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『余命零日』三週間前

1.

「川村さん、ご結婚は?」

碧との奇妙な生活も二週間目を迎えた。
先週は、私の仕事に関する話がほとんどだった。敢えてそうした様な気がする。お互いにどうでもいい話をする事でそれぞれの心を解していく。言わばウォーミングアップの様なものだ。そして今夜、碧はいよいよ核心に切り込んできた。

「嘗てはしていた。もう二十年以上前の事だ。」

私は努めて、淡々と回答した。

「お子さんは?」

野球で言えば、ピッチャーに両コーナーギリギリを攻められ、翻弄される様な気持ち。それくらい、最初から心は揺さぶられた。碧にその意図があったのかは分からない。

「それも、居た。過去形だ。」

碧は少しだけ眉を顰めた。しかし質問は途切れる事なく続けられた。

「その辺りの話、続けて頂けますか?」

碧をここに受け入れた時点で、こんな話をする事になる様な予感はあった。易者の言った通り、この出会いは宿命。私にとっても人生で最初で最後、自らの生き様を振り返り終焉を迎えたいという気持ちが芽生えてきた。

「俺は若い頃から、膵臓を患っていた。だが主治医が優秀なのもあって、何とか普通に生活できるレベルまで改善する事が出来た。もう分かってると思うが、俺はとても変わり者で人生に対し、いつも斜に構えている様な人間だった。しかしこの主治医は、そんな俺と何故か馬が合った。治療は勿論の事、プライベートでも食事をする様な関係までに進展した。俺の人生では、ほぼあり得ない事だった。」

碧は表情を変えず、真っすぐ私の話に聞き入っている。

「そんな彼がある日紹介したい人がいると言った。そうして食事の場に連れてきた女性が彼の姉、秋吉優子。後に俺の妻になった人だ。その日は初対面であるにも関わらずとても楽しい夜になった。主治医の彼もそうだが、俺と馬が合うだけあって彼女もとても変わっていた。ああ、変わっているというのは俺にとって誉め言葉だ。あの頃は本当に幸せだった。もしかしたら人生をやり直せるかもと本気で思ったよ。」

碧は黙って話を聞いていた。とても優しい表情だった。

「やがて俺達は結婚する事になった。まさか俺が結婚とは夢にも思っていなかった。本当に彼女には感謝している。主治医の彼も自分の事の様に喜んでくれた。これからは兄貴だな、とか言いながら何回も乾杯した記憶は今でも鮮明だ。」

そこまで一気に喋ってから、急に口が重たくなった。やはり拒絶反応があるのだろう。碧もそれを察知したらしい。

「今夜はここまでにしましょうか?また明日の晩、聞かせてください。」

六月も中旬に入った。そろそろ寝苦しい夜が始まる。

2.

その日は暑かった。
夜になっても気温は下がらず、いよいよ夏本番といったところか。妊婦の体調を考えると、クーラーの温度設定も高めになってしまう。食事の後、お互いに団扇など使いながら汗ばむ暑さを紛らせていた。

「お話の続き、話せそうですか?」

碧は急に居ずまいを正し、そう尋ねてきた。昨晩の続きに関しては、あの後、色々考えてみた。やはり私の生い立ちについて語る必要がある。

「……秋吉優子と俺は境遇がよく似ていた。二人とも両親を早くに亡くしている。ただその亡くし方には大きな違いがあった。」

一つ深呼吸をしてから、私の長い独白が始まる。

「優子の両親は二人とも病弱で、彼ら姉弟が小学校の時に相次いで病死した。それからは遠縁の親戚に二人とも引き取られ、割と豊かに暮らしてきた様だ。弟の航が医者を目指せたのも、そんな家庭環境だったからだ。それでも早くして両親を失った悲しみは、経験したものでなければ察するのは難しい。」

ここから話のテンポは急激に失速していく。

「一方、俺も幼くして両親を亡くしている。いや……俺のせいで両親は死んだんだ……。これは祖母の話だ。」

碧が息を飲んだのが分かった。

「あの夏も、とても暑かった…それだけは幼いながらも覚えている。
銀行員だった父はその夏、珍しく夏休みを取った。保育士をしていた母も偶々同じタイミングで休暇が取れ、この機会に母の実家がある北海道に行ってみようか、という事になったからだ。祖母も大層喜び、俺達一家が来るのを心待ちにしていたそうだ。祖父が随分前に他界しており、一人で寂しかったのもあったと思う。飛行機に乗り、現地に着いてからはレンタカーを借りた。空港から祖母の家までは凡そ30km程の距離だった。北海道は本州とは違い道幅が広い。だから走行時の体感スピードは本州で走るそれと比べ、かなり遅く感じる。なので自然と実際の速度は上がる。それだけに大事故に繋がるケースが多い。祖母も電話で何度も注意していた。一時間程の道中、俺はアイスクリームの店を見つけた。通り過ぎた後、母にあそこのアイスクリームが食べたいと珍しく駄々を捏ねたそうだ。店舗の横に、当時大好きだったアニメのキャラクターを見つけた為だった。初めは諭していた母だが、俺の執拗な要求にとうとう音を上げた。父も、そんなに言うのならと、来た道を引き返すため中央分離帯の切れ目に車体を寄せた。Uターンのタイミングを測り待機していた父。恐らく日頃の疲れで思わずボーっとしてしまったのだろう。対向車のダンプに気づかず、出会い頭に衝突した。俺達が乗った車はほぼ大破してしまった。」

