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ep3 『森林鉄道』解説

 以下に書く事は基本的には蛇足である。

本編映像

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1. イン・ザ・資料の山

 今更ながら8年前に大量に取り寄せた資料の山を崩し、仔々細々、改めて読みだした。

 『産土』本篇の中では、ほとんど〈遠山エリア〉のことを扱えなかったため、それ以上後追い/深堀りをすることがなかったのであるが、今回再編集するにあたり、何も知らないでいるのはなにか失礼であるような気がし、純粋にもっと知りたいと思った。そして紙の資料とともに頂いていた数枚のDVDも改めて見た。

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一枚目は、1977年制作の『山をおりる日』(製作:池田プロダクション/カメラ・演出/池田達郎、ナレーションは納谷六朗)これはep1でも紹介した昭和51年の〈集落整備事業〉で廃村になった〈底稲〉も含む過疎地域から住民が降りる様を追った力作である。底稲の当時の映像(まだ森に埋もれていない!)が残っていたのも驚かされた。

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おそらく中央の家が緑川さんの家だろうか。

 映像の内容は、電気が引かれていなかったという〈野田平地区〉に住む鎌倉さん夫婦が、山をおりる日の事前と事後の記録が中心である。夜の映像で、本当に囲炉裏の炎の光源しかないところでの映像は、なんともいえぬ闇を感じられた。高所/難所からの住民の引き上げにあわせ目新しい団地〈樋口団地〉が完成。野田平を10人くらいの人が背中で荷物を担いで徒歩で降りていき、最後は〈樋口団地〉の小さな新しい平屋の窓辺に夫婦で悲しそうにちょこんと佇む姿がなんとも言えない。

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 76年当時の霜月祭の様子も見られてとても素晴らしい映像であるのだが、この作品は惜しいことに現状オンラインで見ることはできない。監督の池田さんの事を調べても、同姓同名のNHKのアナウンサーが出てくるばかりであるが、蝶々がちらっと遠山家代々の墓前を過ぎたりするカメラのセンスなども含めてかなりの我々の先達であったのが忍ばれる。まだご存命であるのならばぜひお会いしたい。いや、この作品実に惜しい。

もう一作は、堀場敏和さんという方が制作された執念の一作、『遠山郷物語』。(こちらはYouTubeで全編が見れる)

 この堀場さん撮影とナレーションを担当されている。ナレーションは若干滑舌が悪いが、味がある。調べてみたところかなりご年配で神戸在住の方らしいが、遠山のこれまでと現代までの歴史をすべて網羅しようという意気込みに溢れている。何度も何度も通われたのであろう。本職の方ではないので全体の構成は苦しさもあるが、資料としては一級品である。出身地なのか縁のある土地ででもあったのだろうか。中々作れるものではない。チャプター後に挟まれる郷土料理紹介がおちゃめである。(懸念点としては、ライフワークだけあって凄まじく長い。。)

 この『遠山郷物語』で言及されていてはじめて知ったのであるが、1965年岩波映画製作の『信州のまつり』というドキュメンタリーがあり、今回それも見た。いやさすがに全盛期の岩波映画。すごいクオリティである。これは遠山中心というよりは、木曽川流域の話が中心ではあるが、遠山の霜月祭の往時の姿などもかなり克明に記録されている(全編視聴可能)。この時はまだ森林鉄道が運行していた時代で、人の熱気やそもそもの数も段違いにある。同じ霜月祭でも、『遠山郷物語』に出てくる近年のものはかろうじて形式を遵守しているような印象を受ける。女の子を参加させたりと、古式を曲げても存続を図ろうとする苦労が忍ばれる(事実誤認であればすみませぬ)。

 『山をおりる日』と『信州のまつり』の両作品ともに、霜月祭におけるあらぶりの発露が、「日頃の山暮らしの鬱積の発散」的なナレーションを入れているのが少しだけ気になった。無論村でのヒアリングをベースにしているのだろうし、素直な撮影時の印象でもあったのだろうが、このあたりどうなのだろうか。ep2で紹介した『掛踊り』は、『遠山郷物語』の中でさすがに紹介されていた。

 さて、これらすべてをご自分でみてもらって、「後は自分でお考えください」と突き放してしまうのも気が引けるので、他の資料や撮影時の取材内容等もつなぎ合わせてみて、ざっとこの映像の周辺を概観してみることにする。

2.遠山谷概観

 天竜川の支流である遠山川に沿って発達した遠山谷は、西に伊那山脈、東に南アルプスに取り囲まれたV字状の谷である。ここは山地が99%、平地は僅か1%しかなく周囲はとても峻険で、昔から「秘境」と呼ばれてきた。

