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『こんな馬鹿な話ですいません』(米津玄師『クランベリーとパンケーキ』より)


『こんな馬鹿な話ですいません』


 ワインには知恵、ビールには自由、水にはバクテリアがいるらしい。だとすれば、今夜は知恵に溢れ、限りなく自由で、そして少々のバクテリアを宿して歩いている。
 夜は不都合なものをすべて覆い隠して、街をいくらか情緒的にさせる。街灯が暖かく滲んでいる。オレンジ色の灯りは、昼なら目にどぎつい広告も看板も巧みに色を失わせて、洒落た闇も添えて、慎み深さを教える。人通りはまばらで、まるで自分だけの花道を歩いているような気分だ。
 あしらいを心得て、うまく化粧をした女のような好ましい雰囲気に、気分が良い。追い抜きざま、その女の冷たい手がのぼせる顔を愛撫していく。思わずにやけて、いい女だね、今夜は一緒にいようよ、と呼び止めてみるが、女は含みありげな笑みを残して去っていった。そんなこともある。去るもの追わず。
 通りに声がよく響いて気持ちがいい。適当なメロディを歌ってみる。我ながら、いい声。これは女にモテるぞ、とほくそ笑み、どこかで聞いたようなメロディを思いつくままに口ずさむ。でたらめの即興にしてはなかなか聞ける。この道でもやっていけるかもしれない。そう思うと、なにか愉快だ。きっと友人たちは驚いて、羨むだろう。まさかそんな才能があるなんて。
 悪いね、と彼らに口先で謝る。仕方ないさ、そんなふうに生まれついたんだから、と声が笑う。嫉妬したのか、一人の友人がふいに足を引っかけてきて、よろめいた。
 危ない、と伸ばした手を、黒茶けた手が引いて助けてくれた。今日はなんてツイてる。助かったよ、と手の主を見ると、褐色のすこぶる美女が見下ろしていた。ああ、女神のようだ、命の恩人だよ、と感謝を込めて微笑む。美女は、はにかむようにして黙る。照れちゃったんだな、と一人了解してうなずく。
 懐からタバコを出して、一服することにする。
 いい夜だね、君も吸うかい、と聞くが、返事はない。しかし、控えめに手をさし出すので、気を利かせて、一本分けてやる。遠慮しているのだろう。まあ、気にするなよ、と火をつけてやり、二人でタバコを燻らせた。
 本当にいい夜だ。こんな美女と一緒にタバコを呑めるなんて。息を深く吸い込んで、肺の奥までいい夜を送り込む。何もかもこのまま逃げていかないように。煙を吐き出すと、悩みもなにも夜闇に溶けた。数口吸って空いた胸の隙間から、無性に笑いがこみ上げてくる。
 なんていい気分だ、と誰ともなく言う。寡黙な美女は、静かに笑う。
 君はどうしてこんなところにいたの、と聞いてみる。路地の少し奥まった暗がりだ。ここからオレンジ色の表通りが眺められる。二人で秘密基地にでも隠れているような気分だ。しかし、こんな美女とならいつでも歓迎。
 褐色の女神は、答えにくそうに口ごもる。いや、特に意味はないんだよ、と察してさえぎる。まあ誰だってどうしてここにいるかなんて、本当の意味ではわかっちゃいないんだから。キザな言葉を煙と共に吐き出す。心地よさだけが漂う。
 吸い終わりを見計って、美女が灰皿を差し出してくれたので、ありがたくタバコを消そうとする。手が滑って、その腹の辺りに吸い殻が落ちた。
 飲み過ぎよ、と咎める声が聞こえる。あんまりにその通りで、笑うしかない。
 飲んでも飲まずも同じなら、酒とタバコは飲んで踊ろう!
 格言めいた言葉を叫び、美女の手をとり、いい加減なステップを踏む。女の手は固く強張り、滑らかで冷たい。酔って火照った手におあつらえの、青銅の感触。青銅の女はピクリとも動じない。
 ま、こんな俺とじゃ踊れないか、とつぶやいたところで、とうとう可笑しくて吹き出した。酒混じりのつばが飛ぶ。ブロンズ像相手の一人芝居なんて、途方もなく愉快だ。
 酒と命さえあれば、名誉は惜しからず!
 雄々しく叫び、ブロンズ像の台座から軽く飛び降りようとして、足がもつれてそのままつんのめる。
 ビル影からくすくすと笑い声が聞こえ、暗闇に目を凝らすと、カップルが抱き合ったままこちらを見ていた。男も女も子供のような顔つきを残しているくせに、表情にやけに色がある。そうか、そうかと心得て、おぼつかない手足をかき集め、組み立てる。そうしてどうにか立ち上がり、お幸せに、と通りすがりざまのビルの狭間に声をかけた。まだ幼さのある、かん高い笑い声が返ってくる。なにかこちらも楽しくなって、一緒に笑った。
 夢見心地で帰路につく。電灯に吸い寄せられる蛾のように、そこになにもないと知りながら、戻ってきてしまう場所へ。
 着いてみれば、どこよりも慣れた部屋のはずなのに、今日はどうにも少しよそよそしい。帰りが遅いからってそんなに妬むなよ、となだめたが、ずいぶんご立腹だったようで、ドアが閉まるなり、傘立てが腹いせとばかり小突いてきた。もろに受けてしまって、傘と共に玄関に転げる。痛みより可笑しさが先立つ。そんなに恋しかったかい、と抱きしめる。
 落ち着いてみると、無性に何か食べたい気分になった。そういえば、冷蔵庫にパンケーキがあったと思い出す。昨日来た友人が食べたいというので作ってみたが、作り慣れないものを作ると分量を誤る。
 そびえ立つパンケーキの山へと向かう、陽気な探検家。荒野を抜け、困難を超え、扉を開ければ、感動の景色。まろやかに茶けた、なだらかで美しい楕円の塔。到達の道すがら、クランベリーの沼を抜ける。ピクニックを決め込み、シーツを引っ張り出して、床に広げる。パンケーキを一枚一枚、丁寧に取り上げ、たっぷりとルビー色に染める。喉をなでる甘さと、鼻を抜ける爽やかさに夢中になる。ああ、なんていい景色だ。
 たちまち全てがとろけるように消えていったパンケーキを名残惜しんでいると、今度は向こうが恋しさのあまり引き返してきた。このままでは別れたくないとばかりに喉を駆け上がり、感動的な抱擁をする。あまりの熱烈さに思わずせき込む。わかった、わかった、とその肩を抱き、熱いキスの名残をシーツで拭う。
茶番の終焉。朦朧とする意識。せめてシーツを洗わなければ。洗濯室への歩み。
 すり寄る。机も椅子も、雑誌入れも小棚も。一緒に連れ立ちたいと。
     気怠く押し戻すと、けたたましく哀れっぽい悲鳴。泣き崩れる。
                 足を取られる。ついに洗濯機のお目見え。
          汚れたシーツの献上式。鼻歌を伴って。
     洗濯機の冷たい。視線のシャンパン
                熱を持つ身体に適温
                     悦にいる。ケタケタ笑い
                  ふっと。床が手を引く
               小船に揺られる
                       夜の床
                   まどろみの川
                         流れて
                            おち


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