墓 沖縄 3日目

3日目はまとめということもあり後半文字が少し多くなります。


榕樹書林・墓の本

9:15くらいにホテルをチェックアウトする。

車を走らせて「榕樹書林」に向かう。
古本屋さんではあるが沖縄の郷土資料中心に本を出している出版社でもある。


入り口の写真でなんとなく分かりそうだがお店の中が本当に本が山の量程積まれていて体をひねらせながら棚の間を移動する。
店主らしきおじいさんと若いお姉さんの店員さんがいる。
郷土資料専門の古書店と書いてある通り興味を惹かれるタイトルがいっぱい目に入る。
遺跡発掘時にまとめられたレポートや(私はこの手の資料を見るのがとても好きで遺跡のことがよくわからなくてもたまに旅行先の古本屋で見つけると、お土産代わりに買ったりしている)この出版社が出している本、沖縄の郷土知識がぎゅぎゅと詰められているような空間になっていた。
ジャンル分けも店に入り始めたときはなんのこっちゃ分からんだったが、店内をゆっくりうろうろしているとなんとなく分かってきた、が、墓についてピンポイントに書いてある書籍はなかなか見当たらない。
レジ、というよりもただ本が積まれていない場所の奥には店主が座っている。山から身を乗り出して「すいません、沖縄の墓について書かれている本はありますか…?」と聞く。
ちょうどレジ前の棚あたりを指差して「この辺に…『南東の墓・シンポジウム』っていう本が…ベージュの色で…あ、もっとこっちかな」と口頭で操作されるも当たり前だがこの本の数では難しい。
(店主のおじいさんがここに来れば済む話だが、それが出来ないくらい山積みの本に囲まれているので声で指示してもらっている)

本の背に両手を当てて、「ここですか?ここ…?」と聞くが「も〜ちょっとこっち…」「ここですか?」を繰り返すだけで一向に見つからない。お互いにちょっと面白くなってきたがついに店主が立ち上がり直線距離ではかなり近くにいたが本の壁があるので、ぐる〜〜っと棚のまわりを遠回りしてこちらにやってくる。
「す、すいません…」と言った途端「あコレ!」と言ってサッと私の手に本を渡してくれた。たしかにベージュの本。
パラパラとめくると、私の知りたいことしか載っていない本だと直感でピ!と分かった。同行者にプレゼントをしてもらった。


BOOKSじのん・どらえもん

店を出るとパラパラぽつぽつと雨が降り始めてきた。
次は「BOOKSじのん」に行く。


ここも古本屋さんで、先ほどの榕樹書林ほどの密度はないがお店が広い。雑誌とか漫画もあった。とにかくいろいろ。

奄美、沖縄関連の書籍も置いてあった。
そこでは特に本は買わず、外では雨が急にドシャドシャ降りになってきたので走りながら車に戻る。おみやげとかあったら見ようかな〜と国際通りまで行く。
ちょうど12時になりそうなのでまずうま飯屋を探す。
雨は移動中にもう弱くなってきていた。
そういえばまだソーキそばを食べていない(別に食べることが必須ではないんだけど…)ということに気付き店を探す。
「どらえもん」という店が近くにあるのでそこに行くことにした。

名前の由来は知らない。
おいしかった。

ありがとうパーク…


市場の難破船

適当に近くでお土産を買って、市場中央通りに移動する。


市場内で売っているレモンジュース屋さんに行ってみたくて到着するも、店が13時からとかでやってなかった。


ま〜(そもそもレモンなどの果物は大の苦手なのでアイスコーヒー目当てだったし)いっか!となって市場をふらつくことにした。

1階が市場エリアで、2階にご飯屋さんが連なっていて、店の前に簡易的なテーブルとイス、そこでみんなわちゃわちゃと魚を食っている。
すごい人だ。お造りの乗っていた船がところどころで難破している。