碧が思わず目を伏せる。居たたまれないといった感じだ。

「父と母は即死。幸運にも俺の座る助手席側の後部座席だけが原型を留めた。その後は祖母や親戚たちが集まり、葬儀の段取りや俺の今後の事で大騒ぎになった。結局祖母が引き取る事になり、俺は北海道へ連れられていった。まだ五歳だった……。」

一息つく為に、私は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に半分ほど飲み干した。そして深く息を吐き出す。ここで漸く、碧が口を開いた。

「事故時の状況は、川村さんが警察に話したのですか?」

私の口は更に重くなっていくが、この先を話さないと核心に迫っていけない。絞り出す様に、私は話を続けた。

「警察のその後の調査で目撃者への聞き込みと、幼いが唯一の生存者である俺への調書は取らざるを得なかったのだろう。だがこれら状況が明らかになるにつれ、祖母の様子が変化していった。徐々に俺への態度は冷たくなり、事ある毎に事故原因でもある俺を責めた。お前のせいで娘は死んだのだと。」

「そんな……。」

碧が信じられないといった表情で一言呟いた。

「そんなの、全然川村さんのせいじゃない……。五歳の子供の、ほんの我儘じゃないですか。」

その通りだと思う。その通りなんだが……。

「祖母も頭では分かっていたと思う。あれは事故だ。仕方のない事だったんだと。でも、事故原因を知ってしまった。やり場のない思いを五歳の子供の我儘に向けるしか、祖母の心は保てないほど擦り減ってしまっていたんだよ。」

「でも、そのせいで川村さんは……。」

碧自身も遣り切れない思いと戦ってくれている。
確かにこの事件が切欠で、私の人生は大きく変わった。僅か五歳にして、背負い切れないほどの重い十字架をその小さな背中に括り付けられてしまったのだ。

「父母を殺してしまった……その思いだけは今も残り続けている。これだけは決して忘れてはいけない。死ぬまでね……。」

長い沈黙が続いた。それ程話は重かった。どんな言葉にも置き換える事は出来なかった。もう夜が明けるのでは?そう思った頃、

「ごめんなさい。私はそれでも続きを聞かせて欲しい…また明日の晩、お願い出来ますか?」

彼女なりに消化してくれたのだろう。どのみち覚悟は出来ている。私は深く、そして大きく頷いた。

3.

翌朝、余命宣告をされてから初めて、私は吐血した。
猛烈な痛みの後を追いかける様に激しい吐き気が襲ってきた。何とか碧には気づかれずトイレに駆け込んだ。便器一杯に鮮血が飛び散った。
正直かなりのショックだった。覚悟はしていた筈なのに……。主治医の航に出して貰った痛み止めの薬を探しにトイレから出ると、碧が目の前に立っていた。

「隠すの、意味あります?」

最もな問いかけに、頭を下げるしかなかった。碧から渡されたミネラルウォーターで薬を流し込むと、暫くして痛みが緩和してきた。これからはこれを繰り返すのか。少し憂鬱になった。

「有難う。助かった。」

私が礼を言うと、

「お互い、一人じゃ生きられないんです。助け合って行きましょうよ。私も遠慮しません。」

そう言って笑う彼女を見ていると、何故だかとても落ち着く。私も助けられている。そう思った。

夜になって、痛みはほとんど消えた。
ひょっとして病気自体が無くなったのか?そう勘違いするほど調子がいい。夕食も普通に済ませ、テレビを眺めながらこの後の事を考える。今夜はいよいよ、核心中の核心について話さなければならない。些か緊張を拭えないが、もう取り繕わず自然体で話すと決めていた。

「そろそろ話を始めようか?」

そういう前から、碧は目の前でその準備を終えていた。今夜の話の重要性を彼女も感じているのだろう。

「昨夜までの話で、俺の背景は分かって貰えたと思う。話を秋吉優子との事に戻そう。」

そう言って一拍置いてから、私は本題に入った。

「彼女と俺が結婚したのは、それぞれ31と32の時だった。
因みに優子と航は年子なので航は30歳だ。俺は祖母の元を少しでも早く離れたくて、中学を卒業してから直ぐに寮生活を始めた。大学に入ってからはバイトしながら一人暮らしを始めた。だから人と暮らすのは十数年振りになる。しかも女性とは…でも不思議と気恥ずかしさはなかった。ずっと前から一緒に暮らしていた様な感じもした。何から何まで、何の違和感もなく時は過ぎていった。あの事が起こるまでは……。」

