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日本で感じる多様性~ニューロダイバーシティの話~

つい先日、ニューロダイバーシティ(神経多様性)という言葉を知った。ダイバーシティは小池都知事がよく発していた言葉なので知っていたが、ニューロダイバーシティという言葉は今まで知らなかった。

きっかけは私が適応障害になってしまったことだ。

適応障害やらぐるぐる思考について色々調べたいと思いネットを検索し、精神科医益田裕介先生のYouTubeにたどり着いた。

益田先生のYouTubeには「多様性」という言葉がよく出てくる。ここでいう多様性は主にニューロダイバーシティのことだ。

ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)とは、Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)という2つの言葉が組み合わされて生まれた、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもあります。

経済産業省のHPより

私が働いていた医療・介護業界でダイバーシティを感じたり深めたりする機会はあまりなかったのだが、このニューロダイバーシティについて思い出したエピソードがあるので、自分のための記録として残すことにした。


  

10歳年上の新人は大人の発達障害?


38歳の新入社員  

数年前、私が28歳だった頃である。私はとある脳神経外科病院で医療事務スタッフとして働いていた。土日の緊急手術も含めほぼ毎日開頭手術や血管内手術を行っている忙しい病院である。

ある日、中途採用で新入職の男性スタッフが医事課に入職することになった。前職は銀行員、しかもメガバンクではないにしろ、誰もが知る大きな銀行の行員だったらしい。

年齢は38歳、私より10歳年上である。30代後半で元銀行員の新入社員が来ると聞き、医事課のスタッフはざわめいた。数十名いるスタッフはほとんどが20代で、特に元銀行員が配属される外来部門は20代前半が半数を占める。30代後半で残っているのは管理職くらいだ。

そしてなんと、私がその元銀行員の指導係となることになった。どんな人だろう? ドキドキしながら初日を待った。

勤務日初日、細身で眼鏡をかけた、いかにも銀行員を連想させる男性が雑然とした医事課に現れた。グレーのスーツをビシッと着込み、なんだか医事課の空気になじまずチグハグしたような感じに見えた。

「田中です(仮名)」

田中さんは丁寧にあいさつしてくれた。初日の印象は悪くなかった。若い20代のスタッフも積極的に田中さんに話しかけた。

業務指導に悩む日々

一通りオリエンテーションを済ませた後、翌日から医事課外来業務の指導がスタートした。主に受付や会計での患者対応、各診療科での患者対応、コスト入力、電話対応、そしてレセプト(診療報酬明細書の作成・点検)である。

今まで通りの指導方法でスタートしたのであったが、私はここから田中さんをどう指導するか、悩みに悩む数か月を送ることになる。

10歳年上の元男性銀行員なので、一般的に見れば「プライドが高くて大変そう」とか「20代のスタッフの言うことを素直に聞かなそう」と思われるかもしれない。しかし私の悩みは全く別のところにあった。

田中さんは腰が低く、私の話を中断せず聞いてくれた。プライドの高い様子や威圧感を感じさせることは一切なかった。

遠目に見ると固い印象を受けたが、近寄ると髪には白髪が混じり始め、スーツも少しくたびれた感じでどこか親しみを感じさせるところがあった。

業務の内容を一通り説明した後、パソコンの立ち上げ方を説明した。医事課のパソコンには色々なソフトがインストールされているが、主に使用するのは電子カルテと、コスト入力をして最終的にレセプトを作成するためのレセコンである。

朝出勤した際にはその二つのソフトを含め計4つくらいのソフトをPC起動時に立ち上げる必要があった。

PC起動時に4つのソフトをタブルクリックして立ち上げる。

この作業を覚えるのに1週間を要した。

この時点で嫌な予感がしたが、他の中途採用者と違う特別指導プランを汲むわけにはいかない。そのまま会計やコスト入力指導へ突入した。

嫌な予感は的中した。特に壊滅的だったのが患者さんとのコミュニケーションである。初診・再診受付や各診療科ではコスト入力をしながら患者対応もするというマルチプレイが求められるが、誰かに話しかけらると手元の仕事がゼロに戻ってしまう上、頭の中もリセットされてしまうようで何をしているのか分からなくなり困惑した。