お客さんはおそらくみんな観光客なんだろうが異様に外国人が多く、ここだけ多数の文化が入り混じっているのに食べているのは新鮮な寿司や丼ものなので、独特のごちゃごちゃ感が出ていた。自分がいまどこにいるのかがあやふやになる。足元に小さい船があるし、店前のテーブル・イスセット空間以外のベンチでも外国人がなんかを食べている。見ているだけで情報量が多いのでさらにおなかいっぱいになってきた。市場を出る。


市場のまわりは商店街のようになっており、行きたかった本屋もそこにあるので散策しながら向かう。


「市場の古本屋 ウララ」に到着する。

小さな本屋さんだけど中は選びぬかれた古本が置かれていて、さっきまで郷土関係の資料が所狭しと積み上がった空間にいたり、大量の古本が置かれた広い店にいたりしたので、規模的になんだが人の本棚を覗き見ているような気持ちになった。お店がコンパクトなので商店街の通りに面している部分にもはみ出るように本が置かれている。
魚図鑑を買おうと思ったがおみやげ等で荷物が結構あったのでやめてしまった。中のデザインがとてもよかった本だった。今でも思い出す。手に入らなかったもののことのほうが頭にこびりついちゃうのなんだが恥ずかしいけどそういう残り方もいいかなとか思ったりしてなぐさめた。
正直榕樹書林で買ってもらった本1冊でかなり満足してしまった感は否めない。

今日の本屋巡りはここで終了。
これからまた墓巡りをする。今日は東京へ帰る日だが、飛行機は遅い時間にとっているのでまだ遊べる。


伊是名殿内の墓のおばさん

市場中央通りから車で30分弱のところにある「伊是名殿内の墓」に向かう。

目的地に近づくにつれて、街並みがめちゃくちゃ目新しくなってくる。
走りながらちらっと見える標識の地名にはやたらと「新都心」の文字。
建物も、東京で見るようなマンション・ビルになんとなく似ているような、似ていないような…とにかくこのあたり一体が「あたらしい場所」なのかな?とぼんやり思う。

車道から目的の墓は見えない。Google  earthで下見をしていたので知っていた。一度降りてちょっと歩く。真新しい公園のなかにどうやらあるっぽい。入り口を見つける。かなりデカい。
デカいし、かっこいい!


見た瞬間、誰も周りにいないし、墓に見合う声でも出しとくかと思って「でっけ〜!!〜〜!け〜…」と言ってしまった。が、入り口の岩陰におばさんが座っていた。
白いカーディガンに白いパンツ、なのに地べたにどかっと座っている。

ギョッとしてしまった。見た目は小綺麗な普通のおばちゃんなんだが私から見た登場の仕方がまんま幽霊だったので目をまん丸くしてしまった。
でもタバコ吸ってるし、休憩してるのかな…そういうことにしておばあさんを通り過ぎて墓の目の前まで歩く。
めっちゃデカい。目の前に立つとデカいカメックスに襲われるような感覚になる。(そのような経験は無い)
ディズニーランドのあの方式で、奥にあるものが立ち上がっていると圧迫感が強い。うしろを石垣で囲まれているので余計に。
墓の後ろにでかでかと「那覇市消防局」の文字が見える。情報がでけ〜

私から見て墓の右側には小さな祠のような場所がある。

これは土地の神「ヒジャイ」を祀るためのものらしい。庭フリースペースのようなところの、私側から見て左側の地面には、穴ぼこのようなものがある。(写真を撮りたかったがフォルダにないってことはこの近くにおばあさんが座っていたんだと思う 撮れなかった)この穴は葬儀に用いた用具等を処分するための穴。使い回さないんだな〜

案内書きを見るに、入り口をズラしたり、墓の真正面に無いことはマジムン対策というよりかはヤナカジ(悪い風)が直接墓にあたらないようにしているらしい。
どちらにしても風水からくる知識でこのような構造になっているみたいだ。