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 立地的に塩のとれなかった信州地方は、古くより日本海側と太平洋側から塩を「輸入」していた。そのルートは塩の道とも呼ばれる。太平洋側からのルートに目をやると、遠山を下って静岡県へ向かうと長野/静岡の境界にあるのが、今でも道路を通すことのできない難所である青崩峠。その先は水窪(産土2で取材)で、そこを抜けた、天竜川に面する秋葉山に鎮座するのが”火伏の神”として有名な秋葉権現である。もっと俯瞰してみると、現在の牧之原市あたりの遠州灘(こちらも産土2で取材)から諏訪湖へと至るクネクネした山をつんざくルートが旧秋葉街道(南塩ルート)であり、その道は中央構造線の谷のラインとそのまま重なる。

 東西南北どこから行こうとしても急峻な山という山の旧南信濃村エリア。そこに赴任が決まった教職員や警察官などが、あまりの凄さにスゴスゴと逃げ帰ってしまうことから「辞職峠」と呼ばれた峠もあったとのことである。

 この周辺は11世紀あたりから遠山谷の開発が始まり、人が住みだしたという。「遠山(とおやま)」とは古くは美濃・信濃・三河・遠江にまたがる山岳地帯の総称で、とくに美濃国恵那郡の事を指したのだという。
 遠山氏はこの山岳エリアの中で幾多のXX遠山氏、△△遠山氏…といった具合に広がっているが(ちなみに遠山の”金さん”は、明知遠山氏の分家筋)、この下伊那エリアの信州遠山氏は16C中頃にこのあたりを支配していた。武田信玄配下から家康配下になり、1600年前後の慶長年間でたしかな地盤を作り「絢爛たる時代」と称されるほどの発展を見せたのだが、それも長くは続かなかった。
 一向一揆やお家騒動が続けざまに起きたため遠山氏は改易され、1618年に幕府の天領となった。一説では豊富な材木資源を幕府が手に入れたかったからだともという。(wikiに少し詳しい話が載っている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F

 住民たちは、全国でも先進的な林業の取り組みを推進してきた遠山氏をリスペクトする気持ちも濃厚に持っていたようで、霜月祭りは遠山氏の供養という側面もある(別名で「遠山祭り」とも呼ばれていた)。
 つまり、自分たちの先祖が一揆をしたせいで滅亡してしまったという罪悪感なのだろうか、遠山氏や家臣らの仮面を被った踊りもある。(このあたりのご興味の方は上記『遠山郷物語』を参照されたし)霜月祭りは鎌倉以来800年の歴史を誇ると喧伝されているが、詳しいことはよくわからない。

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 歴史的資料としては映像の中で前澤さんが説明されているように、18C後半に本居宣長が『玉勝間』の中で、「しなのの国の天竜の川上なる門村、和田、木沢などと云う里々の神事に、湯釜に湯をわかしたぎらせて、そのめぐりに幣をたておき、夜ふけてその釜のほとりに、里人男女老いたるわかき打ちまじり集いて、その幣をとりて歌う歌に「お湯めすときなをみかげこぐそやくもだのぼえれ‥」云々と紹介されているのが(おそらく)最古の文章記録であるらしい。元々あった神への祈りと遠山氏供養の祈りとが合体し、秘境であったがゆえに独自色の強い文化がそのまま伝承され残ったというのが、まあ信憑性のあるハナシであるだろう。

 この歌の歌詞は現在でも歌われておるようだが、「おみかげこぐそ」とは中々奇橋な響き。「お湯を召す時は、お御影漕ぐそ。八雲だ登れ」なのだろうか。兎に角、この歌を唱えながら湯木(ゆぼく)と呼ばれる幣(ぬさ)のついた棒の先を釜の湯に浸し、あらゆる神々に湯を捧げるのだというが、すこしこのクダリ長くなりすぎた。

 遠山の歴史は林業の歴史である。江戸時代初期の100年の間、毎年1万本の材木が遠山川上流から天竜川河口へ向けて流された。この時「木一本(盗んだら)首一つ(取りますよ)」という厳しい禁令が出されており、木材の使用は木地職人が茶碗など作る以外は、土地の人々とは無縁のものだった。

 時は下って明治28年(1894)。王子製紙が山の利権をがっさり買って木材の伐採を開始。大正10年(1921)までの27年の間、多くの杣師が続々と遠山にやってきて伐採をし続けたが、これにより共有林部分の古木のほとんどは消えた。

