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人工失楽園BARからこんばんは。 2020/04/02 志村けんとマスク2枚

どこかの番組で聞いた話だ。あるBARでダンディな中年男性が飲んでいる。その男性が手を振るので誰だろうと思っていると、志村けんだった。あとで会計のときになり、「お代はすべて志村様よりいただいております」と言われた、と。

志村けんという人間は、憑依型芸人と言われる。
実際、憑依していないときの志村けんは大して面白くない。ふつうのおじさんなのだ。バラエティ番組のひな壇にいるときや司会進行のときの志村に笑わされることがあまりないのは、彼が憑依気質のコメディアンであって、出自として「芸人」でも「お笑い」でもないからなのだろう。

だからこそ、憑依していないときの彼の素顔は、永遠にミステリアスでもある。親戚のおじさんが、多くの場合にミステリアスであるように、深淵なミステリアスさではなく、そこらへんに落ちているミステリアスさを見事に体現したように「ミステリアス」なのだ。

ここ数日、ビートたけしのタップに合わせて三味線を弾く映像がよく流れてくる。志村の音楽的才能は、たしかに現代の地点からみると「意外な一面」に見えるのか。

彼の在籍したザ・ドリフターズは「8時だよ!全員集合」の印象が強いからどうしてもお笑い集団に見えがちだが、もとは音楽集団で、実際あの番組も歌と笑いが融合した見事な番組構成となっていた。「イエーイ」とリズムに合わせて唸るいかりや長介には何とも言えず色気があったものだ。

だからその「ボーヤ」として下積みをした志村けんもまた音楽的素養を徹底的に叩き込まれている。「アイーン」や「大丈夫だぁ」「ヘンなおじさん」にも、じつはそうした音楽的素養がきちんと昇華されている。

音楽は、人をどうにかこうにか前に進ませるときの、ひとつのテクニックだった。このへんは先日Twitterでもつぶやいたのだが、古来日本では茶を摘むにも、酒蔵で酒をつくるにも、歌を歌いながら作業を回した。そのほうが、重い腰を持ち上げることができるだろうし、労苦が和らぐのだ。

だが、人間は切羽詰まると、リズムやメロディが頭から抜け落ちていく。とたんに世界は不協和音を奏で、焦りでいっぱいになる。
ネットニュースを見ていると、人生がどん詰まりのときに志村けんの笑いで救われた人が多いという。そこには、言語によらず、音楽的なセンスで創られた笑いだからこその効用というのもあったのではないか、とそんなことを考えたりする。

そんな多くの人を笑いで救ってきたミステリアスなおじさんが亡くなった。その衝撃は、たしかに衝撃であった。太田光がラジオで言っていたが、我々みんなが「遺族」になったのだ。だからこそ昨日と今日で状況がさほど変わったわけでもないのに、みんなパニックになった。

「コロナって死ぬんだ……」と、前からのニュースでさんざんわかっていることを、身をもって知ることになった。そして同時に「あんな死に方は悲しすぎる」とか「コロナがにくい」みたいなコメントがあちこちに溢れたりもした。

パニックと、悲しみ。それはわかる。仕方ないとも思う。でも、こんなときのために志村けんはさまざまなコントを残したのではなかったか。労働者が失業してにっちもさっちもいかず首を括るかという夜に、バカ殿を見る。そこに、「馬鹿馬鹿しくて思わず一歩足を動かしてしまう」音楽があったはずだ。

話は変わるが、先日、とうとう矢も楯もたまらず『三島由紀夫VS東大全共闘』を観てきた。何よりの衝撃は、あの三島由紀夫が長い時間をかけて、まだ青臭い東大の学生相手に、それでも馬鹿にしたり、論破したりしようとするのではなく、真摯に語りかける姿だった。

おかしなことを言うようだが、三島由紀夫は生きていた。笑っていた。緊張もしていた。煙草も吸っていた。頷いていた。聞き返していた。当たり前のことなのだが、それは圧倒的なまでに私の認識を更新してしまった。

三島の小説をよむときも、随筆をよむときも、もちろん彼の言葉を通して、彼が生きていたことは知っているつもりだった。けれども、映画のなかで実際に登壇し、思想の異なる学生たち相手に懸命に言葉を繰り出す三島をみたことは、あまりにも大きな体験でありすぎた。