おばさんが休憩場所として選ぶのもなんとなく分かる。ちょうどいい静けさと広々感があるが、石垣に囲まれているので程よい閉塞感もある。じっと座って誰とも会わずに、この庭でぼ〜っと出来たらしあわせだな、人の墓ですが…。

そう考えるとおばさんの貴重な休憩タイムを邪魔してしまったかな…とウッと思ってしまった。この墓から出ようとしたとき、おばさんが私に話しかけてきた。「オッ」と思ったが「大きいでしょ〜」とかなり気さくに話しかけられたので「デカいですね…この近くにお住まいなんですか?」と会話を続けることにした。


女性の役割について

「そう、でも最近までこの辺り一体立ち入ることが出来なかったの、米軍の土地だったから。返還されてから私たちが住めるようになったから建物がここら一体きれいでしょ。」
「はい、きれいでした。だから新都心って地名についているんですね」
「そ〜、土地が返されてからみんな建った建物なの。」
「お盆のときとかここに親族の方が集まったりするんですか?」
「そりゃもうね、お盆だけじゃなくてそれ以外でも集まったりするときがあるんだけど…」
「清明祭ですか?」
「そうそう」
「それっていつ頃なんですか?」
「ん〜春頃かなぁ」
「へぇ〜」
「もうね女の人が大変なのよ、なにせ大勢集まるから準備とか」

この話をされたときに、沖縄に移住した人からも『女性の仕事がかなり多くて大変エピソード』を聞いていたりしたので、ほ〜そうなんだ〜と思った。
それから芋づる式に思い出したのが、ホテルの近くの本屋に行ったときのこと。
そこにも郷土関係の本コーナーがあったので見ていた。
平積みされているのは『沖縄の冠婚葬祭』『清明祭のマナー』など地元の人が元々知っていそうなこと(それは偏見です)が書かれた本などだった。
よくあるマナー本かな?と思いパラパラめくると、教科書か?っていうくらいになんだか小難しげなことがいっぱい書いてある。
長男が墓に入った場合はどうするとか、次男が先に死んでしまった場合はどうするとかの数々のパターンが図で描かれた継承問題についてなど、葬儀にあたっての準備、清明祭のときには重箱に何を用意してどんなふうに盛りつけるのかなど…とにかく覚えることがいっぱいある。
で、清明祭以外にも先祖供養のための御願(ウグヮン)イベントが多数ありそれについてもいろいろと決まりやマナーなどがあるのでそんなようなことが書かれた本など…確かに女性は親族同士の集まりがこうも多いと大変そうだな…と思う。沖縄に移住した人は、「基本的にそういう集まりのときは女性がメインになって動く」と言っていたのでかなりやることリストがぎっちりなのだろう。

私は都会人間なので親族間の関わり合いが薄く、そういう冠婚葬祭の知識についてはまるでゼロだ。だが無知な私でも沖縄の冠婚葬祭イベントについては、地方のめちゃくちゃ大掛かりでたくさんの人が参加する冠婚葬祭イベント諸々の超難易度版みたいなイメージを持った。
激ムズって感じだ。

そのようなことをおばさんと話しながら思い出した。
「ありがとうございます」「いいえ〜」のやりとりをした後、「伊是名殿内の墓」を後にする。


玉城朝薫の墓

このあと向かうのは車で15分くらいの「玉城朝薫の墓」だ。
助手席でマップを見て、付近まで来ても気付いたら何故か通り過ぎてしまう事象が何度か発生し、少し迷子になった。
どうもおかしいと思い通り過ぎた道路を振り返ると、マジで存在感の薄いコレ

が立っていて見落としていたことに気付く。
車だと振り返ることが出来ないため、そのまま近くのでかいスーパーに休憩がてら入ることにする。ふつ〜のスーパー。それなら“アレ”があるのでは…?とポーク卵おにぎりを探す。
おにぎりコーナーを見ても、見当たらない…あれ?あれ?と思いつつ辺りを物色していたら謎の色とりどりフードを見つける。

