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【読書雑感】ハロー、レイチェル

《出てくる本》

・レイチェル・カーソン 『センス・オブ・ワンダー』 (上遠恵子訳 新潮社、1996年)
・トーマス・マン 『トーニオ・クレーガー』 (平野卿子訳 河出文庫、2011年)


 憧れと、憂鬱な羨望と、ほんのすこしの軽蔑と、この上なく清らかな幸福感。

 これはトーマス・マンの代表作のひとつ『トーニオ・クレーガー』の最初と最後に出てくる表現だが、カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を読み終えたときの気持ちは、まさにこうだった。クレーガーを読んだ十ヶ月後、彼と同じ気持ちを知ったことになる。

 レイチェル・カーソンといえば代表作は『沈黙の春』、化学農薬が環境に与える問題に警鐘を鳴らした環境学者として有名である。海洋学者として、『われらをめぐる海』をはじめとする海三部作も評判高い。

 『センス・オブ・ワンダー』は彼女の最後の著作である。癌を患った晩年、甥っ子のロジャーに自然と触れ合う楽しみを教えた思い出を綴ったが、完成前に息を引き取った。彼女の死後、遺志を継いだ友人たちによって発行された。
 この本によると、センス・オブ・ワンダーとは、「自然の神秘に目を見はる力」のこととされる。彼女はロジャーを連れて、山の中、夜の海辺を訪れる。さまざまな動物、植物、自然の営みとの出会いを、大切に書き留める。ロジャーというひとりの子どもを通して、自然に対する目線、興味、豊かな感受性をはぐくむ時間の過ごし方を読者に諭す。図書館では学生向けに分類されることもあるようだが、カーソンの目線はむしろ世の大人たちに向けられているように思われる。
 そしてまさしく、大人になってしまったら、感じないではいられない。
 容赦なく湧き、あふれてくる。
 センス・オブ・ワンダーに対する、憧れと、憂鬱な羨望と、ほんのすこしの軽蔑と、この上なく清らかな幸福感が。

 うまく説明することは難しいので、冒頭のクレーゲルの文を四つの要素に解剖し、「センス・オブ・ワンダー」に対する思いひとつずつに説明を加えることによって、整理してみたい。