患者さんとの会話は「診断書の内容が希望したものと違う」とか、「先生に聞き忘れたことがある」「傷病手当金の書類はどこで申し込めばいいのか」「予約したのに何時間も待たされた上医師の診察はモノの2分で終了してしまった。病院に来る方が具合が悪くなる」等々、色々ある。

上のように端的に説明してくれればありがたいが、高齢者が多いこともあり大方の患者さんの話は分かりにくい。

「先生に聞き忘れたことがある」と言いたい場合でも、「さっきの女医さんは賢いのは分かるけど私には説明が分かりづらくて困った。本当は〇〇を話そうと思ってたけど先生の話が分かりずらいから忘れちゃって、後から思い出したけど誰に話しかければいいかわからなくて…」と、ただ聞いているだけだと会話が延々と続くことが多い。

患者対応には、患者さんの会話を要約して本当に伝えたいことを抽出する力が求められるのである。

各診療科では会話を理解してもらえず、むっとした顔で再診受付で話し直す高齢女性が続出した。

一つしかない会計はめちゃめちゃになった。長蛇の列から患者さんの苛立ちがひしひしと伝わってくる。脳神経外科の患者さんは気の短い人も多い。

脳血管障害で一時的に仕事ができなくなった患者が何度も通院してくる。タクシーやトラック運転手にとっては死活問題だ。

めちゃめちゃになるポスレジを慌てて田中さんから奪い取り、会計を急いで進めていく。その間田中さんはぼーっと見ている。
患者対応をしようものならまた話の要点を掴めず、フォローしなければならない。

一か月後には疲労困憊してしまった。

酷な現実

状況は最悪である。私の教え方が悪いからダメなんだと言われたくない。
役職者に相談したが具体的な解決策がすぐ出るわけではなく、共感してくれつつも冷ややかな笑みを浮かべるだけであった。

仲の良い同僚はむしろこの状況を面白がっているようだった。「きっと銀行では窓際族だったのよ」と色々噂した。

20代前半の若い女性スタッフ勢は、田中さんが後ろから声をかけるとビクッとした様子を面白がり、患者対応に狼狽する田中さんを見て笑った。

38歳の元銀行員にとっては非常に酷だが、これが現実であった。

しかし不思議なのが、田中さん本人はこの状況を辛いと思っている様子ではないことであった。

実際にはいい気持ちはしないに違いない。しかし笑われても淡々としており、患者対応で失敗しても落ち込まなかった。

ほとんど表情が変わらないのである。落ち込まないのはありがたかったが、同じ失敗が延々と繰り返された。

しかしエクセルだけは他のスタッフより得意であった。

お昼にコミュニケーションをと思って一緒にランチした際、エクセルが得意で感心したことを伝えてみた。

「だからそう言ったのに」と謎めいた答えが返ってきた。どうやら面接の際管理者にコミュニケーションが苦手なこと、淡々とした作業が得意なことを伝えたらしいのである。

表情から感情が読めず、田中さんが自分自身のことを理解できていないような印象を受けていた私はこの話を聞いて驚いた。自覚はあったのか。

なんか変だなあと思った。社員の物覚えの良さにはもちろんバラツキがあったが、どんなに要領が悪い人でも三か月もたてば大方の流れは掴める。
だが田中さんはその気配がないし、言葉のとらえ方が他の人とは全く違っているように感じた。

アプローチの方法を変える

ネットで色々検索し、「大人の発達障害」と題した記事を見つけた。その記事に書いてある発達障害の特性と田中さんの言動に多くの共通点があるように思えた。

そのことを役職者にそれとなく伝えてみたが、問題意識を持ってもらうには至らなかった。

今の状況で数か月指導を続けても改善は見込めないと感じた私は、アプローチの方法を少し変えてみることにした。

田中さん専用の特別なマニュアルを作った。小学生に向けたようなマニュアルだったが、効果はあった。

物事を順序立てて整理することが苦手な田中さんには、仕事の手順をよりルーティン化して伝える必要があった。

失敗の度にこちらが感情的になっては身が持たない。同じ失敗が繰り返されても淡々と処理し改善のポイントを伝えるようにした。

そしてどうにかこうにか、一通りのオペレーションは回せるようになった。周りのスタッフに笑われながら数か月、外来部門1スタッフとして働いた。
しかしやはり、会計入力をしながら患者対応をするというマルチタスクにはどうしても適応できなかった。