商品名を見たけど忘れた。和菓子のコーナーに置いてあったのでそのくくりにあるモノなんだろう。飲み物を手にしてまだあきらめがつかないので惣菜コーナーをふらつくと念願のポーク卵おにぎりがあった。大きなスーパー特有のイートインスペースでそれらを食う。

スーパーを出てそのままササッと玉城朝薫の墓まで歩く。
どおりで通り過ぎまくっていたわけだ。
車両が通るトンネルの、その上に墓があった。

トンネル脇の階段をのぼって、草の茂る小高い丘の上のような場所につく。
この墓について到着時私が持っていた知識といえば、『琉球に昔からある劇「組踊」の創始者が葬られている場所』というくらいしか無かった。沖縄に来る前にこの墓をインターネットで見つけたとき、沖縄の舞踊かなんかをやっている人のブログの「お参りに行きました!」の投稿を見た気がする。Twitterだったっけ?忘れた。
とにかく舞踊に関係する人なんだなという知識しかなかったので、これを書きながら今玉城朝薫のwikiを見ている。

この墓は「玉城朝薫の墓」という名称にはなっているが、実際にはたくさんの厨子甕が納められている。
戦災により墓室が一部破壊されたため正確な人数は分からないらしい。そもそも当初は下記のとおり玉城朝薫本人はいなかったという。

玉城朝薫は首里石嶺町にあった、俗に「一ツ(一人)墓」と呼ばれる個人墓に葬られていた。1899(明治32)年に前田の墓の厨子甕整理が行われたらしく、その際に石嶺の墓から朝薫の厨子甕が移葬されたと推測されている。移葬後、一ツ墓は空き墓となったが昭和初期まではまだ残っていた。王国時代、個人墓はハンセン病患者など特殊な事例に限られており、朝薫が個人墓に葬られたのは当時としては異様な出来事であるが、なにゆえそうなったのかは不明である。また、厨子甕の銘書から洗骨が死後71年後の1805(嘉慶10)年であったことが判明しているが、これも通常の洗骨年(3~7年)から考えると異例である。
「玉城朝薫の墓」(2018年1月8日 (月) 11:25  UTC)
『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%9F%8E%E6%9C%9D%E8%96%AB%E3%81%AE%E5%A2%93

このwikiを読んで一般的な洗骨年を初めて知った。遺体が白骨化するまでどれくらいかかるかはその場その場の環境によってもちろん違うだろうが、71年後に親族の誰かが思い出したのかたまたま見つけて綺麗にしとくかとなったのか、いろいろと気になるところだ。

墓室内は大体4畳半ほどの広さ、分かっている範囲で厨子甕は24、5基あるという。

トンネルの上なので下には通り過ぎる車が見える。
ここに葬られた人たちはまさか真下を車がスイスイ通り過ぎるなんて思ってなかっただろうな。とはいえ案外ここは静かだった。

墓室の入り口の左右の石垣は緩やかにカーブしながら広がっている。独特な形から、亀甲墓の祖型になったものでは、と言われているが正確には不明らしい。
今まで見てきた墓は墓室の入り口まわりはカクカクとしていた印象だったので、曲線がきれいな墓だな〜と思った。


