しをされては?」

「エドガー!」

 抜かれた剣が宙を斬る。

響き合う金属音に、侍女たちは悲鳴を上げた。

オランドの剣はエドガーの剣を弾き返す。

それを上から押さえつけると、すかさず体を寄せ腹に肘を打ち込んだ。

オランドの剣が、エドガーの手からそれを払い落とす。

「ノア! 乱暴はやめて! こんなことしないで!」

「……。アデル、君は本当にそれでいいのか?」

「お願い、今日はもう帰って! こんなことをするために、あなたは帰ってきたの?」

 頬を涙が伝う。

エドガーは落とされた剣を拾うと、再び彼の前に構えた。

私はオランドの前に出ると、両手を広げノアとエドガーに立ち塞がる。

「……分かった。今日は帰る。明日ちゃんと話しをしよう」

 ノアが出て行く。

彼らが立ち去り、扉が閉まった瞬間、膝から崩れ落ちた。

それを支えてくれたのは、オランドの大きな手だ。

「アデルさま」

「ありがとう。助かりました」

 彼は私の腰に手を添え、倒れないように支えてくれる。

「もうお休みください。明日で全てが終わります」

「そうね。あなたも驚かせてしまったわ。ごめんなさい」

「いいえ。たいしたことではありません」

 彼は穏やかに微笑むと、私を部屋まで送り届けた。

「ではまた。お休みなさい」

 寝支度を済ませ、一人ベッドに腰掛ける。

この部屋でこの景色を眺めるのも、これが最後だ。

もう二度と、見ることはない。

駆け込んで来たノアの、あの取り乱した姿に涙が滲む。

ダメよ、しっかりしなければ。オランドの言う通り、明日には全てが終わる。

私たちは本当の意味で解放されるのだ。

 翌朝、館に勤めていた侍女たちに見送られ、正門に出た。

濃い緑の外壁で覆われた小さな館を見上げる。

「ここで暮らした日々も、やがて過去のものになるのね。すぐに壊されてしまうのかしら」

「そうとも限りませんよ。きっとまた誰か、別のお方がここを守ってゆくでしょう」

 私が手を差し出すと、オランドは自然にそれを取った。

互いに見つめ合い、にっこりと微笑む。

乗り慣れた小さな馬車に、今はオランドと二人で乗り込む。

「今日の予定は、どうなっているの」

「これからすぐに、シェル王国からの使節団と面会があります。正式な団長であるフロアーノの礼を受けてください。そちらからまた、詳しい説明があると思います」

「ふぅ。そうよね。基本的にあなたは私に付きっきりで、交渉はそちらでしていたんですもの」

「彼は……。文官でいけ好かない奴ですが、交渉術には長けています。きっとアデルさまのお役に立てるでしょう」

「あなたが褒めるなんて、よっぽどね」

「いえ、そんなことは……」

 彼は少し頬を赤くして、うつむいた。

もしかしたら、本当に苦手な人なのかな。

 馬車寄せに到着すると、その彼は既に待機していた。

白金の真っ直ぐな長い髪をそのまま垂らし、ブルーグレイの目をしている。

「アデルさま。お初目にかかります。国に戻るまでの行程をつつがなきものとするよう、我ら一同、微力ながら勤めさせていただきます」

「ありがとう」

 差し出した私の手にキスをする。

その身のこなしはとても優雅で洗練されていて、オランドとは違い社交界のマナーも心得ているようだ。

「こちらです、アデルさま。ぜひ一度使節団へお目通しを」

 オランドとフロアーノに挟まれ、使節団を見て回る。

懐かしい言葉のなまりと、装飾の細工。

兵士たちの顔つきも、やはりこの国の人間とはどこか違う。

「この後は、しばらく城の一室でご休憩ください。その後、お召し替えをされたら、いよいよ式典へのご出席となります」

「そう」

 ノアは? 

