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千夜恋夜物語「憂鬱な象みたいな」

 筆箱というものを、トワは一つだけもっていた。

 文字通り生涯で、一つだけ。

 先週、叔母の一人娘にあげたやつがそれだ。

 あれはもともと、小学校に上がるタイミングで、

 叔母にプレゼントされたものだった。

 革製の、とくべつ憂鬱な象みたいな群青色の、直方体の筆箱。

 渡された時点で、すでに群青の革には無数の傷跡があり、新品の商品でないことがうかがえた。

 叔母は言った。

「この筆箱は私にはもう必要ない。でも私に必要がないだけでとても興味深い筆箱であることに変わりはない」

 トワが「興味深い」と思えたのは、叔母がただの一度も「大切」といったような形容をしなかったこと。

「興味深い」とは、とりもなおさず、その筆箱と叔母との間に何らかの隔たりがあることを意味していた。

 叔母は優秀な看護師だった。人の生き死ににも冷静に対処し、どんなときでも勇気ある行動を貫く人だった。が、トワが中学に上がるより少し前に結婚してからは、いくらか功利的すぎるところが顔をのぞくようになった。

 たとえば、トワの母や祖母の前で、遺産は自分がもらい受けていいか、と白昼堂々と打診して、まだ生きていた祖母とトワの母の度肝を抜いた。

 本人はまったく気にする様子がなかった。

 叔母の結婚相手の男も一緒になって得意満面で遺産相続の話をしていたから、余計に祖母も母も気が滅入った。

 トワは母や祖母の狼狽する姿を目に焼き付けた。

 そして、あの叔母から筆箱を譲りうけたのだ、と思うと、そのたびに奇妙な気持ちになった。

 その筆箱は最低限の道具が辛うじて入る程度の容積しかなかった。

 三色ペンを一本とコンパス、定規、小さなペーパーナイフを入れた。それだけあれば、学校という世界を生き抜くのにじゅうぶんだった。

 あるとき、トワの机にクラスメイトの男の子が現れて、おっぱいを触らせてほしいと懇願した。おっぱいがどれほどの価値をもつのかもよくわからなかったトワは、べつにさわらせてやってもいいかな、と思った。

 でも、そう考えるよりも先に乱雑にクラスメイトはトワの胸をぐいと触ってきた。その不快感から、気が付くとペーパーナイフを突き出していた。

 クラスメイトは恐れをなして退散した。

 トワは、侍が刀をしまうみたいに、ペーパーナイフを筆箱にしまった。

 侍が、刀を、しまう、みたいに。

 高校時代にはじめてできたボーイフレンドも、触り方が下手だった。

 触り方が下手な相手に遭遇するたび、トワはペーパーナイフを突きつけた。

 そして危機が去るとまた、侍を真似て筆箱にしまった。

 べつにトワは、身持ちを固くしたいとか、絶対に誰にも体を許すまいとか思ってきたわけではなかった。

 ただ、触り方がいやだとかいった理由で、そのたびにペーパーナイフを取り出し、遊戯をストップさせてしまっただけだ。

 友人の多くは、高校時代にセックスを経験した。多くの友人にとって、それはステイタスとも密接に結びついていたし、たとえトワが経験したような不快感を彼女たちが感じていたにせよ、彼女たちはそれを暗黙のうちにやり過ごすすべを身につけていたに違いなかった。

 だってセックスとはそういうものだから。たしょうガサツで、不快なことのいくらかも併せ持つ、そういうものだから。

 反対に、それを許さないで遊戯を終わらせてきた自分を誇る気もなかった。そもそも、それが自分自身の気高さに起因しているとは少しも思えなかった。

 どちらかというと、ペーパーナイフが、あるいはペーパーナイフの寝床である群青の筆箱がもたらしている規律ではないかという気がした。

 それからふと、叔母の結婚年齢に思いを馳せた。叔母は35で結婚した。何度も恋愛は経験しているはずの叔母が、30過ぎてからの結婚に至ったのは、あの筆箱が関係しているのではないか。

 叔母はなぜ筆箱を手放す気になったのか。そして手放したいま、叔母はそのことを後悔する気持ちはないのだろうか。

 トワは叔母の結婚相手が好きではなかった。親戚の間でも評判がすこぶるわるい。あんな下品な男、一族に引き入れたりしないでほしかった、とトワですら思っていた。けれど叔母はそれをした。そしてかなりの下品さと、功利的な精神を手に入れた。

 叔母は筆箱を捨て、トワの家系の厄介の種となって意気揚々としている。トワにとって、そんな叔母の姿は体のねじれたカマキリを見るように奇怪で、不快だ。

 しかし今年に入り、ふと思うようになった。もしも次に好きになった相手が、デートで、がさつで、不器用で不快な触り方をしてきたら、自分はまたあの筆箱に手を伸ばしてしまうのだろうか、と。

 そう思ったとき、トワはあの筆箱を早いところ誰かに押し付けなければ、という気持ちになった。あの高潔な筆箱さえなければ、自分はすべてを繊細さに欠ける男の手に委ねることができるかも知れない。

 そうして先週、四歳になる叔母の一人娘に、ようやく筆箱を渡すことができた。もちろん、叔母が生きていれば、快く思わなかっただろう。

 トワは必死で動いたのだ。自らの人生を一歩前に進めるために。

 こめかみに刺すのに、コンパスの針ほど適したものはなかった。当然トワは捕まるつもりでいたのだが、叔母の背中にはすでに無数の針の穴があって、夫が捕まった。叔母は、筆箱を手放したとき、同時に毎晩針で刺されることを許容していたのだ。

 トワは今日、新たに好きになった人と、たった数秒前にキスをした。

 その人物がどのような抱き方をするのか。またはどのような刺し方をするのか、まだこの瞬間、トワは何も知らない。

 遅すぎた、と思う日が、もしかしたら来るのかも知れない、と思いながら、それでもトワは男の背中に、手をまわした。そして、男のごわごわとした手がトワの髪を乱雑に撫でるのを受け入れたとき、こう思った。

 ああ、いま自分のなかでもあの筆箱が過去形になろうとしている。「興味深い」、そんなふうな存在に、変わろうとしているのだ、と。

 目を閉じる。とくべつ憂鬱な象のような群青色の夜が、始まりそうだった。

 

 

 

 

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