カバーデザインだけが決め手で小説を買ったことあります?って話

この前、本屋に行って気になる本を片っ端から買ったのね。

そのときに、本の「カバーデザインだけを決め手に」よく知らない作家のよく知らない本を買ったのよ。

そのときにね、ある知り合いが、

「本の装丁ってある意味ずるくない?装丁が与えてくるイメージと本の内容が全然ちがうじゃんってことあるよね。」

という趣旨の話をしてくれたのを思い出したの。

そして、また違う日に大学の教授から聞いた、装丁の歴史に関する話も思い出したんだけど、それがなかなか興味深かったので

今回は本の装丁の話をしたいなと。




ちょっと前からね、角川文庫が名著とされる小説(太宰とか)を各イメージに合わせた和紙っぽい和柄のカバーにして売ってるんだけど、それが可愛いの!

紙質とカラフルな柄が相まって本棚の中でも目立つのね。


だから本屋に行ったその日も、私は角川の棚から視覚的に目立っていた杜子春を手に取ったの。

杜子春はね、渋い赤色の背景色に淡いだいだい色の五円玉みたいな柄が規則正しく描かれたカバーだったな。


そしたら杜子春のすぐ隣に梶井基次郎の檸檬が並んでたの。

「檸檬」というタイトルにぴったりな、グレーの背景色に鮮やかな檸檬が横並びにたくさん描かれてるカバーだったの。


恥ずかしながら私は文学には疎い方なので、梶井基次郎ってどれくらい偉大な文豪なのかも知らなかったし、読んだこともなかったの。


でもその「角川のカラフルな和紙のカバー」がされていることによって、

「あ、名作の一つなんだろうし教養として読んどこうかな」って気持ちと、

純粋に「檸檬柄のカバー可愛い」って気持ちになったのね。


でも一方で、「いや、あらすじも筆者も知らないのに、ただカバー可愛いしきっと有名な読んでおくべき本だろうって買うのはどうなのよ。」

って思ったのよ。


買うか買わないかでうーんってすごい悩んだの笑



なんで本を一冊買うか買わないかでこんな悩むのかというと、そのときに、上で書いた

「本の装丁が与えてくるイメージと本の内容が全然ちがうってことあるよね。見た感じすごい良さげ!と思って買っても内容薄かったわ、みたいな。」

というような意見を思い出したからなの。


まあ要するに「装丁詐欺」みたいなイメージ。



たしかその考えを聞いたときの会話の主題はね、

「部屋に飾るのとかでなく、美術館展示とかでの額縁って必要なのかな?

視覚的情報で評価される絵画に額縁をつけるのは純粋な評価結果を変えることにならないの?」

みたいな感じだったな。まあ要するに「額縁詐欺」的な感じだったはず。たぶん。

その流れで、本の装丁でも「装丁やカバーだけ立派で、肝心の本の内容すごい薄っぺらいときあるよね」って話になった気がする。



だから

「檸檬柄が可愛いし、おそらく名著だからまあ一般的な教養として読んどくべきかな」って思って買うことに、ちょっとした引け目を感じたんですよね。

(文学に理解のない自分が)こういう理由で手を出すのは梶井基次郎と文化人?界隈に申し訳ない、みたいな笑

(パケ買いなんてよくあることだし、それも良い出会いなのにね笑)



んで、悩みすぎて一回本屋を見て回ることにしたんだ。

他の本棚や平積みにされたおすすめ本を見ながら、先日教授がしてくれた装丁の話を思い出したの。



その教授はね、映画や漫画が好きで、いつもハンチング帽にベストに丸眼鏡っていうザ・文化人なのね。

あの服装がデフォなのは教授かやくみつるかって感じ。


まずなんで本の装丁の話題が出たかっていうところね。


授業で扱ってる小説があってね、

詳しい描写は正直覚えていないんだけど、

まだペーパーナイフを使うような時代設定で(本のページの上一辺が綴じられている時代)

主人公がお金持ちそうな部屋に入ったら、大きな本が並べられているのが目に入った

みたいなかんじだったな。


教授は「この時代の本は家具に等しい存在」って言ったの。


その趣旨はね、本って昔は高級品であって、「家に立派な装丁の本があることがステータス」ってことらしいのよ。

当時、ペンギンブックスのような薄い表紙の本も既にあったけれど、持ち運ぶことを考慮しないのが普通だったから人気はあまり出なかったんだって。


それが第二次世界大戦で、兵士が聖書を胸ポケットに入れて戦場に持っていくことが契機となって文庫本というスタイルが人気になっていったらしい。

(余談なんだけど、この聖書を入れるポケットは左胸だったらしいよ。聖書が心臓を守るお守りにもなるんだって。よくできてるよね笑)


へーってかんじだよね。


ついでに言うと、装丁の文化はね、(ごめん話の時代が前後してしまう)

その昔、ヨーロッパのどこかで、出版社の出版業と本の装丁業を兼業することが禁止されたことがきっかけだったらしい。


出版社は仮綴じ本を売り、その仮綴じ本の見栄えや保存状態を気にする購入者たちからの依頼によって製本工芸(ルリユールというらしい。かっこいいね)が発展していったらしいのですよ。


だから言うなれば装丁ってユーザー目線が最初だったのかもねってこと。


その依頼した装丁が、凝ったデザインだったり高級な素材が使用されたりしていったんだから、

たしかにオーダーメイド家具みたいな存在になるのは納得かも笑


ちなむと、日本の装丁文化もね、ゆっくり独自の発展をしていたものの、

ルリユールを勉強した人が日本で頑張った功績が大きいらしいよ。詳しくは知らんけど。


ちょっと調べたんだけど、夏目漱石は「値段が高くて売れなくてもいいから立派な装丁を」ってこだわっていたこともあるみたい。詳しくは知らんけど。


んで今はというと、名著とされる小説たちのカバーがとあるアイドルグループの写真だったりするわけじゃないですか。


だから装丁文化の起源はユーザー目線かもって上記したけど、

今は書き手と読み手と出版社のバランスはどうなってるんだろうね、とか思ったり。


そのときようやく、私はまんまと角川の期待通りの購買行動をしようとしているのかって気付いてふふってなったのよ笑


高級なピカピカしたソファを「家に置いたらかっこよさそう!高級だし座り心地も良いはず」って思って購入することなんて世の中よくあることだろう、とも思ったし。

それで思いのほか座り心地は悪かったりしてね笑



だからまあ、こういう買い方も楽しいのかも、と思ったのですよ。

(本屋にいる数分での心境変化が凄まじいんだけど笑)



購入を決めて、檸檬があった本棚のところに戻って、目立つビタミンカラーの背表紙を見つけて手に取ったの。


レジにいくとき、平積みされた本が目に入ったのね。


平積みされてたのは村上龍の69で、帯にはね、

「"悩みが吹っとぶ" 面白さ!」

って書いてたんだよね。


69を読んで悩みが吹っ飛んだ覚えはないし、その話の面白さは痛快さを伴うタイプでもないよなと思っちゃったの。個人的にね。


装丁よりセンスのない帯の方がよっぽど詐欺じゃね?


なんて思いながら、目立つ色の文庫本を手にもつ私の足取りはすっかり軽やかだったし、


その檸檬柄は今わたしの本棚にきちっと並んでるのでした。



ということで、今回は、

小説のパケ買いの楽しみを知ったよ、

というだけの話でした。

ちなみに、ここではカバーと装丁を同義としてしまいましたが甘受してくださいな、







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