そんな言葉が出かけて、慌てて飲み込む。

泥だらけで昨夜遅くに戻ってきたノアは、いまどこで何をしているのだろう。

オランドが言った。

「私はアデルさまの隣の間で控えております。なにかありましたら、すぐにお呼びください」

 通された部屋は、王宮で一番の客間だった。

とんでもなく広い部屋に、一人放り込まれ、取り残されている。

部屋の窓からは、私が6年の月日を過ごした館は見えない。

この国に来て、この場所でノアと出会い、今日別れる。

そう、たったそれだけのこと。

 簡単な昼食を済ませ、式典までの時間をゆっくりと過ごす。

侍女たちが現れ、この日のために用意されたという、ステファーヌさまから送られたシェル王国風のドレスを身につける。

白に目の覚めるような青のストライプと刺繍の入った、豪華なドレスだ。

「こちらは、フィルマンさまからの贈り物でございます」

 そのドレスに合わせた、ブルーサファイアのネックレスだ。

「とっても素敵です。よくお似合いですわ、アデルさま」

 太陽が西に沈み始める。

最後の宴が始まる。

やっぱりノアは、会いには来ない。

彼もようやく理解したのだ。

私とあなたの、本当の意味での互いの立場を。

「お時間です。そのまま、こちらでお待ちくださいませ」

 侍女たちが部屋を出て行く。

すぐにノックが聞こえ、扉が開いた。ノアだ。

「お待たせ、アデル」

 白の上着に、私と同じ青い刺繍の入っているお揃いのデザインだ。

彼のはマルゴー王国風の仕立てになっている。

衣装の様式は違っても、揃えたものだと一目で分かる。

「今日も綺麗だよ、アデル」

「ありがとう。あなたも素敵よ。ノア」

 今日のノアは、本当に輝いて見える。

今までのどんなノアよりも、こんな素敵な彼は見たことがない。

差し出された手に、自分の手を添えた。

こうやって彼に触れるのも、もうお終い。

私が立ち上がると、ノアはエスコートしながら廊下へ出る。

「昨日は悪かった。驚かせてごめん」

「いいの。会えて嬉しかった」

 ノアと並んで、絨毯の敷き詰められた廊下を歩く。

『最後に会えて』とは、言えなかった。

彼からはほんのりと香水のいい香りがして、私は今にも酔いそうなそれに目を閉じた。

「今までありがとう。とても楽しかった。ここでの私が、惨めな思いも寂しい思いもせず過ごせたのは、あなたのおかげよ。感謝してる」

 ノアは無言のまま、肘を突き出した。

いつものように、そこへ腕を絡める。

「どんな時でも、あなたのことは忘れない。だから……。遠く離れても、これからもずっとよろしくね」

 扉の前で立ち止まった。

ノアは私を見下ろすと、髪にキスをする。

「愛してるよ、アデル」

 私はその言葉で、魔法をかける。

自分で自分にかける魔法は、きっとこれが最後。

目をしっかりと閉じ、もう一度それを開いた。扉が開く。

「シェル王国王女アデルさま、マルゴー王国第三王子ノアさまのご入場!」

 私たちは、同時に前に進み出る。

彼と二人並んで、何度も何度も繰り返し訓練した、同じ挨拶を完璧にこなす。

すっかり体に染みついた、クセみたいなものだ。

全く同じタイミングで、目を合わせる。

きっとカラクリ人形だって、こんな風にはいかない。

「とても素敵だよ、アデル。今日はまた一段と美しい」

「ありがとう、ノア。あなたもよ。眩しいくらいだわ」

 用意されたテーブルにつくと、式典が始まった。

シェル王国からの献上品の目録紹介。

使節団代表フロアーノからの挨拶と、ステファーヌさまからのお言葉。

各大臣や要職に就く人たちからの一言。

ノアはにこやかな笑みをたたえたまま、真っ直ぐに前だけを向いている。

彼のこの横顔を、この位置から見上げるのも、これが最後。

「アデル? どうしたの?」

 不意に、彼はささやいた。

「いいえ。あなたとこうして並んで、この日を迎えられることが、夢のようですわ」

「それは、どういうこと?」

 思い出す。

6年前のこと。

本当に昨日のことのようだ。

同じように式典が開かれ、私は一人国王陛下の前に進み出た。

その隣に並んでいた小さなノアを見たのが、彼と出会った初めての日だ。

「婚約式の時は、恐ろしくて顔を上げることも出来ませんでした。あなたの靴の先しか見られなかったのに、今はこうして並んで座っています」

「それは僕だって同じだよ、アデル」

 ノアは完璧に作り上げた、静かな笑みを浮かべる。

「どんな女の子が来るのか、不安でしかたなかった。だけど今じゃすっかり、いつまでもその子の手を握りたいと思っている」

 厳かな式典は終わりを迎え、両国の友好を祝う音楽が流れ始めた。

酒や食事も振る舞われ、和やかな雰囲気に包まれる。

予定通りノアは立ち上がると、ひざまづき、私に手を差し出した。

左手を胸に当て、右手を差し出す。

プロポーズの仕草だ。

周囲からドッと笑い声が起こる。

「僕と踊っていただけませんか? アデルさま」

「もちろんですわ。喜んで」

 ノアは私をエスコートすると、舞台中央に進み出た。

楽隊の隊長が指揮棒を構え、合図と同時に体が滑り出す。

「僕はずっと、君とこうしていられると思っていた」

「私もです。ノアさま」

 どうしてプロポーズなんてしたの? 

ダンスをしなくちゃいけないのは分かっていたけど、わざわざプロポーズの仕草で誘うことはないんじゃない? 

ノアは今のこの瞬間も、全て冗談だとでも言いたいの? 

