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【ショートショート】魔物

「勇敢だな、みずから森に入ろうと志願したんだって?」
 老人は酒臭い息を吐きかけながら言う。俺は何も答えず、ただおのれの手にした銃のありようを、指でしっかりとたしかめつづけた。

 昔から神経質すぎるところがあって、安全装置がすでに外してあることを五度六度と確かめても、なおまた確かめてしまう。妻に口づけをねだるのも、愛ゆえではなくて、神経質に存在の在処を確かめんがためだと感づかれて以降は、そうとうに鬱陶しがられたものだった。俺はいささか手ざわりに自信がない。今あったものが一秒後もあると信じられないのだ。

 森の中に入ったら安全装置は外しておく。場合によっては照準の絞り込みが足りていなくても、すぐに獲物にむけて発射せねばならない。的を見つけたら射つ。構える。射つ。構える。射つ。頭のなかで粘ついたガムみたいにイメージを伸び縮みさせる。あるときには成功し、あるときには獲物に襲われて終わる。そうしているときだけ、生と死の両方が俺の掌に収まっているという錯覚に囚われる。

 思えば、このレミントンM870で、妻の浮気相手も殺した。夜勤が雨天で中止になり、早々に帰宅したら、そういう場面を目撃することになった。家の前に停まった赤いスポーツカーを見た瞬間に、レミントンM870を取り出していた。玄関の鍵を音をさせぬように開けたときには、すでに銃口が成人男性の平均的な身長における心臓の高さにくるように構えていた。

 いまも真夜中によみがえる銃声。叫び声。
 ひとごろし、けだもの、ばけもの……。

 不法侵入者と勘違いしたという動機が認められ、正当防衛が成立したその一件以来、家の中で「化け物」と妻から罵られるようになった。
 
 そして、先月のある晩、妻は荷物をまとめて家を飛び出し、数日後、森の中で骨と髪だけが見つかった。衣類はその場で燃やされた跡があった。残されていた骨からは唾液が検出され、森に住む魔物の仕業だということになった。妻との愛が本物で、二人が愛し合った夫婦であったことを証明するためにも、俺には魔物退治に志願する必要があったわけだ。

「そういうあんたは、なぜ志願を?」
 俺は答える代わりに、老人に尋ね返した。
「聞くところでは、この二十年、毎度あんたは参加してるらしいじゃないか。それほど射撃もうまくないくせに。それだけ魔物へのこだわりが強いんだろ?」
 老人はその言葉に「知りたいのか」と短く返した。いつか聞かれることを期待していたのがわかった。老人は、これまでも何人もの人間に話して聞かせていたであろう慣れた調子で話し始めた。

「私が魔物を憎み始めたのは、そう今から21年前だ。その頃は今ほど魔物の存在が村に知れ渡っていなかった。私は、道化で飯を食ってた。この村もたまたま通りかかっただけだった。四十を過ぎてようやくできた息子と二人で詐欺まがいの興行で荒稼ぎをしていた。会場に向かって私が『そこのお嬢さん、鞄を見せてもらえますか』という。『その中に私がいま燃やした一万円札が』という。すると、彼女の背後に事前に潜んでいた私の息子が鞄に滑り込ませた一万円札が出てくる。それだけの芸で、けっこう稼げた。そのショーの帰り道に、この森を通った」

 そこで老人は言葉を切り、しばらく長いため息をついた。
「立ち止まるべきじゃなかった。だが、息子は空腹に耐えかねていたんだ。だからここで焚火をした。そう、ちょうどこの切り株に今みたいに私は腰かけ、あんたのいる切り株に息子が座った。そして魔物に……」
「すまない、つらい話を思い出させたようだな」
「いいさ。もう21年も前のことだ。人間の悲しみに終わりはないが、穴が塞がらないまま風化することもある。ところで、ここの魔物について、私はあれこれ調べてみた。もともとは樹木の伐採が一時期進みすぎて、樹齢何万年とかいう貴重な木までこの村の連中は木材に変えるために無慈悲に切っていた時期があったのだとか。その怨念なんじゃないか、と。だとしたら、私の息子は何重にも被害者ということになるな」
「かもしれんな。だが、存外息子さんは今もあんたのそばにいてあんたを守ってくれてるのかもしれないぜ? 聞くところでは毎年志願した奴らはほぼ全員殺されているらしいじゃないか。なのに、大した腕もないあんたが生き延びられている。何か秘訣があるのでなけりゃ、守護霊のおかげだろう」
 毎年三月のはじめ、魔物退治が行われる。その参加人数は、この二十年の間に激減した。最初の数年は我こそは魔物を殺すという威勢のいい若者であふれた。だが、その魔物退治の過程で何人もの行方不明者が出るとあっては、参加者が減るのもむべなるかな。
「秘訣もなけりゃ守護霊もいないさ。単純な話、老いぼれは旨くないんだろう。奴の好みの味じゃない、ということだな。いずれにせよ、今年はあんたが来てくれた。心強いよ」
 不意に気まずさを覚えた。この老人を助けるために参加したわけではないからだ。魔物が口をきけるのなら、死に際の妻の様子を聞きたかった。どんな苦しみの声を上げ、引き裂かれる瞬間はどういった表情を浮かべたのか。妻はついに不倫への謝罪の言葉は一言も口にしなかった。あの魔物がその機会を奪った。せめて最後の最後に悔恨の言葉でも残していれば──。
 それを確かめたくて来たようなものなのだ。
 
