#10 若者の逃走劇
恐怖と暴力が支配していた銀座時代。
北斗の拳のカサンドラです。
我々に人権などなく、言い訳や反論を口にするものすらいませんでした。
みんな週末になれば目の下にクマをつくり、
大量のカフェイン飲料とニコチンで誤魔化し、
休日は寝て終わるという日々。
シェフの機嫌をそこねれば村八分にされ無視されます。
私も村八分にあい、口すら聞いてもらえないこともよくありました。
※村八分とは殴られた後シェフの怒りが収まらない場合4日間から10日間ほど無視される状態。
他のスタッフとはいつもより楽しそうにして、
より孤独感を演出する恐ろしいイジメのこと。
土曜日のランチのメニューを木曜日にいつも決めるのですが、無視されているのでと何も言えず、勝手にメニューを決められます。
そこでシェフが鴨のもも肉のコンフィーにすると勝手に決めます。
コンフィーとは低温の油でじっくりと火を入れる調理法です。
手順としては、もも肉に塩をして一晩置いて味を染み込ませ、その後油で3時間ほど煮ます。
木曜日に決められても、納品は金曜日の夕方です。しかも冷凍で来るので塩をすることすら出来ません。
金曜日の夜中に解答後塩をして、朝の8時には火入れを開始しないと間にあいません。そもそも一晩置く過程を省いてるので本当は間に合いません。
泊まりが確定するし、難癖つけられたらアウトです。
しかし村八分状態なので何も言えません。
そんな無茶苦茶な職場でしたので、離職率も尋常ではありません。
おそらく一年で10人とか辞めた年もありました。
このシェフなぜか他の店舗の心配をやたらとして、自店のスタッフが泊まって仕事するくらい大変なのに、ヘルプでスタッフを貸し出すんです。
なので私などはヘルプにいって、そのまま深夜は自店で働くという謎の二刀流をやっていました。
ヘルプ先はお客扱いというのもあり天国でした。
しかしこの後24時から戻って働かなければならないと思うと憂鬱でした。
その日も天国から地獄へ向かう途中に衝撃の情報が耳に飛んできました。
酒井君が逃走したと。
酒井君とはガッツのかたまりの様な後輩です。
私と同様にポンコツなんですが、朝から朝までいつもがんばっていました。
その頑張りが認められ当時私と前菜係をやっていたのですが、営業中にいなくなったとのこと。
あいつに限ってそんなことはないと思いましたが、
帰ってみると酒井君はいませんでした。
酒井君は少々天然なところもあるので、なぜか着替えなどはロッカーに残されていました。
よく辞めるスタッフが多いと言っても、入ってすぐ辞めるので、酒井君とはもう3年以上の戦友です。
どうせシェフが理不尽にキレたのだと容易に想像できました。
みんなはニヤニヤしながら帰っちゃったとか言ってましたが、なんだかむかつきました。
おそらく勢いで逃走したものの、財布を忘れて困っているのでないか?
信じられないかも知れませんがあり得ます。
深夜2時に電話がつながりました。
どこにいるのか聞いたら新橋にいるとのこと。
隣の駅です。我々がサウナに行く聖地です。
私の予想通りでした。私は新橋あたりを徘徊していると思ってましたので。
近くのマクドナルドに呼びます。
コックコートのまま現れました。
もうほぼ変質者です。
深夜2時に新橋をコックコート姿で死んだ魚の目で徘徊という、補導されてもおかしくありません。
とりあえず話を聞くと案の上理不尽にキレられたそうです。
今までいろいろ我慢してきたがもう限界とのこと。私も止められませんでした。
しょうがないですよね。
このまま辞める訳にはいかないから明日ちゃんと会って辞意を伝えるように言いました。
すこしの寂しさもありましたが、同時に安堵感というかその方がいいよなとも。
翌日シェフと面談してました。
シェフも言い過ぎたと謝罪するのかと思っていましたが、鬼の形相でキレてました。
そうですここはカサンドラでした。
脱走を図ったものに温情など1ミリもありません。
獄長は辞めるのも許さんとおっしゃっておりました。
結局酒井君はめでたく残留が決まりました。
やまない雨もある、そんな出来事でした。