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おっさんだけど、仕事辞めて北海道をチャリ旅するよ\(^o^)/ Vol. 05 間抜け

2024 0618 Tue
 
ときは1960年代末から1970年代初頭。日本ロックの創成期、京都に『村八分』という伝説のバンドが存在したそうです。大阪のロック好きの1人の不良少年、当時の言葉で言う“フーテン”が、京都のライブハウスにこの『村八分』を観に行ったときの話です。期待に胸躍らせたフーテン少年は、ライブが始まる前に用を足そうと、便所のドアを開けました。すると、その拍子なのか、鍵を閉め忘れた先客の青年がケツ丸出しで便所の床に転がってしまったのです。ラリっているのかなんなのか、明らかに様子のおかしいその青年は、ケツ丸出しのまま右手を少年の方へと伸ばし、そしてのんびりした声でこう言ったそうです。
「兄ちゃん、起こしてくれや」
便所の床に転がったのが『村八分』のリーダー山口冨士夫、フーテン少年が中島らもです。
わたしはこのなんとも言えないエピソードが好きです。山口冨士夫の間抜け具合と、それすらも格好良いと感激する若き日の中島らも。よくわかりませんし、わかる訳がないのですが、それでもなんとなくわかるような感じがする、そんな出鱈目な話です。

出鱈目といえばインドですね、ぶっちぎりで。こんなの、道でもなんでもないですから!


今朝、ボランティアリーダーのコバヤシ氏と感動的な別れを経て、そしてまた旅を再開したわたし。朝夕、幾度も通ったデコボコの道路を荷物満載のチャリで通過しつつ、これまでの日々に想いを馳せます。
11日前、激しい衝撃とともに走った道路は、いまではすっかり見慣れた光景に変わりました。カメラを向けることはおろか、ジッと視ることさえもはばかられたあの日あのとき。いまは、そうは思いません。部外者ながらも、
「この光景って、いろんな人、多くの人が視たほうがいいんじゃないか」
そう思ったりもします。震災の爪痕、倒壊家屋の写真だって撮ります。だって、わたしは珠洲では “興味本位の余所者” ではないのですから。
※興味本位の余所者が写真を撮ってもよいでしょうが…。やはり配慮は必要です。

どんなカタチでもよいから、現地に行って視てみるのがよいかもしれません。もう少し時間がかかりますが、そのうち観光業も復活するでしょうし。


海沿い、山間部。これまでとは違った視点で能登半島の現状を視ながら、チャリを漕ぎ進めました。約60km離れた穴水町の丘の上のドン詰まりに、震災で無人となった観光施設を見つけ、そこを今夜の宿にすることに決めたわたし。人が通る気配がないこと、屋根があること、風がないこと、虫が来ないことに気を良くしつつ、椅子を出し、一服。近くを通りかかった老夫婦に挨拶し、お父さんに銭湯の場所を教えてもらい、そしてボチボチ暗くなってきたしテントでも立てて、と…。
愕然としました。何度も探しました。落ち着け。自分に言い聞かせました。そんなわけない。そうも思いました。
テントのポールが無いのです。どこにも…!

穴水の漁港もダメージが大きそうです。この船も、稼働している様子はありませんでした。

とりあえず得意の現実逃避で、銭湯に行きました。そして、すっかり暗くなった野宿場所に戻り、ようやく現実を認識しました。
“おれは、テントのポールを珠洲のキャンプに置き忘れたのだ”
間抜け。本当に間抜けです。しかも、致命的な間抜けです。しかし、やってしまったことはしょうがない。わたしはコバヤシさんに電話しました。電話に出なかったので、メールで内容を送信。少しして、電話がかかってきました。
「青い袋に入ったポールですか?」
「そうそう、それそれ!」
わたしは続けてこう言いました。もちろん弁明などはしません。
「もうボチボチ気付いとると思うけど…。ほら、おれってマジでアレやから…」
その後、穴水までポールを届けてくれるというコバヤシ氏の有り難い申し出を必死にお断りし、わたしはこう言いました。
「空身(からみ)やったら珠洲までの往復なんか楽勝やからよ」
この野宿場所はたぶん完全にSafetyなので、ここにすべての荷物を置いて、空身で珠洲のキャンプに戻り、そしてポールだけ積んで帰ってくるのです。その距離、往復120km。いまのわたしなら、実際に問題のない距離です。

これ、海の彼方にうっすらと見えているのは、立山連峰なんですよね。結構すごい景色ですよ、ここらの海沿いの道。バイクなんかでもおススメですね。


6時前に起きて、朝食をとり…。荷物を仕舞って1箇所にまとめました。いままではツーリストとしてチャリを漕いでいましたが、今日はライダーとしてチャリを漕ぎます。サングラス、いやアイウエアを装着し、いざ出発! 気分も車体も軽やかに、チャリは朝の能登半島を滑らかに走ります。
7時に出発して11時過ぎには珠洲に戻ることができました。自身のライダーとしての能力に満足しつつ、キャンプ場の受付を訪ねると…。
驚きました。受付で渡されたポールは、キャンプ場の常設テントのポールだったのです。つまり、珠洲に行く前に野宿した輪島でポールを置き忘れ。そのまま珠洲でボランティア開始。珠洲では常設テントに泊まっていたので、自分のテントのポールを輪島に置き忘れたことに気付かなかったのです。しかもボランティアは10日間。輪島の野宿場所にポールがそのまま残っているわけはないでしょう。わたしの常設テントの前室に置かれていた青い袋に入った予備の常設テントポールを、わたし個人のテントポールと見間違えても、それは仕方ありません。
「いや、山岳用テントのポールがそんな太いわけないやんけ!」
などとコバヤシ氏に突っ込んでも、違いがわかるはずがないのです。

結局、ここにポールを置き忘れたのですが…。いま考えても、「さすがにそんな間抜けなことするか?」と思います。でも、わたしってそういう人間なんですよね。


穴水町への帰り道、がっくり肩を落としてチャリを漕いでいると、後ろからクラクションを鳴らされました。振り返ると、見知った顔が笑顔で手を振っています。ボランティア仲間の車列でした。慌ててわたしも笑顔を作り、手を振りました。そこにコバヤシさんは居なかったのですが、あとで受付の人から顛末を聞いたコバヤシさんはどう思ったのでしょうか? 
いつか再会したとき、聞いてみたいものですな。

いつになるか、どんなカタチになるかわかりませんが、また行くことになるでしょうね、能登。


P.S.
山口冨士夫が亡くなる1年くらい前でしょうか、高円寺での彼のライブに行ったことがあります。開演前にふらりと客席に現れた冨士夫氏。暗がりの中、両脇から2人に抱えられてようやく立っていた彼は、それでも一目で “あっ! 山口冨士夫や!” とわかるくらいのオーラを放っていました。

結局、氷見のキャンプ場に荷物を置いて、そこから30km離れたモンベルショップに走って新たにテントを購入しました。ムーンライト1。なかなかに最高のテントです。さすがモンベル!


 

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