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捨てたら二度と手に入らない ─鹿児島大学の博物館長に聞く「標本」の価値─

標本の収集・保管のための資金が足りない──。コロナ禍による入館料収入減少や光熱費・物資の高騰によって資金難に陥っている国立科学博物館(以下、科博)が、2023年8月にクラウドファンディングを開始した。同年11月5日に目標金額の900%超えを達成。“大成功”のうちに終了したことが話題となった。しかし、科博の資金難が解決したとはいえず、全国の博物館も同様の問題をかかえたままだ。
「標本は図書館の本のように買えるものではなく、捨てたら二度と手に入らない」。そう語るのは、アジア最大級の魚類コレクションを構築している鹿児島大学総合研究博物館長の本村浩之教授(魚類分類学)である。「捨てたら二度と手に入らない」とはどういう意味なのか。本村教授にお話をうかがった。(取材:2023年10月)

写真やDNAサンプルまで揃ったアジア最大級の魚類コレクション

ひんやりとした部屋に足を踏み入れると、プラスチック容器がずらりと並んでいた。中身はエタノールに浸かった魚たち。ここは、鹿児島大学(以下、鹿大)総合研究博物館の魚類標本庫。鹿児島から琉球列島、東南アジアの魚を中心に約30万点を所蔵する。

標本数だけなら、科博のようにもっと多い博物館はほかにもある。鹿大のコレクションの価値は、標本のすべてに「生鮮時のカラー写真」が添えられていることだ。エタノールで保存すると、魚の鮮やかな体色は失われる。体色を記録しておくことで標本の利用価値を高めているのだ。

標本30万点のうち、10万点にはDNA解析用組織サンプルもある。DNAサンプルも生鮮時の写真も、標本番号と同じ番号で保管されている。

こうした繊細な管理のかいあって、鹿大の魚類コレクションは世界中の研究者の注目を集めている。毎年、国内外の研究機関に約5000点が貸し出され、鹿大の標本に基づく論文が年間約100本、鹿大の魚類分類学研究室の論文も年間50〜80本が発表されている。

「写真やDNAサンプルまで揃った標本として、鹿大のコレクションはアジア最大級。なかでも東南アジアの魚類標本は世界一充実しています」

総合研究博物館長で、魚類分類学が専門の本村浩之教授(50)はにこやかにそう語る。

鹿児島大学総合研究博物館長の本村浩之教授

鹿大の魚類標本は、私たちの身近でも活用されている。その一つが一般向けの魚類図鑑だ。特に、南の海に生息する魚のカラー写真は科博にもないものが多く、鹿大の写真がなければ図鑑をつくることはできない。
魚による食中毒が発生した際にも鹿大の標本が活躍する。全国の保健所や水産試験場からの依頼を受けて、残った肉片やヒレ、トゲなどと標本を突き合わせて魚種を特定している。

鹿児島大学の魚類コレクションの写真が活用されている図鑑の一部。学研の魚図鑑に掲載されている写真はほとんどが鹿児島大学のものだ

しかし、これほどのコレクションを有する鹿大博物館も資金潤沢とはいえない。標本ビンや保存液といった備品を買う予算が大学から毎年出るとは限らず、出なかった年は本村教授が獲得した外部資金で賄っている。

「博物館の3本柱は『標本の収集・保存』『調査、研究』『展示、教育普及』です。研究や教育は標本に基づいて行なわれますから、標本がないと博物館は成立しません。博物館の標本は図書館の本のように買えるものではなく、捨てたら二度と手に入らない。博物館はどうあるべきか、標本を収集・保管といった基盤整備のための予算をどうするのか、国全体で考えることが必要です」

科博のクラウドファンディングは「国に対するアピールができたという意味ではよかった」と本村教授は言う。だが、標本の収集・保管という博物館の根幹に関わる部分の資金難は解決していない。本村教授はこの点に危機感を持っている。

「これ(クラウドファンディングで光熱費を集めること)が普通になってはいけない。光熱費は標本を研究に耐えうる状態で保管する、博物館にとって必要最低限の予算です」

標本作製に小学生も協力

鹿大博物館の設立は2001年。当時、魚類標本は16点ほどしかなかった。2005年に本村教授が着任してから現在の30万点のコレクションをつくり上げた。

標本にする魚は、本村教授が中心となって国内外で採集する。そのほか、全国の魚類愛好家の市民や漁師、ダイバー、水族館や漁協の人たちの協力もあり、2日に1回は大学に魚が届く。

魚は週に1回、学生・大学院生と約20名の「魚類ボランティア」が数百年後の観察にも耐えうる形で標本にする。去年までボランティアメンバーだった小学生は魚の採集や標本づくりを学び、本村教授と図鑑の説明文の共同執筆までしたという。

