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オンライン版『産土』ができるまで

●1. そもそもの発端

 『産土』は震災後まもない2012年から2015年までの3年間で、計3作作られたドキュメンタリー映画である。
  現在コロナ騒動に人々が右往左往している中で、改めてクローズアップされてきた、というか考えざるを得なくなってきた、「これから一体我々はどうするべきか?」という事を皆が各自で考えるための、一つの「材料」になるのではないかと思い、今回YouTubeで公開する事にした。
 長い間放置していただけになっていたのだが、こういうタイミングだからこそ、オンラインにのせて配信してもいいのではないかと初めて思えたのである。
 未見の方に対して一言でいってみると、この映画は山奥やら離島やら、「秘境」と呼ばれるような所に撮影のキャラバン隊が赴き、そこで土地の方達から色々な事を聞いてきたものである。

 そしてこの映画のすべては、「偶々(たまたま)」から始まった。
 以下に、この映画ができるまでの道のりを少々述べる事にする。

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2010年神山にて

 2010年5月、東京は代官山の映像会社に務めていた長岡マイルという若者(つまり僕)は、「映像を撮りながら全国を回る」と云う無謀な夢を抱き出した。そしてやっと就職できたばかりのそこを辞める事にした。友人知人に相談しても誰からも共感されなかったのであるが、ある日偶然Twitterで或るイギリス人、トム・ヴィンセントと云う人に出会った。
「全国を回ると言うけど、どここかアテあるの?」と彼に聞かれ、そもそもそれがまったくなかったと云う事に初めて気づいた。
「四国の徳島に、神山っていう面白いところあるんだけど行ってみる?」と彼に促されるまま、ひとまず四国も悪くないなと思い、僕はこの神山町にやってきた。

この辺りの事情は拙作ドキュメンタリー映画『神山アローン』に詳しいのでそちらを参照されたいが(今月中にはVimeoかYTでレンタル販売開始します)、この地は後に、移住者が殺到したり、東京の会社によるサテライトオフィスが乱立するようになったりするなど、「限界集落の希望」の言われるような場所になる。だが2010年-2011年当時はほとんど移住者もいない静かな場所だった。

 ここにグリーンバレーと云う名の(今は有名な)NPOがあり、そことの共同企画のような形で、と或る助成金に応募しようと云う話に偶然なった。その助成金とは「愛・地球博成果継承発展助成財団」が毎年出している企業メセナを財源とするもので、駄目だろうけどまあ企画だけでも書いてみようやと。

●2. 一か八

 「一か八かに賭けてみよう。」そう思った。日常的に腰の重さにかけては引けをとらないのに、田舎にやってきてただ無為に過ごすしかなくなりかけてきた事や、長男が産まれたばかりでもあり、この先に対する大きな不安を抱えていたのだ。そして偶然、一冊の本に出会う事になる。それはNPOの事務所の本棚にあった民俗学者・野本寛一著の『地霊の復権』という本だ。何も知らなかった自分には、文字通り目からうろこが落ちた気がした。

 この本から示唆を受けた様々なものや、元々温めていた企画案と、様々な過疎地の問題や、民俗学や林業等をゼロから勉強し、企画をまとめ応募したところ、なんと受かってしまった。そこから急に自分の念願が叶えられる事になったのだ。
 しかし受かってからが大変だった。自分には金はもとよりコネクションも何もない。だがジタバタすればなんとかなるものである。
 たまたま大手の代理店にいて広汎な人脈を持っていた知り合いが制作を手伝ってくれたり、人手が足らなかったところに「偶々」映像をやっていた人が神山に移住してきて、とんとん拍子にスタッフになってくれた。
 この助成金の条件の一つに「アジアにおける国際協力」という条項があった。そこで、アジアの映像作家やカメラマンを招待したら良いのでは?と考え、10人くらいに候補を絞ってメールを送った。東南アジアだけでは厳しそうなので、範囲をオセアニアまで拡大して探した。その中から選ばれたのが、ニュージランドの撮影監督で大手自動車メーカーのCMや Nike、 HPなどの大手CMでカメラを回してきたベン・ラッフェル、マレーシアの若手映像作家ジョン・チョー、更に後年サンダンス映画祭で審査員特別賞をとる映画監督にまでなったシンガポール若手ナンバーワンの女流作家キルステン・タンの3人だった。

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斎場御嶽にてキルステン・タンと。

そして神山で移住者仲間のイギリス人ルーファス・ウォードと、昔一緒に映像プロジェクトをやっていたフランス人のジャン・フィリップ・マルタンを加えた、計五人の陣容になった。

