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ちょっと長めの図書紹介⑯


めがね旦那さまとの出会いはTwitter──
あ、いまでは「X」か。
もちろん一方的な出会いである。
当時の固定ツイート、
「X」では固定……なんていうんだろう?
そんなことはどうでもいい。

「学校の本質は工場」(2019年03月26日)
この文章を読んで動揺した──だが、
言い得て妙、とも思った記憶がある。

以下、当時のツイートを引用しよう。
(「X」ではツイート=ポストと呼ぶらしい)
────
  炎上覚悟で言います
  【学校の本質は工場】です
  均質の子どもを6年間という
  レーンに乗せて製造する工場

  異質とされるものは排除され
  同じような価値観の製品をつくる工場

  社会が求める水準の人間を作り上げる
  ただの工事
  それが学校の本質

  賛否両論受け付けます
  この本質を見ずに教育は語れない

https://twitter.com/megane654321/status/1110369005565403136?s=20
────
個人の感情や経験を優先することなく
現象から語る教育の本質は
本書でも変わらない。
さらにそれはサブタイトル
「悩み、葛藤し続ける教師」を生成していく。
わたしは教師ではないが、
教育界に身を置いている人間なら、
「悩み、葛藤し続ける」沼で
もがくことになる。
いや、それは意図的であり、
むしろ肯定的に捉えるべきだし、
それが本書の価値、そして意義でもあろう。

中途半端な覚悟や
準備では読めない本だ。
読むなら
夏休み中のいまがベストかもしれない。
いずれにしても取り扱い注意である(笑)。

出版社のウェブサイトによれば、
「内田樹氏の『困難な成熟』に
 インスパイアされた著者が、
 学校とは、教育とは、
 何が教育を「困難」にしているのか、
 そして、教師としてどうあるべきかを
 テーマにまとめた」本と紹介されている。

わたしは『困難な成熟』を読んでいないが、
ところどころの注で
その引用や説明も加えられ、
関係性をなんとなく考えながら
読み進めていたが巻末の対談
「内田樹と公立教師が語る教育論」を読むと
著者の「インスパイア」感覚が
より理解できた。
『困難な成熟』を
読んでいない場合は
巻末の対談から読むことで
本文からもその繋がりを
強く感じることができるだろう。

さて、本書には著者が師匠と呼ぶ
内田樹氏を始め、
さまざまな書籍や名言の引用から
話が展開されていく場面も多い。
たとえば──

生徒指導のくだりでは、
「常識とは18歳までに身につけた
 偏見のコレクションである」(p.068)
          ──アインシュタイン
教師は「教える存在」というくだりでは、
「愚者は経験から学び、
 賢者は歴史から学ぶ」(p.095)
          ──ビスマルク
さらに、
ヘーゲル(p.006)、マルクス(p.080)
デューイ(pp.091-092)だって出てくるし、
『東京卍リベンジャーズ』(p.041)
『Dr.STONE』(p.097)
「水戸黄門」や
「スーパーマン」も登場(pp.074-077)。

このように教育の話題を
一般化して語ることに著者は長けているし、
それがおもしろくてわかりやすい。
これらのくだりから
どんな教育論が展開されるのか
それは本書でぜひ確認してみてほしい。
本書の構成は、
第1章で「教育を捉え直す」という
総論的提起から始まり、
第2章は「教育を疑ってみる」と繋げ、
第3章に「教師としてどうあるべきか」
という着地点が用意されている。


ここからは、私見を述べていこう。

著者は小学校の教員である。
中学校でも近いものはあるが
特に小学校では
子どもにもおとなにも厳格な約束、
「〇〇学校スタンダード」などという
学校が決めたルールが
敷かれている印象が強い。
それを全体で守ることに
意義があるという雰囲気を肌で感じていた。
本書には、
「どうしてほかのクラスと同じように
 掲示物を貼らないのか」という校長の指摘を
「突っぱね」た記述がある(pp.102-107)
「授業中にトイレへ行く方法や約束」も
独特の取組があるようだ(pp.070-071)。
信念はあるがそれを貫くことで
「集団の中で浮いてしまう」(p.192)ことを
避ける教員は多く存在していると思う。
著者がその信念を
貫ける根底には内田樹氏がいう
「勇気」〈少数派に耐る〉(pp.192-193)に
インスパイアされている節もあるのだろうか。
信念を貫くことでただ混乱を生むことと、
その行動に意義が伴っている乱れは違う。
集団が前提である学校や世の中で
「勇気に道徳的価値」(p.194)があることを
子どもにも伝え、
おとなも学ぶ必要がある。

工場論以来、
久しぶりに読んで動揺したくだりがある。
「学校を『教師と子ども』だけの
 空間にする」──
これが著者の
「教育を『困難さ』から
 解き放つ術」(p.164)であると
結論づけている部分である。

説明を加えれば
ステークホルダー、
たとえば保護者や教育専門家などの
いわゆる学校へモノを申したいひとの多さが
教育を困難にしているという指摘である。
著者本人の言葉で説明を加えれば
「学校への『無条件の信頼』という
 要素が不可欠」(p.014)である
ということ。
「『無条件』という言葉に引っかかって
 しまう人もいるかと思います」(p.014)
という説明もあった。

──はい、引っかかりました(笑)。

「僕は自分で納得した理由をもとに
 教育実践を行いたいのです」(p.106)
とまで書かれてしまうと、
排他的意識が強そうでやはり引っかかる。

でも、自分なりに「悩み、葛藤」してみた。
そこで教育権という概念を持ち出してみる。
「自分で納得した」ということは
換言すれば専門職としての教師が
納得したことと置き換えられる。
これは教師の教育権を担保する意味で正しい。そう考えられるし、
「自分で納得した理由」ではなく
「押し付けられた理由」で実践するよりも
ずっといいとも思えてくる。
でもそれは──
子どもの学習権を保障するためであり、
親の教育権と教育要求権も加味した
教師の教育権である。
ステークホルダーの吟味には
慎重な部分も必要だ。

おそらくわたし自身も
内部的・外部的な立場から
教育を困難にしているステークホルダーとも
いえるだろうし、
「無条件」に信頼できていない立場でもある。
そこでもうひとつ
教育の内外区分論を持ち出してみる。
著者が欲している「無条件の信頼」は
内的事項の部分(教育内容)だと考える。
わたしのそれはおもに
外的事項の部分(教育条件)について
「無条件」の信頼が置けないという主張だ。
──ということを葛藤の末、整理してみた。
ここで深くは語れないが、
個人的にはスッキリしてしまった。
いや、まずいこれは著者が指摘する
「自己完結の輪」(p.205)……。

さて、わたしも前述したように
もっと書きたい(語りたい)けど
セーブした部分が本書(著者)にも
多くあるのではないかと行間から感じる。
「縷々述べ出せば、
 それで1冊の本が書けて(‥)」(p.076)
「ここでは割愛します」(p.142)
「別の機会に論じることにします」(p.143)
という記述もみられるし、
「脱線話」(p.015)もまだまだあるだろう。
きっと第2弾の発売も近い。
次回作『困難な教育2』or『Z』、
いや『超』か──
なんでもいいので期待したい。

若染雄太さま、
いつもご恵贈ありがとうございます。


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#めがね旦那
#内田樹
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https://www.gakuji.co.jp/script/bkDtl.php?prodid=978-4-7619-2939-8

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