胸の鼓動が早い。

音楽が聞き取れない。

ノアのリードがなければ、すぐに足を踏み外してしまいそう。

それでも私は、顔色一つ変えず、仮面のような笑みを浮かべている。

ノアの手が、私の手をギュッと握った。

「君と離ればなれになるなんて、寂しくて身も心もちぎれてしまいそうだ」

「離れていても、私の心はあなたのものです」

「その言葉を、どこまで信じればいい?」

「まぁ、私が嘘偽りを申すとでも?」

「……。信じられない」

「距離が、少し離れるだけです」

「距離?」

 ノアのステップに合わせ、ゆっくりとターンしていく。

オランドと目が合った。

「館とお城で離れても、王宮とアリフの荒れた河川に隔てられても、私たちはいつも、心を一つにしていたはず」

「それは今も同じだと?」

「もちろんです」

 今なら、今だけは、本当のことが言える。

「私の心は、いつまでもあなたのそばに」

 ノアは強く手を引いた。

大きくターン。

振り回されそうな私の、スカートの裾が大きく広がる。

「君にはそれが出来ると?」

「今までもずっと、私たちはそうであったはず」

「信じられない」

「では信じてください」

 私は踊ることをやめ、そこに立ち止まった。

「私はあなたを、愛しています」

 ノアの頬に触れる。

背を伸ばし、彼に口づけをする。

ノアは私を抱き寄せると、再びその唇を重ねた。

何度も、何度も、深く絡みつくそれを、私は全身で受け止める。

大好きよノア。

さようならノア。

「やっぱりここじゃダメだ。ちゃんと話しをしよう」

「ちゃんとって、もう話しは終わったわ」

「終わってない!」

 ノアは私の背に回ると、動揺する会場を突き抜ける。

「待って! どうするの?」

 助けを求めようとオランドを探すものの、私の左手は、ノアが背後から掴んだ左手にがっしりと押さえられ、右手の自由も奪われている。

そのオランドは、ステファーヌさまとリディに捕まっていた。

「ま……待って。ノア!」

 ノアは私の両手を掴み、背中から追い立てるように進む。

「退場だ」

 ノアは扉横にいた役人に言いつけると、私を掴んだまま無理矢理挨拶を済ませる。

「待って。ノア、ダメよ!」

「退場の合図を!」

「シェ、シェル王国王女アデルさま、マルゴー王国第三王子ノアさま、ご退場です」

 動揺と混乱に見送られ、扉は閉まった。

その瞬間、私はノアの手を振り払う。

「もう、やめてよ! 最後の最後までなんなの?」

「君は、僕たちが離れたこの先に、なにがあるのか分かってるのか!」

「婚約解消でしょ? それがなんなの」

「僕のことが好きだって、さっき言ったじゃないか!」

「『好き』だなんて言ってないわ」

「じゃあ何て言ったんだ?」

 ノアの腕か伸びる。

それに捕まりそうになるのを、全力で押しのけ拒絶する。

「君は僕と別れたいのか!」

「そんなこと、いつ私が言った?」

「言ってないけど、やっている!」

「やってないって!」

 ノアとにらみ合う。

だから会いたくなかったのに。

私はあなたに、最後になってまでこんなことを言いたくなかった。

「ねぇ、ノア。話しを聞いて」

