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フラスコの夜

前回UPしたデビュー前の原稿「フラスコの夜」の続きが読みたい、という声がちらほらとあったので、少しだけ続きを載せておきます。これも現在の私の判断で、これくらいでいいかな、というところまで。

「フラスコの夜」

 
 カフェ『カッコー』は愚かな空想をかきたてる。僕は次々とわき出るそれらを速やかに残骸へと変えてゆく。僕はふと、こうした空想の断片の行き先に思いを馳せる。果たして彼らには安住の地が用意されているのだろうか? それとも僕が息絶えるまで、彼らは当てもなくさまよい続けるのだろうか。もしかしたら、彼らは完全に消えてしまうのかもしれない。空想の運命は人間の運命に似ている。その事実は、僕に何度でも白熊が凍死するほどの深くて冷たいため息をつかせる。ワーグナーがドレスデンの初公演の夜に何を考えたかという空想にせよ、電車で隣り合わせた女の職業に関する空想にせよ、さきのいずれかの運命をたどることになるのだ。すなわち、安らぎか、彷徨か、消滅か、だ。空想も人間も、かくも自由に満ちている。

 頭の中の海について。
 大抵の人々は、一生に一度も、頭の中の海の存在に気付くことはない。ましてや、頭の中の海の中に潜む魚の存在となれば、もうこれはおとぎ話より荒唐無稽な法螺話と思われてしまうことだろう。さらに頭の中の海で魚捕りを職業としている人間や、その逆に魚を逃がすことを生業にしている人間の話となれば、新種のキノコを眺めるようなものだ。
 コーヒーを飲んでいる間、僕は頭の中の海について考える。僕が頭の中の海について考えている間、それは確かに存在している。
 魚は我が物顔で水を跳ねかし、魚捕りや魚逃がしは、プロの誇りに満ちた表情を僕に向けている。僕は魚捕りだろうか、それとも魚逃がしだろうか。そんなことを考えていると、コーヒーは冷めてしまう。考えなくても、きっと同様にコーヒーは冷めてしまうだろう。確率は、いつでも平等。フィフティフィフティだ。
 

 誰も出歩かない町に生まれた子供は、どこへ行っても景色の一部みたいにじっとしていることができるようになる。そして、ある年齢に達すると、それが唯一の才能みたいにして、景色に融け込み、景色の代弁をするようになる。僕がそうだ。
 幼い頃の僕は、どういった理由だったかは忘れてしまったけれど、透明人間に憧れていた。けれど、二十代を迎えた頃には、透明人間になることについて何も考えなくなった。現実の世界では、透明人間になるのは人間でいるよりもよほど簡単なことだったのだ。
 そして、僕は二十四歳になった。
 家に帰れば、ノアのために夕食や昼食を作り、寝る前には彼女のためにマッサージだってする。読書の時間は一人暮らしの頃に比べて激減し、代わりに音楽を聴きながら食器を洗ったり料理をしたりして過ごすことが増えている。
 ノアと同棲を始めて、はや四年。人間には二種類いる、ノアとそれ以外。僕は、ノアについて尋ねてくる友人たちに彼女のことをそう説明する。どんな説明より的を射ている。そして、現在の僕について語るならば、ノアについて語れば事足りる。その意味で、僕は幼い頃の夢を立派に叶えているのだ。

