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悲しみの奥義

仕事で僧侶と従業員が1on1で対話する「産業僧対話」というサービスをやっている。産業僧対話の内容は会社側には一切伝えない。だから従業員は本音で語ることができる。また対話はあえて”無目的な場”としている。会社のことだけでなく、家族のことや自分の人生のことなどなんでも会話してよい。会社はどんな会話がなされているのかは全く知らされない代わりに、どんな音だったのか、音声感情解析の結果が知らされる。

音声感情解析では、「平静」「興奮」「喜び」「怒り」「悲しみ」の5つの感情を測定する。これまで200人以上の対話の音声感情解析してきた中で、着目したい感情は「悲しみ」である。産業僧対話を通じて出現する「悲しみ」の感情は、コンディションの良い社員にも悪い社員にも現れる。

「悲しみ」とはなんだろう。

『ダンマパダ』という2番目に古いお経(お釈迦様の言葉)によると、「悲しみ」は創造、利他、慈悲に続く扉であるという。従業員の声から悲しみが出ている時、「自分はこんなに苦しかったんだ」とこれまで辛くて蓋をしていた自分の心に気づいたときに悲しみがでていることもあれば、「自分の中に眠っていたアイデアや閃きに気づいた」ときにも悲しみの色がでる。自分の心の苦しみに気づけたときの悲しみは、自分への慈悲であるし、閃きを得たときにでる悲しみは、創造性へのアクセスともいえる。ポジティブなコンテキストでも、ネガティブなコンテキストでも「悲しみ」の感情は現れる。

アメリカの哲学者ティモシー・モートンは「悲しみは感情の器である」という。日本語でもかなしみは、「悲しみ」「哀しみ」、あるいは古い時代には「愛し」「美し」とも表現していた。同じように、英語でも、SadnessやGriefといったように悲しみにもいろんな種類がある。ティモシー・モートンのいう悲しみは、Sadnessではなく、Griefの悲しみ。Sadnessは短期的な感情であるのに対し、Griefは長期的な感情になる。ティモシー・モートンは「悲しみを感じることは感情の器を拡張する」とも言っている。

随筆家であり、東工大のリベラルアーツ研究教育院の若松英輔は「人生には悲しみを通じてしか開かない地平がある。人は、悲しみを生きることによって、「私」の殻を打ち破り、真の「わたし」の姿をかいま見る」(『悲しみの秘義』)という。悲しみによって開かれていく。悲しみを通してものごとを考えていくことができる。思考の道をつくっているのが悲しみである。

スイスの哲学者カール・ヒルティは「いたずらにあなたを苦しめるために 苦難を与えられたのではない。信じなさい、まことの生命は、悲しみの日に植えられていることを」(『眠られぬ夜のために』)という。キュブラー・ロスが「死を意識した時から本当の人生が始まる」といっているが、それに近い意味だろうか。本当のいのちは、悲しみの中にある。

音声感情解析をするまでは、「悲しみ」感情について意識したことがなかった。むしろ、ビジネス文脈では、従業員満足度、エンゲージメント(会社への忠誠心と訳されることもある)やポジティブ心理学といった表現のほうを好むので、「楽しい」「喜び」といった感情のほうに着目していた。Happyは短期的な幸せであり、Well-beingは長期的な幸せといったりもする。

しかし、従業員の声から溢れ出る感情でキーとなる感情は「悲しみ」である。「悲しみ」がでたとき、その従業員は大きな気づきや抜苦与楽への第一歩を踏み出している。

「悲しい」声というと、イメージするのは、例えば、誰かが亡くなったときの憂いのような寂しい声である。いまは、世界で戦争が起き、本当に悲しい声が世界中に響いている。しかし、この悲しみとは異なる悲しみの声もある。深い祈りや願いから出てくる知恵が出てきたときも悲しみの声がでる。

ビジネスの最前線に立つとき、たくさんの情報を仕入れて処理をする。アメリカやヨーロッパまで遠く幅広くみてはいるけれど、それでは深みがないと感じる。情報が多すぎて、ウクライナの戦争一つにしても、情報を表面的に消費して、終わってしまっている感じがする。世界に情報が溢れるのと反比例するように、人間から想像力がどんどん失われているような感じもする。

英語で、responsablity=責任という言葉がある。哲学者・國分功一郎は「responsabilityは、reponse(応答)する+ability(能力)が責任だ」(『<責任>の生成』)という。「われわれは何かについて責任を負うことはできないのであって、何かを前にして、われわれは責任を感じる存在になるのである」とドゥルーズの言葉を引用して説明する。だとすると、生きるとは、応答すべき存在にであったとき、きちんと応答することともいえるんじゃないか。応答すべき存在とは、現在生きているとは限らない。過去の存在かもしれないし、未来の存在かもしれない。

幸福とはなんだろう。幸福はずっと喜んでいる状態でもなければ、ずっと平静な状態でもない。むしろ、喜んだり、悲しんだり、落ち着いたり、そうやっていろんな感情の波の中にあるように思う。正気な人は幸福だろうか?正気だからこそ幸福になれないのではないか。マーク・トウェインの小説に以下のようなくだりがある。

正気で、しかも幸福だなんてことが、絶対ありえないってことくらい、君にもわからないのかねぇ?正気の人間で幸福だなんてことはありえないんだよ。(省略)狂人だけが幸福になれる。もっとも、それもみんなじゃないがね。自分を国王だと信じ、神だと思いこんでいる少数のものだけが、そうなんだ。あとのものは、これは正気の人間同様、不幸に変わりはない。もちろん、いつだって完全に正気だなんて人間は一人としていないぜ。

マーク・トウェイン『不思議な少年』

正気である限り、幸せにはなれないのだろうか。でも、わたしは思う。深い悲しみ(英語でいうGrief)を知っている人は、本当の幸せとは何かを知っているんじゃないかと。ヒルティの言葉をアナロジー的に使って表現するならば、「まことの幸せは、悲しみの日に植えられている」んじゃないかと。


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