 手を伸ばし、今度は私の方からそっと彼の腕に触れる。

「ここであなたと過ごした時間は、本当に楽しかったし、感謝してる」

 あなたと過ごした日々を、私は決して忘れない。

「だけど思い出して。あなたはこの国の王子で、私は蛮国の姫よ」

「そんな風に思ったことは、一度もない」

「あなたはそうでも、他の貴族たちが許さない」

 ノアは彫刻のようにじっと立ち止まったまま、ただ私を見つめる。

「あなたが真摯に婚約者のフリをしてくれて、私は本当に、心からありがたく感じていたのよ。おかげで窮屈でも、不自由はしなかった」

 嵐の番、馬小屋で二人きりの夜を明かした日を、ともに王宮の庭を走り回った日を、あの小さな緑の館で、一緒に暮らした日々を……。

「あなたじゃなかったら、きっと我慢できなかったでしょうね。触れられるのも、キスをされるのも」

「アデル……。君は!」

 愛してるわ、ノア。

村祭りの夜、火の粉の舞う渦の中で踊った夜を。

一緒に手を繋ぎ眠った夜を。

あなたの帰りを待ちわびて、胸を焦がし過ごした夜を……。

「さようなら、ノア。私はあなたの手を離れて、ようやく自由になれる。離れていても、私たちの思い出はそのままよ。共に過ごした……、友情の日々は消えない」

「君は、本当に自ら望んで国に帰るのか? やっぱり君は、僕の前でずっと恋人のふりを続けてきたと?」

 奥で扉が開いた。

駆けてくる足音が聞こえ、それがピタリと立ち止まる。

「オランド……」

「アデルさま」

 彼に近づこうとした私に、ノアが叫んだ。

「アデル! 行くな。ここに残ってくれ。僕は君を愛している」

「ノア……」

 振り返ってはだめ。

私は真っ直ぐに前を向き、オランドの腕にしがみつく。

こぼれ落ちる涙を、ノアにだけは見せてはならない。

「……。母に、会いたいの」

 私はオランドの腕の中で、そっと左手で右の耳に触れる。

彼はしっかりと私を抱きしめた。

「ノアさまには我々一同、大変深く感謝をしております。このご恩は、決して忘れません」

 そう言うと、彼はノアの前にひざまずき、頭を下げた。

臣下が主人に示す、服従の礼だ。

私も彼の後ろで同じようにひざまずき、頭を下げる。

「……。それが、君たちの答えか」

「長い間、大変ありがとうございました」

 私からの、最後の言葉を聞き届けると、ノアは背を向けた。

去って行く、彼の足元と靴の踵だけが視界に残る。

やがてそれも、すぐに涙でにじんでしまった。

足音が聞こえなくなっても、そこから動くことが出来ない。

「アデルさま」

 オランドに支えられ、私はようやく立ち上がる。

流れる涙を拭った。

「もう終わりましたよ。お疲れさまでした。今夜はもう、ゆっくりお休みください。明日の昼前には、ここを発ちます」

「ありがとう、オランド。あなたのおかげで助かったわ」

 彼は静かに微笑むと、私を部屋まで送り届け、その扉を閉めた。



最終章


 出発の日は、どんよりとした冬の気配を感じさせる、厚い雲の垂れ込めた朝と共に迎えた。

王宮の敷地に、使節団の部隊が隊列を組んで、出発に備えている。

その中心に置かれた、ひときわ大きく豪華な馬車に目が付いた。

