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何の目的で聖書は書かれたか

聖書は神の霊感によって書かれた書物です。
ですから、多くの著者によって書かれていますが、
すべてを統括する著者は神だといえます。

では、神は何の目的で聖書を書かれたのでしょうか。
真実は神にしか分かりませんが、多くのクリスチャンは
きっと「人々の救いのため」と答えるでしょう。

私も信じ始めたころはそう思っていました。
でも結局その考えは私を幸福な信仰生活には
導いてくれませんでした。

聖書が書かれた目的が「人々の救い」なのであれば、
それに従う私たちの生きる目的も
人々を救いに導くことになると思います。

私の教会でも牧師は人々の救い中心の説教をしていますし、
ほとんどの教会員もそれに納得しているようで、
教会の中もそのような雰囲気に満ちています。

するとこんなことが起こり始めます。
知り合いを教会に導いて信じさせた人はすばらしい。
家族をみんな救いに導いたひとは最高のクリスチャン。

知り合いをひとりも教会に連れてきたことがない、
家族も誰も信仰に導けない私はまるで
二級クリスチャンだと責められているような気分です。

特に家族がひとりも救われなかったことは
私にとって大きな心の傷になりました。

判で押したように、決まって、教会でみんなから
「奥様と息子さんたちのこと祈っています。」
と声をかけられるのは正直つらかったです。

そんな時に
ハーベストタイムメッセージステーション
https://harvesttime.tv/message-station/
で中川牧師のメッセージを聴いていたとき、
中川牧師はこういったのです。

「聖書の書かれた目的は人々の救いではない。
 聖書の書かれた目的は神の栄光を表すことである。
 人々の救いも神の栄光を表す要素のひとつに過ぎない。」

この言葉を聴いてなんだかとても勇気をいただきました。
この真理を知って、私はこう考えるようになりました。

もし、家族が救われて
我が家がクリスチャンホームになっていたら、
私はこんなに真剣に神に祈っただろうか。
そしてこんなに神に愛されていただろうか。

神はそれほどまでに私を愛してくださったがゆえに、
あえて家族を不信仰にして
私を近くに引き寄せてくださったのではないか。

聖書が書かれた目的が「神の栄光」なのであれば、
それに従う私たちの生きる目的も
神の栄光を表すことになると思います。

家族が救われることで神の栄光を表す人もいれば
家族が救われないことで神の栄光を表す人もいる。
私は家族が救われないことで誰よりも神の愛を感じている。

「聖書の書かれた目的は人々の救いではない。
 神の栄光を表すことである。」
この真理を知り私の信仰生活は実に豊かになりました。

それからハーベスト聖書塾に入塾して聖書を学んでいく中で、
この真理は「ディスペンセーショナリズム」という神学の
考え方だということを学びました。

私の教会の牧師の神学は「契約神学」という神学です。
契約神学は聖書が書かれた目的は「人々の救い」と考えます。
なので当然教会もそういう空気になっていきます。

今までの信仰生活の中で私が感じてきたあの違和感と
中川牧師のメッセージへの納得感は神学の違いによるもの
だったのだとその時知ることができました。

日本の教会、いや世界中の福音派プロテスタント教会でも、
ディスペンセーショナリズムは少数派です。

どちらが正統かという議論にあまり意味があると思いませんが、
私が感じている限りでは、聖書のことばを字義通りに解釈するという、
福音派教会のモットーにより忠実なのはどちらかと言うと、
ディスペンセーショナリズムの方かなと思っています。

そして私は今までの経験の中で、契約神学の中で悩みましたが、
ディスペンセーソナリズムの中でその悩みから解放されて、
より信仰の高みに踏み出すことができました。
これは確かな事実です。

どうかこの世において広く神の栄光が表されますように。
そしてすべての人が神の栄光を崇めて礼拝する、
そのような世の中になりますように。
どうかみなさんに神からの祝福がありますように。

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