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10夜連続お題公募エッセイ第九夜「わすれもの」

 忘れ物は子どもの頃から多い。5時間まで授業があれば、かならずそのうちの2時間分くらいの用意を忘れてしまう。気を付けているつもりはあるのだが、どうしても忘れる。調理実習のときなんか、エプロンを忘れずに持っていった回数のほうが少ないんじゃないかという気がする。

 中学になると、学校の目の前にあるマンションに引っ越したこともあり、忘れ物のひどい私は何度も命拾いすることになった。何しろ、十分間も休み時間がある。家に帰ってプリンを食べてから出たってお釣りがくる。

 ところが、たまに親が出かけていたりするとたいへんだ。私は共用部の庭の柵を三軒分ハードル競争みたいに連続で飛び越えて我が家の104号室に辿り着き窓から入った。窓はなぜか鍵をかけていないことが多かったのだ。そして忘れ物を見つけると、またふたたび窓から出て颯爽と柵を飛び越えていった。

 高校時代になると、家から自転車で30分の場所になったのでそうもいかなくなった。そこで、すべての教科書類を学校に置きっぱなしにするようになった。幸い、ロッカーというものが一人ずつ与えられていたため、すべての荷物を所蔵することが可能だったのだ。

 そうすると、問題が一つ。中間期末テスト前に持ち帰り忘れるのだ。そして、みんなが必死に勉強しているだろうに、私は焦った気持ちを胸にしまいこみ、漫画を読みふけることになる。もちろん、テストはクラスでも最下位に近い。こんなことを一年も続けていたら、あっという間に特別進学クラスから落第して、一般クラスに入れられてしまった。

 大学時代になると、教授も誰もいちいち忘れ物を咎めないので、自分が忘れ物をしている事実に気付かないこともよくあった。気づいても気にしないし、退屈になれば途中で退出する。それが自由にできる校風でもあった。私は大学まではどうにか行くが、結局ひとつも授業に出ずに、喫茶店で過ごす日も多かった。このような生活を送るようになると、もう忘れ物という概念自体が忘れ去られてしまう。

 しかし大学四年のときになって焦る。みんなは着々と単位をとっていたのだが、私はだいぶ単位を「忘れ物」していた。よって、四年目は必死で人よりたくさんの単位を取得するために大学に真面目に通わねばならなかった。忘れていたのは単位だけではない。周りは大学三年の終わり頃から就活のためにエントリーを始めていたのだ。これも私は忘れていた。べつに大学院進学を志していたから「あえて」とかではない。純粋に忘れていたのだ。

 そして4月とか5月になってようやくエントリー。遅すぎる。しかもやり方も何もわからないから、聞いたことがあるだけで興味もさしてない企業を5,6個受けただけで終わってしまった。まわりに聞いたら、50社とかエントリーして説明会を渡り歩き、自分にふさわしい企業とは何か。その企業にふさわしい人材と思ってもらえるにはどうすればいいか、などを事前準備していたらしい。私はと言えば二日酔いのまま最終面接に臨み、「とくに御社でなくてもいいんですが、入社できたら業績トップを目指します」とかナメたことを言って案の定落とされたのだった。

 私はこのように人生でさまざまな忘れ物をしながら生きてきた気がする。卒論だって、印刷所に製本だしたらそれですべて終えた気になって、提出日の夕方になって友人から今日が提出日だと聞き、慌てて家を飛び出した。

 アガサ・クリスティー賞の応募のときもたいへんだった。応募締切を知ったのが十日前だったのは、ぎりぎりのタイミングとはいえ、これは仕方なかった。だが、応募締切最終日になって、この日が締め切りだということをなぜか失念した。思い出したのは、夕方四時頃。急いで郵便局に走って、当日消印をもらったのもほんとうにぎりぎりだった。

 それから半年後、私は運よく最終選考に残っていた。そして、その日が選考結果発表日であることまでは、かろうじて覚えていた。これは私にとっては珍しい。

 だが、その日、私は朝から初めての用事をこなしていた。じつはPHPからライトノベル作家としてデビューできることが決まり、ときわ書房さんにプッシュしていただけるよう挨拶まわりをしていたのである。そしてその帰り道に編集のI氏に「じつはクリスティー賞の選考結果が出るんですよね」なんてことを話していた。

 そうこの時点までは覚えていた。奇跡。I氏も「こんなところにいちゃまずいんじゃないですか?」なんて話して驚いていたのを覚えている。

 ところがその後、I氏と秋葉原で解散してから、不意に心もとなくなった。おそらく極度の緊張のためであろう。なぜか私はメイドカフェに初入店を果たしていた。これが人生最初で最後のメイドカフェ体験であった。私はこのあまりの異世界転生にまったく思考がついていかなかった。

「当店では、ご注文の際には、ニャンニャンとお声かけください♪」

 無理です。無理無理無理。このあまりに無理すぎる状況に、私は何もかもを忘れた。そう、今日が選考結果発表日であることを、である。何しろ状況は予断を許さぬ。腰を下ろした以上、何か注文しなければならない。だが、注文するには、自分の口から「ニャンニャン」と言わなければならない。聞いてない。そんな無理を強いられる話、聞いてないぞ……。頭は真っ白になった。

 そこに電話がかかってくる。何だ、こんな人生の一大事のときに。迷惑電話だったらさっさと切ってやる。いま、私は、とても重大かつ緊急を要する事態に直面しているんだ! この私の神経をこれ以上逆撫でするのは何者だ!

「早川書房の●●と申します。森晶麿さんでしょうか? このたびご応募いただいた『黒猫の遊歩あるいは美学講義』が受賞作に決定いたしました」

 完全に不意をつかれた。その電話は、思いがけない私の「忘れもの」を届けてくれたのであった。そして、「忘れもの」を届けられた私は、その後、満面の笑みで「にゃんにゃん」と言い、苺パフェを食べた。人生で最高の、しかしまったく味を覚えていない苺パフェだった。

 今でも私は日々さまざまな忘れ物をしながら生きている。締切もよくうっかり忘れる。もしかしたらその度合いは昔より多少は増えたのかも知れない。しかしそれと反比例して、少しずつ忘れないでいよう、と思うことも増えたし、反対にそれまでは絶対に忘れずにとっておいたことは、あえて忘れてみようとも思うようになった。

 年を重ねるうちに、記憶は忘却に、忘却は記憶に置き換えられ、大切なものと、そうでもないものも、そのヒエラルキー自体が混沌としてくる。もしかしたら、十年、二十年後、この混沌が積み重なると、子どもたちは私がいよいよ加齢ゆえの認知症的な症状に見舞われたと思うかもしれない。

 本当にそうなっているのかも知れないが、でも、ふと思うのだ。子ども時代の、あるいは十代二十代の私を子どもたちが見ていても、それでも同じように言うだろうか? 私の人生は、つねに「わすれもの」だらけだったのだが。

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 新刊『偽恋愛小説家、最後の嘘』発売となりました!

「雪の女王」を題材に、真夏の凍死体、幻の遺稿争奪戦といった事象に夢宮宇多が巻き込まれる超エンタメミステリ長編です。どうぞよろしく。

今回は私のサイン本と夢センセの登場する特典小説が当たる企画があるようなので、ぜひこちらのサイトも覗いてください。

 なおこのお題公募エッセイはあと1日続きます。
タイトルもまだまだ募集中ですので(すでにご応募いただいた中からももちろん選ばせていただく予定です)、引き続き、#森晶麿エッセイタイトル、と付けて投稿してください。たくさんのご応募お待ちしております。

 

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