まっすぐな青少年

 渋谷駅周辺の喧騒にいるといつも自分の"陰"オーラに嫌気がさしてくる。電車を降りようとした時、向かい側から乗ってくるマスクをしていないいかにもスケートボードが似合いそうな男の子5人組にあからさまに恐怖を覚えてしまった。
 もともと明るい人間だったはずなのに、いつのまにか明るい人間が苦手になって、いつのまにか下を向いて歩くことが多くなった。別に元気がないとかではなくて、ただ、なんとなく背中にいつも視線を感じるから、顔を見られないように、表情を見られないようにと顔を下に向け、背中を丸めて、少しでも自分の情報を見られまいと丸くなる。こんな人間ではなかったはずなんだけどな。
 駅前の高収入バイトの広告トラックも、大声で政治や国際情勢について語る人々も、スポーツで熱くなって暴動を起こすような人たちも全部関係ない世界だと思うようになった。同じ世界で起きていることとは思えない。鬱が酷かった時は歓楽街に行って、自分より低俗な人間を見て安心していたりしたのだけれど、今ではその「低俗な人間」さえ、自分より友達がいて、自分より世界で有利な人間に思えてしまう。
 今、私の人間の価値基準はすっかり「友達の多さ」になってしまっている。Instagramの映えばかり気にする高校生みたいなことに、今なってしまっている。ついこの前までインスタ映えのために学校の施設を最大限使って、まるで学校の施設はこのように使うのが正解ですとでも言うように堂々とSNSに投稿している人達を見て嘲笑していたのだが、今ではそんなことを一緒にできる人間がいるだけでなんとなく羨ましく思えるのだ。別にそういうことがしたいわけじゃないけれどね。
 「友達がいない」と大声で叫ぶには友達が多すぎるし、「友達がたくさんいて楽しい!人生ハッピー!」と思うには友達の質が悪い。自分の面倒くさい性格についていけてる人はすごいと思うから、あまり自分から友達を切ったりすることが得意ではないのだけれど、最近嫌なことは嫌だと言うことを覚えた気がする。
 愛し合っている人たちを見ると、「消えてしまえ」と思うようになった。自分を愛してくれないからと捻くれているわけではない。ただ双方向に大っぴらに愛し合ってることに嫌悪感を抱くだけだ。でも側から見ると、ただカップルを妬んでいる人、になるのだろう。
 青年期の心の未完成の自覚をした時が1番きつかった。自分はなぜこんな考え方しかできないのか?なぜ素直になれないのか?と自分では考えられるのに、行動できない未熟さが嫌になる。

 早く大人になりたい。

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