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『余命零日』四週間前

1.

「川村さん、どうしてもっと早く来てくれなかったんですか!」

目の前の医者が声を荒げた。通常の医者と患者であれば、こんな事はなかったと思う。何の因果か、長い付き合いになってしまった関係だからこそ、感情的になってしまうのだろう。

「なんだよ、珍しいじゃないか、声を荒げるなんて。」

次の言葉も予想がつく為、敢えてお道化て見せたが逆効果だった。

「あんなに約束したのに……体に異変を感じたら、直ぐに私の所に来ると!」

これほど取り乱すには理由があった。彼は嘗て私の義弟だった。もう二十年以上も前の事だ。元嫁の弟であった彼は、当時から私の主治医だった。青年期から膵臓に持病を抱えていた私に、新米医師の彼は根気よく付き合ってくれた。お陰で症状は随分改善され、日常生活を送る分には全く問題ないレベルまでになった。しかし油断してはいけない。何か異変を感じたら真っ先に伝える事を彼に諄いほど念を押されていた。なのに、私はそれを守れなかった……。

「いつまでも甘える訳にもいかないだろう。もう関係ないんだし。」

落ち着き始めていた彼に、再び火が付いてしまった。

「冗談じゃない!私は今でも義兄だと思っている。少なくともこの病気に関しては、ずっと一緒にやってきたじゃないですか……。」

そこまで言ってから、彼は急に萎れた様になった。二人の間に長い沈黙が続いた。私は努めて明るく彼に質問した。

「それで、あとどれくらいかな?」

彼は項垂れたまま、

「ステージ4…長くて…一か月……。」

「そうか。大体予想通りだな。」

そう言って立ち上がった。これ以上、彼を苦しめたくなかった。

「ごめんな。それだけ知りたくて。」

そのまま診察室を出ようとした背中に、

「姉さんには伝えていいですか?」

「…守秘義務は守ってくれ。」

それだけ言って、ドアを閉めた。

2.

覚悟していたとはいえ、いざそれを宣告されると動揺は隠せない。
結局、行く所も無く自分の店へと向かった。豆に拘った珈琲専門の喫茶店を開いてから、もう二十年以上も経つ。長い事やってきたもんだな。しかしその感慨は、同時に思い出される苦い記憶に直ぐに搔き消された。
開店は11時。もう30分過ぎている。店のドアを開くと、

「いらっしゃいませ!」

と、元気な女性の声が迎えた。

「あ!マスター、おはようございます。」

もう十年来一緒にやってきた従業員である白木茜だ。近所に住む女性で二人の小学生の母親。娘達がまだ赤ちゃんの頃から、この店を手伝ってくれている。

「お疲れ様。」

私は努めて普通に挨拶を返した。しかし茜には不自然に映ったのだろうか?

「マスター、何かありました?」

返す刀で切り付けられた。

「やっぱり、分かるか……。」

「最近漸く、そういうの…見せてくれる様になりましたよね。」

茜は苦笑しながら、そう答えた。人に本音を隠し、ひっそりと抜け殻の様に生きる。そういう意味では二人とも随分成長したと言って良いのではと思う。

「店、任せてもいいか?……一か月、だそうだ…」

茜はそれには答えず、サイフォンで珈琲豆を煮だし始めた。

3.

私は人が嫌いだ。だから人間関係も最小限に止めてきた。
揉め事は特に面倒なので自分が犠牲になれば済む事であれば率先して引き受けた。だから都合良く使われたが、私には好都合だった。
その分、仕事に没頭でき、人間関係から離れる事が出来る。そうやって人との間に垣根を作って生きてきた。
恋愛も同じだった。学生の頃からそれなりに女性との接点はあったが深くは付き合わなかった。それは精神的な意味で、いわゆるパーソナルスペース内には何人も決して入れなかった。
そしてそれは相手に対しても同じ。決してその中に入って行こうとはしなかった。いつ頃だったか、当時付き合っていた女性と別れる時に言われた事がある。

「最後まで雅之君の心には入れなかったな。貴方は多分、誰も入れないんでしょうね。」

奇しくも十数年後、同じ言葉を告げられ離婚する事になるのだが……。

何故そうなったのか?
顔も思い出せない両親の残像が脳裏を掠める。

“ お前さえ、いなければ… ” 

祖母の般若の如き恐ろしい顔。その後伝えられた絶望的な真実。
それら封印された過去が私を何処までも追ってくる。決して終わる事のない永遠の無間地獄を私は今も走っている。
だが、漸くそれも、終わりを告げる様だ。

4.

