執着、そして手放すこと
執着というものは、心を重くしますね。
私自身は、何に執着するのだろうと考えると、まずは食べ物。食いしん坊なんですよ。
小さい頃から食べることに並ならぬ情熱があって、よく親から「外食する時はまずこの子をお腹いっぱいにしてからじゃないと」って言われるくらいでした。そうしないと、恥ずかしい程食べるので。
次に、知識。学校の勉強は嫌いだったけど、知りたい事が次から次へと出てきて、とにかく知識を得たい。
でも、知識というものは、人類が共有するもので、個人が独り占めすることって出来ないししちゃいけない。
誰がオリジナルっていうのも、無いと思うのですよ。
そういう、独占したいとか自分が!という執着に関すること、それから、手放すということについても。書きためていたものをまとめます。
並びは古い順、見つけた都度入れ込んでゆくので、いつものように頻繁に更新します。
(2017年9月29日)
全てのものは循環してると言われます。
循環することによって停滞させない。
大事なのは、流れをよくすること、エネルギーを循環させること。
執着して停滞すると成長できない、手放して新しいエネルギーを循環させること。
『変わらないため』に変わり続けないといけないこの世の掟。
そして変わるためには手放して循環させて変わり続けないと。
うまく言えませんが。。
(2018年1月20日)
探し物を見つける方法。
2・3日前、息子が探し物をしていました。部屋中探しても大好きなミニカーが2台どうしても見つからないと半泣きになっていたので、
「そういう時は、心の中でそれが見つかったと想像して『○○が見つかりました、うれしい!ありがとうございます。』って言った後、考えるのをやめてごらん。数日後に絶対見つかるから。忘れるのがコツだよ。」
と教えてあげました。
そして今さっき息子がやってきて、探していたミニカー2台が見つかったよと見せてくれました。
これ、私もよく使ってる方法なのですが、絶対に家の中にある(捨ててはいない)けどいくら探しても見つからない時に、見つかったと強く思い浮かべて忘れると、必ずひょんな所から出てくるんですよ。
強く念じて手放す。
一生懸命探している間は、なぜか目の前にあっても気が付かないんですよね。深層心理で「ない」って思ってるから見えるものも見えなくなってるのかなあと思ってます。
おしまい。
(2019年5月19日)
じーんときました。
断捨離という言い方より、『感謝離』がいいですね。
https://mobile.twitter.com/834.../status/1130069918802534401
(2019年7月9日)
リンクが削除されているのですが、政府が提唱する未来都市構想についての記事について書いた感想。
うわ、かっこ悪!
こんな昭和の人が考えた近未来都市みたいなのをプレゼンされてもねえ。
爺さんの発想ですねこれ。頭ガチガチの人って、今あるものをベースにした発想しかできないので色々とおかしなことになりがち。現状に執着しすぎて抜けられない。
多分未来って科学や精神が高度になる程、不要なものが削ぎ落とされて見た目もすっきりシンプルになるんじゃないかと思います。
こういう、『今ある物』の概念に囚われておかしなことになっている物って、日常生活において結構あります。
車のデザインとかバスルームの作りとか、そういうの。
既成概念というのは、ある意味執着なので、それをいったんリセットした発想って大事だと思います。
(2019年7月16日)
以前、選挙に関して
“「こういう日本にしたい」というイメージを強く持って手放す。そうすれば1番効果的な人や政党が選ばれる(かも)。”
と書いた件。
仕事でもプライベートでも、関わる人数が多くなればなるほど、それぞれの欲望や思惑が交錯してカオスになるので、
『全体がいかされますように』
という気持ちで事象に対して取り組むようにしています。それもこのことと同じだったかなと。
そうして目の前の事象に一喜一憂せずに長いスパンで捉える事も大事ですね。最善へ向かう過程なのだと。そしてそれが、執着をなくす、手放す、という事かと思います。
(2020年1月13日)
旅客機の問題って、経済への影響だけじゃないですよね。ボーイングに限らず古いテクノロジーに固執しすぎるところじゃないのかと思います。
