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ナツキさん

新型コロナウイルスによってこれまでにないスピードで世界のルールが幾度となく上書きされた。

人々はマスクの着用がほぼ強制となり,県立高等学校という新しい環境に飛び込んだ僕はクラスメイトたちの素顔を知らないまま4月を終えようとしていた。教室に入るだけでも手指消毒が必要であったり,昼食時に友人と話をしようものなら先生に厳しく注意をされる。ちょっとした外出も感染のリスクが高まるとかで自粛警察が許さない。こんなクソみたいな日常に飽き飽きしている。

3歳上の姉は大学に進学したのに実際には通えていない。ほとんどの講義がオンラインで行われ,メールやアプリでレポートを提出するだけの日々を送っている。すべきことが自宅で完結するのはある意味楽ちんだけど,自分が3年後に同じことをするのかと思うとゾッとする。

これから暑くなってくる。しかし,学校の方針でクーラーをつけたとしても換気のために窓は全開にするらしい。窓際の人たちがドンマイすぎる。

そもそも40人近い人数を収容している教室がどこよりも密だ。僕だけでなく,たぶん多くの人が同じように思っているはずだ。しかし,誰も声にしないのは,せっかくの登校の機会さえ奪われてしまうかもしれないからだ。

いつぞやの全国一斉休業のときは本当に残念な時間を過ごした。もう二度とやってこない僕の中学3年は誰とも会えず,どこへも行けない日々から始まった。

あのときのことを思えば,現在は学校で友人と話すことが可能なだけマシなのかもしれない。僕たちは皮肉にもコロナちゃんのおかげで人と人の繋がりの大切さを再認識することができた。

授業が面白くないので,毎日こんなことを考えている。

教科書を読み,その内容を黒板に書くだけの授業をしている先生に「校内ではマスクをしなさい」と言われても「お前こそ授業をちゃんとしろよ」と言って終わりだ。言わないけど。

「おーい,コウ」
「ロンか。どうした?」
「いやー,いつ見てもナツキさんは超絶美人だなーと思って」
「……」

ロンは僕の中学からの友人だ。中学では2人とも経験のない野球部に入り,レギュラーになることなく引退した。下手だったけど野球は好きだった。練習後に近所の公園でロンとキャッチボールをして帰るのが日課だった。

高校に入ると,僕のクラス前の廊下に人が集まるようになった。主に男。みんなナツキさんを見に来ているのだ。ロンもその中の1人。毎回僕に会いに来てくれたのかと勘違いさせられていたが,最近ではそれも慣れた。

「ナツキさんは確かに美人だけど,特に接点もないし関わることはできないぜ」
「いいんだよ! こうして遠くから見ているだけで癒やされるんだから」
「マジか……」
「いいなー,コウは。授業中とか見放題じゃん」

話についていけないので早々に切り上げて自席に戻る。戻る。戻る……。

「あれ?」

不思議なことに僕の席にナツキさんが座っていた。僕は何も言うことができずに,むしろ僕が席を間違えているのかもしれない,きっとそうだと思い,確認しようとしたそのとき。

「あ,ごめん。席借りてる」

ナツキさんがふふっと笑いながら言った。僕は上手く返事ができないままにナツキさんの表情を見ていた。

「めちゃくちゃ美人じゃん……」
「え?」

あれ。まさか心の声が漏れたのか。僕も「え?」と返したけど,時既に遅し。「いこ,いこ」とナツキさんの友人たちがガタガタっと立ち上がりその場を後にした。

「最悪だ……」

また心の声が漏れた。いや,今回は意図的に漏らした。そして僕は椅子に座った。

その日の放課後,僕はナツキさんに空き教室に呼び出され,意外な質問をされた。

「美人って私のこと?」

何と返せば正解なのか,僕に分かるはずもない。嘘を吐いても仕方がないので,素直になることに決めた。

「……うん。ナツキさんが美人だなって……」
「それってコウくんの意見? それとも周りに流されてるだけ?」

僕の名前を知ってくれていることに驚きながらも「僕の意見」と伝えた。するとナツキさんからさらに驚くようなことを言われた。

「マスクをしているから私の顔をきちんと知らないでしょ。そりゃ昼食時にチラッと見えることはあっても,コウくんの座席から私の顔ははっきり見えないはずだよ」

たしかにそうだ。僕はマスクで隠れている部分をしっかり見たことがない。

「だから,美人かどうかなんて分からない。そうでしょ。でも,美人って言ってくれたことは素直に嬉しい。私の周りの子たちは「きもい」とか言ってたけど,私としては嬉しい。さすがにあの場では言えなかったけど」

まさかの喜んでくれている発言にほっとした。正直,あの瞬間から生きた心地がしなかった。

「ひとつ提案なんだけど」
「提案……?」
「今からマスクを取って素顔を見せるね。その代わり,コウくんもマスクを外して顔を見せて」

マスクを外すという行為がここまで恥ずかしいものだとは思わなかった。

#2000字のドラマ

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