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猫を撫でる、その他の浮遊思考

いま家の外では簡易の小屋の中で猫が寝ている。一週間とか、いやもう少し前からかな、家のまわりをずっと首輪をつけた猫がみょおみょお鳴きながら徘徊していた。

何だろうな、とは思っていたが、気にしないようにしていた。だが、日を追うごとに相手は距離を縮めてくる。うちはまた、子どもの出入りが多い。そうすると、庭先で子どもが優しくしたりするせいもあるのだろう、あるいは、よその庭より雑草が伸びているから、餌になる虫や蜥蜴が多いかもしれない。様々な理由から、この猫はうちの庭にとどまる腹づもりらしい。ただ、飼い猫だったせいか狩りの腕がないようで、夜な夜なみょおみょお鳴いている。お腹が空いているのだろう。

仕方なく、一昨日、餌を与えることにし、簡易だがホームセンターで板を買って小屋も建て、毛布も入れておいた。二、三日中には交番にも届けを出すか、スーパーにも貼り紙を出すか、などと考えながら。

それにしても、人懐こい。出会って数時間でついに腹を見せてごろごろしてみせだしたときにはびっくりした。子どもなんかは情に厚いもんでもう飼いたいと言っている。だが、隙あらば家に入ろうとする姿勢からして、この子はもともと屋内で飼われていた子に違いない(首都圏の方にはもしかしたら理解できないかも知れないが、田舎では完全戸外での飼育は今も珍しくはない)。残念ながら我が家はまだ下の子が小さいし、くわえて借家だからダメだ。もともと猫はダメという契約だった(庭ならいいらしい)。

この猫にしてみれば小屋や餌を与えられても納得はいくまい。いや、たとえ言葉が話せて「仕方ないのならこれで我慢します幸せと思ってます」と言ったとしても、こっちが納得できない。それまでの環境と同等か、それ以上の幸せを与えられるのでなければ、意味がない。

と、そんなことを思っていたら、外で低い鳴き声がする。あの子ではない。見に行ってみると、よそのノラに餌を奪われている。怒鳴って追い払うと、こわかったよとばかりに頭をすりつけてくる。もしかしたら昨夜のうちに餌が空になったのもアイツの仕業なのか、なんてことが脳裏をよぎる。

どうにか猫を納得させ、書斎に戻って数時間後、今度は猫が喧嘩するときの例の声がする。すぐに飛び出すと、またべつの子が喧嘩をしかけたようだった。これも追い払うが、とにかくこの子は家猫で争いもなく生きてきたから、どんな争いでも敗者となることが決定している。こんな子を今晩も外で寝かせるのか。我が家もいろいろと行事が立て込んでおり、ホームセンターに行く暇はなく、今日はゲージは買えなかった。くわえて私はいま体調があまりよくない(心配には及ばない、矛盾するようだが大したことはないのだ)。

なので、明日警察に行くにせよ、ひとまず今夜は小屋で寝てもらわねばならない。こわいだろうし、不安だろう。でも他に選択肢がない。そんなことを考えながら、私は夕方、何度目かの我が家への侵入を試みた猫の頭を撫でた。

と、ここで私の思考は浮遊する。若い頃、恋人と過ごしているときに、べつの子から悩みの電話がきたり、あるいは結婚してから親が夫婦喧嘩の件で仲裁に入ってくれと言ってきたり、あるいは真夜中に後輩が意味のない長電話をしてきたり、いろんな場面でべつの役割を求められることがあった。そのたびに私は悩み、できるかぎり誠意をもってこたえたいという気持ちと、しかし「自分の身体は結局一つしかなく、いられる場所もひとつしかないのだ」という諦観のようなものとの狭間で生きてきた。

そのどれにも、うまい線引きができないまま、ときには他者を切り捨てるという選択を選んできた。それらすべてを「相手の幸せを考えての決断」ときれいに言うこともできる。でも、それなら「はじめから電話をとらなければ」あるいは「はじめからかかわりをもたなければ」、きっとそのほうが相手のためなのではないか。結局自己満足の中途半端な優しさで40年近く失敗を重ねているのでは、と思ったりする。

猫のことに話を戻す。子は、もし元の飼い主が見つからぬなら飼いたいという。だが私は「猫の幸せをいちばんに考えるなら、屋内で飼ってくれる人を見つけるのがいちばんだよ、自分の楽しさと猫の幸せなら猫の幸せをとるでしょ?」と話し、子も「それはそうだね」と言った。だが、そうして納得させながら、どこかで詭弁を言うな、と思っている自分がいる。「こんな選択をするくらいなら、そもそもおまえは助けるべきじゃなかったのだ。何の覚悟もなく手を差し伸べるべきじゃなかったのだ。おまえは最初から自分の裁量を超えた判断をしたんだよ」と自分を叱責したい自分がいる。結論はない。こういう話をここに書いたのは、こういうことで悩んで知人や友人に電話で話せば結局慰められてしまうからだ。おまえのしたことは間違ってはなかったよ、警察にも連絡するんだし、ベストだよ、と。だからたぶんここに書いたのは慰めが要らないからだろう。べつにこの状況に対して、自分は他人の意見なんぞ必要とはしていないのだ。

ただ今、私にはこのようなことが起こっており、それはかつて幾度となく起こったあれこれの繰り返しかもしれない、ということ。そんなことに、ちょっとばかり思いを馳せているよ、と、まあそういう話である。夜は長い。ゴールデンウィークが終わり、日常が始まる頃、たぶん体調は戻っているだろう。そのとき、庭の猫がどこにいるのか、それは私にも想像がつかない。とりあえず、今夜彼女が無事に誰にも威嚇されずに、ちょっとはいい夢も見ながら朝を迎えてくれることを祈るばかりだ。


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