見出し画像

ソコデコソダテ 第3回「我輩は友達が少ない」

末の息子にかぎらないのだが、歴代我が家の子は幼少期の友だちが極端に少ない。せいぜい1人、ないし2人。それも先生が「2こ1になって」といえば確実にあぶれてしまう。

なぜこうなってしまうかといえば、まあ簡単にいえば変わり者ばかりなのだ。遊び方もそうならそもそもの関心事も大きくかけ離れている。そこに加えておそらく日頃同年代の子と遊ばないせいか感情の伝え方がかなりロングセンテンスになっている。

これは歴代そうだった。というか自分もそうなら家の人もそういう子だったようで、だからしょうじきに言うとそのこと自体を気にする人間が誰もいない。まあそんなもんだろう、と思うし、孤立がべつに悪いものでもない。

最初のうちはつらいという気持ちもあるだろうが、物心つく頃までには「ちがう生き物なんだから仕方ない」とあきらめがつくようになる。あきらめは早いほうがいい。集団というものに期待することにそもそも無理があるのだ。たとえA君と熱い絆を築いたところで、そのA君は個人としての意志はじつはあるようでない生き物だったりする。そういう者は総じて、二人で遊んでいるときは、相手に自己を明け渡しているので仲がいいだけなのだ。言ってみれば自我が確立されていない。

そういう子といくら仲良くなっても、自我がないので、集団に混じれば集団に飲み込まれてさっきまで仲良くしていたことなど忘れられてしまう。私なんかは早いうちから友達をもつくらいなら攻撃できそうな砂でも持っていたほうが得策だと気づいた人間だった。

うちの子どもたちにしても、それぞれに特性はちがうが、それぞれの方法で周囲から自分を守ってきたように思う。もちろん、集団行動ができること自体は大事なことだ。しかし集団に飲み込まれて自我がなくなるくらいなら、多少の齟齬は残っていいし、それゆえの孤独や孤立は甘んじて受け入れていいんじゃないかという気がする。

末の息子の場合、性格がケチで粗野なので、周囲の子からだいぶ警戒されているようで、そりゃあ友だちできるわけないよ、という状態なのでこれはこれで何とか穏やかな面を育てていかなければ、と目下奮闘中ではある。奮闘中ではあるが、幼稚園では早くも集団が形成されており、その空気を敏感に察知して「はやめにいじける」ところもあるようだ。粗野なくせに、ナーバスなのだ。こいつは厄介。集団に溶け込めない原因も、7,8割本人にあるし、それは自分でもわかっているが、だからこそ悲しい気持ちもあるだろう。

私は末の息子の悲しみに共感まではしないけれど同情はするし、その痛みを想像すると胸が痛くなりもする。粗野な息子なりに苦しんでいるのだろう、と思うと何か解決策を見つけてやりたいな、とも思う。でも結局のところ、我々にできることはちょっとしかない。

ふと思い出すのは、長女のときのこと。長女は早くから本を読む子で(まあその頃は我々も育児熱心すぎて毎晩読み聞かせをしていたせいもある)そのためかかなり長い文章を話す子だった。

すると幼稚園で友達が話を聞いてくれない、と悩んでいた。どうやら昨日の出来事なんかを伝えるときに、彼女は「昨日ディズニーランドにいったんだ!」なんて言わずに「昨日朝起きたらパパとママが出かけようって言ってね」なんてところから話しだしてしまうようだ。そこで、とにかく短いセンテンスで話すように伝えた。高校生になり、「やばい」「かわいい」「うける」とかかなりのボキャ貧になり友達もふえた長女をみて、「成長したね、よかったね」と内心で涙ぐんだものだ。

こんなふうに我々にアシストできることはきっとあるし、我々はそれを提案していく。でも、親は短期的な成功と長期的な成功、両方を見据えて動けているという確証があるわけでもないのだ。もしかしたら、そのアシストは目先の成功でしかないかもしれない。そう考えると、やっぱりまあいろいろ生きやすくなるアシストは考えてやるにせよ、究極は孤独との向き合い方を伝えてゆくのがいちばんなのかな、と思ったりする。

長女が初めて撮った写真を見せてくれたとき、私は彼女を褒めた。うわべで褒めたのではなくて本当に感動したからだ。その感動は、孤独と付き合う道具の発見とも結びついていたんじゃないかと思う。私がかつて小説と出会ったように、長女はカメラと出会った。長男には剣道があるし、次女には絵がある。

親はいつまでも子の孤独を埋める役目はしてやれない。だから、できるだけ一緒に孤独との向き合い方を見つけてやりたいな、といつも、どの子に対してもそれは思うのだった。
末の息子はどうだろうな? 早く見つかるといいね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?