「学生かどうかや年齢は関係ありません。魚に興味がある人、やりたい人を受け入れています」

標本の劣化を最小限にするため、コレクションは原則非公開である。ところが、本村教授は「連絡があれば見せますよ」と気さくだ。

「2週間に1度ぐらいは魚好きの親子連れが訪ねてきます。魚のことを知りたくて魚釣りをする人はたくさんいても、採った後にどう調べればいいかわからない人は多い。事前の日時調整は必要ですが、魚に興味のある人にはどんどん来てもらえたら。魚や標本についてもっと多くの人に知ってほしいと思っているんです」

「写真に撮って捨てたら」の声も

しかし、誰もがコレクションの価値を理解するわけではない。本村教授は同じ大学の教員から「写真を撮って(標本は)捨てたらどうか」と言われたことがあるという。

「標本があるからといって入学希望者が押し寄せるわけじゃないし、場所ばかり取ってお金を生み出すわけでもない、ということなんでしょう」

全国の国立大学法人も科博と同じく昨今の光熱費の高騰に頭をかかえており、鹿大も例外ではない。最近、大学内で「標本の貸し出しを有料にしたらどうかという話まで出た」と本村教授は苦笑する。

「標本の貸し借りは無料というのが世界の博物館の不文律。残念ながら大学ですら、標本に対する認識は低いのが現状です」

「人類共通の財産」であり「論文の根拠」

では、標本とは一体何なのか。標本は、生物を分類したり名前を付けたりするための基準となるものだ。中でもタイプ標本は新種に名前を付けるときの基準となる標本で、博物館で厳重に保管することが国際ルールとなっている。鹿大にもタイプ標本が約1000点保管されており、鹿大の標本を用いて記載された新種は180種、新しく付けられた標準和名は150にのぼる。

「どれだけ科学技術が発展しても、分類学者は大航海時代の標本やダーウィンの残した標本に立ち返って現代の標本と比較検討しなければなりません。そうして新しい情報が追加され、誤りが正され、日々進化し続けているのが分類学です。新しい知見によって、標本で注意して見るポイントも変わってきます。標本は何回も取り出して、再検討がくり返されるものなのです」

タイプ標本の一部。扉のついたキャビネットで他の標本とは別に保管されていた

イギリスの博物学者、チャールズ・ダーウィン(1809-1882)が作製した標本はいまも英・ロンドン自然史博物館に残されており、本村教授も現地で標本を調べたことがあるという。それが可能なのは、標本を捨てずに現代まで保管してくれた人たちがいたからだ。

「標本は、今の研究に使うものであると同時に、後世の人のために残すもの。人類共通の財産です」

分類学や生物多様性をテーマとする研究者にとって、標本は論文の根拠にもなる。

「論文に疑問を感じたら、論文に書かれている標本番号を確認してその標本を見ればいい。論文の内容が正しいか正しくないかはすぐにわかります。標本は論文の内容を高い確度で証明する、よくできたシステムでもあります」

体色は抜けていても、標本のウロコやヒレ、内臓、骨などからはさまざまな情報が得られる。筋肉の安定同位体を調べれば、魚の食べていたエサや生息地域の環境もわかる。

「100年後の人たちが2023年のマダイの標本を調べれば、地球温暖化や魚類の多様性がどのように変化してきたかを考え、未来を予測することもできます。だから標本は収集し、保管し続ける必要がある。捨ててはいけないのです」

DNAやデータベースは万能ではない

 魚のDNAの塩基配列をデータベースに登録しておけば、標本がなくても分類はできるのではないか。そう本村教授に問うたところ、あっさりと否定された。

「魚類のDNAデータベースはすでにあります。ただ、タイプ標本は古すぎてDNAを取れないことが多い。DNAを取れる場合でも、魚種を間違えてデータベースに登録している確率は6割にのぼります。外見からマダイと判断して登録したDNAが実はチダイのDNAだった、というような例はいくらでもある。それほど魚種の区別は難しいのです」

本村教授によると、DNAが何%違えば別の種とみなすかは魚種によって違うという。5%違っても同じ種とみなす魚種もあれば、3%違うだけで別の種とみなされる魚種もある。

「だから魚種によっては必ず標本で内臓や骨まで見る必要があります。DNAやデータベースは万能じゃないんです」

ここ30年で、DNA解析技術は大きく進展した。100年後には新技術が開発され、古いタイプ標本のDNAを読めるようになっている可能性もある、と本村教授。

「そのとき、古い標本を捨てていたら? 知り得たはずの知見もいっしょに捨ててしまうことになります。取り戻したいと思っても、二度と標本は手に入らない。だから標本は捨ててはいけないのです」

捨てたら二度と手に入らない標本を私たちはどう守り、受け継いでいくべきなのか。科博だけでなく、世界の注目を集める鹿大の魚類コレクションもまたその問いを投げかけている。

鹿児島大学総合研究博物館の常設展示室。魚類標本の展示はないが、博物館が保管する考古学資料や生物の化石などを一般公開している。建物は、1928(昭和3)年建設の旧鹿児島高等農林学校図書館書庫を活用しており、国の登録有形文化財でもある

参考:
鹿児島大学総合研究博物館のウェブサイト
https://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/

国立科学博物館のクラウドファンディングのページ
https://readyfor.jp/projects/kahaku2023cf