見出し画像

慎ましい祈り ---ヴェルディ:レクイエム(Vol.2)

慎ましい祈り

オペラ的なるもの

ドキュメンタリー「カラヤン・イン・ザルツブルク」の中でカラヤンがビデオ編集中にわざわざ英語で「unbelievable信じられない」と呟くシーンがある。
確かにそのシーン、ホセ・カレーラスがウィーンのムジークフェラインザールのオルガン前で歌うヴェルディのレクイエムの「Ingemisco私は咎ある者として呻きます」は「オペラ的」と喩えたくなる誘惑を持つ絶唱だ。

これが私が最初に体験したヴェルディのレクイエムだったかもしれない。

ドキュメンタリー「カラヤン・イン・ザルツブルク」

繊細な懇願

いつも苛立つことがある(中略)テノールがまるでラダメスのように歌い出すことだ。あたかも、自分が素晴らしい声を持っていることを誇示するかのように(中略)しかし、ここでは何を言っているのか意味を理解しなければならない。

「リッカルド・ムーティ、イタリアの心 ヴェルディを語る」リッカルド・ムーティ著 音楽之友社刊

「Dies ira怒りの日」の中のいくつかの章は「オペラ的」なるものへ傾斜しかねない「歌」としての魅力がある。さきのカレーラスが歌った「Ingemisco」はその筆頭ではないだろうか。
しかしこのカラヤンの采配の元で歌われたカレーラスは極めて真摯な歌には違いなく、更にスコアをよく読むとヴェルディが典礼文に即して書いた細かいニュアンスをよく汲んでおり、最初に映像を見た時の印象に比べると今の私は大いに評価している。

ヴェルディ:レクイエム Dies ira 第453-461小節

「Ingemisco」は最後の審判に立った咎ある者の慄きが語られ、絶望した呟きのようにハ短調で始まる。そして切々と「神よ、祈る者を逃してください」と強く懇願しながら「逃してくださいparce」ではpppと最弱音で弱々しく懇願、しかし「神よDeus」では希求するようにクレッシェンドをかけるようになっている。
(上記譜例だと第453-456小節、なお新批判校訂版では456-457小節のテノールにはスラーがかかり、かつブレスとして「’(カンマ記号)」が入っているので青字で加筆)

以前、有名なアバド&スカラ座盤(1980)を聴いた時にこの箇所でのドミンゴが意外にぞんざいであったことに呆れた。大テノールは皆んなこんなものなのかと思ったらムーティ&スカラ座盤(1987)のパヴァロッティが極めて抑制的で楽譜にあるニュアンスを見事に歌っていた。
457小節に至るクレッシェンドから次の第2節「Qui Mariam absolvistiマリアを赦した方」へのppで「優しく、落ち着いて」「さらに優しく、消え入るように」のマリアのイメージに相応しい繊細なニュアンスも美しい。
これもムーティの信念の反映だろうか。

ヴェルディ:レクイエム ムーティ&ミラノ・スカラ座管(1987)

慎ましくも多彩に

ヴェルディ:レクイエム Dies ira 第474-478小節(新批判校訂版では477小節目の4拍目はf)

第3節「Preces meae non sunt dignae私の祈りはあなたに値するものではない」は歌詞にあるように恐れを示して半音が不安定に揺らぐ歌だがファゴットとヴィオラによる三連符による優しい伴奏で変ロ長調で穏やかに始まる。
それが「良きあなたは情け深くあってください」で変イ長調(IV)変ニ長調(IV)とより柔和で温かい表情になる下りは私は好き。
しかし「Ne perenni cremer igne永遠の火に焼かれないようにしてください」では半音階上昇で不穏な不安が湧き戻り暗い影がよぎる。ここはあの「怒りの日」の音楽をイメージとして引用しているように思える。

Vol.1で紹介したシノーポリ盤(2001)のボータは指揮者の濃厚な伴奏(特に永遠の火の下りの半音上昇のクレッシェンドを太字強調のように際立たせる)に対して良い意味で整った節度ある歌で、慎ましい祈りを与えるのが印象的。

ヴェルディ:レクイエム シノーポリ&ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(2001)

そして希望

最後の第4節「Inter oves locum praesta羊の間の場所を与えて」でやっと主調の変ホ長調になり「神の右側に立たせてください」という希望に満ちた祈りをテノールが歌う。
正にここがカラヤンが「信じられない」と呟いたこの章のクライマックスである。

レクイエム Dies ira 第490-494小節

そしてこの箇所こそ「オペラ的」なるものの誘惑があるのだが、それを見事に回避している例としてアーノンクール盤は挙げられるだろう。そもそもテノールにミヒャエル・シャーデーを選択している時点でこの指揮者の目論見は正しかったのである。
シャーデーの折り目正しく細かいニュアンスを描く歌は懇願と希望への祈りに結実されていて、この「右側で」でのAs音の頂点でたっぷり溜めてクレッシェンド・デクレシェンドを実現して次の「消えいるように」の指示へと繋げている。

心のこもった正解の一例である。

ヴェルディ:レクイエム アーノンクール&ウィーンフィル(2004)

ところで蛇足であるが、ムーティは最近1981年のライブ盤を発表した。
本人曰く「私の人生の中でも最も理想に近い素晴らしい演奏」だったようで、その音盤化が実現したわけである。
基本的な音楽の造形は彼の他の演奏と変わらないがライブならではの高揚感は確かにあるし、特筆すべきは抑制の通ったジェシー・ノーマンとアグネス・バルツァの歌唱が実に素晴らしい。
テノールはここでもホセ・カレーラスなのだが、どういうわけかこの盤での「Ingemisca」はこの項で指摘したあらゆるポイントにおいてニュアンスが粗くて、その点では残念な一枚となってしまった。

ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
アグネス・バルツァ(メゾ・ソプラノ)
ホセ・カレーラス(テノール)
エフゲニー・ネステレンコ(バス)
バイエルン放送合唱団
バイエルン放送交響楽団
リッカルド・ムーティ(指揮)
1981年10月8-9日 ミュンヘン、ヘルクレスザールLive録音

Vol.2 了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?