それというのも、それまでの自分にとって、60年代の安保闘争や学生運動というのは、親たち世代の出来事であり、遠い世界の現実にすぎなかった。ある種、自分では触れることのできない領域で、その部分は団塊の世代の人々が自分語りをすればいいことで、我々には何ら語ることは許されていないのだ、と。

それは、90年代について若い人が何も語る言葉をもっていないのと同じようにきっとそういうものなのだ、と。

だが、三島由紀夫の講演は、いやがうえにも、観る者をその時代に引きずりこんでしまった。映画を観ているあいだ、私は現代人ではなく、東京大学教養学部900番教室にいる一学生の気分だった。

ときには全共闘を代表する論客、芥正彦のきわめて抽象的で攻撃的な割込みに魅了され、またそれに対する三島の論の展開に、彼の強靭で筋の通った思想と、その脆さをも垣間見ることができた。

なんであんな馬鹿げた学生運動なんかしたんだろう、とそれまで私は思っていた。団塊の世代の異様なエネルギーと押しつけがましさが嫌いでもあった。だが、あの時代、敗戦から180度転換し、アメリカ万歳の精神で高度成長を遂げていく国民性(芥正彦曰く「卑猥な国民性」)に、もしもあの時代に自分がいたら、やっぱり同じ違和感を抱いたのではないか。
そういった感覚をようやくリアルに受け取り、その時代の緊迫感に身を置くことができたのだ。

そして、圧倒的なまでの三島由紀夫の「生」をそこに見た。翌年、衝撃的な自死を遂げるわけだが、そんなことは関係ない。彼の言葉は2020年の我々をも教室の観衆にして空間を飛びまわっていた。生きるというのは、そういうことだ。

コロナが何を奪ったのかは知らないが、志村けんなら、お手元のスマホでもパソコンでも、どこにでもいる。ヘンなおじさんは奪われてなどいない。むしろこれからの世界でその価値は以前以上に強固なものとなっていくだけだ。

だから、「みんなが遺族」はそうだろうが、パニックになるくらいなら、その前に動画をあさるといい。いくらでも現実の緊迫感を吹き飛ばしてしまうような笑いが溢れている。

そういえば、三島が憧れた太宰治の短篇に「トカトントン」というのがあった。終戦の玉音放送が流れているときに、その合間をぬうようにしてどこかからか大工が金づちを打つトカトントンという音が流れてくる。それが神妙な空気のなかで、間抜けに響いている。

トカトントン、そのリズムが、絶望の壁に小さな穴を開ける。

考えてもみれば、こんなパニックのさなかに、全国民が「だいじょうぶだぁ?」とか白塗りのおじさんの顔を思い出してしまっているのだ。それだけでもうすでに、絶望の壁に小さな穴が開いているともいえる。

志村けんは、現代のトカトントンなのかも知れない。だから私はこう言っておきたい。コロナに負けた? とんでもない、コロナが人々を恐怖に引きずり降ろそうとするその絶望に穴をあけたんだよ、と。

とはいえ私もショックだったのか、ここ数日、食後の消化不良が著しかった。これは志村けんのせいばかりではなく、末の息子の食事改善のために糖質制限の料理に挑戦していたせいだ。

長らく、食べたがるものだけやっていたツケを払うことになったのだが、まあいやがることいやがること。子どもがいやがるのを、食べたくなるまでしつこく待つというのは、それだけでストレスになるものらしく、そんなせいもあって胃がやられ、それで消化不良を起こしているところに志村けんのニュースなので、まあそれはなかなかやられるわ、という話なんだが……

そこにもってきて、国家が莫大な予算をかけたコントを仕掛けてきた。なんと各家庭にマスク二枚を配布するという。その会見にいたカメラマンや政府関係者が全員そろって倒れるという真似だけでもしてほしかったが、そこは素人に高望みしすぎたか。

ところで、我が家は六人家族だ。とうぜん、2枚では足りないので、三人ずつくっついて、もらったマスクをだいぶ引き延ばさなければならない。これは困った。伸びるかな。なんでも布製らしいじゃないか。バツ!って糸の切れる音がしそうだな。

どうか次はゴム製の伸びる素材にしてもらえないだろうか。そうしないと、六人家族で仲良く二枚のマスクを使うことができなくなってしまう。

あと、外出するとき三人で一枚のマスクを使うので三列で歩くことになるから、これも許容してもらいたいのだが、道路交通法的には問題があるだろうか。

次の国会でそのへんをしっかり討論していただくよう、一国民としてお願いしつつ、今夜はおしまいとさせていただく。皆さん、よい夜を。


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