私はあれに揺られて、この地を去るんだ。

 王宮からはパレード形式で街の郊外まで進み、原野の広がる手前に立てられた野営テントで、出立式が開かれる。

そこでの挨拶が本当の別れだ。

ノックが聞こえた。

「アデルさま」

 パッと振り返る。

入って来たのは、オランドだ。

ノアが来るわけないって分かっているのに、まだ期待している自分が怖い。

「出立のお時間です。馬車へお願いします」

「えぇ、分かったわ」

 廊下に出ると、城中の役人たちが並んで待っていた。

その行列は馬車寄せまで続く。

「お元気で、アデルさま!」

「ご帰国、おめでとうございます」

「またいらしてくださいね」

 見送りの言葉に、晴れやかな笑顔で手を振って応える。

「ありがとう。みなさんもお元気で」

 馬車寄せにも、ノアの姿はない。

ここから彼の部屋は見えたっけ。

もしかしたら、そこから見ているかもしれないと、そんなことを思い背筋を伸ばす。

彼の目に映る最後の姿が、どうか勇敢なものでありますように。

「本当に、ありがとう。皆さんもお元気で」

 出迎えたフロアーノに助けられ、馬車に乗り込む。

オランドもそこへ同乗した。

出発を知らせるラッパが鳴り響き、馬車が動き出す。

「ふう。無事に出立出来てなによりです」

 フロアーノは言った。

「アデルさま。今日のお加減はいかがですか?」

「大丈夫よ」

「そうですか。これから長旅になりますので、お困りごとがあればおっしゃってください。出来ることは限られますが、善処いたします」

「ありがとう」

 フロアーノはずっと、これからの予定を話していて、私はそれをぼんやりと聞きながら窓の外を眺めている。

もう二度と、この街の景色を眺めることもないのだろう。

「……。アデルさま。ご了解いただけましたか?」

「えぇ、それでいいわ」

 馬車は石畳の上をカタコトと進む。

よくクッションが効いているから、あんまり揺れない。

「昨夜は眠れました?」

 不意に、オランドが聞いた。

私は作り慣れた笑顔を向ける。

「大丈夫よ。心配しないで」

「ふぅ」

 フロアーノは長い髪をかきあげた。

「全く。昨夜のノアさまには驚きました。いつもあのような感じだったのですか? まぁ、パフォーマンス的にはよかったですけどね。実に大胆で……。刺激的というか」

 彼は切れ長の涼やかな顔に、意地悪な笑みを浮かべた。

「とても自由で、面白い方だ」

「いつもではありません。昨日は特別です」

「まぁそうでしょうね。でないと、見ているこちらも身が持ちません。とてもよい演出でした。アデルさまの帰国に関して、国民感情を逆なでしないというか、友好的に送り出す感じがいいですね。よく許されたものです。表向きには一時的な里帰りとなっておりますので」

 だけどこの手厚い見送り。

少なくともお城の人たちは、私がもう戻ってこないことを知っている。

「パレードが終わりましたら、テントで簡単な挨拶をステファーヌさまと交わしていただきます。それで本当に最後となります。それ以降、お一人になりたいのであれば、私たちは別の馬車に移動しますが、どうされますか?」