足がキモイ

見終わってから先程のスーパーの駐車場まで戻るが、両足がめちゃくちゃかゆい。草がいっぱい生えてたし、カサカサ触れてかゆくなっちゃったのかな、肌弱いし…だがあまりにもかゆみがおさまらないので両足を確認すると、(私は夏で散策をするというのにアホだから膝丈のすずしげワンピースを着ていた)ありえないほど虫に刺されている。
玉城朝薫の墓にはたかが15分も居なかったはずだ、なのに両足で22箇所も刺されている。
3時間あそこに突っ立ってたらこんな両足になるのは分かる。けれどものの15分、本当に感覚もなかったし手で払ったりしていたのに…
今年の夏は暑過ぎて蚊が活動出来ないらしいよ、あっだから今年は全然刺されないんですね〜という会話をしていたはずなのにひと夏分の蚊に刺されを一度に体感してしまった。くやしい。
それに加えて両足がキモすぎる、タコと人間のハーフの足?かゆみよりも見た目のインパクトがヤバすぎて慌ててかゆみ止めを買おうとポーク卵おにぎりスーパーに泣きつくようにして戻るもムヒも何もない。虫除けスプレーしかない。
両足はかゆいし、くやしさは増すし、なんかよく分かんなくなって全てが起きた後なのに虫除けスプレーを買って全身にふりかけた。全く意味は無い。

車に戻り次のルートをナビに入れようとするも常に両足を両手ではたいていないとやってられない。そんな状態で沖縄旅行最後の史跡「浦添城跡」に向かう。


浦添城跡内の「浦添ようどれ」

これ最後までこんなタコと人間のハーフみたいな両足なのかな…と思って10分程たったあたり、もうすでにかゆみを忘れていた。30分後、浦添城跡に到着した頃、思い出したように両足を見ると、先程まであんなにもキモかった両足が元に戻っている。
あんなに驚いたのは久しぶりだ。さっきまでのタコ足が幻覚かと思った。まぼろしレベルの蚊に刺され。
もしかしたら私には普通の足に戻っているように見えているかもしれないが、まわりから見たらタコの足になってしまっているのかもしれない。

あまりにも跡形も無く消えてしまったのでさっき証拠として撮った写真を見返すがやっぱり私の両足は元の状態に戻っていた。その現象もキモすぎる。


浦添城は、首里城が出来る前に造られた巨大なグスク。のちに王都が首里に移されてから浦添城は荒廃する。
沖縄戦で結構めちゃくちゃに壊されて跡形もないほどにまでなったが、戦前の写真等、残っている記録をもとにして復元された。一度に全部復元されたわけではなく、戦後5年後に琉球政府によってまず厨子甕が納められている石室が復元される。その後周りの石垣などはつい最近の2005年になってようやく復元された。

城は丘陵を登った断崖の上にある。

その防衛に適した地形から沖縄戦では首里周辺の重要拠点として重視された。日本軍は防衛拠点に位置づけ死守に拘ったため、米軍との間で前後11回にわたる激しい争奪戦、攻防戦が約3週間の間繰り広げられた。

「浦添城」(2018年10月3日 (水) 13:14  UTC)
『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%B7%BB%E5%9F%8E


この攻防戦があった断崖はHacksaw Ridgeと呼ばれている。

この浦添城の丘陵をのぼる前に、敷地内にある「浦添ようどれ」という墓を見に行く。「ようどれ」の単語の意味が分からなかったが琉球語で「夕凪」を意味するらしい。海辺の風がおさまり、静かで穏やかになる状態のことだが、それが王墓を形容する言葉になったらしい。

浦添城跡ふもとの駐車場からようどれに降りる階段がある。降りた先にすぐ墓(石室)があるわけではなくて、

前庭からトンネルのような「暗(くら)しん御門(うじょう)」をくぐり、二番庭から一番庭へ行く。石室は2つあり、右側が英祖王というエライ人、左側が尚寧王というエライ人の墓。
1265-1274年に英祖王が築き、その後尚寧王が改修し自身もここに葬られた。

手前の英祖王の石室しか写っていないが奥にもう一つ扉がある

今現在は暗しん御門の天井部分だった岩は沖縄戦で崩れて無い。トンネル状にもなっていない。かつての薄暗くてひんやりしたトンネルは「あの世へつながる道」的なトンネルとして在ったらしい。