 まずは、憧れ。
 最もシンプルで、修飾語のないニュートラルな表現だが、この思いはなかなか厄介である。一見ポジティブな雰囲気がするのだが、憧れこそ、このあとの何やら暗い修飾語のついた「羨望」や、ほんのすこしではあれど「軽蔑」へとつながっていく。もちろん、最終的にはきっと、最上級の幸福感へもつながっていくのだが、そこに至るのに遠回りを課される。
 トニオ・クレーゲルは内気で孤独な少年で、金髪のハンサムな同級生のハンスや、金髪の美少女インゲボルクといった陽気で生き生きとした普通の人たちに憧れて子供時代を過ごした。彼の言う普通の人々とは、シラーの『ドン・カルロス』やシュトルム『みずうみ』など読まず、自分で詩を書いたりもせず、堂々とダンスを踊ることができ、乗馬のように人に披露できる立派な趣味を持ち、誰とでも当たり障りなくうまくやれる社交的な人たちのことである。ハンスやインゲボルグに象徴される「リア充」たちは、トーニオのような同級生を悪気もなくあざ笑う。一対一では話が通じても、みんなの前ではまともに相手をしないで、仲間内でふざけあう道具みたいに扱う。それでいて、礼儀の範囲で親切にはしてくれるのである。彼らのようにうまくは振る舞えないトーニオだが、少年時代の孤独を昇華させ、作家として大成する。『トーニオ・クレーガー』という小説は、過去を捨てた彼が、すっかり変わってしまった故郷を再訪し、自分のなかにある普通の人々への憧れを確かに認めるという筋書きである。
 少年時代の彼が焦がした憧れ、そして大人になってからもくすぶり続け、最終的には自認するところとなる、陽気な普通の人々への憧れは、いたたまれない。トーニオは単純で明るい世界を謳歌する善良な彼らのことを好きで、彼らに好かれたいと思うのに、遠い存在である。彼らのまねをすることもままならないトーニオにはどう近寄っていいかわからず、仲良くなれない。さらに救えないのは、彼らにとってみればトーニオは格好悪くダサい存在でしかないということだ。彼らはトーニオが悪い人間でないことは重々承知しているのだが、陰気でオタクっぽいトーニオに対するリアクションに困り、礼儀正しい冷淡さでもって無意識のうちにあしらってしまう。
 憧れは一方的でしばしば相手には届かないが、届くと疎まれるものである。尊敬と憧れの違いを想像してみる。自分の中ではこう整理している。憧れは歪むが、尊敬は歪まない。トーニオが彼らに抱いているのは憧れだ。尊敬なら、トーニオが苦しむことはなかった。
 『センス・オブ・ワンダー』への気持ちは、トーニオのそれほど深刻でないが、同じ性質のものだという気がした。単純に、いいなあ、という気持ち。強く惹かれながら、諦めも混じっていて、現実的な目標にはならない。とっくに道が違っていて、具体的にいつと言えるわけではないが何年も前にこちらに舵を切ることができていたら、という反実仮想。『センス・オブ・ワンダー』に描かれる体験は、そういうたぐいのものだった。自分の思い出をスクリーニングして、すぐに一致するものが見つからない寂しさ。だから、あったらよかったのになあ、ある人はいいなあ、なのだ。自分もこういうふうに感性を養いながら子ども時代を送りたかった。大人に、こういう世界を見せてほしかった。こういうことに興味を持ち、のびのびと自由に、そのことには無自覚に、夢中になりたかった。理科の教科書から習うことを、先に外の世界で体験したかった。自由研究の題材さえ決まらず、市販の自由研究キットに手を伸ばした後ろめたい過去がよみがえる。同時に思い出すのは、自由研究で市や県のコンクールに出ていたクラスメイトのことである。彼ら彼女らがどうやって研究テーマに出会ったのか、それすら想像がつかなかったし、今もそうだ。『センス・オブ・ワンダー』を読んで、彼らはこうだったんだろうなあ、なんて思う。目に浮かぶのは、学校の階段の踊り場に掲示されていた、自由研究の模造紙。夢の中で見るように、文字は読めない。なぜか、薄暗い北側階段のリノリウムの匂いはする。レイチェルやロジャーのように育った人がいることは、漠然とわかっているのだ。自分がこれまでであった人の中にもいたであろうという気がするのである。今なら大切さがわかる、そうしたい、と思うけどもう遅いと思うことを、ずっと前からやってきた子がいる。うらやましい。『センス・オブ・ワンダー』を読んだのは、二十一歳になる数日前だ。きっと、小学校や中学校の頃の自分には、響かなかった。本を読まなかったし、感受性だって豊かではなかった。たとえこの本に出会っても、受け止めきることはできなかっただろう。自分は、二十一歳でようやくたどりついた気づき。十年遅い、と思った。ロジャーのように育っていたら、十歳前後の時点で、『センス・オブ・ワンダー』を読んでやっと価値を悟れたその感受性を、すでに得ていたのではないか。それがかなわなかった自分にとっては、そういう感性をもって大きくなった人たちはあまりに遠いのである。すごいなあと馬鹿みたいに、全校集会でコンクール出場作品の発表を漫然と聞き流して、その内容も彼らのことも理解しようとしなかった自分には。