●3. 制作

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島根県柿木村の有機農業で作った野菜を食べる。

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出羽三山の山伏修行

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徳島県那賀郡木頭村の祭り

撮影は難航を究めた。なにせ「秘境」と呼ばれるような場所へのロケが中心である。険しい道を幾度も通ったり、山の斜面を重い機材を背負って歩いたり、ヒルに血を吸われたりと、撮影地にいくだけでも大変な思いをした。また長期に渡って撮影できるだけの予算がないため、良く言えば「一期一会」、悪く言えば無計画な行当りばったりの、「偶々」のみを頼りにして全ては行われた。

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山梨県早川町茂倉地区の雨乞いの儀式

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山形飯豊町で出会ったマタギの中村さん

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沖縄久高島のタコ漁

 行きたいと思っていた場所の住人とそこで「偶々」出会ったり、行った時が「偶々」お祭りの時であったり、今まで取材を受け入れて来なかったと云う山伏修行に、同じ修行をやりますからお願いしますと突撃したり、雨乞いの儀式を撮影して空から雨が降ってきたり、誰も取材に答えてくれなかった沖縄の久高島で、スタッフを口説いていたおじさんが素晴らしい取材対象者になったり等々、幾多のミラクルが撮影中に起きた。

 撮影は2012年12月まで続き、それが映画『産土』という作品になった。
 これまでイギリス、カナダ、ニュージランドで上映した他、全国各地でこれまで何度も何度も上映会を開いてもらったり、大学での授業に使ってもらう等してきた。
 そして上映した先々では、多くの人々に激烈な応援メッセージを貰ったり、激賞されたりもした。年配の方等は、涙を流して熱い握手をしてくれる人もいた。
「今までわしが言い続けてきた事を形にしてくれてありがとう」と彼は言った。次第にこれを続けたいな、と僕は思うようになった。

●4. 続編制作

 この助成金は、最長3年間、連続して応募できると云う規定がある。まあ、無理だろうけど出すだけ出してみようと、2年目も応募する事にした。絶対受からないだろうからやりたいことを全部盛り込んでしまえと、フクイチの30キロ圏内や、福島の多くの場所を内容に盛り込んだり、「産土」という言葉の語源となったと云う福井県の沿岸部を入れたり、実家のある千葉県四街道市の歴史をも入れてしまえと、出来ない前提で企画を作った。そして応募したところまたなぜか受かってしまったのである。撮影の規模は前年にも増して拡大した。内容的には、前作よりも「信仰的側面」にフォーカスして取材をした。一作目では、農業や林業などが大きなテーマとしてあったのだが、実際に回ってみてどこへ行っても結局、「土地の神(産土)」に対し人々が敬虔に祈ったり、祀ったりするさまが目についていたからだ。それが『産土−壊−』という映画になる。
 
「壊」と云う字は、旧字だと「壞」と書く。なんでもこれは人が住んでいた土地を離れる際に、その土地の神を祀った場所へ涙を流すという儀式をかたどったものであると云う。福島の事を考えると、この文字が相応しいのではないかと思った。

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民俗学者・谷川健一が発見した『産土』の当地にて

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産小屋の唯一の生き証人の取材

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静岡県井川ヤマメ祭り

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静岡県水窪町の「なり木責め」

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福島県三春で出会ったひょっとこ

 この作品は、これも偶々前作を見た人の伝手などで、明治神宮の参集殿で上映する機会をもらった。民俗学者と山伏の世紀の対談等もここで行う事藻できた。だが時間的にも内容的にも、盛り込むだけ盛り込んでしまった分、製作者として納得できるものではなかった。(それがこの作品を現在まで正式に発表できていない事にも繋がっている)

 そして、3年目も出してみた。…これも受かってしまった。3年目は、1、2年で作ったものをウェブサイトでまとめる事が主目的だった。そして「偶々」一作目を見て連絡をくれた愛知県豊田市の文化振興課の方から頼まれた「豊田市版産土」の制作と合わせてする事とした。これは豊田市合併十周年を記念して、合併した全ブロックの「産土的なもの」を収録するというかなり無謀な企画であった。惜しいことにこの作品は、豊田市美術館で一度上映した以後、他の場所では誰も見ておらず、発表すら出来ていない。

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 それから、時間がだいぶ流れた。スタッフとして働いてくれた人々も、結婚したり、退職したりする。僕自身2人目の子供ができたり、広告の仕事が少し忙しくなったり、他の映画を作ったりして、何時の間にか『産土』の事は遠い記憶に追いやってしまっていた。
 おそらく、もうちょっとどこかのタイミングで頑張れば、すでに二作目、三作目を世に出す事は出来ただろう。だが資金的な側面に加えて、三年間何も考えずほとんどのものを犠牲にして突っ走った事から来る燃え尽き症候群のようになってしまい、精神的にも続けられなくなっていたのかもしれない。

