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強度のある批評

上記の記事は、noteのトップ画面でおすすめに入ってきたので読んだ。
この記事を批評する。

価値を創造することが批評のことだと定義しているがその理由が特に書かれていない。そして唐突に述べられる「強度のある批評」が何なのかが判らない。更に批評の原理という一文の後「二十歳のエチュード」の引用文。当記事の筆者が考える「批評の原理」として挙げたと推測するが本文から読み取れるのは、批評"することは"自己の許容に等しいとなにやら説明していることであって、当記事の筆者の示した「批評の原理」に関する説明になっていない。そうして「解剖すること」が「批評」だと考えると持論を展開したが、この時点で当記事における「批評」の定義が依然として読者には不明であり「解剖すること」と繋がらない。その後には「瞑想」「仏教」と話が飛躍して完全に置き去りにされる。

一般定義としての「批評」は価値を判断し論ずること。よって価値を創造することとは別の行動となる。しかしある「批評」が一定の支持を得られるなら、価値を創造することの一環としての「批評」があると考えていいのかもしれない、と説明できる。全ての批評が「価値を創造」するわけではない。「原理」とはある現象や事象が起こる根本的な理由や法則である。「批評の原理」には「価値は不変ではないという根本的な理由」と「需給により変動する法則」があるからと説明がつく。「強度」は強さの程度、又は度合いが強いことをいう。「強度のある批評」は一般定義だけで説明ができない。なんの強度なのかは文脈によるから。

筆者は"(いわゆる)批評家は卑怯で大嫌い"又は"ある新書を少し読んだが全然響かなかった。テクニックばかり書いてあったからだ"と述べている。そうして"「自己の感受性」と「知識」を頼りにして、「ことがら」を「解剖」することが批評だと考える。"と強調している。これらに基づいたら筆者の考える「強度のある批評」になるのだろうと仮定してみる。「自己の感受性」は「(いわゆる)批評家は卑怯で大嫌い/響かなかった」というような感情が含まれるのだろう。「知識」は「少し読んだが」「テクニックばかり書いてあった」と判断を下した根拠になるのだろう。「ことがら」は事件でも作品でもなんでもいいとのこと。

「解剖」は(文構造などを)分解・分析して明らかにすることなので主観的な「自己の感受性」と相容れない。批評は主観的でも構わないが解剖は対象に対して行うもので事実しか必要がない。「知識」は必要だろうが、筆者の感受性に基づきその対象を「少し読んだ」で「卑怯」「大嫌い」など内容を判断していることから、この「知識」は読者が考えている水準と乖離している可能性があるため注意が要る。ここまでの仮定を踏まえると筆者の云う批評の4要素のうち純粋に機能していそうなのは「自己の感受性」のみで、筆者はこの要素の強弱で「強度のある批評」を決定している可能性がある。

もしこの場合には「強度のある批評をしている人って見かけない」ではなく「自分に刺さる批評をしている人を見かけない」が適切と思われる。批評を重んじているのにどうしてこんなに曖昧なのだろう。

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