 遠くまぶしい存在への憧れは、憂鬱な羨望を伴う。それはおそらく、自分の後ろめたさに起因する。
 トーニオは「リア充」たちに憧れていたが、その憧れこそが、彼を憂鬱にさせる。自分は彼らと同じになれない、普通の人とは違う。彼の孤独とはこういう意識のことと思われる。友達がいない、誰も理解者にはなってくれない。同時に彼もまた、リア充たちの心をひらいて仲間になることができない。他人とは異なる自分の内的世界を成熟させ、大人になった彼は芸術の道で成功をおさめるからまだいい。孤独が才能の開花に結びついている。彼は自分と同類の仲間を得る。それでもやっぱり、彼は普通の人々のことが羨ましいのである。「普通の人々」よりも自分が優れているとは絶対に思えないからだ。普通の人々の普通の幸福を犠牲にしてきた、成功のために選んでそうしたのではなく、自分にはそうするしかできなかったのだ、と彼は考えているからだ。普通にできたら、こんな創作なんてしない。成功したって、彼は日陰から、振り返ってくれない彼らを見ている。光の中にいるハンスたちから、暗がりのトーニオは見えない。悪意もなく、彼らは従前のようにトーニオを無視する。彼は自己嫌悪から逃れることがない。
 レイチェルが『センス・オブ・ワンダー』に書きつけた感性に対する自分の憧れにも、後ろめたい濁りがあった。単にレイチェルが自分と遠く優れた存在にすぎるからではない。自分がそういう人種に近づく努力を怠ったという自覚があるからである。さらには、相手が素晴らしいあまりに、「自分は遠い」と言うときの「遠い」が「劣る」を意味してしまうからなのである。努力を怠り、才能を欠いた。同じチャンスを与えられ、体験をできたとしても、それを受け止めるだけの才能を持たない自分は、結局のところ同じにはなれなかった、と思うのである。思い出すのは、父親が買い与えてくれた天体望遠鏡。性能のいいやつではなく、ほとんどお遊びの安いものだ。でも、ベランダのない我が家で、二階の窓から一階の屋根に出て、望遠鏡をのぞいた。星座早見表を片手に星の観察をした。あのとき、なんで何も思わなかった。子どもの頃、父親と散歩もした。池の土手、田畑、山や海にも行った。草や花の名前を、都会の子よりは知っていたと思う。名前を覚えることが重要なことではないが、親しみがあったことは事実。でも自分はそれを大事にしないで、放り出してしまうことを夢見て大きくなった。県外への進学を手繰り寄せるため、教科書の知識を優先した。そちらの味をしめ、自然を顧みなくなるのは、早かったと思う。
 憂鬱な羨望とは、なんとも卑屈な感情である。憧れている、好きだ、近づきたい。羨ましがるくせに、自分はそこへ行けない。行こうともしない。そこへ行くのが正しいと、実は以前から察しているにもかかわらず、どこかで「遠い」ことを言い訳にしている。その結果、本当に遠い存在になってしまう。自己嫌悪が混じった羨望なのである。

 なぜ、近づこうと素直に努力しないのか。その答えがおそらく、ほんのすこしの軽蔑の部分にある。
 トーニオは、ハンスやインゲボルクのような社交的な人間に憧れている。彼らがシュトルムを読まないのは正しい。シュトルムを読んでいると軽蔑される。そこまでわかっていながら、トーニオの方でも実は彼らを馬鹿にしている。彼らには、シュトルムの素晴らしさがわからない。トーニオは、彼らの知らないものを知っていて、彼らが見落とす多くのことに気づくことができる。トーニオの鋭い感受性は、自分の弱さとともに、やがては彼らの欠点をも見抜く。
 「こうだったらよかったのになあ」という反実仮想には続きがある。こうだったらよかったのになあ、「でも、こうだったらみんな苦労しないよ」という。
 どこかで傲りがある。自分は知っているのだ、レイチェルが諭すように育つ人間の方が少数派であることを。そして、学校という場所で子供時代を生き抜くためには、「センス・オブ・ワンダー」よりも即効性のある力が他にあるのだということを。それは、ハンスやインゲボルクが持つ力だ。他人に堂々と披露できる趣味、かわいい服や持ち物、クラスで友達をつくる社交性。自然とは無縁でも手に入れられるこれらの力。豊かな感受性も、創造力も、そこにはいらない。確かに「センス・オブ・ワンダー」は、価値あるものだ。でも、それ以外にも価値あるものはたくさんあって、自分は別のものを選んだ。それだけのことではないか。すごいと称賛されはしない、こんな美しい本が書けるような素晴らしさはないかもしれない。でも、楽しく生きていく力ではある。それではだめなのか。これは反語だ。だめじゃない。だめどころか。
 心の一部は、彼らと同じになりたいなんてさらさら思っていない。あるいは、彼らと同じになりたいなどという願望を断固として認めはしないのである。
 軽蔑とは、他人を否定することによる自己正当化。憂鬱な羨望からの自己救済である。
 その軽蔑をもってする指摘は、ある程度当たっている。ハンスが、トーニオが持つ種類の聡明さを持たないのはひとつの真実である。良し悪しではないのだが、優劣をつけなければ足元がおぼつかない。自信がもてない。だから、自分に有利な真実をふりかざして軽蔑する。うらやましいと言いながらも、そこを目指さなかった自分を正当化する。だって、憧れてばかりでは、自分が潰れてしまうから。自分と違う他人をたたえることは、反対解釈では自分を否定することになる。自分とあの人は違う。あの人はすごい。三段論法では、「自分はすごくない」が結論となって出てきてしまう。傷つきやすく不安定な心は、この構造から逃れられない。
 軽蔑は防衛機制だ。憂鬱な羨望につぶされてしまわないための自衛。自己嫌悪という謙虚ではあるが自己否定的な感情から、自己を救済するためには、しばしば他人を貶める必要が出てくる。悲しく、情けないことだけど。
 思えば『トーニオ・クレーガー』を最初に読んだとき、冒頭に掲げた表現が印象的だったのは、「憧れ」と「軽蔑」が同時存在しているからだった。どうして「憧れ」ながら「軽蔑」することがあるのか、わからなかった。当時の自分にとって「憧れ」と「尊敬」は同義であり(これもひとつのありうる解釈ではあろうが)、憧れとはただただ謙虚で美しく純粋なものだった。そのまま気になるだけで通り過ぎていたけれど、カーソンを読んで、自分の気持ちを説明するのに、なぜか理解しきってもいない『トーニオ・クレーガー』の表現を思い出した。そのとき考えたのは、「軽蔑」とは何だろうということだった。なぜ、憧れながら、それを認めきれないのか。この棘のあるもやもやが、軽蔑なのではないか。そうか、憧れとは苦しいものなのか。そこで、憧れと軽蔑は共存しうるのだと腑に落ちた。
 少なくとも、自分がレイチェル・カーソンに対して抱いている「軽蔑」は、憧れと羨望に基づくもので、あまりにも大きいそれらに自分がつぶされないために自分の理性が勝手に働かせた防衛機制であるように思う。
 心が洗われるよう、という表現がある。素晴らしいものに出会ったとき、卑屈な心はしかし、素直に洗えないことがままある。

