こだわり
こだわりのある人になりたいと思っていた。
「こだわる(拘る)」の意味を調べてみたら、「拘泥する」と同じように「気にしなくてもいいようなことが心にかかる。気持ちがとらわれる。」というふうに否定的な意味が本来の意味だった。
「物事に妥協せず、とことん追求する。」と、最近はもっぱら肯定的な意味で使われている。
マイナスにもプラスにも通じる意味として、「つかえたり、ひっかかったりする。」という意味も辞書には載っていた。
最後の意味になんだか惹かれた。自分は人と話すとき、吃るような感じがする。本当に話そうとするとつまる。すらすら話そうという設定にすれば、ある程度は話せるんだけれども、本当に話そうとしたら吃る。
だから、いつからか「吃音」とか、「吃り」という言葉を本で見かけると、毎回印を付けていた。なんとなくだったんだけど、素通りできなかった。
話し方だけじゃなくて、生き方も、つっかえてひっかかっているように感じている。すらすらと人生が進んでいくなんてことはないんだと思ったし、なにかしらのこだわりがあるから、なんか違うな〜と思うんだろう。
その「なんか違うな〜」を見て見ぬ振りしていくうちにこだわりは抑圧されていって無かったことになってしまうのかもしれない。
怒りは感じていて、明らかに沸々としている。でも、その怒りをハッキリと認識してしまうと、もう正常ではいられなくなってしまって、現状の日々を生きられなくなる。だから、自分の死角に置いて、「私は納得感を持って今生活を送っている」って自分に言い聞かせてる。
社会的な見え方みたいなものを盾にして、無理やり不満を抱いて怒っている自分を端っこの方に追いやっている。手足を拘束された私はすごく怒って暴れている。不満が沸々と募る。
自分で自分を拘束しようとせずに、自分のこだわりに耳を傾けてみてもいいんじゃないか。どっちにしろ外の社会から、ある程度の拘束はされるんだし、だったら自分くらい「自分のやりたいようにやりなよ」って声をかけるくらいの優しさがあってもいいのかもしれない。
自分のこだわりを守るには、つかえたり、ひっかかったりして、最初からうまくいかなくて当然なんだろう。見て見ぬ振りして生きていったら、どんどんしんどくなるだけなんだろうな。
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