バラを植える余白

この旅行で墓をたくさん見て思ったことは、まず亡くなった人が安らかに眠れるように葬るのが大前提としてあるが、残った人の心持ちを保つ為というか、時間が経過するにつれて絶対に忘れていくこと、それらに対しての様々な対策をとっているように思えてきた。

暗しん御門のトンネルもそうだが、そこを通った先と、さっきまでいた場所(ここでは前庭)は「同じ場所だか違う場所ということにする」という生きている人間の心持ちをつくっていく感じ、亀甲墓を目の前にしたときにまわりを石垣で囲まれその場にいる生きている人間に対して大きく迫ってくるような墓など…亡くなった人間をどう葬るかも重要だがそれと同じくらいに、生きている人間が死者に対してどんな態度を取っていくべきかが建築物によって明確に表されているような気がする。

空間を区切ったり、見えないモノ(マジムンやヤナカジなど)に対して「風水という学問があるから共有出来る知識」をみんなが持っているからこそ人々が死者に対してだいたい似通った意識を持つことが出来る。
もともとある死者へのなんとも囲いがたい気持ちが建築物・風水などによってさらに強固なものになっている。

「墓という物体を介して死者を弔っている」というよりかは、「墓の存在しているそのあたりの空間一体をまるごと死者と生者のための空間にしている」ことが、私が惹かれる理由なのかもしれない。
東京でよく見る塔式墓に対しては前者のイメージが強かった。沖縄の墓を見るまでそのイメージしか無かった。

毎年正月に墓参りについて行っている。墓は東京にある。
水をかけて新しい仏花を供えて、伸びた雑草を抜き、ある程度やるべきことを終える。そうすると祖母は毎年決まって、石畳と墓の隙間、土が露出した部分から伸びたバラを指差して「私が植えちゃったのよ 地味な花ばっかりでいやだから」と自慢げに話し始める。墓地でガーデニングすなと毎年思うが、お寺の人と仲良さそうに話すところを見るとまあ大丈夫なんだろうな、と思う。

毎年石畳の隙間から生えるバラを見ていつも「このバラは墓参りにくる祖母が自分のために植えているのか・いつかここに入るときのために祖母は植えているのか・既にその中に眠る人のために植えているのか どれなんだろうなぁ」と思いながらバラの自慢話を聞いている。
実際のところ祖母のことだから、そこまで深くは考えていないと思うしどれでもいいと思う。

何が言いたいのかと言うと、その場所に「余白があること」がそのときふといいことだなと思った。狭い広いのスペース的な余白と言うとちょっと違う。もちろん、スペース的な余白がないとそもそもバラを植えられない。それだけではなくて、「バラを植える」等の生きている人が手を施す余地だったり、そのバラの調子を見るためにたまに通ったり、「墓参り」という行動だけでなくて「ついでにしとくか的イベント」が発生する。

沖縄の墓にはその余白が多くあるのが良いと、私は思います。

沖縄に行ってたくさん墓を見ればなぜ墓が気になっているのかをちゃんと、もっと言葉に出来ると思っていたのに簡潔に表すことが出来ない。だからこんなに、全てを思い出しながらダラダラと文章を書くほかない。


墓という物体?

「そのあたりの空間一体」と言ったがもちろん物体も必ず重要な役割を持っていて欠かせないものだ。ただ広い空間があっても心持ちを向けるオブジェクトとして必要だ。(この「心持ち」という単語に頼っているような気がするけどそのまま書く)

でも本来ならば死者そのものに対して弔いの気持ちがあれば良いだけなのに、場所を用意し、部屋を造ったりしているのはひとつフィルターを通すことになるから死者との距離が少しだけ遠くなるのでは?とかなり単純だが一瞬だけ疑問を抱いた。