「いいえ。一緒にいてください」

「分かりました。それでは最後のご挨拶のあと、本日の宿まで、ここでご一緒いたしましょう」

 こうしている間にも、馬車は進んでゆく。

背の高い洋館のぎっしり並んだ街並みから、次第にのどかで素朴な田園風景へと変わってゆく。

彼らに一緒にいて欲しいと頼んだのは、一人になると泣いてしまいそうだったから。

流れていく風景を、離れてゆく距離を、一人で受け止めるには、寂しすぎたから。

「テントに着きました。ここで一旦ご休憩です」

 馬車を降りたのは、本当に枯れ野の広がる原野だった。

そこにいくつものテントが立てられ、お茶や簡単な食事が振る舞われている。

私は用意されたテントの一つに入った。

テーブルにはアフタヌーンティーセットが用意され、爽やかな紅茶の香りが漂う。

「君は、本当に行ってしまうんだね」

「ステファーヌさま。このようなところまでお見送り下さり、恐縮です」

「俺たちは、本当に君を家族のように思っていたんだからな。それは忘れないでくれ」

 フィルマンさまの姿もある。

「私も、ここで過ごした6年の月日を決して忘れません。よい留学経験となりました」

「はは。そう来たか」

「切ないねぇ」

 ステファーヌさまは、穏やかな笑みを浮かべた。

「君は何も心配することはないよ。私たちはいつでも君を歓迎する。向こうへ戻っても、ぜひ今後とも友好な関係をお願いしたい」

「もちろんですわ。こちらからも、よろしくお願いします」

「ノアのことは気にすんな」

 そう言ってフィルマンさまはニッと笑った。

「あいつのことは、こっちで何とかしておく」

「……。最後まで、お世話になります」

 式典の準備が整い、隊列がパレードから旅団の編成へと変わった。

本当にここから、長い別れの旅が始まるんだ。

この荒野を越え、山を越えた向こうに、私の帰るべき場所がある。

美しい花や布で飾られたテントに、やはりノアの姿はない。

それも当然か。

あんな酷い別れ方をしたのだもの。

昨日の今日で、私の顔なんて見たくもないのだろう。

 ラッパの音が鳴り響く。

私はステファーヌさまとフィルマンさまの前に進み出ると、丁寧に膝を折り頭を下げた。

臣下の礼だ。

昨晩のノアにも、同じことをして別れた。

「このご恩は決して忘れません。寛大で慈愛に満ちた壮麗なるマルゴー王国と、我が誇り高きフローディ家の絆が、永遠であらんことを」

「長旅の無事を祈ります。共に繁栄のあらんことを」

 ステファーヌさまが壇上から下りてきた。

私を抱き寄せ、互いの頬を交互に合わせる。

「ステファーヌさま、本当にありがとうございました」

 流れる涙がもう抑えきれなくて、ステファーヌさまが笑っている。

フィルマンさまとも、同じようにハグをした。

「お元気で」

 馬車へ乗り込む。

見送りの音楽が鳴った。

いよいよ出発だ。

「皆さんもお元気で!」

 窓から身を乗り出し、流れる涙もそのままに手を振った。

土手上に並んだ見送りの隊列は、徐々に小さくなり、やがて見えなくなる。

私は涙でぐしゃぐしゃになったまま、ようやく振り終えた手を下ろし、馬車の座席へ座り込んだ。

フロアーノは見るに見かねたように、ハンカチを差し出す。

「アデルさまは、ずいぶんと大切にされていたようですね。事前の想像以上でした。それが知れただけでも、今回の仕事を引き受けた甲斐がありましたよ」

「私も、それなりに大変だったのよ!」

「それは分かります」

 ハンカチで顔を隠したまま、それを下げることが出来ない。

「すっごく、すっごく大変だったんだから!」

 嗚咽が止まらない。

こんな風になってしまうのが嫌だったから、だから一緒に乗って欲しいと頼んだはずだったのに。

 初めて婚約者が出来たと聞かされた時、何のことだか分からなかった。

結婚の約束と言われ、私にはもうこの家に居場所はないのだと知った。

ノアとは突然現れた兄のように、いつも無邪気に遊んでいた。

でもそれは嘘だからねと言い聞かされ、混乱を抱えたまま育った。

この人たちとは本当の家族になるのではなくて、預けられているのだと教えられた。

仲良くしてもいいけど、決して心を許してはダメだと。

いつ気まぐれで処刑台に移されても、助けてくれる人はここにはいない。

だから常に、自分の身の安全を一番に考えろと。

特にノアとは、付かず離れず適切な距離を保ち、決して飽きられぬよう、好かれ過ぎないよう、細心の注意を払って、自分の気持ちは、絶対に彼には……。

ノアが館を出て行った時に、私が感じたあの絶望を、今は彼が感じているのだろうか。

今度は私が、自分からその手を離したというのに!