一か月か……。
自宅への帰り道、元義弟との会話を思い出した。残された時間で何を為すべきか?一か月という時間は長いのか?短いのか?少し頭の整理をしないと答えを導き出せそうもない。
そんな事を熟ら熟らと考えていると前方に蹲る人影を見つけた。何故気付いたかというと苦しそうな呻き声が聞こえたからだ。かなり大きな声だった。六月の夕暮れ。まだ日は沈みそうにない。

「どうしました?大丈夫ですか?」

遠目から判断した通り、蹲る人影は女性だった。お腹の辺りを抑えてとても苦しそうにしている。

「お腹痛いの?」

呻き声は更に大きくなる。これは手に負えない。

「救急車呼ぶね?」

そう問い掛けた時、左手に手が掛かる。

「…待ってください。大丈夫です……。」

更に手を強く掴まれ、私は電話するのを躊躇した。
相変わらず女性はお腹を抑え苦しんでいる。見たところ年齢は三十前後。よく見るとかなりお腹が大きい。ふくよかな人なのかと思ったが、手はほっそりとしている。もしかして?

「あんた妊娠してるのか?」

女性は苦しみながらも大きく何度も頷いた。それなら尚更病院に。

「大丈夫です。暫くすれば収まります。もう臨月なんです……。」

前駆陣痛というらしい。出産の前段階で子宮や骨盤の変化などにより神経が圧迫される為、激痛が起こるらしい。痛みが続くようなら病院に行くべきだが、暫くすると収まる事も多いらしい。

「本当に大丈夫か?俺は男だからよく分からない。」

「はい。少し楽になってきました。」

女性の顔に少し余裕が生まれた。一安心か。

「そうか。それなら良かった。あんた、家はこの近くか?傍まで送ろうか?」

笑みまで浮かべていた表情が、再び硬くなった。痛みが再発したか?

「どうした?また痛みが?」

「…無いんです……。」

え?よく聞き取れなかった。痛みが、ぶり返したのか?その割には呼吸は落ち着いている。

「ごめん。よく聞き取れなかった。なんか言ったか?」

女性は泣きそうな表情で私を見詰め、

「帰るところが…無いんです……。」

一体どういう事だ…

5.

翌日は朝から喫茶店の準備に出掛けた。
ここの所、病気の事もあり、店を茜に任せきりにしていた。せめて開店準備くらい、じっくり行ってみたかった。
それともう一つ。茜にお願いしなければならない事もある。

「おはようございます!」

開店の30分前になって、茜が出勤してきた。こういう時に普段と全く変わらない所が彼女の良い所であり、つれない所でもあるのだろう。

「おはよう。」

そう一言だけ伝え、私は作業に没頭した。茜はエプロンを付け、掃除を始める。この辺りの阿吽の呼吸は、長い付き合いだからというのもあるだろう。

「マスター。」

暫くしてから、不意に茜が私に声を掛ける。首だけをそちらに向けた。

「私に出来る事なら、何でも言ってください……。力に、なりたいです……。」

鼻の奥が熱くなるのを、何とか抑えた。

「有難う……。それなら一つ頼みたい事がある。」

気を取り直して切り出した私の言葉に、茜は真剣な眼差しを返した。

午後は、自宅最寄りの駅周辺をぶらりと散歩した。
店からは3駅ほどのこの場所は、繁華街と呼べるほど多くの店は無いが、ぽつりぽつりと疎らに飲食店などが点在した。それが街の景観と相まって何とも心地よい。初夏の昼下がり、少し温く成り始めたそよ風を受け、私は猛烈に幸せを感じていた。
半ば屍の様に生きてきた自分の人生で、このような素朴な幸福を実感する機会などなかった。周りの人間達とどのようにして関わっていくか?それがいつも私の生きる命題だった様に思う。景色を楽しむ余裕などなかった。これも心境の変化がもたらした “気づき” なのだろうか?

再び駅周辺に戻ると、道の端に易者らしき人物が座っていた。
落ち着いた感じの女性。自分より少し年嵩か?何処か懐かしい気配を感じる。引き寄せられる様に近づいた。

「どこか、患ってますね?」

こちらが問い掛ける前に、そう尋ねられた。

「え?」

思わず絶句する。

「お代は要りません。少しお話させて頂けますか?」

そう言うと易者は、目の前の椅子を掌で示した。ごく自然に私もそこに座る。暫く双方が見つめ合った。かなり長い時間に感じられた。

「もうあまり時間がありませんね?要点を二つ申し上げます。」

心がギュッと締め付けられた。

「一つ目は、つい最近、不思議な出会いがありましたね?その出会いを大切にしてください。貴方はこの出会いによって多くの気づきを与えられます。そして、貴方が本当に望むものを手に入れられるかもしれません。これが最後のチャンスです。」

また気づきか… しかし漠然とし過ぎていて、よく分からなかった。

「そしてもう一つは。」

易者は私を見てにっこり笑い、

「一つ目を理解してからですね。」

何なんだ?これじゃさっぱり分からない。

「あんた、もっと分かり易く教えてくれ。これじゃ何を気をつければいいか…」

しかし、言葉を投げ掛けた筈の易者は何処にもいなかった。先程まで目の前で喋っていた女も、座っていた椅子や机も、跡形もなく何処かへ消えていた。急速に目の前が暗くなっていく……。

6.

