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一周年だそうです。

誰かのためになることが沢山載っていて、統一感があり、かわいくてかっこいい文章が書きたい。そういうのしか載せたくない。と思うけれど、自分にそれを求めても、全っっっ然始められる気がしない。

物事を身につけたり、考えたり、知識や考え方を自分のものにするには、やはりアウトプットに力を入れていくのがいいらしい。本当なら、もっともっと人が読みやすくて読みたくなる何かを生み出したい。そんな気持ちはいくら下書きに書いても尽きない。

尽きないなら、もういい。

いくらやっても尽きないのだから、もう出しましょう。

等身大の自分で書く時、ひどく幼く、痛々しい姿が浮き彫りになることが怖い。「これ、思春期の時から考え続けていて私は未だに脱していないのか」とか、「これに今やっと気づいたの」とか、自分についつい厳しい突っ込みを入れてしまうが、

多分、そんなことを自分にしなくていいということも、最近になって気づいた。

なぜそういう突っ込みを入れるのか。その背景には、「他人(ただし自分の周囲というごく狭い世界の他人)」「世間一般の普通(と自分が思っているもの)」「年相応(と自分が思っているもの)」というものの存在がちらつく。要は、気にしない気にしないと思いつつ、色々なものと自分を比べているのだ。もしかしたら、自分の頭のなかのイメージでしかないかもしれない「この世界」なのに。

しかし、百歩譲ってその比較した結果の「自分」が正しいものだとしても、もうそんなの仕方がない。ここまで長いこと生きてきて、幼かろうが痛かろうが、それが自分。それでも、生きてこれただけで充分よかった。ありのままを、そういうものだと存在レベルで認められるかどうか。いわゆる、自己肯定感というものだ。

3日前くらいに、noteを始めて1年というバッチをいただきました。奇しくもこのタイミングで、また、なんでもいいのでとにかく書いていこうという気持ちになったところに、noteの存在を思い出しました。そのくらい、書いていませんでした。1歳になったので、また、新たな気持ちで等身大のアラサーじたばたブログとしてここに綴っていけたらと思います。

いつか、誰かのためになることが沢山載っていて、統一感があり、かわいくてかっこいいnoteになったらいいなぁ……

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