克服するということ~フォードvsフェラーリ

フォードvsフェラーリ。

映画館での予告編でこれは絶対に面白い奴だと思い、さっそく嫁とみてきました。

これはレース映画か、ヒューマンドラマか、史実に基づいた脚本でありながら様々な側面のロマンを見せつけてくれる映画らしい映画だったなあと感じるとともに、恐らく技術を志す、志した人にとって一度は経験したであろう苦い経験を思い出させてくれるのではないでしょうか。

工業化、大衆化の中にあっても、そこに迎合することが出来ないそんな思いを、映画の中に見てしまったのです。

これはきっと映画のレビューではありません。
一応公式のあらすじ以上の内容を含まないように配慮はしていますが多分なネタバレを含んでしまうと思いますので、未視聴でこれから見に行くのだという方は出来れば視聴後に今一度訪れて頂ければ嬉しく思います。



時代背景

映画は1960年代のアメリカ、この映画の場合アメリカというよりも産業とした方がいいかもしれません。

1950年代後半にフォードはエドセルというモデルで歴史的な失敗とされるほどの大損失を被っています。

そこから戦略の転換、新しいブランディング戦略の一環として導き出されたのが当時経営破綻寸前だったフェラーリの買収でした。

当時ル・マン24時間耐久レースで王者として君臨していたフェラーリをフォードが買収し、そのブランド力とイメージでフォードをさらに革新しようという試みは創業者エンツォ・フェラーリの翻意によって破談とされます。

アメリカ産業の誇りでもあるフォードの一大生産ラインを醜悪とまで罵られた二代目社長であるヘンリー・フォード二世はフェラーリの天下であるル・マンの地で、フォードがフェラーリを打ち負かすという目標を打ち立て、レーシングカーの開発に取り組むことになるのです。

新境地への挑戦

レーシングカーの開発を牽引することになったのは1970年に社長にも就任するリー・アイアコッカ。

当時副社長であったリーは1959年にアメリカ人で初めてル・マンを勝ち抜き、その後カーデザイナーとしてレーシングカーを手掛けていたキャロル・シェルビーに開発協力を依頼します。

突然の依頼、それもル・マンの過酷さを知るシェルビーはフェラーリを倒すという目標がどれほど困難な事か誰よりも知っている人物です。

だからこそ声をかけたリーの慧眼と、高度に完成されたアメリカンレーシングカーを作りたいというシェルビーの思惑は一致し、誰もがあきれ返るほど無謀とも言える挑戦へと踏み出していく事になります。

限界を越える試行

かくして資金・技術面で巨大なバックボーンを得たシェルビーは、自ら運営するシェルビー・アメリカンの目標である欧州のスポーツカーに負けないアメリカのレーシングカー作りに邁進していきます。

シェルビーアメリカンのブレインとなるフィル・レミントン、そして映画のもう一人の主人公となるケン・マイルズを迎え、ル・マンでフェラーリを下すためにフォードGTを完璧なレーシングカーへと仕上げていきます。

優秀なドライバーであり、的確なチューニングを指摘できるケンはフォードGTの性能を確実に引き上げ、その調整を具体化していくフォードとフィルの活躍によりル・マンへの挑戦は現実へと近づきますが、レーシングカーの製造とレースへの挑戦を商業的なプロモーションと捉えるフォードの重役たちはケンのマシンへの要求や振る舞いを良しとせず、圧力をかけて誰よりもフォードGTを知り尽くしたドライバーであるケンをチームから除外しようと試みます。

ケンの理解者であり、友人でもあるシェルビーはこれを仕方なく受け入れ、そして初回のル・マンへの挑戦は全車リタイヤという惨敗を喫することになります。

想いだけでは実らない、技術だけでは完成しない

誰もが実現したいと想う願望、それを願うだけで実現が出来るならどれほど楽な事でしょう。
高い技術力があれば何事も叶える事ができる、そんな魔法のような技術があれば素晴らしい事でしょう。

しかし、現実にはそんなことはありません。
強い想いを抱いても思うように叶わない事も、高い技術をもってしても乗り越えられない壁もあります。

強い熱意をもってレーシングカーに向き合ったケン、高い技術で改良を積み重ねたフィルやシェルビー。

彼らの思惑はビジネスという一言で掛け違ってしまうことになりました。

製品は市場に受け入れられて初めて成果として認められます。

その為には納期やクオリティでの妥協、そして商業的メリットなど様々な事を天秤にかけて多くの物を捨てざるを得ない事もあります。

組織や仕事という枠組みの中では、時として感情や熱意を捨て去る必要もあるのです。

あと僅か、手が届く場所にある結果を掴むことができない。
それが許されない、その時間がない、その力が足りない。
何かを作る人にとって、作っていた人にとって、その胸のくすぶりは忘れ得ぬ想いとして焼き付いているのではないでしょうか。

切り開くのは誰か

ここからはネタバレを防ぐため詳細までは書きません。

惨敗を喫したフォードは1966年のル・マンで悲願の打倒フェラーリを達成します。
そこにはシェルビーと、フォードから嫌われたはずのケンの姿もありました。

彼らはお互いの力を信じ、そしてお互いを信頼することでチームとしてル・マンへ挑戦するためにフォードを相手に大立ち回りを演じたのでした。

曲げられないもの、曲げたくないもの。
そして何より自分たちの描いた最高の作品たるレーシングカー、フォードGTの完成のために。

彼らの成果は1966年、ル・マンでフォードの1,2,3フィニッシュという栄光をもって飾られることになりました。

この結果に対し金に物を言わせた勝利(実際同年のレースにフォードは8台を参戦させていた)と呼ばれ、欧州では好意的には受け取られてはいません。
結果を買ったという評価もまた事実ではありますが、結果に繋がるマシンを開発したクラフトマンの存在もまた事実なのです。

難題を越えるために

人生には多くの難題が待ち構えているもの。
様々なメソッドや、思考法、ビジネスパーソンによる指南書など、指導には事欠かない現代において、他者の経験から学ぶ事、学べる事は多くあります。

それは恵まれた環境ではありますが自ら決断し、何かを作り上げることにおいて正解を求めることは出来ません。

人生において自らの目標は最大の敵であり、それを実現するための戦いはきっと命が果てるまで終わる事はないのだと思います。
その為の地図は常に白紙で自らペンで道を描き、そして迷い、時として挫折する。
それを繰り返しながらも歩き続ける情熱を忘れない事、支えてくれる人、同じ道を志す人、そんな人達と時には衝突しながらも高みを目指していく。

そうやって自らを克服して、さらに大きくなった自分という壁に挑み続ける事こそが荒唐無稽な挑戦を現実へと変えていく原動力なのかもしれません。

あなたの目標はなんですか?
実現のためにあなたはどうしていますか?

そんな問いに迷っている人に見て欲しい映画でした。