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母が私にかけた呪いは解けたのか?(母の命日に綴る)

私の両親はいわゆる毒親です。
毒親育ちの生きづらさを感じ、学生時代は「家を出て親とは縁を切る」と決心していました。

物心ついた時から「なる」と決めていた漫画家デビューでき、ヒット作を出すべく尽力する日々で、人とうまく付き合えなかったり、作家としてこのままでは先に行けないような壁を感じました。

連載が長続きせず行き詰まったことで「壁を壊したい」と真剣に自分と向き合ったところ、全て私の育ち・両親との関係に原因があるようだ…と確信のようなものを感じました。

そこから漫画の仕事をするかたわら、心理学の講義を受けたり、1年でおそらく1000冊近くの参考になりそうな本を読みあさり、学び、試行錯誤しました。
人生がかかっているので本当にのめりこみました。

あの時頑張ったおかげで、母の最期は感謝して見送ることができました。
漫画については…これからです。

試行錯誤の部分については、また話したいと思います。いつか話したいと思っていましたが、毒親についての話もあるので『母が生きてるうちはできないな…』と思っていました。

6年前の今日、2017年11月5日に母は亡くなりました。
命日なので母の事をたくさん想うために綴ります。


私が思い出せる1番古い記憶
それはまだ保育園に上がるか上がらないかの頃…

当時住んでいた古い木造の家の、薄暗いダイニング。
壁付けに並んだコンロと流しの上は窓で、窓の外は小さな林のようになっており、木々の隙間を抜けてきた弱い光が差し込んでいた。

コンロの左脇にはパントリー的な納戸があり、自家製の梅酒や蛇の入ったお酒、山菜のような食材や年に数回しか使わない餅つき機などが置かれていた。
ネズミが出るので昔ながらの鼠取り機が仕掛けてあった。

まるで魔女部屋のようなその納戸に背中を向け、私は目の前に屹立する母を見上げていた。母の表情は影がかかりぼやけているが、怒りが見て取れる。
母がキッパリと、力強く言った。

「おまえはおばあちゃんに似ているから幸せになれない」



この記憶が、私に呪いをかけているようだとは薄々気づいていた。
思い出さなければ記憶は薄れていくものなのに、あまりのショックから思い出したくもないのに何度も思い出されたのだろう。何十年経ってもこうして留まり続けている。

長年この記憶に苦しめられてきたけれど、最近になって『本当にあったことなのかなぁ』と思ったりもする。記憶とは不確かなものだから。
続けて思う。もう呪いは解けたのだろうか。

幸せかというと、幸せです。
なると決めていた漫画家にもなれたし、リミットギリギリ…母曰く“逆転ホームラン”で愛娘も来てくれたし、愛猫もいる。

手に入らなかったものを思えば急に幸せが遠のくけど、当たり前のように手にしているものを見つめると幸せがこみあげてくる。
当たり前ではなかった頃が続いている世界線を時々想像し、切なくなる。自分はなんて幸せな日々を送っているんだろう。

全てを手に入れるなんて無理という意見もあるけれど、そう思っていればそうだろうし、無意識に当たり前と思えれば可能だと思う。
そこで呪いが効いてくるのだ。

娘に聞いてみた。
「ママに言われたことで、ショックで何度も思い出すようなものはある?」
「うーん、笑顔しか思い出さないよ」
よかった…
いや、隠している隠されている可能性も0ではない。

「何度も言ってることだけど、覚えておいて。
私達がケンカしたりして、ママがあなたにとってショックなことを言ったとしても、あなたはママの1番の宝物なこと。
あなたがいる生活がママの夢だった。
夢を叶えてくれてありがとう。

何よりもあなたが…いや自分が1番大切だけど、自分がしっかりしていないと誰のことも守れないでしょ。
あなたもあなたを1番に大切にするんだよ。」

しつこいくらい何度も言って聞かせるのは、私自身が母からの呪いを受けたからだ。

私は子供を持つことに長らく抵抗があった。
『両親のような親になりたくない。
そうは思っていても、自分の親の育て方しか知らないのだから、似てしまいそうでこわい。
自分の子供に私と同じ思いをさせたくない』
そのような気持ちだったし、今もそう思っている。

母とは色々あった。
私は3姉妹の末子なのだが、幼い頃きょうだい喧嘩した時には、母から「あんたがお姉ちゃんに敵うわけないんだから」と怒られたし
成人してからも、姉達から「姉妹の中で1番親とそりが合わないんだから」と言われてきた。

だけど、記憶とは都合のいいもので、離れているとしてもらって嬉しかったことばかり思い出される。
長く離れるほどされた記憶は薄れて、たまに近づくとガッカリするのだ。『そうだ、そうだった…』と。