半年ほど経過し、田中さんは対面での患者対応が少ない入院部門へ移動となった。対面での患者対応は減ったが、今度は電話対応が以前より増えたためそれはそれで苦慮しているようだった。

  

多様性は肌で感じて学ぶもの

  

なぜ発達障害の可能性を疑ったか

上記が益田先生のYouTubeを見て思い出したエピソードだ。今から約6年ほど前の話である。

今は改善しているか分からないが、当時は同僚や後輩スタッフは誰も発達障害のことについて知らなかったし、管理者達は薄々知っていたとはいえ、問題意識を持って対応するまでの理解はなかったようだ。

このエピソードを思い出して不思議に思ったことがある。

なぜ私は田中さんが発達障害かもしれないと気づけたのかということだ。

もちろん指導担当ではあったが、仲の良い同僚と一緒に「窓際族」と言って笑ってるだけで何もしない選択肢もあったのである。

それなのにネットで調べて核心に近い答えまでたどり着き、マニュアルを作って対策するという能動的な行動をしていた自分に改めて驚いた。

学校の成績は低空飛行で、苦なく高評価を得れたのは美術と音楽だけだった私である。

何となくもやもやして、記憶の海をさまよい思い出したことがある。

  

知らぬ間に体感していた神経多様性

私が中学生の頃である。私はごくごく普通の市立学校に通っていた。規模はその地域では大きい方で、1学年に5~6クラスあった。

私の通っていた中学校は様々な事情により実の両親と一緒に生活していない生徒が多かった。遺伝的に発達障害と認められる人が多かったかは分からないが、実に多様な家庭環境の人がいた。

中学校の学区内に児童養護施設があったのが大きかった。そこに住む中学生に該当する年齢の生徒は全員私の母校に通学してきていた。

その施設より一時的に里親として近隣の住民に引き取られ、一緒に生活している人もいた。

学級崩壊のように荒れ狂うことはなかったが、集団生活になじめない生徒は多かった。どうしても朝時間通りに登校できない人、先生が何度注意しても授業中ずっと寝ている人、盗み癖がある生徒、コミュニケーションが上手く取れず孤立してしまう人、そこから発生するいじめ問題、等々…

大人から見れば家庭環境が複雑な子どもは大変ねとある意味線を引いた見方をしていたかもしれないが、当時の私はよく分かっていなかった。かわいそうとか大変とか、そのような思いを抱いたことはなかった。

むしろ施設で過ごす友達が羨ましいと思っていた。いつも友達と一緒にわいわい楽しく生活できるし、一緒にご飯を食べれるし。

中には私より多くのおこずかいを貰っている生徒もいた。当時の私の友達は施設で過ごしながら、定期的に近くに住む両親と面会する生活をしていた。

「こないだお父さんから5千円もらったんだ」と友達は私に言った。

当時の私はおこずかいなどろくに貰っていなかったので、5千円も貰える友達が羨ましかったしずるいと思った。

今思えば、何かしらの事情で子どもと一緒に過ごせない後ろめたさにせめてお金を渡していたのかもしれない。

他学年でも盗み癖のある生徒と一緒に学校へ謝りに来る施設の先生、ジャイアンのママのように迫力ある里親の女性がギャルと化した子どもを追いかける様子などをよく目にした。

当時はそれが当たり前で何とも思っていなかったのだが、今思えば環境的に、そしておそらく遺伝的にも非常に多様な人と一緒に三年間過ごしていた可能性が高かったのではないかと思う。

多様な人々と一緒に理科の実験をしたり、家庭科の授業でカレーを作ったりしていたのである。

能力が均一な生徒が集まりがちな私立中学ではこの多様性を感じることは不可能だったと思う。

何も知らない子どもだからこそ、その状況をそのまま受け入れ、多様性を肌で感じていた。

多様性とは机上で理解するものではなく、肌で感じて理解するものではないか。

ニュージーランドへワーキングホリデーへ行ったときが人生で初めて多様性を感じ、学んだような気になっていた。だが実は、学生の頃から日本でしっかり多様性を感じていたのだ。

知識だけではなく、肌で感じて体感し、なおかつ知識を用いて言語化しなければ本当の意味で理解したことにはならないのだと、益田先生のYouTubeを見て改めてそう感じた。

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