 草木が囁いた。くる、あれがくる、そう囁き合っている。
 べつに人間に教えるつもりもなく、ただの雑談のようなそれ。

 俺の銃口はまっすぐに闇に向けられている。だが、その何者かが来る方角がわからない。恐れに負けてむやみに撃てば、おのれの居場所を相手に知らせてしまうことになる。

 くる。くる。すぐそこだ。ほらそこ。やつだ。やつがいる。

 草木の恐れが俺に伝わる。となりの老人は目を見開き、唇を震わせて上空を見上げていた。その視線で、ようやく俺は恐怖の対象が上空にいることに気付いた。その時点で、何割か俺の負けが決まっていた気もする。

 何しろ、それほどに距離を縮められていても気配を感じることができなかったわけだから。高い木のうえに、たしかに何か黒いものがどろりと張り付いている。いや、張り付いているというよりも、そいつは木と一体となっていた。
 
 そいつは木の表皮の一部となったまま、どぐりどぐりと移動する。下へ下へと降りてくるのであるが、そのまま木の根本まで降りてくると、インクが衣類にこぼれるみたいな感じで地中へと染み込んで消えてしまった。

 一瞬、草木が静かになった。あたかも何事もなく平穏な時間が戻ってきたかのような、そんな錯覚すらおぼえさせるにじゅうぶんな静けさだった。

 その静けさが間もなく百秒も続こうかというところで、不意にぞぞぞぞぞっと肛門のあたりに慣れない感触があって、それから唐突に空腹を覚えた。おかしい。さっき森へ入る前にたらふくシチューを食べてきたというのに。しかし、次第に俺は気づく。空腹なのではない。腹が存在しないのだ。俺の身体の見た目はそのままであるが、体の中がからっぽになっている。

「何か体が……」
 そう言って立ち上がりかける俺を、老人が恐怖とも好奇ともつかぬ顔で見つめている。見れば、俺の尻から粘り気のある黒い筋が見える。

 突然の吐き気。むかつき。あの浮気現場を目撃したときでさえ、今ほど胃を突き動かされる感覚を味わうことはなかっただろう。そして何よりの問題は、この胃のむかつきがそもそも幻である可能性だった。俺は直観的に理解していた。俺にはすでに胃袋だって存在していないに違いない、と。もう臓といい腑といい、何もかも食われてしまっているのだ。

 やがて、何もないはずの身体から、俺は何かを吐き出した。いや、吐き出したのではなかった。俺はすでにそいつの皮に過ぎなかったのだ。そいつは俺という皮を脱ぎ捨てて、俺の口から出てきて、俺と寸分たがわぬほどの形になった。

 それから、脱ぎ捨てた俺の皮膚にまとわりついた服をはぎ取り、皮膚をむしゃむしゃと食べつくすと、口の中から事前に食べてしまっていたらしい骨と髪の毛だけを器用に吐き出した。

 その一部始終を、俺はそいつ自身として目撃していた。奇妙な話だが、俺はすでにもう俺ではなくてそいつだったのだ。

「ぱぱ……おそすぎるよ……」
「すまん。去年は志願する者がいなかったのだ」
「ぱぱ……ぱぱ、これじゃぜんぜん足りない……足りないよ」
 老人はそいつの前で大慌てで取り乱している。そうか、こいつの息子が魔物であったか。いや、そうではない。伐採された植物の精霊が、いつかの少年を飲み込んで人格をもったということなのか。

 以来、老人は毎年こうして生贄を捧げるために、魔物に復讐志願する若者を募っては、森へ向かい、この場所に連れてきたのだろう。よりによって、精霊の飲み込んだ人格は、そのとき「空腹に耐えかねていた」のだから。

 俺は笑った。もうすぐ老人も食われるだろう。俺一人ではどうやら足りなかった。味が好みでなくても、いよいよ老人を食わずばなるまい。いや、そんなことはどうでもよかった。俺が何より愉快だったのは、俺のとなりに妻がいて、おのれけだもの、ばけもの、と相変わらず罵ってくるからなのだ。

 この女は、こんな姿になり果てても相変わらず何の悔い改めもせぬときている。ならば、それでいい。こうして何千年でもこの罪の欠片も感じられない愚か者のとなりにいよう。

 俺はいま、生きて夫婦だった頃には得られたことのない安堵感に襲われていた。いささか手ざわりに自信がなく、今あったものが一秒後もあると信じられなかった俺はもういない。今あるものは何万年先でもあるに決まっている。そう信じられるのならば、神経質になる必要などまるでなく、いちいち存在を確かめることもないのだから。

 しねしねばけものめが──。
 俺ほどの悟りをもたずに、なおもそう罵る妻の唇が、つまりは俺の唇であった。
 あたかも若い二人が永遠を誓い合って白いチャペルで捧げるときのような上唇と下唇の接吻でもって、俺たちはひと思いに老人を貪ったのである。そのとき、老人の二十一年分の悔恨と悲しみとが同時に我々の身体に入り、福音の鐘の音を鳴らし、その音に驚いて、森の鴉たちがいっせいに羽音を立てて飛び立ったのだった。

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