 自然の光彩が一切届かないカフェの地下フロア。
 今が午後の二時でも午前の二時でも、この光景だけ見るならば、一向に分からない。この空間は、一種の騙し絵であり、その意味で何らかの事態を象徴的に表している。フロアに僅かながら漂う下水道の異臭。一階でコーヒーを注文したとき、脇をネズミが駆けていくのが見えたから、あるいは下水道の問題は相当に深刻化しているのかもしれない。僕はふと、今口にしているコーヒーは、ネズミに齧られたものではないと立証できないだろうことに気付く。まあ、それはそれだと思い直し、口に運ぼうとするが、先ほどのネズミの逃げていく姿が目に焼きついて離れない。溜め息をつきながら、僕は目の前に座っている女に目を移す。
 女の膝の上で、猫が大きなあくびをしている。まるで世界の張り詰めた糸を緩める任務を遂行した後のように、大儀そう目を細め、毛づくろいを始める。
 誰を待っているのか、と女が僕に言う。
「君の知らない人だ」
 女は納得していない。でも彼女は僕が誰を待っているかにそれほど関心があるわけでもないから、そのうちそんな質問をしたこと自体忘れてしまうに違いない。
「君は誰を待っている?」と僕は彼女に聞き返す。
「あなたの知らない人よ」
 僕は地下フロアの禁煙席で、聴こえるはずのない雨音を、音楽の隙間に探す。しかし、もちろん僕は雨音を探すためにここにいるわけではない。
「久しぶりね。あれから色々あったけど、わたし今はとっても幸せなのよ」
「それは良かった」
 女の名前がどうしても思い出せない。数年前に関係をもったことのあるガールフレンドの一人だというところまでは大体想像がつくのだが、その先が難しい。年は二十五、六。たぶん、東京にきて半年以内の享楽的なシーズンに出会っているはずだ。当時の僕は二十四時間のうち二十三時間アルコール漬けで過ごしていた。すべてはウィスキーの中の出来事のようにぼんやりしている。      
 二時二十七分→二時二十八分。
 跳躍。

 問題は、彼女に自分の「娘」を紹介されたことにある。彼女は言った。
「今年の初めに出産したの。そして授かったのがこの子というわけ」
 彼女は膝の上の黒猫を撫でた。黒猫が嬉しそうにみゃーと鳴いた。彼女は僕に「娘」を紹介し、僕は彼女に「黒猫」を紹介された。今日も世界は、さまざまなズレの元に成り立っている。みゃー。
 カフェ『カッコー』は世界の混沌の縮図を乗せて真っ暗闇の大海原へと船を漕ぎ出す。僕は彼女のシャム猫を見ている。その真っ青な瞳の底に、何千年もの時空に刻み込まれた歴史を自在にうねり歩く猫たちの姿が確認できる。
 僕の見ているもの、僕の風景。僕は猫と一体になる。一体となってその裏側に潜む記号を解読し始める。僕は猫の内部に入り込む。
 景色には意志の有無があり、意志がある場合には、僕はその意志との一体化を試みないことには落ち着かない。
 記号解読。僕はこれら一連の作業をそう呼んでいる。記号解読とセックスは非常に密接な関係にある。というのも、セックスは記号解読の一形態にして最終形態でもあるからだ。もちろん、最終形態であるということは、それで記号解読が終了するということを意味するわけではない。むしろ記号解読という行為は最終形態に辿り着いた時点から始まると言っても過言ではない。
 僕はさまざまな風景とセックスする。個体を愛するのではなく、景色とセックスをする。
「私、ちょっとトイレに行ってくるから、その間この子を見ていてもらえる?」
「いいとも」
 猫は青い目を僕に向けたまま、彼女に前足の脇の下をもたれ、テーブルの上を渡り、僕の膝に納まる。一度だけ尻尾を振ってから、彼もしくは彼女は、目を閉じる。
「あなたが気に入ったみたいね」
 みゃー。
 みゃー、と僕も答える。

