ジョーカーとはなんだったのか

映画ジョーカーをレイトショーで見てきました。

興味はあったので嫁と見に行こうと決めていましたが、話題が先行していたこともあって紹介記事やレビューなどはある程度齧ってはいました。

大まかなあらすじと衝撃の作品であるという触れ込みや、ジョーカーの姿を肯定するレビューも多く、どれほどの作品であろうかと期待をしていました。

以下はネタバレに配慮した感想となりますが、まだ見ていないが先入観なしで見たい方やネタバレは御免だという方はもしよろしければ視聴後に、既に視聴してきた方や感想を読んでやってもいいという方だけお進みください。




主人公・アーサーという人物

バットマンシリーズでおなじみのゴッサムシティ、やたらと治安が悪くスラムもある都市で暮らす冴えない男性としてアーサーはスクリーンに登場します。

アーサーは神経障害を抱え、母と古びたアパルトマンに二人で暮らしコメディアンになるという目標をもって貧しい暮らしを送っていました。
社会的弱者と言える彼にとって治安の悪いゴッサムの街は拒絶的で、派遣エンターテイナーとしての仕事も上手く行かず、時に暴力に晒されるような社会の底辺で絶望する人物と感じる事でしょう。

そういった底辺で喘ぎながら、小さな助力を得ながら日々を生きながらえる彼から福祉、仕事と歯車が狂い出し、やがて彼は全てを失うに至ります。

この映画を鑑賞した人のレビューを見るとこういった追い詰められていく弱者の怒りが社会への復讐を為していく物語であるという観点が多く、事実そういった側面もあるのかもしれません。

ジョーカーは社会派映画なのか

見捨てられた弱者の怒りを描く社会派映画とも見えるジョーカー。

アーサーが自分を守るため、不当な扱いの怒りと共に三人の命を奪った事をきっかけに街は階級闘争の暴動へと向かっていきます。
80年代のアメリカの都市暴動をモチーフにしたデモと階級の対立は抑圧された貧困層の怒りを代弁したピエロを旗印に過激さを増していきます。
そんな街を見てアーサーは自分の行動が初めて認められたかのような実感を得ていたのでしょう。

現代社会の構造への不満などを時代の背景となぞらえて共感を産むように描かれている事は間違いありませんが、後半に至るにつれ社会派としての描画とは異なる側面を見せていきます。

そして何よりDCの人気ヴィランであるジョーカーの旧シリーズの立ち位置とは大きく異なる描かれ方の本作のジョーカーはバットマンの対立者としてはあまりに脆弱で、悪の象徴としての存在とはなり得ないあまりにも小さな存在のままである事が不思議でなりませんでした。

真実が明らかになるにつれ失われるアーサー像

仕事を失い、苦境にあえぐ中で僅かばかりの希望にみえた実の父の存在や心の支えになる出会い。
自ら障害を抱えながら病の母を介護を続けるアーサーを支える一筋の光。

一つ一つの出来事がどん底の生活から脱するためにアーサーを突き動かしていきますが、その行動の先で自分自身について知る事で自らを含む全てが虚像であることをアーサーは知ってしまいます。

実の父も、愛すべき隣人も、支え続けてきた母も、そして志していたと信じていたコメディアンとしての道、その何もかもがアーサーの見た幻に過ぎないと気が付いた時、彼はようやくたどり着いた憧れのTVショーへの出演時に名前を捨てジョーカーと呼んで欲しいと伝えます。

全てを失った、と言うよりももとより何者でもなかった、アーサーという名前を持った人間の人生そのものが虚構であったことに気が付いた彼にとって世界自体が巨大なショーとなった瞬間でもありました。
ラストへ繋がるまでのアーサーという不遇の人生はトゥルーマンショーであり、ジョーカー本編はラスト20分なのかもしれません。

残されたものは純粋な悪意と虚無だけだった

人生という巨大なショーの真実を見たジョーカーは、人気テレビ番組の中で自らの犯罪を告白します。
街はまさにピエロの起こした殺人事件をきっかけに燃え盛る暴動の最中、そこへその中心人物がセンセーショナルに降り立つというクライマックスを迎えます。
しかし劇的な登場でありながらも何も持たない、何者でもないジョーカーはあっさりと警察に捕まってしまいます。

群衆の不満を背負った存在としてではなく、その口火を切っただけ。
それも自らの身を守る事に端を発した出来事であり、彼が持たざる者でなかったのなら、訴えかける術を持っていたのなら結果は違っていたのかもしれません。
人生という虚構の中に囚われていたアーサーには文字通り「何もなかった」故に、助けを求める事も、その方法も持っていなかった。

そんな希薄で脆弱な存在であった彼を彼として成り立たせてしまったのは大衆の意志であり、自らの不満の代弁者、象徴としてアーサーにジョーカーとしての存在意義を与えてしまったのです。

ジョーカーとは自らの内側には何も持たず、突如不満の渦巻く社会へと放り出されてしまった存在でした。
それまでのアーサーとしての人生全てが突如として白紙とされ、目が覚めた場所が暴動の先頭だった。
悪意の中に突如生み出された虚無。
ジョーカーにとって悪はインプリンティングだったのかもしれません。

ヴィラン誕生秘話・・・なのだろうか?

最後まで視聴してもやはり感想はジョーカーらしくないなあ・・・という印象でした。

旧作を絶賛する訳ではなく単純に映画として良い作品だと思うのですが、ジョーカーと冠してしまった事で作品の純粋な部分に色がついてしまった。そんな風に感じてしまうのです。

エンディングを迎えるに至ってもジョーカーという存在は虚無のまま、味のないガムのような存在として描かれていました。
魅力的な部分のない男の冴えない姿のまま。
それはバットマンの最大のライバルとなる悪の象徴としてのジョーカーには見えませんでした。

社会派のように見える仕掛けの中で道化として生きてきたアーサーという男が突如としてジョーカーという存在へ変貌し、空っぽの存在の中身にあらんかぎりの悪を詰め込んで誕生したんだよと言えば何となく納得ができる・・・かもしれません。

ジョーカーとはなんだったのか?

人間の抱える虚無。
この映画はその中に何を詰め込むのかを問いかけているのかもしれませんね。