わかる?わからない?身近なひとの発達障害

前回、当事者のかたに発達障害の診断を受けようかと相談したときのことを書きました。
今回は、その後身近なひとたちに「診断受けようかな」と話してみた様子を書きます。

夫は基本的に、夫婦それぞれの考えを尊重してくれるナイスガイなので「お!そうなんだー」という感じ。久しぶりに美容院行こうかな、と、精神科に行こうかな、へのリアクションが変わらない。

ただ私が発達障害として診断を受け服薬する必要があるのか、ということについては、正直よく分からないようでした。
得手不得手を分け合ってくれ、落ち着いた生活を得ているのは夫のおかげで
それまでの破滅的なところなどは目の当たりにしていないとか、自分が迷惑を被っていると感じていないからかなぁとも思います。

付き合いの長い友人にも話してみました。
「え?発達障害とかそういうあれではないんじゃないの?」というリアクション。
え、むしろそういうあれではなくてこんな性格だと思った上でここまで付き合ってくれてたの?それは愛じゃね?と思いますが

なるほど、発達障害に見えなかったりするんだなぁという発見がありました。
(その2人が定型かっていうと微妙なんじゃないかなとも思っていたりしますが…)

ここのところ発達障害をオープンにしていたり、カミングアウトしてくれる人と話す機会がいくつかあり
確かに、彼らのなかには「え?そういうあれなの?」と思わされる「きちんとしていて常識があり、感じよく、社会に馴染んでいる」ように見える振る舞いのひともいたのでした。

ただ親しくなっていくと、社会生活の中で抱えてきた、抱えている困難を共有できてびっくり、みたいな展開にもなるので
過剰適応型のひとはもう全然わからんな、わからんけど苦しんでいるんだな、とにかく黙っている。自分のそういう部分がバレないように一生懸命だったりするのは、とても辛いのではないかと思います。

私は適応失敗タイプですが、こういうタイプのクズとしてある意味キャラづけされており、
それはつまり、失敗を揶揄したり笑い話にできるものとして機能してきたわけです。
それを「障害」と言われたら、周りはすわりが悪いだろうなぁなんか真面目な雰囲気になっちゃうし。とも思います。

あるひとには「典型的な特性を強く持っている」と見えて、ほかのひとには「そういうあれなの?」と見えたりするのは
なんというか、面白いなぁと思ってしまいました。
診断が下りても下りなくても、今まで困ってきたし困っていることや、私が私であることは変わらないのですが、もしかしたら診断を取ることで、周りとの関係にも変化が起きるのかも知れません。未知の領域です。

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