母が亡くなって、物理的に近づくことができなくなった。
いい思い出ばかり浮かんでくる。

幼い頃、TVで懐メロ番組を見ている母の隣で眠ってしまった私の、前髪を、おでこを、撫でてくれた。薄ぼんやりと、気持ちいいなぁと感じながら、また眠りに落ちた。

ぎっくり腰になった私のところに数日来てくれて、母が駅に向かう姿をベランダから見送った。
視線に気付いたのか、母が振り返って、私に手を振った。

愛されてなかったわけじゃないんだよなぁ…

姉達がいて、愛情の差を比べてしまったから?
姉達はお互いに「あなたの方が」と言い合っている。
私は親から愛されレース3番、最下位だ。いやレースに参加すらできない。

でもこうも思っている。
最下位だったおかげで、関心を得られなかったおかげで、ひとり創造の世界に入り込めた。
それは私にとってラッキーなことだった。

おそらく、もっと厄介なのは過干渉の方だ。
つきっきりであれこれ言われていたら、心理的ブロックができまくっていたかもしれない。
私も娘に意識を向けすぎないように気をつけよう…
口出しするより、やりたい事をしている姿を見せよう(決意)

良かったことばかり思い出していれば、呪いは解けるのだろうか。
いやもう、解けているのだろうか。


母との別れだが、なんとも円満なものだった。

半年ぶりの帰省で実家に寄った。
「風邪ひいちゃってさ。孫(私の娘)に感染すると悪いから」と、玄関先でそのまま帰るように言われた。確かに母の顔色は悪かった。
「早く病院で診てもらってね、からだ大切にしてね」
「あんたも身体に気をつけるんだよ」
と声をかけ合い、実家を後にした。それが最後だった。

翌々日、帰路についた車中で、スマートホンが鳴った。姉からだ。いやな予感がしつつ電話をとると、母が肺炎で入院したとのこと。ギクッとした。

「今どこにいるの?」
「高速道路にのったところ。お見舞いに行ってから帰りたかったけど…まだのったばかりだから降りれば…」
「そっか、大丈夫だよ。入院だからずっと様子見てもらえるし、何かあればすぐ処置してもらえるからさ」

それまで2度、母は危篤になっており、その2度とも不思議と『大丈夫、まだいなくならない』と落ち着いた気持ちで病院へ向かった。
実際、その度に母は回復し、意識的にリハビリし、自分で歩き、自分のことはほぼ自分でできるまでになった。
だけどこの時は、その2度の危篤の知らせと違い、モヤッとした感情がわきおこり、『きっと大丈夫だよ』と言い聞かせても消えなかった。

帰宅した翌日、母が入院した翌日のことである。
「お母さんの心臓が止まってた。お父さんに連絡が取れないんだよ。すぐこっちに来れる?」
姉から電話が来た時、あぁ、と観念した。
3度目の正直とでもいうのか…遂にその時が来てしまったのだ。

母は、見舞いに来た父と談笑して「また明日」と帰った後、看護師さんが様子を見に来た時には亡くなっていたそうだ。
おそらくスッと眠るように、苦しまずに逝ったのではないかという話だ。

まるでドラマのように、全て図ったかのように亡くなるものだ。
生きていると色々あるけれど、母にとってその合間の穏やかな時期だったと思う。
私にとっては、長く会えていないままではなく、ほんの少しでも顔を見れ、気遣い思いやる言葉を最後に交わす事ができた。

既に夕方だったため、まだ2歳の娘と朝早く新幹線に乗って地元に帰り、葬儀場で母と再会した。
『もうこの身体の中にはいないのだ』そう理解しつつも、明日には肉眼で見ることができなくなる母の耳元で、母だけに聞こえるように「お母さん、ありがとう」と何度も伝えた。


亡くなる前に、私は母をゆるせていた。
毒親の語源となった「毒になる親」を出版されたばかりの頃に読み『これだ』と思った。
だけど…解決法がわからなかった。

『幸せになるためにも、母をゆるしたい』
その切実な思いで、3年以上試行錯誤したある時
『ゆるせた…!』と心が軽くなるのを感じられた。
それを境に母との関係も変わったのだった。
おかげで心から感謝の気持ちで母を見送ることができた。

それで…呪いは解けたのだろうか。

このような呪いとは、たとえかけた人が謝ってくれたとしても解けるようなものではない。
かけた人にも解くことができない。
解けるのは自分だけなのだ。
疑問に思うのはもうやめよう。


それでは母の命日の今日、全私に対して表明します。

今までよくがんばりましたね。
安心してください、呪いは解けました。
私はすでに幸せだし、ずっと幸せでした。
これからも幸せにしかなれません。

頂いた温かいサポートは漫画家の活動を続けるために使わせて頂きます。ありがとうございます。