「アデル!」

 窓の外に、真っ白な馬に乗った人影が見えた。

「アデル、お願いだ。これで本当に最後だから、頼むから聞いてくれ」

 ノアだ。

馬の膝丈辺りまで伸びた枯れ野の中を、ゆっくりと進む馬車と平行している。

服は昨日の服のままだ。

「君が! 君が僕のことをどう考えていたかなんて、それが問題じゃないんだ。僕は、本当に君のことを考えていた。だから……」

 ノアの馬が遅れる。

彼は手綱を引き馬を進めた。

さらに馬車に近づく。

「好きだ! 君のことが好きだ。アデル、会いに行くよ。必ず! 君が僕のことを、忘れてしまう前に!」

 異変に気づいた衛兵たちが、騒ぎ始めている。

まもなくノアは、追い払われてしまうだろう。

「離れていても、心は一つだと言った君の言葉に嘘がないのなら、僕の心も君のものだ。それを君が許してくれるなら、忘れないでくれ」

 兵士たちがノアの周囲を取り囲む。

彼の後ろに馬で控えていたエドガーは、腰の剣を抜いた。

「愛してるよ、アデル。僕はいつか君を迎えに行く。今度は必ず、君にふさわしい、君から愛されるような男として!」

 鎧兜に身を包んだ兵士が、長い槍を構えた。

馬車とノアとの間に割って入る。

その鋭い穂先が、ノアに向けられた。

馬車とノアとの距離が離れてゆく。

ノアは丸腰だ。

振り上げられた槍の前に、ノアは片腕をかざす。

「やめて! 彼を傷つけないで!」

 勢いで、馬車の扉が開いた。

驚いた兵士たちの馬が遅れる。

「アデル!」

 ノアは真っ直ぐに、私に手を伸ばした。

「行くな! 戻って来い!」

 伸ばした指の先が触れあう。

掴んだ手を、彼は力強く引き寄せた。

「アデルさま!」

 私を抱き上げたノアの馬が、馬車から離れる。

フロアーノの怒声が飛んだ。

「追え!」

「追わないで!」

 ノアは私を乗せ、全力で馬の手綱を引いた。

混乱する兵士たちの向こうにいる、馬車に向かって叫ぶ。

「やっぱり行けません! 私はここに残ります!」

 走り出した。

私を乗せた馬が荒野を駆け抜ける。

一列に並んだ旅団が、あっという間に遠く離れた。

「アデル!」

「来るのが遅い!」

「え?」

「すっと待ってた! ずっと待ってたのに!」

 彼の胸に顔を埋める。

泣きすぎてもうしゃべれない。

「あはは。ゴメンね。ゴメン。アデル、いつもタイミング悪くて」

「遅い! 遅いの、遅いのよ。いつもいつも……」

 私の気持ちを、全然分かってくれない。

不安で不安で、どうしようもなかった涙があふれ出す。

「ごめん。アデル。ゴメン。不安にさせて悪かった。許して。アデルが戻って来てくれて、凄く嬉しい。本当に」

「離れたくないって、あれほど言ったじゃない!」

「うん」

「私を置いていかないでって!」

「うん」

「絶対に一人にしないでって!」

「うん」

「それなのに、いつもいつもノアは私を置いて……」

「うん。ごめんね」

 その手が髪に触れた。ノアが私を見下ろす。

「……もう、離ればなれにしないで」

「うん。約束」

 ノアを見上げる。

彼の顔が近づいて、唇が重なった。

何度も繰り返しを交わすそれは、もう二度と離れないという約束。

「またこんなことしたら、本気で怒るからね!」

「もう怒ってる」

「怒ってるよ!」

「あはは。アデルが帰ってきた」

 もう一度唇を重ねる。

彼の腕がしっかりと私を抱きしめた。

私が本当の自分でいられるのは、もうノアの腕の中にいる時でしかない。

だから私も、彼を離せない。

「あー……。コホン。あの、ちょっといいですかね……」

 我に返る。

顔を上げると、エドガーと使節団の騎士たちが周囲を取り囲んでいた。

「あの……。この後始末はどうするんです?」

「はは。アデル。国には手紙を書いたらいい。春になったら、僕と一緒に挨拶に行くってね。正式な書簡は後で書いて届けるから、エドガーは団長たちを説得しておいてくれ」

「は? ちょっとそれ横暴過ぎません?」

「任せたぞ、エドガー」

 ノアは手綱を引くと、馬を走らせた。

私はその体にしがみつく。

「ねぇ、ノアは私のこと好き?」

「好きだよ」

「絶対?」

「絶対」

「本当に?」

「本当だよ、アデル。これからはもう、ずっと側にいるよ」

 もう一度キスを交わす。

抱きしめた彼の体から聞こえる強い鼓動が、私の胸にいつまでも響いていた。



【完】




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