ジャズ私小説 Have yourself a Merry little Christmas
2年前のクリスマスイブの夜に一人で都内の雑踏を歩いていた、9月にキッツい失恋をしてそのショックから少しずつ立ち直り始めていた頃だ。
それでもカップルを見ると切ない気持ちになる、早く帰って家で酒を飲もうと考えていた。
すると道端にしゃがみ込んだ老婆が僕の視界に入った、そしてその傍の女性が心配そうに老婆に声をかけている。
正直に早く帰って酒を飲みたい、でもこれは放っておけないと思い声をかけると老婆はコンビニで買い物した帰り道にギックリ腰をおこして立てないと言う。
若い女性が老婆の荷物を持ち、僕が老婆をおんぶして家まで送り届ける事になった。
良い人ぶるつもりじゃないが困った時はお互い様だし、お年寄りに優しくするのは人として当たり前のこと、それに僕はこう見えても喇叭吹き、アホな代わりに体力には絶対の自信がある。
僕は老婆を背負い立ち上がろうとした。
その瞬間あろうことか僕の腰がピキッーと悲鳴をあげてしまった。
どうやら僕の腰までいかれたようだ、「ミイラ取りがミイラ取りになる」とはこの事か、いや少し違うか。
とにかく僕は腰の激痛に耐えながら老婆の指示に従い老婆の家まで歩いた。
若い女性は優しい方のようで老婆に励ましの言葉をかけていたが、どちらかといえば、励ましの言葉をかけてもらいたいのは僕の方だった。
腰の激痛に耐えながら、意外と重い老婆を背負いなんとか家の前まで着いた。
もう僕の腰は悲鳴をあげているけど、やはり良い事をすると気持ちが良い。
僕と女性は安堵感からの穏やかな静寂に包まれていた。
するとその静寂を引き裂くかのように老婆が口を開いた。
「このビルの横の階段を登って4階だから」
その雑居ビルの一階は居酒屋に賃貸で貸していて、その傍の細い急な階段を登った4階が老婆の家だという。
死んだふりしようかと本気で思った。
老婆は這って階段を登るから大丈夫だというが、そういう訳にはいかない。
かなり急な階段で後ろ向きに倒れたりしたら大変だ。
僕の腰は断末魔の悲鳴をあげていたが、このタイミングで「ちょっと腰が痛いんで」なんて言えないし、女性もすがるような目で僕を見ている。
僕は老婆を背負い激痛に耐えながら急な階段を一歩ずつ上っていった。
階段を一歩踏みしめる度に腰にピキッーと激痛が走る。
優しい女性は相変わらず老婆を「もうすぐだから頑張って」と励ましている。
「励ます相手が違うやんけ!」とは思っても言葉に出さずに僕は12月末だというのに汗をかき激痛に耐えながらひたすらに急な階段を登った。
「大人の階段上る君は僕のシンデレラさ」という歌詞があったけど「老婆を背負い急な階段上る僕は傷心中の中年男性」です。
なんとか4階まで上りきり老婆を背中から降ろすと老婆がお礼をしたいからコーヒーを飲んで行ってくれという、それを丁重に断るとそれでは気が済まないと老婆が言い僕にビニール袋に入ったミカンを女性にはサラダせんべいを渡した。
女性は老婆の背中を優しくさすっている、その爪にはクリスマスカラーの美しいネイルが施されていた。
建物の下で女性に別れを言い駅の方向に歩いている僕の片手にはビニール袋に入ったミカンがあった。
とても腰が痛いけど良い事をすると気持ちが良い、その充足感とビニール袋に入ったミカンは真面目な以外に取り柄がない僕へのささやかだけど、とても嬉しいクリスマスプレゼントだった。