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「大学とは何か」をシリーズ化する試み#1 フンボルト理念しか勝たん

どうも見る目薬です。
これは大学職員が様々な視点や情報を元に「大学とは何か」を考える試みです。私一人ではなく、ぜひ読んだみなさんも考えてみてください。

今日はみんなだいすきフンボルト理念を金子先生の著作から引用して紹介。

先日stand.fmで「大学とは何か」第一弾について話しました。
色んな大学生がいる中、大学に共通する特徴は何か?という切り口で。

Podcast的に話すと砕けた、発散した発信になってしまうので、
noteで文章としてまとめようと思います。

いい意味で薄っぺらく、noteのUIを活かした読みやすい構成を心がけます。
テーマが重すぎてそうせざるを得ない


フンボルト理念はすごいんだ

フンボルト理念が指す内容について引用する前に、日本の高等教育の世界においてフンボルトがどのように認識されているのか、というストーリーを少しだけ紹介してみます。

以下は2005年の中教審答申「我が国の高等教育の将来像」、
「2.新時代の高等教育と社会」より抜粋した文章です。

19世紀ドイツ以来の「フンボルト的大学観」は我が国の大学の在り方に大きな影響を与えてきたが、大学人を第一義的に研究者であると自己規定し、研究成果の披瀝が最高の教育であるとする考え方は、主として少数エリートに対する教育を想定して成立するものであり、21世紀の今日では歴史的意義を有するに止まるのではないか。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1409860.htm

2005年時点でフンボルトの大学観はもう古くね?
と打診されているわけです。もう古くね?と言及されているだけで、それまでの大学への影響がうかがえます。このあとオルテガ等の大学観が紹介され、フンボルト理念が全てではないことが強調されています。

今後の大学は教育と研究に注力してさえいればいい、という理念では通用しない。今後は社会との接点を意識した大学の定義、大学経営が必要である。18歳人口に占める大学生の割合が急増してもなお、やれ学問の自由、やれ大学の自由が通用すると思うな?そう釘を刺されているのかもしれません。

そもそも、2005年の「将来像答申」は21世紀の知識基盤社会を「国の高等教育システムや高等教育政策そのものの総合力が問われる時代」と呼んでいます。高等教育が象牙の塔に閉じこもらず、積極的に社会との接点を持ち、社会に役立つことを求められていたのです。

思想史風に言えば、近代の大いなる物語からの脱却、ポスト近代への適用、新時代の最適化。煮詰まった現代社会を変革する。その道具として、高等教育政策・システムの見直しが図られたと考えられます。


これがフンボルト理念だ

私の印象では、込み入った大学論の著作には大抵顔を出す理念です。

しかし一般的に言われるフンボルト理念についてきちんと説明した著作は意外にも少ないです。所与のものとして話が進んでしまうことがほとんど。

フンボルトは1810年に設立されたベルリン大学の創業者の一人。当時のドイツ(プロイセン)が近代国家建設にせっせと取り組んでいる中、哲学者たちは「国家と文化(人間や社会の意味の体系)を一致させよう」と考えます。文化は理性の探求によって形成されるので、それを支える「学問の自由」が強力なイデオロギーになっていきました。この思潮がフンボルト理念です。

金子元久先生は『大学の教育力』でフンボルト理念に簡潔に、しかし重要な点(大学における学習過程に関する点)を抑えて紹介されています。正確には「ドイツ観念論者の教育理念」です。「陶冶」とも呼ばれます。以下、引用をどうぞ。

①教師はまず研究者であり、その心身を真理の探求にささげている。それは常に知的・創造的な過程であるのと同時に、その価値は常に客観的な真偽によって裁断されるから、人間に高度の道徳性を与える。こうした意味で研究者であることによって教師は学生に人格的な影響を与える
②講義において教師は、乾燥した知識の集積を教え込むのではなく、自らの研究の体験から真実を探求する知的興奮を再現しつつ学生に訴える。学生はそれを追体験することによって、疑似的に積極的な知的探求を行い、その成果を体得する。
③学生自身もまた一人の真実の探求者として、書物に向かい、そこに盛られた知識の体系と格闘する。この活動は孤独でなければならず、それによって思考や論理の枠組みが形成される。同時にこれもまた孤独な、真実にむけての謙虚な営みであり、そこから高い道徳性が獲得される。こうした学習過程の捉え方からすれば学生の学習は全く自主的でなければならず、強要されてはならない。ここから学問の自由(Lehrfreiheit)の対概念としての「学習の自由」(Lernfreiheit)という概念が生まれる。