●4. YouTube配信へ

 コロナ騒ぎで、4月5月と予定していた撮影のすべてがキャンセル/延期になった。一斉に仕事がなくなったミュージシャン等と同じく、自分もこれから収入の道が途絶する事になる。そして不意に、「産土」をウェブに上げようと無意識に思った。
 また以前上映会に来てくれていた化粧品会社あきゅらいずの社長、南沢さんに、映画のオンライン版への支援をOKいただくというミラクルも起きた。もう7年も前に作ったものなので、色々不備が散見されたので、思い切ってゼロから作り直す事にし、一話づつのショートストーリーとして、配信することにした。
 今まで未見の方も、既に見た方も「初めて見るもの」として十分楽しめるものになると思う。そして3年目の予算で作り、今はもうなくなってしまった「産土ウェブ」の中で載せていた、たくさんの記事やコラムを更に編集/加筆し、noteにこちらは有料コンテンツとして出して行こうと考えた。

●5. 産土という言葉

 「産土(うぶすな)」という言葉について、かなり前に書いた文章が出てきたので、それを以下に載せてみる。

 産土とは「土地の神」の事である。その産土はその地で生まれた人を生まれてから死ぬまで守ると信じられてきた。たとえその人が住む場所を変えようと、その慈愛に満ちた保護は変わらないのだと云う。

 僕らの土台=ライフグラウンドである、足下の大地。普通、人は「国土」とそれを称すが、あえて「産土」と呼んでみる。行政区分とは関係のない、心のこもった自分たちの故郷。それが産土だ

 今という時代は、人が土地を所有したり開発したり出来ると当然視されているが、かつてはただ自然から土地を「間借りしている」と人は考えていたように思う。

 少し前までこの国には、正体不明な「あちら側(神なのかあの世なのか)」への意識が、あたりまえのようにどこにでもあり、満ち満ちていた。今目に見える形では、限界集落と称されるような数々の僻地の生活の中にかろうじて残滓のようなものが残されている。

そ のすべてを採取すること、記録保存することは限りなく難しい。それらは余りにも膨大で、余りにも取っ付きにくい。口伝で伝わり遵守されてきたものは、はなから理解されることを拒むようなところがあるし、年月の経過による変転と様々な習合で更に複雑怪奇になっている。学者の詳細な研究は渋過ぎる番茶のように晦渋である。それらを虎穴に入らずんば虎児を得ず式に呑込んで、後生大事に保存しようとしても、すべては記録し得ないし、どうやっても時代に馴染まないものは当然馴染まない。また古いものがみな素晴らしいという訳でもない。

 まず、シンプルな自分の「印象」を吐露することが大事なことではないかと旅をしながら思った。それは独善的になるだろうが、嘘をつくよりかはマシである。どこかの大きな放送局がやってしまっているように、終わってしまったものを、さもまだ生きながらえているように見せるのは辞めなければいけない。さもまだ続いているようなフリをするのではなく、もう終わってしまったことは、終わったのだと言わなければならない。
 この手の類の取材がみな一様に陳腐で退屈に見えるのは、ほんとうのことを言わずに「高尚な物語」にしてしまうからだ。つまらないものはつまらない、いいものはいい。駄目なものは駄目だ。それははっきりと言わなきゃいけない。肩肘を張ってやたら凄いものにするんはなく、等身大のものにすべきだ。十二分な機材も人員もない中で僕らに出来たのはそれだけと云うこともあった。
 骨董趣味やマニア的な感性ではなく、なんというか僕が求めているものは、もっと身近な「そのへん」の事である。もっと、そこら中にうろちょろしているようなものなのだ。(古い祭というものをいくつも取材したが、それはシンプルに評して、ただ普通の家族の墓参りのようなものだった。)先に述べたように文化というものを何か畏れ多い高尚なものと捉えようとする意識からは、このような感慨が導きだせない。そういう「そのへん」のチッポケな当たり前の営為の中に僕らの本質的な「なにか」は、あるのではないだろうか。

 今、8年の時を経て、この混迷の時代に『産土』は世に放たれる。これを3作までの全てをだす事ができれば、ひょっとすると4作目、5作目の新シーズンをはじめられるかもしれない。また長い旅になる。産土は僕を二度と離してはくれないのだと云う事を、忘れていた。それでは皆様、いつになるかはわからないですが、最後までお付き合いください。また会える時を願って。

長岡マイル




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