旅客機って100年位前からほとんど変わってないですよね。その間家電や車や電子通信機器など他のテクノロジーはどんどんすすんでいるのに。旅客機だけ相変わらず当時のままの動力で石油が燃料。
おかしくないですか?絶対、もっとずっと安全でエコロジカルで安い飛行システムがありますよね。
色んな利権に固執しすぎて時代遅れになってるんじゃないですか?なーんか騙されているような気がします。
(2020年5月1日)
自室をすっきりしたい。。
もう、自分でもこれはいかがなものかと思うくらいの本の量なんですよ。
壁2面の本棚も前後二重に立てかけてギッチギチ。あふれた本が床にも積まれて足の踏み場もないくらい。電子書籍も数千冊・・
(電子書籍の半分は漫画だけど、紙の漫画は20年くらい前にほとんど全部処分したのが絶版になってしまって相当悔やまれたので、その後買った紙のやつは全部保存です。)
5年前ここに引っ越してくる時、心を鬼にしてほとんどの書籍を処分したのに、どうしてまたこんなに増やしてしまったのか。
本は捨てられないという性分も、執着だよなと思うのです。知りたい、そしてそれを所有したい、という。
読んだ端から忘れてしまう、(ある意味)すごい記憶力のせいもあるのかもしれませんが、
【一度読んだものは記憶の引き出しに残っていて必要な時に必ず出てくる】
と思って、また心を鬼にして処分します。つらいけど、物が少ない部屋ですっきりした方が精神的にずっと健康でいられるので、とにかく減らすことにします。がんばります。
(2020年7月2日)
変なこと書きます。
頭おかしいと思われるかもしれませんが、割と本気でそうじゃないかと思っていること。
(後からの読み易さは最低だけど)いつでもどこでも投稿のしやすさがダントツなのでFBをメモがわりにしているのですが、その理由です。
インターネット上に書いたものって、全て(宇宙にある装置で)永久保存されるそうなのですよ。
いきなりうわーとドン引きされそうですが。
全ての人類の記録が、全て保存されるそうなのです。
なので、自分が生きて考えた事をこうやって文字にしてインターネット上にあげるとそれは今生の記録として残されるのかなと。
そして、私イコール全ての存在と同じだとすると、それは今後生まれてくる人の資料(前世の記憶って、全魂の記録みたいなところからダウンロードしてくる人もいるそうです。今転生を繰り返している人って全体の1割程度で、殆どの人は新規の魂さんなのだそうですよ。これも色々とすごく納得です。)になったり今地球上のどこかで生きている人との情報共有だったりするんじゃないかと。
逆もまた然りで、私もまた無意識でアクセスしてその共有ファイルから自由にダウンロードしちゃってるんじゃないかと。
そう考えると、自分と同じタイミングで似たような体験をして似たような考えをする人が複数存在することも納得かなあと。
全人類の思考の記録を共有していると仮定すると、共時性とか当たり前よねと思えます。
そういう理由で文字にしてインターネットにあげるという作業を、あえてやっています。考えることも多分全部記録されていると思うのですが、文字にしてインターネットにあげるものはまた別エネルギーというか思考よりもより凝縮されているというか、何かが違うんじゃないかと思います。
淡雪のようなはかない人生のひと粒ではありますが、こうやって書いてることが残って全体の共有財産みたいなものを作っているのかもしれないと思うと、ある意味充実感はありますよね。レポート完了、今日のミッションコンプリート、みたいな。
(2020年7月5日)
(7/2の続きです)
書くことって、自分の考えを整理して客観的に見ることが出来るというメリットがありますよね。
それをこうやってインターネット上にあげることの自分にとっての利点は、それを手放すこと。
【自分の考え】というのは【自分の】というエゴというか執着がまだ入っているのですが、それをネットにあげた時点で既に【共有】になるんですよね。たとえそれを誰一人として読まなくても。
なので、自分の考えていることすらも自分一人のものではなくなる、というこのアクションが、ある意味エゴの手放しになっている気がします。