教員は教師である前に、何より真理を探求する研究者として教壇に立つ(学問の自由)。学生は「全く自主的」に、書物との格闘や教師の追体験を通して研究の手法や文化を身に着ける(学習の自由)。

フンボルト含むドイツ観念論者は、教師と学生の姿勢を極めて誠実に描き出しました。


【所感】現在の大学とフンボルト理念

ここからは私の所感です。

① フンボルト理念は大学が大学たらしめる価値そのものである。

これこそ大学という理念、大学が体現している・体現すべき理念だ!と叫びたいんですよ私は。いくら社会と時代に揉まれても変わらない大学の価値はフンボルト理念なのでは?と思ってしまうほど。

もちろん、今となっては古臭い考えも染みついています。前提として、真理の探求が人間の理性・精神を解放すること、またその必要性が何の疑いもなく肯定されていました(百科全書主義)。しかし古臭かろうと、間違いを孕んでいようと、事実として根を張っているしぶとさが今を生きるフンボルト理念の特質です。

学問的文化を育むための積極的な徒弟制。学問と学習、2方向の自由。これらの構造や価値を否定できる大学人は少ないと思います。古い大学像を保守する立場でなくとも、大学人としての心に「グッ」と熱いモノを感じるはずです。伝われ。

だからムキになって「フンボルト理念は古いの!ほら社会を見て歩いて!そんな古本捨てて!!」と外部から急かされうっかり捨ててしまうと、ポスト近代を彷徨う理念なき大学、廃墟の中の大学を完遂してしまうことになる。大学は目の前にぶら下がった人参を追って一生を終えるお馬さんであってはならない。理念を腹に据えた自律的共同体でなくてはならない。

何より大学が準拠できる指標や価値観は簡単に代替できるほどヤワではないのだ。この辺は評価論の立場からいずれ紹介したい。


② フンボルト理念は急進的なポジショントークに巻き込まれがち

現代におけるフンボルト理念は利用され破棄される場所に存在しています。

例えば「自分の教育観を強調する」ためにフンボルト理念を利用する。
大学は研究者の背中を見て研究を体感する場所であり、学生は自主的な努力が求められる。よって私はただもくもくと研究さえしていればよい。と勘違い甚だしい教員が出てくる可能性があります。だってフンボルトが言ってたんだもん!!と、フンボルト理念の一部を拾って隠れ蓑を作ることができる。

大学の価値そのものとなり得るフンボルト理念が、誤った認識を助長させ、大学を自己破壊へ導く危険をはらんでいます。だから可能な限り、正しい理解へ漸近しようとする姿勢が欠かせないのです。自分のポジションを超えた理念への隷属、私はそこまで悪くないと思います。

最後に

フンボルト理念は「古典的学問観の担い手としての大学」に必須で、かつての帝国大学、エリート主義の一流研究大学に見られる理念とも捉えられる。大学進学者の大衆化が進んだ現在、目指すは新しい現代的大学像かフンボルト理念への回帰か。

以前noteに書いたように、私は大学を古典と流行のブレンドとして定義したい。しかし古典という拠り所を大学のアイデンティティのために重要視すべきとも考えています。

真理を探求する志向から感じ取れる古臭さと歴史は表裏一体だ。そう簡単にぬぐい取れるものではないのではない。そう思いました。


ここまで見ていただきありがとうございました。
フンボルト理念は勉強すべきテーマの一つ。また何度か書くことになるはずです...。
次回は日本の大学史から「大学とは何か」について考えませんか。


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