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問い続ける鎮魂 ---ヴェルディ:レクイエム(Vol.3)
疑問符のコード
レクイエムをハ長調で終わらせているが(中略)光明を表わす調であるハ長調が、黒いマントで覆われているとは、まさに天才的思考である。不確かな調性に変化しているのだ。
このレクイエムの終わりはかなり悲劇的です。ハ長調で終わりますが、奇妙なことにこのハ長調は平和的なコードにも関わらず疑問符の付く和音となっています。
(中略)ハ長調にも関わらず聴いている者はとても悲しくそして不安になるのです。
ヴェルディのレクイエムの最後はハ長調のコードで終わるが、しかしへ短調のV和音の可能性も孕んでいるとムーティは指摘している。
またド・ミ・ソで言うところのミの響きが薄く空虚5度的にも聴こえる。
「Libera me(永遠の死から)私を解き放ってください」と希求する声の先にあるアンサーは果たして希望あるものなのか。
終結の響きは「不確かさ」に包まれている。
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不穏に駆られる希求
その「Libera me」はレクイエムを締め括る章という以上に全体の大きな要であると私は思っている。
作曲の過程を見ればこの章からレクイエムが生まれたということはわかるのだが、それ以上にヴェルディが訴えたいことが集約されていると感じる。
そもそもこの章は冒頭から異質である。
まるでお経か呪詛のようにソプラノソロの同音反復で始まる。
ヴェルディはここを「senza misura 拍子は自由に」と拍子に捉われないように指示をしているのがユニークだ。
そして続く音楽も「解き放ってください」と語る割には後半の言葉「tremenda恐ろしい」の感情のほうが先立ち、極めて不穏な感情が渦巻いている。
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この冒頭に関してはアバド&ベルリンフィル盤(2001)のゲオルギューのまるで巫女が乗り移ったかのような鬼気迫る歌い口を思い出す。
天も地も動く時に激しく慄く姿が実に生々しい。
録音はもちろん、是非映像でそのゲオルギューの強烈なまでの朗誦を確認してほしい。
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ダニエラ・バルチェッローナ(メゾ・ソプラノ)
ロベルト・アラーニャ(テノール)
ジュリアン・コンスタンティノフ(バス)
スウェーデン放送合唱団 エリック・エリクソン室内合唱団 オルフェオン・ドノスティアーラ(合唱団) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
クラウディオ・アバド(指揮)
2001年1月 ベルリンLIVE映像 DVD
現代に生きる人間のドラマ
長い沈黙に続くのは何か?何が答えなのか?(中略)神は哀れみを持っていないのだろうか?
遠藤周作の「沈黙」を想起させるムーティの言葉。
以下譜例のLibera me第44小節目の総休止にヴェルディがわざわざ書いた「lunga pausa長い休止」に注視するよう促す。
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この総休止の後には「最後の審判」すなわち「怒りの日」の音楽が再現される。
ムーティ曰く、我々は神に祈るがそこには長い沈黙があり、そして打ちのめされる。この「長い休止」には神の沈黙とそれを待ち構える我々の姿が反映されているはずなのに、どの指揮者もこの作曲家の指示を無視しすぎであると警告する。
ヴェルディのレクイエムを肯定的に「最後の審判を主題にしたオラトリオ」と評価した者がいたようだが、ムーティもこの曲は「神のため」ではなく「現代に生きる人間のドラマ」であるとしている。正に「神の沈黙」に葛藤する人間を描いているというわけだ。
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オリガ・ボロディナ(メゾ・ソプラノ)
マリオ・ゼッフィーリ(テノール)
イリダール・アブドラザーコフ(バス)
シカゴ交響楽団、合唱団
リッカルド・ムーティ(指揮)
2009年1月シンフォニーセンターオーケストラ・ホールLIVE録音
白眉としての安息の祈り
こうした「最後の審判」への激しい葛藤・恐怖があるからこそ、Libera meの中間部で魂の安寧が祈られる。
そこでは「Requiem aeternam永遠の安息を」が第1曲目の再現として引用されるが、合唱は無伴奏で歌われるだけにその清らかさは際立つ。
中でも最後にソプラノのソロが合唱を突き抜けて高い変ロを歌うその神々しさは、このレクイエムの白眉のひとつだろう。
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深い余情
その永遠の安息の祈りはしかし、fによる弦楽器のトレモロによって再び激しい「Libera me」へと転換する。ムーティはここを「(魂の)叫び」としている。
ムーティが残しているCD録音やYouTubeに残る映像を観ると、この171小節におけるトレモロの激しさは尋常ではない。
以下2001年5月18日のウィーン国立歌劇場での公演でのキュッヒルの弾きこみの激しさは刮目に値する(1'21"06〜)
さていよいよ大詰めの「(魂の)叫び」、全曲中最も構築的で長いフーガによって積み重ねられた声が次第に高まり、ついに「tutta forza 全力の強さをこめて」の指示とともに最大級の訴えでクライマックスを迎える。
そして音楽は静かにレクイエムの主題を繰り返しながら最後のソプラノの「Libera me, Domine, de morte aeterna,in die illa tremenda」の朗誦を導く。
この終結で最も感動的なのはやはりムーティの解釈なのである。
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ムーティは合唱の「Libera 解き放ってください」を深い呼吸で歌わせて416小節目に入ると本来2分休符を経て歌い出すソプラノの朗誦を「senza misura拍子を自由に」の指示を意識して拍子通りにせず、かなり長く間を持つのである。
その裏では弦楽器は譜面通り2分音符で響きを止める。
そうすることで合唱の「(Libera)me 私を)の減衰した伸ばしだけが聴こえてくる。
そしておもむろにソプラノに指示して朗誦が始まるのだ。
この深く静かな余情たるや
この独特な解釈、ムーティが祖かと思ったら実はトスカニーニも採用していた。
あの有名な1951年のNBC交響楽団の録音もさることながら戦前の1938年ロンドンでのLIVE録音でも行っているので恐らくトスカニーニが長く実行していたことがわかる。
もしや作曲家直伝なのだろうか?
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問いかける鎮魂
Vol.1の冒頭で紹介したシノーポリ&ドレスデン国立歌劇場管弦楽団盤、
この真摯な演奏は第二次世界大戦のドレスデン空襲の犠牲者を悼む演奏会であったことを思い出そう。
そして、
「現代に生きる人間のドラマ」と語ったムーティの洞察に満ちた言葉。
今なお戦禍が続くこの世界にあって、
この「不確かな響き」で終わる鎮魂曲は今なお我々に問い続けているのだ。
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Vol.3 了
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