続・ナツキさん
「毎日マスクをするなんてだるい」と言っていた日々は遠に過ぎ去ってしまった。今目の前にいるナツキさんは自分のマスクを外して素顔を見せるから,僕にもマスクを外して顔を見せろと言っている。
「いや……あの……」
「2人だけの秘密にしようね」
「2人だけの秘密」という言葉には想像できないくらいの魔力があった。僕はすでにナツキさんのことが好きなのかもしれない。秘密を共有することが人間関係の距離を縮めるのに有効だと何かの雑誌で読んだことがあるが,まさかこんなにも簡単に恋に落ちてしまうとは。
「マスクを外すのって……ドキドキするね」
ナツキさんも緊張しているらしい。毎日当然のようにマスクをしているせいで,僕たちの感覚は狂っている。一昔前であれば女子のスカートの中を覗こうとする輩がいて,僕は子どもながらにそいつらを馬鹿にしていたが,マスクに隠れた素顔を見ることがそいつらと同じことをしているようで,何だか後ろめたい気持ちになった。
そのとき,ガラッと教室のドアが開いた。
「何してんの?」
ナツキさんの友人で,僕に「いこ,いこ」の後に「きもい」と吐き捨てたあの子だった。
「え,ナツキと何してんの?」
「いや,えっと……その……」
「私が呼び出したの。話があって」
「話?」
「うん。今日私が勝手にコウくんの席を借りちゃったから迷惑をかけたなって」
「それだけ? ナツキは優しすぎるなー。まぁ,いいけど。それより,そろそろみんなが帰ろうって言ってる」
「おっけー! 帰ろ,帰ろ」
「いいの?」
「うん。それじゃ,またね」
「う,うん」
こうして僕とナツキさんの2人きりの時間は終わってしまった。まだドキドキしているけど,これはナツキさんと一緒にいたからというよりは,ナツキさんの友人にまたきついことを言われるんじゃないかという不安からだった。
僕はマスクを外した。空き教室に溜まった埃の匂いが気になったけど,すぅーっと息を吸ってみた。そして,ふぅーっと吐き出した。
「どうってことはない。ただマスクを外すだけだ。次は必ず……」
あれ? 次ってあるのかな。
ナツキさんの素顔を見逃した後悔が今になって押し寄せてきた。あれだけみんなが口を揃えて美人だと言うナツキさんだけど,素顔を見たことがある人はほとんどいないように思う。
「くそー。何とかしてナツキさんの素顔が見たい」
コロナちゃんは本当に僕たちの大切な時間を奪い続けているが,こういう人生の楽しみをもたらしてもくれている。それでも中学3年のときの一斉休業や行事削減のことは恨み続けるけど。
その夜,僕は今日の出来事を振り返った。
ナツキさんは僕とマスクを外し合い,顔を見合おうと言った。僕の顔を見たいと言った。少し脚色している部分はあるかもしれないけど,概ね間違いない。はずだ。
僕は作戦を練ることにした。また2人きりで話す機会があれば,ナツキさんの素顔を見ることができるかもしれない。今度こそ「2人だけの秘密」を手に入れる。
マスクを外すきっかけさえ作れば,ナツキさんの素顔は見られる。しかし,僕は他の誰にもナツキさんの素顔を見せたくないという気持ちがあった。別に付き合っているわけでもないのに,ナツキさんの素顔を独占したい欲が膨らんでいる。
「マスクを外したらまさかのブスだったりして」
独り言に自分で笑った。そんなわけはない。ナツキさんは僕にも丁寧に話をしてくれた。あんなに心が優しい人が不細工なわけがない。きっととんでもない美人なんだろうな。友人も優しいと言っていたのを思い出した。
そうだ。そうだよ。2人きりになるための最も大きな障壁はナツキさんの友人だ。教室ではほとんどナツキさんと一緒にいる。別に目で追っているわけではないけど,あのグループはよく目立つ。その中心にナツキさんとあの友人がいる。ステイルームをかましている僕が言うのだから間違いない。
そんなことを考えているうちに朝が来た。いつの間にか寝落ちてしまったみたいだ。ぼーっとした頭のまま通学路を歩く。
教室に入るとすでにナツキさんたちのグループが楽しそうに話をしていた。今日は僕の席ではなく,逆方向のグラウンド側に集まっていた。
昨夜にいろいろと考えていたことが全て無駄だと思った。僕はそもそもナツキさんたちに話しかける勇気がない。話題もない。何もない。
結局僕は何もできない。自分の不甲斐なさをコロナちゃんのせいにしているだけだ。自分から行動しようとしない。クソ野郎は僕だ。
そんなことを考えながらチラッとナツキさんの方を見た。ナツキさんは僕の視線に気がつくはずもなく,楽しそうに笑っている。実際にはマスクで表情が隠れているので見えないのだけど。
「おーい」
真横で声がした。
「えっ!?」
「昨日はどうも。大切な話だった?」
「いや,いやいや。そんなことは」
「マスクでしょ?」
「えっと,はい?」
「マスクを外して素顔を見せ合おうって話でしょ?」
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