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10夜連続お題公募エッセイ第二夜「つつがなく」

「最近調子はいかがですか?」
「ええまあ、つつがなく」
〈つつがなし〉の使用例は「奥の細道」にすでにあるから、古語なわけだけれど、そんなことは関係なく、現代でも何となく使われている。
 それこそ、〈つつがなし〉に人格があって「最近調子どうかね」なんて尋ねられたら、〈つつがなし〉は「ええまあ、つつがなく」と答えそうだ。

 そもそもこの〈つつが〉が何なのか、現代人はあまり意識しないんじゃないだろうか。私も日頃そんなことをわざわざ考えたりしない。むしろこんなことをじっと考えだしてこだわり始めたら、それこそ「つつがなくない」ような気さえする。つつがない状態でいるには、あまりそういうことにこだわらず、つつがなく過ごすしかない。
 細かいことはまあいいじゃないか。とりあえず問題なく、イッツオーライの精神で行ってますよ、と。

 江戸から明治に変わる頃には「ええじゃないか音頭」が流行して、踊り狂う人の群れで江戸の町がてんやわんやになったという話だが、この国の人たちは混迷期を迎えたり、無理なアプデを強いられる時期になるときほど「まあ細かいことはいいじゃないか、つつがなく、つつがなくさ、何事も」と突き進もうとするところがある。

 ところで、この〈つつが〉だが、漢字で書くと〈恙〉と書くらしく、ツツガムシ科のダニの総称で、要するに「ダニがいない状態=病気のない状態」みたいな意味だという説があるのだとか。
 してみると、この状況下でコ口ナがえんえんと変異変異を続けていくと、そのうち「ノーコ口ですか?」みたいな慣用的挨拶が登場する日もくるかもしれないな、と考えたりする。「あそう、ノーコ口ならよかった」みたいな。だがもちろん世の中、ダニがいなかろうがコ口ナにかからなかろうが、「問題」はいくらでもそこかしこに山積みだ。それでも、やっぱり聞かれると「ええまあつつがなく」と答えてしまう。それが「ええまあノーコ口っす」に変わっても、同じことだろう。
 これは、おおげさに言えばちょっとした錯覚を利用しているのだ。子どもの頃、親などから「あなたはアフリカで飢えに苦しむ子に比べたらずっと恵まれているんだから」とか「明日、収容所に入れられると思ったらもっと勉強頑張れるでしょ」なんてことを言われたものだが、あれも錯覚を利用している。本来、比較する対象にないはずのものをあえて持ち出すことで、目の前の問題を矮小化しようとする。たとえば、私が明日体育に行きたくないという苦しみは、アフリカで飢えに苦しむ子のそれとはまったく関係がない。だが、関係ない二者が天秤にかけられることによって、何とも居心地のわるい感覚を抱き、結果的に私は体育が嫌だけどがんばって学校に行くことを選んだりしていた。

 話を「つつがなく」に戻すと、「最近どう?」という挨拶のなかに、すでに返事の強要はひそんでいる。そこでは錯覚の共有が求められている。
「キミの問題も、私の問題も、ダニに食われたりコ口ナにかかるよりは小さいものだよね、そうだろ君、さあ生きていこう。明日も明後日も」
 だからだろうか。私は知人友人その他もろもろからこの手のおざなりなやり取りが出てくることがひどく面倒に感じる。面倒に感じるくせに、気が付けば、自分もそれを口にしていることがある。そして、やはり「ええまあ」とか「ぼちぼちっす」とか、それこそ「つつがなく」的な反応がかえってくることを半ば予想していたりもする。

 もしかしたら、我々の体内には〈つつが〉はいないだろうが〈つつがなし〉という新種の虫のようなもの(おそらく〈つつが〉に抵抗するためのワクチン的な何か)は、もう棲みついてしまっているのかもしれない。そしていったんそれを取り入れてしまえば、どんなに深い絶望を抱えていても、「ええまあ、つつがなく」と答えてしまうようになっているのかも知れない。

 もしも、この〈つつがなし〉を取り込んでいなかったなら、「最近どうですか?」「ええまあ金がなく」とか「ええまあ生きる気力がなく」なんて初っ端から言う人も出てくるだろう。だがそうなれば、他人の問題を見て見ぬふりをすることが難しくなるだろう。この世の中は、他人の悩みまでは本気で見ないでいようね、という暗黙の了解でできている。

 そういえば、先日観た『竜とそばかすの姫』の中で登場人物の少年が「助ける助ける助ける助ける、どうやって?」みたいなことを言っていた。他人を救うというのは冗談でも何でもなく、命がけでなくてはできない。だから、この〈つつがなし〉ワクチンをうっておかないことには、他人に「助けられもしないくせに」助けてあげようか、なんて言葉を言わなくてはならなくなってしまう。これは恐ろしい。そんなわけで我々は問う。「最近どう?つつがなく過ごしてる?」

 誰もが「助け合い」を強調する社会では、その裏に本当は手を伸ばさなくても済むように自助を促す無意識がはたらいている。この無意識は、最近では国家レベルで存在しているというから、なんだか因果な話である。

「ええまあ、つつがなく」と言ってもらうために問う「最近どう?」にどれほどの意味もない。それは自助をうながし、「自分は一応声をかけたからね」という義務を果たすだけの、そういうやりとりだ。

 しかし、最近では久々に顔を合わす者との間にはしぜんと「コ口ナは大丈夫でしたか」みたいな定型文が入り込んでくる。これはなかなか恐ろしいものだな、と思う。たしかにコ口ナはそこらじゅうにあるだろう。だが、その人の人生にコ口ナが入り込んでいないからといって、それでその人の何が保証されたわけでもない。それでも、つい社交的に我々は口を開けば、半ば機械的にそんな口上を口にしてしまうのだ。
「つつがなく。問題はないですよ。まあ何とかなるでしょう」
 本当に問題ないのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だが、我々が命がけに手を伸ばせる回数は本当に限られている。たぶんこれからも私は多くの人に社交的な言葉をかけ、きっと多くの人の個人的な大問題をやり過ごしてしまうことだろう。それはとてもつらいし、助けられるものなら助けたいが、ほんの気まぐれな情や中途半端な優しさで手を伸ばしてできるほど、救済は安価ではないのだ。
 もうすでに「つつがなし」を体内に取り入れてしまった我々は、あたかもそれが優しさの塊の気づかいであるかのような顔で、「最近どう? 元気?」と聞いていく。これからもきっとずっとそうだ。
 せめて、その言葉のなかにひそむ欺瞞と自嘲の気配だけには、敏感でいたいものだ。

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 新刊『偽恋愛小説家、最後の嘘』発売カウントダウン。
「雪の女王」を題材に、真夏の凍死体、幻の遺稿争奪戦といった事象に夢宮宇多が巻き込まれる超エンタメミステリ長編です。どうぞよろしく。

 なおこのお題公募エッセイはあと8日続きます。
タイトルもまだまだ募集中ですので(すでにご応募いただいた中からももちろん選ばせていただく予定です)、引き続き、#森晶麿エッセイタイトル、と付けて投稿してください。たくさんのご応募お待ちしております。

 

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