 ゴドーは現れない。分かっていたことだ。どうせ暇をもてあましていたのだ。怒るほどのことでもない。
 ゴドーは現れない。
 僕は試しに声に出してみる。それから膝の上の猫を見て、彼女の席に置かれたままのバスケットに目をやる。
 その瞬間、カフェの音楽が突然変調を来たす。名前も知らないジャズは、それまで息を潜めていた禽獣のように、シンバルの轟音とともにトランペットの重奏で僕に襲いかかってくる。そのとき、僕は視界の片隅に先ほどのネズミを捉える。僕は最悪の事態を想定する。次の瞬間、その僕の想定に乗っかるようにして膝の上の猫が、機敏に首の角度を変える。嵐の予兆を確認した僕は、猫を抱え、素早く彼もしくは彼女をバスケットにしまい込む。彼もしくは彼女はバスケットの中で暴れ始める。ネズミの匂いだけは、バスケットの中にも入りこんでいるのだ。僕はしっかり止め金をかけてから、次の行動について考えを巡らす。女は間もなくトイレから出てくるだろう。彼女は、自分の「娘」がバスケットの中に閉じ込められていることを不快に思うかもしれない。そうなれば、当然彼女はバスケットから「娘」を救出しようとするに違いない。ネズミはまだ地下フロアを右往左往している。大惨事は免れないだろう。
 事態はしばしば即決を要する。僕は席を立ち、階段を駆け上がって店の外に出る。
 しゃなしゃなしゃな
 再び、雨音が僕を包み込む。異空間からの帰還を、雨だけが迎えてくれる。僕は母が言っていた「やさしい雨」について考えをめぐらしながら佃大橋へと向かう。後から女が追ってくるのではないかと思って何度か振り返る。しかし、女が追ってくる気配は今のところまだない。安堵の溜め息をついてから、佃大橋の階段を上がる。彼女がこの猫を所有していることは、あまりいい結果を生まないだろう、と僕は考える。もちろんそんな考え方は、僕の行動を正当化する材料にならない。しかし、それは純粋な意味で一つの行為として、世界に作用をもたらす。行為の善悪は、本来結果を待って遡及されるべきなのだ。
 橋の上を歩いている間、僕は隅田川の皮膚の下を想像する。隅田川の皮膚の下には、巨大な龍のうろこのひとつひとつを構成しているかのように、魚たちがぎっしりと群れを成している。魚たちは猫を食べるだろうか? 恐らく食べるのだ。遠い江戸の頃から死の匂いがたちこめるこの川の魚たちには、死体を食べていた記憶がある。そして、現在も彼らは旺盛に死骸を食べ続けているのかもしれない。  
 僕は、隅田川を渡りきる。表面上は、何もなく。

 頭の中を、巨大な魚が飛び跳ねる。それまで一度も見たことのないような、巨大な魚だ。魚捕りも魚逃がしも、あまりの大きさに呆然と立ち尽くしている。
  とてつもない水しぶきを上げながら大魚は水中に消える。海は間もなく静まり、げっぷ一つ出すでもなく、なんなく大魚を飲み込む。僕の頭の中にはまださっきのシンバルが響いている。そして、トランペットは、魚捕りと魚逃がしの首根っこをつかんでぶんぶん振り回している。当座のところ、魚捕りも魚逃がしもトランペット囚人である点では、同士と言える。
 そういうわけで、家にたどり着いたとき、僕のからだはすっかりびしょ濡れになっている。僕はカフェ『カッコー』に傘を忘れてきてしまったことに初めて気がつく。

  