俯き加減で話していた私は視線を上げた。
碧と目が合った。彼女は大丈夫とばかりに深く頷いた。背中を押される様に、私は先を続ける。

「結婚して一年後には子供が産まれた。可愛い女の子だった。本当に可愛かった。俺は恥も外聞もなく溺愛した。愛美と名付けた。愛らしく美しい。もう親バカとも感じなかった。優子も呆れながら、でも微笑ましく見ていてくれた。俺の生い立ちを知っているからこそ、尚更だったのかもしれない。愛美は元気に育ってくれた。年少さんから幼稚園に通い、言葉もたくさん覚えた。“パパ、行ってらっしゃい!” 毎朝この言葉で見送ってもらうと一生頑張れそうな気がした。この時期の数年だけは、会社でも俺の変化が話題になった程だ。まさに生まれ変わった。そう感じていた。」

***

「雅之、今夜は早く帰れるの?」

その朝、優子は出掛けにそんな事を聞いてきた。理由は勿論分かっている。

「当たり前だよ。今夜だけは何があっても定時で帰る!」

雅之も当然とばかりに力強く答える。

「じゃあお願いね。お祝いの準備は私がやっておくから。」

「いつもすまんな。でも早いな。愛美も4歳か……。」

二人で暫し感慨に耽る。今日は娘の愛美の誕生日なのだ。

「パパ、早く帰ってきてね!」

幼稚園の制服に着替えた愛美が、玄関先に走りこんでくる。

「わかったよ。約束ね。愛美もちゃんと横断歩道渡るんだぞ。」

最近は交通ルールも学んでいるらしい。

「うん!わかった!」

「ダメよ。まだママと一緒ね。」

「そうだった。」

そう言って三人で笑う。
雅之は、後ろ髪引かれる思いで会社へと向かった。

当時私は広告代理店に勤めていた。
その日の会社での業務は順調に捗っていた。この調子で行けば余裕で定時帰社出来る。昼食を済ませた頃にはすっかり安心していた。ところが……。
定時まで後一時間となった時、突然取引先から連絡が入った。掲載された広告が原稿で確認したものと違うというクレームだ。しかも相手は会社が最も大切にするクライアントだ。
雅之は直接の担当ではないが、上司として一緒に対応して欲しいという会社からの指示だった。やむを得ず雅之は現場に向かう。今夜はかなり遅くなるだろう。優子には電話で事情を話し、お祝いは明日に延期してもらった。残念だが仕方がない。
最初はかなり熱くなっていたクライアントだが、雅之と担当者で必死に謝罪し代替案も示したため、徐々に軟化してくれた。場が収まり先方の会社を出た時、携帯電話が激しく鳴った。出ると相手は優子だった。取り乱していて何を言っているか分からない。

「落ち着いて!一体どうしたんだ!」

雅之は努めて冷静に、しかし上ずった声で問い掛けた。しゃくりあげて聞き取れなかった優子の声が、次第に明らかになる…

「死ん…じゃったの…」

え?よく分からない。

「死んだって、誰が?」

今思うと呑気な聞き方だった。

「ま、愛美が!死んじゃったの!」

そう言い終わる前に、優子は泣き崩れた。
愛美が…? え? 愛美が…何?

***

この話を誰かに語る日が来るとは、正直想像もしていなかった。私は何という罪深き男なのだ。両親だけでは飽き足らず、実の娘までも……。

「娘さんはどうして?」

碧も散々言葉を選んだ挙句、それだけ言うのが精一杯だった。込み上げる涙を堪えながら、私はゆっくり真相を明かす。

「俺が約束通り帰れなかった理由を、優子は愛美に説明した。その場では納得してくれたらしい。しかし…もしかしたら?と思ったのかもしれない。優子の目を盗んで俺を探しに家を出てしまったんだ……。何度か優子と一緒に駅まで俺を送った事がある。それを思い出したのだろう。駅に向かう途中、たった一つだけ渡らなけばならない横断歩道。夕暮れで見ずらかったのだろう。手を上げて渡る愛美は……」

その後は嗚咽で聞き取れなかっただろう。自分でもそれ以上、言葉にする事は出来なかった。碧も泣いていた。

「ごめんなさい…」

何とかそれだけ絞り出してくれた。
やり場のないこの思い。墓場まで持っていくつもりだったこの思い。初めて語ったこの思いは、この後何処へ行くのだろう?迫りゆく死期。余命残されている間に昇華しなければならないと強く思った。愛美や両親の為にも。









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