たったひとつの脳雲
赤ん坊は瞑想を必要としない。
友人家族と2泊3日の旅行にでかけ、そこには1歳児の赤ん坊がいた。彼は目の前に差し出されたもの、目の前にやってきた人につぎつぎと意識を奪われ、そしてそのすべてに夢中になる。
赤ん坊がおかしを食べたくなってぐずる。でも「あっ、あれ見て!」と指で窓の外をさされた刹那に、外を走る消防車への興味であたまはいっぱいである。もちろん、大人の思惑が詰まったそんな誘導ではごまかされない場合もあり、そのときはおかしに意識が集中しつづけている。
ゲームの『あつまれ!どうぶつの森』をやっているとき、道端で足もとに何かを発見すると、私の操作する主人公のあたまからポワンとちいさな雲状のものがでて「きのえだ」とか「ざっそう」とかの文字が浮かぶ。
私はそれを脳雲(のうぐも)と呼んでいるのだが、この脳雲を見るといつも、こいつ今あたまのなかが「きのえだ」でいっぱいなんだ……という感慨が生まれる。じっさいにゲームをしている私の脳雲は、商店であれを売ってから博物館にこれを寄贈して、こわれたつり竿を作りなおし魚を5匹釣って、とあらゆることを先手で浮かべているというのにこいつときたら! たったひとつ「きのえだ」ですってよ!
人間は成長するにつれ、この、目の前のひとつのできことだけを捉えておく力をどんどん失う。代わりに目の前にないものを想像する力がつくのだが、それが便利でありやっかいでもある。
甘くておいしいモンブランを食べているときは、そのモンブランのことであたまを埋めつくしたい。なのに、ここのモンブランおいしいから今度は家族つれてきたいな。あ、帰ったら洗濯物干さなきゃ。そういえば来月いく旅行のためにやっておく手続きまだできてないんだった。帰りにスーパーに寄って……とこうしていま食べている目の前のモンブランから脳雲がどんどんふくらんでいく。きっと頭上にはあたまのサイズの10倍くらいの雲がいつもでていて、しかも関係のないことをつぎつぎに考えているから、きっと雲の色や形はたいへんにいびつなものだ。
ふつうに暮らしていれば脳雲の大きさや姿をコントロールすることはできない。きれいな脳雲をポワンとちいさくだす(つまり、なるべくひとつのことだけを考える。なくすことはたぶん不可能だろう)ために瞑想という技法があるくらいで、それを極めた者は達人の扱いを受けるほど、至難の業なのだ。
赤ん坊が世界を知っていくことはおおいに祝福される。動物や食べ物の名前を覚えて口に出せたり、ばいばいと手を振るようになったりするようすをみると、あらゆる大人が手を叩いてよろこぶ。
複雑な世界を知るほどに脳雲はふくらみやすくなり、そうしてたっぷりと世界を脳に積みこむと今度は、目の前のひとつのことに意識を集中させる、つまり勝手にふくらむ脳雲をちいさくするための訓練をする。でも、まるで赤ん坊みたいに脳雲がちいさかったら「視野がせまい」なんて言われてしまうのだ。集中力と広い視野。どうやら大人はある程度、自力で脳雲を大きくもちいさくもできるようにならないといけないらしい。大人は求められすぎている。
ああ、私はただ赤ん坊みたいに、あつ森のなかの自分みたいに、たったひとつのきれいな脳雲をポワンとだしてみたい。ほんとうに訓練でかなうものだろうか。私の脳雲がちいさく浮かぶことは、この先一度でもあるだろうか。
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