太陽のもとで運動するということ

朝、私は割と早めに起きていた。いつものようにカーテンを開けて、そして近くにある情報端末機器を探し出し、ダラダラと画面を眺める。流れに任せて情報の羅列を堪能したあとで、私はやっと起き上がることができる。「なんと自堕落な休日だ!」と思われるかもしれないが、これは私の通常業務と言っていいくらい日常的なものなのだ。

朝起き上がってからは一杯のお湯を飲むことを最近は心がけている。鍋に水をためて、火にかける。沸き上がるのを待っている間にそういえば朝飯を調達せねばと思い立つ。結局湧き上がったお湯を長年愛用しているタンブラーに入れるだけ入れて、いつもお世話になっているコンビニに足を向けた。

コンビニで買ったのは、スムージーとヨーグルト。どちらも紙パックに詰められた飲料だ。ここ2,3日はプチ断食に挑戦している。胃に固形物を入れずに、飲み物だけで過ごすというものだ。このようにして、胃の消化活動を休めると、普段は食べ物を消化しながら悪いものを溜め込むだけだった消化器官たちが、その老廃物を排出することにも目を向け始め、身体が解毒されたようになるということらしい。人生の構成要素を最小限にするという私のプロジェクトの一環でもある。買ったあとはいつもならそのままアパートに向かうのだが、今日は太陽が元気で晴れ晴れしい快晴だった。こんな日に日がなかなか入らないアパートの一室に引き篭もることがいいことのはずがない。そこで私はとりあえず、反対方向に足を向けることにした。

日曜の朝、みなさんもゆっくりしているのであろう、平日に見るような慌ただしい光景はなく、人もまばらでなんとなくゆったりしているように見えた。ただ足早に私を追い抜いていく人や運動着で私のいた方へ帰って来る人もちらほらいた。私のアパートから5分ほど歩いたところに皆が集うランニングコースがある。そのランナーのようだ。ランナーに感化されたのか私は思った。これは走るしかないと。

ランニングコースに降り立ったあと、エネルギー不足で身体が動かなくなりそうな不安があったので、買ってあったスムージーをその場で飲む。そして、動く準備をするように全身の筋肉を動かす。久しく動かしていなかった股関節が重さに泣き言を言っているように思える。泣いている子どもたちをなだめすかし、これから行くぞと目を上に向ける。過ぎ去っていくランナーを眺めて、私も踏み出す番だと心を躍らせる。そして走り出した。

ランニングコースの中頃には、広場になっていて一時休憩をとれるスペースがある。そこに辿り着いて、私はホッとして石のベンチに腰をかけた。今日は走っている人が本当に多い。腰掛けるベンチを探すにも苦労した。どうやらランニング同好会のような集まりがあるらしい。仕事のない休日の朝にランニング好き同士が集まって、朝に走って休日を優雅に過ごすためのスタートダッシュを切る。なんとも良い集いだろうか。一人できている人も卑屈になっているような感じが全くしない。皆が思い思いに体を動かし、朝を謳歌しているように見えた。このような姿に私は勇気づけられた。私もヨーグルトでタンパク質を摂取しながら、この流れる時間を過ごしている、そのように感じられた。

もう一週、踏ん張りどころである。走りながら色々考えていた。前も考えながら走っていたように思う。その時は夜で孤独に悶々と走っていたのだが、それだけでも悩んでいた私を置いてけぼりにできたものだった。しかもここには、走りながら眺める人の生活がある、皆が明るく負けじと生活が彩られているように思えて、満足だった。

走りおえて、アパートへの帰路で、そういえば起きたあとに日差しを浴びて運動するのはひさしぶりだと気づいた。朝全身の筋肉を動かすように筋トレをするのも最近やっていた。また夜におもむろに走るといったこともやっていた。しかし朝に日差しのもとで身体を動かしたあとの感覚は格別だ。今日という日の成功が約束された気さえする。

晴れ晴れとした気になれたことを書き留めておきたかった。


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