 また時代は下がり昭和19年(1944)に営林署による国有林の伐採が始まる。そして全長30.5キロの「遠山森林鉄道」が遠山川に沿って敷設され、終着駅であった梨本の貯木場(現在のていしゃば)からトラックで他県へ向けて搬送されるようになる(資料によると昭和15年/1940から着工開始)。仕事を求めて多くの杣人たちが富山や高知から集まってくるようになり、村は大いに賑わいを見せる。昭和21年頃、村の世帯数は300を越え、人口は1600人に。

 ちなみにep1で紹介した緑川さんのお爺さん(福島出身)が、底稲を開拓したのもこの昭和21年(1946)。この開拓には人口増加に合わせて新しい集落を作るという側面もあったことが思い出される。村人は増え、これまでほぼ現金を持っていなかった人々の誰もが現金収入を手にできるようになった。本作の主人公の前澤さんの稼業であった郵便局に皆が貯金や定期保険やボーナスを積立した時代である。そこから昭和38年(1963)あたりまでその賑わいは続いた。
人口6400人。ep3冒頭に登場する木沢小学校の生徒数も300を越えるほどだった。

 当時は指針として「100年計画」というものがあり、植えて伐るというサイクルを続けていれば永遠に仕事が続くように思われていた。だが昭和33年にチェンソーが導入される。これにより生産量は倍になった。だが手足の血管が収縮しすぎた事により起こる神経障害である振動病(白蝋病)が増えたり、なによりも材木資源が一気に減少。そして昭和43年(1968)に国有林材の搬送が終了し、森林鉄道は20年足らずで役割を終える。その後5年をかけてすべての軌道は撤去された。
(参考;森林鉄道の年表 http://tohyamago.com/view/rintetu/

 昭和47年(1972)それまで束の間のバブル景気的な林業の仕事で現金収入を手にしていた人々は、そのまま昔の暮らしに帰ることはできなかった。若者から進学に合わせての村外、市外への流出がはじまり、それとともに親たちも利便性に抗しきれず次第に流失。その頃の児童数は100人たらずに。

 …そして2012年の時点での木沢地区の人口は50数名。無論小学生はいない。

 元木沢小学校跡。覚えている人もいるかもしれない。ここは10年ほど前に、サカイ引越センターのCMのロケ地として使われた。(本映像はいつ削除されるかわからないがとりあえず貼っておく)

 この木造校舎は昭和7年(1932)に建てられた。森林鉄道の廃止、それに伴う生徒数 /人口の減少に合わせついに1991年に休校となり、2000年に廃校となった。

 前澤さんによると、廃校が決まり思い出づくりのために校舎の中で写真展をやったところ、意外にも、「木造校舎を残してください!」という外部(多くは県外)からの嘆願が多く集まり、地域の皆で話し合って校舎を残すことにしたのだという。
 森林鉄道もなくなり、ここが南信濃村だったという記憶が失われゆくなかで、村人が寄って立つ場所は、木造校舎しかなかったのだ。そこを活性化の拠点としようと。そして幾多の民俗資料が飾られる。霜月祭の中心的存在である木沢地区の祭りの練習もここで行う。村人が一日だけ学校の生徒になるようなイベントも行われるなどする…。

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前澤さんが「校長先生」と呼んでいた猫と著者 

 そして、学校廃校と同年の2000年に前澤さんら木沢活性化委員会によって、梨本ていしゃばに機関車が復元移設され、僕らが取材した2012年。あの機関車が整備されて、エンジンが動き出したのである。
 信濃毎日新聞の2011年の記事によると、この年1月に「夢をつなごう遠山森林鉄道の会」が発足。前澤さんはこの会の会長も兼務する。会員たちが、森林鉄道廃線後に近隣の住宅で屋根の重しとして使われるなどしていたレールを回収し、梨本ていしゃばに50メートルに線路を敷設したとある。

 ここまでの背景がわからないと、舌足らずな印象を留めているに過ぎない本作ep3は、おそらく分からない。いや、経緯や沿革がわかったところで人々の心の奥まではわかりはしない。ただ、なんとなく感じ取れるのみであろう。記してみて、2012-13年当時取材に駆けずり回った時の自分の心象が蘇ってきた気がする。すなわち「なぜ人は生まれ、そこで暮らし、そして死んでいくのか」という他愛のないものである。

==================================   本作の中で流れるクラシック音楽は、バッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第8番 変ホ短調プレリュード』。ユーリ・ノルシュテインの名作『話の話』で象徴的に使われる楽曲であるが、『産土−壊−』にて高松のピアニスト橋本君にお願いして演奏してもらったものを載せている。

 つづく。

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