 憧れは複雑な感情で、こんなにも遠回りを課すが、最後には、この上なく清らかな幸福感へと通じるのだと信じたい。
 『センス・オブ・ワンダー』の読後感は結局のところ、最高によかったと言い切れる。受け止めきれないほどの衝撃だった、でも、忘れたくない、近づきたい。素直に、すごい!と言える。人に薦めたい。こうやって生きたい。難しくても、今さらでもいいから。自分に無理だからといって、逆らったり、馬鹿にしたりしたくない。太陽のように明るい場所だから、日陰から見守ることも多いけど、遠くからでもいい、ずっと見つめていたい。
 これはまぎれもなく、好きだ、ということ。心から尊敬している。ここまで認めたらもう歪みはない。

 感受性のなかった自分が、本を読んで、やっと考えられるようになって、なんとか異なる思想や経験を綴った文字にアプローチできるようになってきた、まさにそのタイミングで出会えた本だ。『センス・オブ・ワンダー』を手に取ったのは文学目当てに通っていた近所の図書館で、本当に、ただ偶然に目についたからだった。トーマス・マンの力なんかも借りながら、後づけで得た感受性ではあったけれど、理解できないと切り捨てることなく、好きになれた、心から。これはとても重要なことだ。一つの到達点と言ってもいい。

 薄いハードカバーを閉じ、本棚に立てた背表紙に念じる。
 ハロー、レイチェル。
 私は二十年かかったよ。


 ……と、話はすっきりまとめておきながら、冷めた悟りも常に『センス・オブ・ワンダー』とともにある。ひねくれ文学読みの宿命だ。
 予感がするのだ、きっとこの先、何度も立ち返るのはクレーガーの方なのだろうと。読み返しては、ぬるい安心感にひたる自分が見える。
 たぶん、レイチェルとの出会いと同じくらい、自分の中にある「軽蔑」の正体を発見したことは大きな読書経験だった。その後の読書に影響を及ぼしたに違いない。少なくとも、『トーニオ・クレーガー』をきっかけに「軽蔑」について考察することがなければ、モラヴィアの『軽蔑』を手に取ることはなかった。これはあまりに単純すぎる一例だが。

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