平成5年7月7日、雨。
どうしても7月7日と書くと天気を書きたくなってしまうのはあの歌のせいだろう。29年前の今日、私の祖父が死んだ。癌だった。
私の目に映る祖父は変わった人間だった。超せっかちで、私の家にやってくるときはベランダからやってくる。駐車スペースからだとベランダから入った方が近いからだ。そしてコーヒーのお湯が沸く前に、とれたての農作物やらお土産を置いて去っていく。万が一コーヒーを淹れたとしても、祖父は猫舌である。氷や水を入れて飲む。コーヒー好きが発狂するかもしれない冒涜だ。せっかちすぎてテレビのチャンネルをいつもカチカチしていた。我々に見たい番組の選択権はない。
私は母方の祖父母にとっては初孫にあたる。同じ学年の異性の従弟がいる。同じ年齢ということもあって、従弟と私は長期休みのたびに祖父母宅に泊まりに行っていた。大旅行というほどではない。同じ市内、そこそこ近い距離だった。祖父は突然思いついたようにどこかへ連れて行ってくれた。泊りだったり、日帰りだったり。夕食後に突然本屋に行くという時もあった。「行くぞ」と言われたらすぐに準備しなければいけない。祖父は5分しか待ってくれない。
祖父と買い物に行ったときに、立ち止まってはいけない。「これ欲しいのか」とすぐにかごに入れてしまう。母は小さい頃、当時珍しかった生のパイナップルの前で立ち止まってしまったために、祖母はパイナップルを捌く羽目になったと聞いている。同じような理由で好きなものを最後に食べてはいけない。取っておくと嫌いなのだと勘違いされる。祖父は最後まで我々の食事を見ていない。
祖父は携帯電話を持っていた。今ではほとんど見かけないぐるぐると回すタイプのダイヤルが付いた黒電話である。小さな個人経営の会社を営んでいた祖父は休日でも仕事の電話がかかってくるため、昼寝の時は居間にあった電話線を引っこ抜いて寝室に持って行き、寝室で改めて電話をつなぎ、電話の横で寝ていた。まごうことなき携帯電話だ。
そんなせっかちな祖父は沸点も低かった。スーパーで買った漬物が固かっただの、事あるごとにクレームの電話を入れていた。当時幼稚園児だった年下の従弟妹たちは祖父のことを怖がっていた。うじうじ泣いていると2階の窓から落とされそうになった。その窓にはいつもするめやら魚が干してあった。その匂いを嗅いでか、時々半野良の猫が祖父母宅に来ていた。猫がするめを食べると腰を抜かすからといい、するめは祖父の腹の中に納まった。
あるとき,祖父が弟と妹に自転車を買ってくれることになった。弟は18インチの自転車。母は,妹には私のおさがりの20インチの自転車があるのでそれでいいと言った。祖父は激怒した。いつも妹にはおさがりばかりだと。祖父が弟妹それぞれに18インチの自転車を買ってくれた。
学校に父が来た。水曜日雨だった。上履きから外靴に履き替えながら、玄関の外にへちまかひまわりか何か植えられていたのだろう、その緑色がやけに不気味で、湿気がひどくねっとりとした感触を感じた。触れてもいないのに。「おじいちゃんが死んだ」と父が言った。「うそ」と反射的に言った私に父は「本当だよ」と答えた。
生き急いでいたのかもしれない。闘病生活は短かった、1年くらいだろうか。元々は超が付くほどの真面目人間だった祖父は命にかかわる怪我をしてから破天荒な性格になったという。破天荒ではあったが、行動力を良い方向に動かしたことも多いと聞く。(困っている母親たちを見かけて託児所を立ち上げただとか。)影響力のある人間だったことも重なって、周囲の人間が心の準備ができぬまま逝ってしまったように思った。
どうやら親族一同の話を照らし合わせるに、従弟全員祖父に自転車を買ってもらったらしく、祖父が死んだとき、一番下の従弟は3~4歳くらいだったと思うが「ぼくのじてんしゃ、ちいさくなっちゃったのに」と泣いていた。多分それは三輪車。
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29年経った。驚くべきことに、定期的に祖父の話は実家で話題に上る。キャラが強すぎたのだ。漬物が固かったら、テレビで失言があったら、自転車がパンクしたら、なにかにつけて空を見上げて「じいちゃーん!」と呼ぶのがお約束になっている。祖父と過ごした時間よりも何倍も長い時間をかけて、逝ってしまった祖父を話題にしている。
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