狐に化かされる。
昔はよく聞いた話だが、まさか令和の現代にそんな事が起こる訳がない。
しかし夢だとも思えない。現実に起こった事には間違いないと思うのだが……。そんな事を考えながら家路に就いた。
しかしあの易者、言ってる事は当たっていた。私の余命が幾ばくもない事。そして最近あった不思議な出会い。

「お帰りなさい。」

昨日までは居なかった、同居人の事だ。

「今日は助っ人を連れてきたぞ。」

「え?こちらは?」

私と隣にいる茜とを交互に見比べ、彼女は目を瞬かせる。
今朝茜にお願いしたのは、彼女の身の回りの世話をして貰う事。勿論、茜には子育てもあるので、あくまでも妊婦のフォロー。男では気づけない様々な気遣いを、経験者である茜にお願いしたのだ。

「こちらは、白木茜さん。」

二人に自己紹介を促す。

「白木です。ええと……?」

「星野、星野碧です。」

「碧さんね。よろしく。」

少しお姉さんだろうか?茜が主導で話を進めた。

「これ、マタニティドレス。と言っても、ほとんど部屋着だけど。」

そう言って舌を出す茜に、碧はすっかり心を許した様だ。この後、私が買い物に出掛けているうちに二人の仲は出来上がっていた。

それにしても……。

昨夜起こった不思議な出会い。臨月の妊婦。帰るところが無いと訴える彼女。まさかそれを受け入れたおかしな私。これだけでも尋常ではない。
あの易者はこの出会いを大切にしろと言った。そうすれば気づきがあると。そしてその先に本当に望むものがあるのだと。目の前の妊婦を放り出す訳にはいかない。その思いでとりあえず保護するだけのつもりだった。部屋に連れていき、冷たい飲み物で一息ついてもらう。
しかしその後聞かされた彼女の話は、この出会いがやはり大きな意味を持つという事を認めざるを得ないものだった。

7.

「彼が居なくなっちゃったんです。三年付き合いました。去年の秋口に私の妊娠が分かったんです。そしたら凄く喜んでくれて…私も嬉しかった。その後も私を大事にしてくれて。でも先月…彼は突然姿を消しました。私が仕事に行っている間に、彼の私物も全て無くなっていました……。」

おまけにその部屋は彼の名義で、解約済みだったという。その退去期限が昨日だったらしい。彼女は悲惨な経験を淡々と話した。まるで他人事であるかの様に。

「行先に心当たりはないのか?」

そんな事を聞いても意味がないと分かっていたが、聞かずにいられなかった。

「それなんですよね。私、彼の事、何にも知らなかったんですよ。居なくなってよく分かりました。凄くカッコいい人で、当然女性からもモテて、そんな人と付き合えて、私、有頂天になってました。彼は私以外にも沢山女がいて、私の事なんてちっとも見てなかったんだけど、実は私も彼の事、全く見ようとしていなかったと思い知らされました。」

相変わらず淡々と寧ろ少し笑みを浮かべながら、彼女は身の上を話してくれた。遣り切れなかった。

「予定日は、いつなんだ?その…赤ちゃん…」

それを尋ねると、彼女は嬉しそうに、

「来月七月七日、七夕なんですよ!多分、男の子なんです。」

先程までの湿っぽい空気が一変し、希望に満ちた彼女の笑顔が眩しかった。
なるほど。これがあの易者の言った大切にすべきものの正体か。彼女との出会い。そして何れ産まれてくる命との関わり。
それらを通して、もしかしたら私の本当に望むものの正体も姿を現してくれるかもと、まだ漠然とではあるがそう思った。

「君と俺との出会いは、宿命なのかもな……。」

思わず口をついて出た言葉に、しかし彼女は動じなかった。

「どうしてそう思うんです?」

その答えを知っているかの様に、彼女は真っすぐに私を見た。もう隠す必要もないと思った。残り少ない僅かな時間を共に過ごすであろう人。

「七月七日。その日は……俺の命日になるかもしれない…」

それを聞いても、彼女は眉一つ動かさなかった。まるで最初から全てを知っていた様に。そして既にあるシナリオを読むが如く、

「それでは時間は僅かですね。千夜一夜物語には遠く及びませんが、残りのひと月、ゆっくり語り明かしましょう。お互いの今までを。あ、申し遅れました。私、星野碧と申します。」

「俺は、川村、川村雅之だ。」

余命一か月のガン患者と出産までひと月の臨月妊婦の奇妙な生活は、こうして静かに幕を開けた。












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