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『聞く力』の効力  世田谷一家4人殺害事件の遺族 入江杏さん講演を聞いて 1539文字 3分読

2000年12月31日世田谷区の普通の一家4人が殺害された事件は40代以上の方なら憶えている方も多いと思う。
未解決事件で残酷極まりない殺人事件。
殺害された女性(妻でありお母さん)のお姉様である入江杏さんの講演会に行ってきた。

自分の身内が理由もなく、過失もなく殺される現実。昨日まで元気な姿を見て会話をした、いつもいる人が酷い殺され方をして失う。

そんなことってあるのか?

現実を受け入れるとか受け入れられないとか、どういった言葉で表現できるのだろうか。当事者ではない人間からすると全く想像つかない状況が遺族に襲い掛かる。
僕の言葉では適切に表現することは到底無理だが、僕が想像したことが無い苦しみを受け続けたことだろう。

酷い事件のまさに当事者でありながら、おだやかで優しいトーンで、とても丁寧に、聞き手の事を考えて話されていたことが、入江杏さんの終始得た人物像だ。

講演会では耳慣れない単語が多く出てきた。

「グリーフケア」
「環状島=トラウマの地政学」
「悲観反応」

当事者のまさにご本人にとっての経験を公にすることで、彼女と同じような出来事に襲われた人、苦しんでいる人に対して共有と寄り添いの手助けのような役割を果たしている事だろう。
終始、入江杏さんの勇気と行動力に敬意を感じざるを得ない講演会だった。


講演会で考えたことは、

「では、その当事者の方々の側にいる、親族ではないが近い関係、友人とか、ご近所さんとかそう言った方がどのようなお手伝いができるのだろうか」

ということだった。

どの程度の関係にあるのかにもよるが、まずは寄り添う姿勢を示すことが一つ。できることがあればお手伝いすると伝えることだろうか。
それは本人に直接の場合もあるし、間接的に伝える事かも知れない。
でもそんなこと言える、伝えられるような状況だろうか?きっとそうではないだろう。何かを申し出る側の人間も正直言って躊躇する。

「おこがましくないか、逆に傷つけてしまわないか」

とか思うのではないだろうか。

僕の緩やかな結論としては、

『普通に今まで通りお付き合いを続ける。特別な事はこちらからは極力しない』

という事なのかなと思った。
もちろん何かしら求めてきたらできる限りお手伝いする。
これが正しいのか、当事者の方にとって求めている事なのかわからない。犯罪に限らず、受けた苦しみによって全く異なる事だろう。時間の経過によっても変化するだろうし。

そこで大事なのが『聞く力』と考える。

この『聞く力』の効力がどこまで発揮できるのか、どこまで及ぶのか。それはこれまでのその苦しむ人との関係性にもよる気がする。

それに「言わなきゃわからない」と言ってしまえば身も蓋も無いのだけれど、そういう人間の不器用さと表現力の乏しさは誰しもある。ザラに日常的にある。全人類経験済みだろう。

苦しむ人にとっても『聞く力』が求められるような気がする。
それは周りの人に対してではなく、『自分自身に対しての聞く力』が。心の声を正確に聞いて言葉にする、そのような作業が。
苦しむ出来事があった直後にそんなことできるはずもないが。

 その苦しむ人が一生懸命絞り出すのか、紡ぎ出すのか、その言葉をしっかり聞く。もちろんすべてを100%正確に表現と理解はお互いにできないのは織り込み済みで。

たかだか90分程度の講演会の話を聞いただけで、エラそうなことを言うが、いやそうではなくてむしろこのように何かに記録するとか行動することが尊いのだろうと思う。

自分なりの、苦しみを持つ方に対する、励ましたい気持ち、寄り添い苦しみを和らげたい気持ち、苦しみを共有したい気持ち、そんな気持ちを持っていたいと感じた。

『聞く力』とは、偉大だけど難しくてなかなか本音を汲み取れない厄介なやつ、を相手に努力する力。



おしまい

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