覚醒者と孤独
目醒めたものには、どこか哀愁が漂うものなのだろうか。
あぁ、これは完璧に私が抱いていたイメージだ。
悟りを開いた者は孤高の人である。
で、少し孤独に憧れた。
しかし、これは外側から見る視点であって、
覚醒者が孤独を感じているとは限らない。
私は今、自分の孤独に愛を送る。
私は今まで、内なる孤独の部分を抱きしめたことがあっただろうか。
孤独で何が悪い?
だけど、私は孤独でいることが怖かったのだ。
だから一人でポツンといる人を放っておけず、外国人でさえ、言葉ができないのに、話しかけたりした。
こういう行動をお節介と呼んだりもするが、これは自分の怖れからでた行動だったのだな、と今ならわかる。
最近、「仲間作り」というワードがとても氣になっていた。
同じ方向性の者同士で、コミュニティを作る重要性。
今までも、仲間はいた。
だけど、私はすぐに他者に合わせてしまう。
その時、自分が隠れてしまうようで、居心地が悪かった。
だから、自分を隠さずに、自分らしくいる場を求めてきた。
そして孤独になった。
きっと…
私の中にある「誰かに認めてもらいたい」「誰かにわかってもらいたい」という氣持ちが拭えない限り、その反動で孤独を味わることになるのだろう。
なぜなら、誰も私のことをわかってくれない。
誰も私のことを理解してくれない。と私が決めているからだ。
承認欲求はどこからくるのか?
私が他者から認めてもらいたい、という氣持ち。
すなわち、私がわたしから認めてもらいたいという願い。
自分が自分を認めなければ、永遠に承認欲求は継続する。
それを孤独というマントにすり替え、孤独のマントで自分を包み、自分を誤魔化す。
実はエゴちゃんはそのマントが好きなんだね。
自分を認め、自分を愛し、自分を褒める。
やることはただそれだけ。
そこには孤独という概念は必要なかった。
他者がいる、という幻想の中でしか、孤独もまた生まれてはこない。
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