ということを考えているときに、キリスト教の「イコン」の単語を思い出したので何か今考えていることのヒントがあるかもと思ってwikiを見る。

思いや考えを託す器としてのイメージ(イコン)は、託されたものを表現する働きも持つため、器(イメージ、すなわちイコン)の破壊は器に盛られているものの破壊に通じると考えられる。ここでいう「器」は、具体的には伝統的なイコンの技法、既定された色や構図であると整理される[20]。

「イコン」(2018年10月14日 (日) 18:19  UTC)
『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3

そんな意識があったはずでも、一切の宗教画を用いないイスラムに影響されて聖像破壊運動などのうごきもあったという。ふ〜ん
宗教についてはあまり深く調べるとなんのこっちゃ分からんになってきちゃいそうなのでこのくらいに…
そんなようなことを読んでいても、あまりピンとこない、なぜ?

そもそもよくよく考えたら、沖縄の墓は塔式墓とは違い「死者を骨にするターム」をこなすための空間でもあったから、必然的にあのような見た目形になったのだと思う。私はこの文章を書いている頭のほうでは、石垣にかこまれた庭の中にあるものを「墓という物体」として捉えていたが、今書きながら思った、「墓という物体」がそもそも無いんじゃないの?いや、あるんだけど、目印としての墓というよりかは空間を存在させるための部屋がある、というか…


目印としての墓について聞いた話

沖縄に行く前に、祖母と墓について会話をしていた。
祖母が住んでいた村の墓についていろいろと話を聞くことができた。
(祖母がどこ出身だったのかを聞くのを忘れました まいいか)
祖母が住んでいた村では、死んだ人間を埋めて土に還すエリアがあるらしく、そこには穴が2つあり、当然遺体をそこに埋めるのだが、土をかぶせてしまうとわからなくなってしまうのでそこそこの丸石を真ん中に置いて目印にしていたという。

木の棺に入れるのでそれも全て土に還る。
片方の穴に遺体を埋め土をかぶせる。土に還るまでに新たに人が亡くなってしまったら空いているもう一つの穴に埋める。そういう感じで繰り返していたらしい。
「もしそれ以上人が死んじゃったらどうするの?」と聞いたら「まあ交互に埋めるからその順番で隣に埋めるよね」みたいなことを言っていた。それでいいの?
「穴は新しく増やさないの?」という質問をしたと思うがなんて言っていたかよく思い出せない。が、「増やさない」的なことを言っていたと思う。

で、目印の石は一つではなく、時間の経過により転がったり移動してしまったりするらしいので以前使っていたであろうそれっぽい石が苔むして周りにある、らしい。

塔式墓については詳しく調べていないのでわからないが、こんな感じで目印としての墓石が確立されていったのだろうかな〜と素人ながらに考える。本当はどうか知らない。


浦添城跡にのぼる

なんだかまとめちゃったような雰囲気だがまだ浦添城には登っていない。
というか、浦添城「跡」なのでとくになにもない。
城壁と、登った先には広い野原が広がっていて、
とにかくありえない量のトンボが飛んでいる。なんで?????

トンボを払いのけて歩くような感じ。虫あみを一振りしたら漁網にかかった小魚のようにグワッと捕獲できるのでは?というくらいの量と、密度。
正直そのトンボのことしか覚えていないのでもう終わります。


おわります

一応これで沖縄2泊3日の旅を思い出しながら書いた文章は以上です。
ちなみに、この旅の同行者は父です。
もう何年も父とひとつの部屋で寝泊りをするということをしていなかったので、というかひとつの部屋で家族と眠るという行為自体久しぶりであったので、なんだか新鮮に感じました。

もう書きためた分が無いので台湾のはなしはもうちょっとしたらいつか。

誰がこの文書を読んでいるのは私にはわかりませんが、ここはインターネットなので誰かしらが読んでくれているでしょう。
ありがとうございます。
墓を見るという理由があれば冬でも沖縄は楽しめますので、ぜひ行くことをおすすめします。見てほしいです。
そして私に何を見たのかを教えてください。

一旦おわります

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