 
 自分の声の響きを確かめる。
どれくらい嘘が混じっているのか、どれくらい真実を伝えているのか。僕は、自分の声のもつ表情を察せられた試しがない。僕にとって僕という人間は他人以上に遠い存在である。
「ただいま」
 玄関で靴を脱いだ瞬間、川の匂いが自分に染み込んでいないか確かめる。同時に僕は室内から異質な匂いを嗅ぎ取る。その正体が小さな水槽に収められた熱帯魚であることを知る。そして、今度はベッドに横たわっているノアが表情を曇らせる。バスケットの中身についてノアが尋ねるので、僕は猫だと正直に答える。ノアは、黙っている。
 僕はベッドに寝転がるノアの下着姿が気になっている。何年経ってもノアの下着姿に直面するたび、僕は戸惑いと心地よい高揚感を覚える。
「つまり、私は熱帯魚を持ち込み、あなたは猫を持ち込んだ」
「君は猫が熱帯魚を食べることを心配しているんだね?」
 そうよ、と彼女は答える。それから彼女は、僕の不可解な行為の説明を求める。僕は正直に経緯を説明する。僕は年々自分の心にストレスを与えない選択をする傾向にある。必ずしもいい傾向とばかりは言えない。けれど、ノアと出会うまで口を開けば出鱈目ばかりしゃべっていたことを考え合わせれば、何らかの進歩と捉えられる。
 話を聞いた彼女は大きな溜め息をつき、僕に背中を向ける。彼女の真っ赤なTバックによってくっきりと二分された形の良いお尻が代わりに僕と向き合うことになる。
「今戻ってもたぶん彼女はいないだろうし、この猫を持っていることは彼女にとって決していいことではないように思う」
「たとえ良い結果を生むのであれ、テロルはテロルよ」
 僕はノアのお尻に頷き返す。ノアから発信された信号を受け取った僕は、ノアのお尻に返信する。コミュニケーションの形態としてはいささかねじれた構造と言わざるを得ない。
「でも、済んでしまったことを悔やんでも始まらないわ。とにかく、あなたにはその猫を飼い続ける気持ちはないわけね?」
「考えもしなかったな」
「じゃあ、ベリちゃんを優先させて構わないわね?」
「ベリちゃん?」
「この子の名前」
 ノアは水槽を指差して言う。花瓶と言っても分からないような、細長い首と丸いボディをもった水槽の中で、ベリちゃんは水から口だけ出し、泡を並べて遊んでいる。
「一体どこで手に入れたの?」
「築地の魚市場から少し離れたところにある小さな公園よ。おじさんが一匹五百円で売っていたの」
「君はベリちゃんが四百十一円で売られていても買ったかな?」
 彼女はその質問を無視する。
 何故ノアが僕のいたカフェの近くにいたのだろうかと僕は考える。彼女の仕事はデスクワークであり、業務上で月島に赴いたりするとはとうてい考えられない。ノアは、僕が不審に思っている気配を素早く察知する。
「お昼頃、会社に奇妙な電話があったの」
 彼女は銀座の会計事務所で経理の仕事をしている。小学校の教室を折り畳んでくしゃくしゃにしまってからもう一度しわを伸ばしたような感じの古ぼけた事務所だ。
「奇妙な電話?」
「あなたが築地で救急車に運ばれたって。だから私、急いで支度したの。でも、考えてみればどうして私に電話があったのか分からなくって」
「どんな声?」
「気が動転していてあまり覚えていないけど、男の人の声だったわ」
「ゴドーかもしれない」
「友人の恋人にそんなイタズラをする意味は?」
「分からない」
「とにかく、私はその電話の男の人から病院の場所を聞いて地図を作ったの。これがそうよ」
 彼女の地図は、非常に機能的に作られている。これならサイだって病院に辿り着くことができるだろう。
「でも辿り着けなかったの」
 ノアが辿り着いたのは、古びた、どこにでもある猫の額ほどの広さの公園だった。
「国が適当に土地を買い漁った挙げ句、使い道に困って仕方なくつくったという感じの、本当にどこにでもあるような公園よ」
 彼女は、その公園にいた親子連れにこの近くに病院はないかと尋ねた。しかし、親子からはそんな名前の病院は聞いたことがないという返事が返ってきた。不安になってノアは、滑り台の脇でペット用熱帯魚を売っていた怪しい露天商の男にも同じことを尋ねた。男はさっきの親子と同じ回答をした後、ずいぶん焦っているようだが何か急用かねと尋ねてきた。ノアは、携帯電話にかかってきた奇妙な電話について話した。すると、男は笑いながらこう言った。
「それはおねえさん、一杯食わされたんじゃないかな?」
 その男の発言で、ノアの中にあったもやもやした得体の知れない違和感が集約されて、一つの形をとった。それまでの緊張の糸が一気に弛んだ途端、「ベリちゃん」が目に飛び込んできた。
「直前まで、私はこう思っていたの。もしあなたが死んだりしていたら、私は芋虫のように室内にこもり続けて餓死してしまうだろうって。でも、それが騙されただけだったって分かって、安堵感と徒労感の中でこの子を見つけたとき、私にはこの子が光に見えたの」
「光だって?」
ノアは僕の問いをやりすごすようにして身を起こし、ピースをくわえ、火をつける。
「とにかく、その猫、どこかに預けなきゃ」
 煙をゆっくりと燻らせながら、ノアは言う。
「どこへ?」
 ノアはしばらく黙る。ノアは考え事をするとき、いつもより深く煙を吸い込む。
「レノアに電話してみるわ。彼女、猫を飼っていたことがあるらしいから」
 僕は黙っている。反対も、賛成も口にしない。僕はただ思い出している。最後に見たレノアの背中を。


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