自分は「もしかすると今日が最後の日かもしれない」と心のどこかで思いながら生活しているのですが、もしもその時が突然来ても、こうやってネットにあげて宇宙のどこかに永久保存されているんだろうと思っていると、言い残したことを後悔したりせずに済むかなあと。
つまり、あの世へ帰る時、今生への執着を手放すのが簡単になる気がします。
まあ実際は相当執着するかもしれませんがね。そればっかりは分かんないです。
2001年に個人ウェブサイトを作った時に、
【遺言の代わりに】
という理由でネットにあげたのですよ。
今思えば、最初からそういうつもりでネットを使っていたので、インターネット上に書いた文章は宇宙のどこかに永久保存される、という考えは自分にとってはすごく納得でした。
とりあえずおしまいです。
↓おしまいと言いながら、上の続き。
(2020年7月5日)
煩悩とエゴ
煩悩は悪いことではないらしいです。肉体を維持するための本能なので、そうですよね。
さっきの投稿にもつながるのですが、
自分と他人が別という【分離】の状態にあると、煩悩から「他人より抜きんでたい」「自分は他人より特別」「自分が〜」というエゴが生じる。
でも、私はあなた、あなたは私、という【統合】の状態にあれば、自分も他人もないので、エゴは生じなくなる。
のではないかと思うのです。
さっき、自分の考えをネットにあげることによってそれは共有物になるのでエゴ("自分の"考え、という執着)が手放せる、と書きましたが、それも同じ考えです。
今、出家ではなく在家、分離ではなく統合、と言われる所以は、エゴ・執着の開放の必要性が問われているのかもしれません。
煩悩とエゴ、面白いなと思います。
(追記です)
何様だよと言われそうなこと書きます。
人間の苦楽の原因は煩悩にあり、(本人は)出家することによって煩悩を消し去り、煩悩を消し去ることによって心安らかになると説いた仏陀。当時は煩悩イコール悪だったのでどうしても悟りを得るためには出家が必要だったのでしょう。(尤も、仏陀は在家での修行の大切さを説いていたと聞きますが。出家して女人禁制にしていたのは、どうしても若い男子などは煩悩にまみれてしまうため、というのが理由だったとか。)
勿論、そこまでの考えに至ったのは仏陀の魂の偉大さによるもので、常人とは全く魂のレベルというか大きさというか格が違ったからであろうとは思います。
でも、誰かによってアイディアが世に出された時点において、それは本来人類の共通認識の底上げになっているんじゃなかろうかと思うのですよ。どんなに新しい事難しい事でも、誰かが"理解"すると同時多発的に世界中に伝播するように。
でも仏教という宗教になってしまったために、仏陀の説いた所がゴールになってしまって精神の進化が止められてしまった。
本来ならば、仏陀が説いたところは既にクリアされたステージで、そこから更に高みを目指せるはずなのに、宗教という学問にされてしまったことにより一般人には理解出来ないと思い込まされてしまったこと、そして師を超えることが出来ないという無意識の思い込みによって、人類の成長は止められてしまったんじゃないかという気がします。
2500年前の仏陀を超えている人は、今結構多いんじゃないでしょうか。
今は、そこから更に進んで、煩悩を否定せずにエゴを出さないという次のステージなんじゃないかと思います。
(2020年9月5日)
先日、洗脳を解くには、ということで書きました。
以前も何度も書いてることなのですが、歳をとるにつれ、人間って本当になーんにも知らない、という思いがどんどん強まってきます。
どんなに勉強しても本読んでも、人間のたかだか数十年の人生で得られる知識って、もう砂粒くらいのもんです。
それに気付いた時、一時的に虚無感というか目の前にあるのに見えないものの大きさに圧倒されるのですが、焦ったり心配する必要は全く無いのですよね。
自分は何も知らないということを認識していると、不思議と自分にとって必要なことがその時々で必ず用意されます。
それは誰かのブログだったりニュース記事だったりふと見たビルボードだったり。
まず、自分が何も知らない、と認識すること。それだけ。すると無限の智恵にアクセス出来るようになる。そう思います。
知っているというエゴから離れて謙虚になること、ですね。
偉そうに書きました。
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