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10夜連続お題公募エッセイ第五夜「まつりのあと」

 中学生の頃、やたら祭りに出かけたかった。隣町の祭り、ホンダ技術研究所で開かれるホンダ祭り、町内祭り、、なぜか肝心の浜松まつりは敬遠していたが、それ以外で近所に祭りがあればとにかく友人たち何人かとつるんで出かけたものだ。

 ひそかな目当ては、夜店のフランクフルト──ではなく、意中の女の子だった。その子が祭りにいそうな予感がして、夕方からそわそわしている。で、行く。行くと、だいたいあっちも友人たちとつるんで来ている。そこで偶然を装って、いかにもばったりといった風に向かい側から出会うようにする。そんな感じだったので、祭りというのは初めから恋愛と密接にリンクしていた。

 もう少し古く小学校の頃も、やはりそんな感じだった。その頃は田舎町に住んでいたから、祭りというのは年に一度の町内祭り。そこで、やはり意中の子がお囃子隊にいるのを観たり、そのままいつもの延長でからかって追いかけられたり、そういうのを愉しんでいた。

 小学校でも中学校でも、ふだんは昼間にしか会わない意中の子(その都度ちがうわけだが)に夜の闇の中で遭遇すると、何ともいえない胸のざわつく感じがあった。あれはなぜなんだろうか。胸の中の無数のかざぐるまがぐるぐると色とりどりにまわり、かぶってもいない狐面をかぶっているように、何かべつの生き物になりすましたような気分になる。

 しかし大人になると、当たり前なのだが祭りというのはそういうものではなくなる。とくに結婚すると、その主役は子どもたちになり、子の行きたい出店を中心に、そこにいくつか自分の食べたいものも混ぜて、といった、だいぶ実用的で、いくらか即物的な行事に変わる。もちろん屋台の灯りをみたり、打ち上げ花火には心躍るものがあるわけだが、十代の頃のそれとは完全に違っている。

 この変化は、他人からみると、味気ない変化にみえるだろうか? そうかもしれない。だが、本人にしてみると「いや、べつに」という感じなのだ。これはこれでとても充実感のあるよい祭り体験だ。主役がもう自分たちではない、というのは脇役の愉しみがある。祭りがシニャレする何らかの高揚について、そのコードを読み解く者が自分から子に移ったからといって、自分がコードを読み解かなくなったわけではないのだ。そこにはまったくべつの次元のコード解読が用意されている。

 それはありていに言えば、〈まつりのあと〉解読だ。こいつ急に何を言い出した、と思うかもしれない。しかし、この二十年あまり、私はつねに実際に夜の祭りの中をぼんやりと歩きながら、同時に〈まつりのあと〉を解読してきた。ほんとうに。

 それは今の祭りでもなく、かつてあった祭りでもない、どこにもない祭りだ。無名の祭り、無名の語り手、無名の恋があり、無名の無限屋台、無限提灯が続いている。どんな民族とも無縁の神話をかたどったお囃子があり、太鼓の音が鼓動を震わせる。その見知らぬ〈まつり〉の〈あと〉に何が待っているのか。それは一つのユートピア幻想に近い。

 祭り一般における〈祭りの後〉の満足なような、同時にとてもつまらないような、単純に疲れたから早く寝たいようなアレとはまったく違う、その後にこそ開かれる何か別世界があるような〈まつりのあと〉。これを私は夢想するのが楽しくて仕方ない。それは同時に、私がいずれ絶対に形にしたいと思っているユートピア小説の一原型なのかもしれない。

 現実の世界における〈祭りの後〉には、げんなりさせられるところも多分にある。たとえば先日の東京五輪みたいに、終わった後で、何か取返しのつかないものが踏みにじられたような気分になることもある。夢から醒めれば、そこは再びの緊急事態宣言。ようやくそれが明けたと思えば、国家はまたGoToトラベルキャンペーンをやろうなどと言い出す。何度経験しても何も学ばない。「時期尚早」という子どもでもわかりそうなものが理解できない。

 ところが、虚構の、いかなる民族的神話からも解放された、マラルメ的な意味での〈神話〉の〈まつりのあと〉にはそのような「げんなり」はない。夢見心地なことを言っているわけではない。その反対に、夢から醒めるための装置を作りたいのだ。この長い長い悪夢から目覚めるための出口のヒントが、〈まつりのあと〉にはある気がする。そして、わたしの場合その夢想をするためにも、実際の祭りに足を運ばねばならないのだ。

 今年も去年も、そんな夢想の貴重な時間を過ごすことができなかった。祭りが行なわれなかったから。

 「幻滅」という言葉がある。とっくにこんな世界には幻滅しきっているが、それでもこの「幻」は堅牢にも「滅」びずにまだ続いている。ならば私はもう実際の祭りなど待たずに、〈まつりのあと〉を創りだそうか。

 そんな気持ちで、不意に思い立って今日、どこから依頼されたわけでもない文学的なストーリーを考えた。自分が考える文学であって、それが一般的な基準の文学と一致するかはわからないが、自分自身が更新されていく予感があるのは、いいストーリーである証左ではないかと思っている。

 ところで現在発売中の『偽恋愛小説家、最後の嘘』ではアンデルセンの「雪の女王」を扱っている。夢宮宇多がどのように解体したかは、実際に読んでいただくしかないが、あのテクストを久々に読み返してみて私が思ったのは、「これはアンデルセンの描いた〈まつりのあと〉なんではないかな」ということだった。どういうことか? それを説明するにはまずは私の新作を読んでいただくしかないかも知れない。じゃあ「読みました」と言われたら説明するかって? いやいや、それは、それこそ興ざめ、幻滅、というものではないだろうか。

〈まつりのあと〉は、語ってしまっては〈あとのまつり〉なのである。そこにある秘密の芳香を、このエッセイに感じ取っていただきつつ、今夜は筆をおきたい。

 なぜかといえば──長男が夜食にパスタを作ってほしがっているからだ。ではでは。良い夜を。

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 新刊『偽恋愛小説家、最後の嘘』発売となりました!

「雪の女王」を題材に、真夏の凍死体、幻の遺稿争奪戦といった事象に夢宮宇多が巻き込まれる超エンタメミステリ長編です。どうぞよろしく。

今回は私のサイン本と夢センセの登場する特典小説が当たる企画があるようなので、ぜひこちらのサイトも覗いてください。

 なおこのお題公募エッセイはあと5日続きます。
タイトルもまだまだ募集中ですので(すでにご応募いただいた中からももちろん選ばせていただく予定です)、引き続き、#森晶麿エッセイタイトル、と付けて投稿してください。たくさんのご応募お待ちしております。

 

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