卑屈な小心者の大きな一歩

気づけば40歳。
本当にありきたりだが、40歳ともなれば、落ち着いたきちんとした大人になっていると思っていた。
常識があり、落ち着きがあり、社会情勢も理解していて、道端の植物の名前なんかも知っていて、四季を楽しみながら暮らす大人…自然とそうなっていくものと思っていたが、どうやらそれはまだまだ先のようだ。

…早速強がりを言ってしまった。
まだまだ先と、いかにもいつかはなれるような雰囲気を醸し出してしまったが、今まで通りただただ生きているだけでは、私のイメージする落ち着きのある大人にはなれそうにない。

「あれってコブシ?モクレン?」
毎年毎年、道端で父に聞いては「あ〜そっかそっか」とその場で納得し、違いを覚えておこうと心に決める、これを繰り返すこと何十年。時間が経てば自然と身につくものではなさそうだ。

自分で言うのもなんだが、これまで割と真面目に生きてきたと思う。
悪さすることもなく、親や先生の言う事を聞き、小学校から大学まで、授業はきちんと受けてきた。運動会やら人前に出る行事ごとは大嫌いだったが、嫌な気持ちを押しこらえ、ちゃんと参加してきた。
良くも悪くも真面目、慎重派。決めつけは良くないと言われて久しいが、田舎出身の真面目な両親のもとに生まれた第一子長女、A型、弟あり。
聞き分けが良く、真面目で慎重派…我ながら、なかなか典型的な気質に育ったと思う。

そんなだから、何をするにも慎重で小心者全開だ。学生の頃にSNSが流行りはじめ、当時は個人でブログやらを始める友人が多かった。私も招待されたのだが、いまいち仕組みのわからぬものに恐れ、頑なに丁重にお断りし続けたのを覚えている。
そもそも誰に向けて何を発信しろと言うのか…有名人でもないのに…。私の質素な食事を公開して何になるというのか…むしろ恥でしかないのでは…。友人の日常だって、会って話しを聞いているからそれで十分だし…。

そんな思考は揺らぐことなく数十年が経ち、気づけば40を迎えていた。今やSNSはすっかり日常的なものとなり、食事や旅の思い出どころか自らのダンス動画を公開する人なんかで溢れている。
踊る己を公開し合う…完全に異文化だ。ずっと同じ国に生活していたのに、いつの間にか完全なる異文化の中にいた。いつの間に…。
楽しそうにキラキラとした己を公開する人で溢れている…自己肯定感の高まりなのか。否定ではなく、楽しくできているのなら、むしろそれは良いことだと思っている。本当に。

そしてそんな異文化に気付き、異文化を楽しむ人々と卑屈な自分との違いに目を向けたときに、ふと気づいたことがある。
これまでいたって平穏に人生を歩んできたものの、その中で、自分の意志や主義主張、そこまでだいそれたものでなく、シンプルに自分のやりたいことや好奇心に重きを置かずに生きてきたのだと自覚してしまった。
けして虐げられたわけでもなく、窮屈に生きてきたわけでもない。むしろ平穏に育てられ、幸せに生きてきたと思う。ただ、自分のやりたいことや思いにフタをし他を優先させることが、息をするように当然のこととして身についていたことに、40にして気づいてしまった。
これが自分のことながら、なかなかの衝撃だった。誤解されたくないのは、何かを恨むでもなく、これまでを後悔するわけでもない。だって今まで平穏に、卑屈さも込みで自分なりに楽しく生きてきたし。
本当に、ただただ自分のことながら、あれ?今までの私ってもしかして…というシンプルにとても大きな発見だったのだ。

そしてここまでが長い長い前置きとなるのだが、40にもなり大きな気付きがあった今、自分の好きなことや興味のあること、やってみたいことがあるのかに改めて目を向けてみた。
映画を観たり読書をしたり、スポーツ観戦も好きだが、それらは今までもそれなりに嗜んでいる。もう一歩踏み込んだ好きなことは何か…しばらく考え、物を書くことが好きな気がする…と。私はこれが好きだ!!と声高に断言できないあたりに、長年にわたり築き上げた卑屈さと小心者具合が見え隠れしてはいるが…。
そしてこれを機に、思い切って書くことを始めてみよう、しかも独りよがりではなく公開できる場で。小心者の一大決心。

…今の時代にnoteを始めるだけのことで何をここまで…きっと多くの人がそう思うのだろう。なんなら私もそう思う。それでも、私にとっては大きな一歩だ。自分を楽しませることを躊躇せず追求することで、きっと気持ちに余裕も生まれ、道端の草花に目を向け名前をさらっと言える日が来ることもそう遠くはないだろうと。
残りの人生を楽しくいかに軽やかに過ごせるかが今後の目標だ。


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