恋愛掌篇小説「音になれば」
「ヨーグルトの期限、切れてたら捨てなさいよ」
たぶん乃亜は僕を責めているのだろう。出張から帰ってきた乃亜は機嫌が悪い。
期限の切れたヨーグルトと機嫌の悪い乃亜。
しかし、その横顔は謎めいている。知っている横顔だが、二日間の出張の間に作られた外の空気が見知らぬ表情を作り出す。
いっそ乃亜の言葉が分からなくなったらいいのだけれど、と僕は考える。いまこの瞬間、唐突に乃亜の言葉がわからなくなれば、僕はただ莫迦みたいな顔で乃亜の話すのを見ていればいいわけだ。
「ねえ、聞いてるの? ヨーグルトの期限」
僕は頭の中でその言葉を細かく区切ってみる。
ねえ/きい/てる/の/よー/ぐる/との/きげん
意味さえなければ、音はとても軽やかだ。
後半に濁音が二つ混ざるけれど、どんな澄んだ川にも微かな泥はあるものだ。美しい響き。いっそここから意味を手放してしまえたら最高なのに。
はぁ、と乃亜はため息をつく。透明な、しかし周波数にすれば高めの音を発するヒステリックなため息。その感情を知らなければ、それもまた美しい音には違いなかった。
彼女は冷蔵庫の前にしゃがみ込む。
折れそうなフレームにうっすらと果実を実らせただけのその動植物は、冷蔵庫を支えに、肩で呼吸をしている。それは絶妙なバランスで転がらないオブジェのようでもある。
乃亜の恋人がこの世を去って間もなく一年が経つ。
彼の死以降、僕は彼女の欠落を埋めるようにして共に暮らすようになった。最初のうち、彼女は恋人の死を悲しみ、毎日泣いていた。僕にできることはせいぜい傍に腰を下ろし、その泣き声に耳をそばだてることくらいだった。
雨の音と誰かの泣き声は、ときどきとてもよく似ている。雨に終わりがあるように、やがて彼女は恋人の死を悲しむ期間を終えて、無表情の期間に突入した。
相変わらず、僕の存在は認めず、現実に背を向けたまま。けれど、そういう時は、僕のほうは気にせずに自分がテーブルクロスとか、あるいはクッションなんかになっているのだと思えばよかった。
彼女は一匹の猫を飼っていた。クロームという黒猫だ。恋人はクローチェにしようと言ったが、彼女がクロームがいいと言ったのでクロームになったのだ。
一緒に暮らすようになって最初のうち、僕はどうやって乃亜のそばにいればいいのか、そのほとんどをクロームから教わった。クロームは乃亜の言葉を理解しなかった。ただときおり彼女に体をこすりつけ、彼女の注意を喚起した。
大抵の場合、乃亜は猫を無視していたけれど、一日に二度は餌の皿を満杯にするのを忘れなかった。クロームは乃亜に多くを求めず、ただ彼女の心にできたくぼみにうまくハマり込むようにして体を丸めて居眠りをしていた。
僕もまたそんなやり方で彼女の欠落を埋められる気がした。
乃亜が時折、話しかけてくれるようになったのは最近になってからだ。大抵は苛立ち交じりか、泣きながらかのどちらかだったけれど、それでも何も話してくれないよりはマシだった。
話しかけるときの乃亜はきまって酒臭かった。どこかよそで飲んできた帰りのこともあれば、家の中でウィスキーを何杯も飲んでいる時もあった。そうして、僕を見つけて言うのだ。
「ねえ、いつまでそんなとこに突っ立っているつもり? 役立たずのくせに。私のマッサージでもしなさいよ」
それからフフフッと乾いた笑い声を立てる。その笑い声は、泣いている時よりも泣いているみたいに聞こえる。僕はそのたびに、すべての言葉の意味がわからなくなればいいのに、と願わずにはいられない。
いつか、そんな日がくるだろうか? 彼女の発するあらゆる言葉を、単なる音としか認識せずに、古い楽器の演奏でも聴くようにうっとりしていることが、できるようになるだろうか。
たとえば──そう、僕が自分の名前やその存在意義を忘れたように。僕にもかつては名前があり、心があり、感情があり、愛する人がいたはずだ。記憶はないが、記憶があったという感覚だけは、残っている。それはたぶん、この部屋と深い関わりがあるのだろう。
いずれにせよ、僕はこの部屋で、恋人の死んだ乃亜と共に暮らすようになった。
「また買っちゃったのよ、馬鹿ねぇ……あなたの好きだったヨーグルト」
いまのは僕を責めたのだろうか?
わからない。
僕はヨーグルトが好きだっただろうか。
それさえも、僕にはわからない。
こんなことを考えて、悲しい気持ちになることを、早くやめてしまいたい。
また/かっちゃ/ったのよ/
ばかねぇ/あな/たの/
すきだ/ったよー/ぐると
乃亜、あなたをもっと愛したい。
だから、あなたの言葉からあらゆる意味が取り除かれて、音だけになったらいいのに。
そう願ってしまう僕は贅沢なのだろうか。
僕は乃亜の頬に手を伸ばす。
彼女の頬を伝う涙を拭うために。
手は、今日も、頬をすり抜け、何も拭うことはできなかった。
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