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漂流(第四章②)

第四章

2.
あれからまた月日が流れ、光男は五十の齢を越えた。
色々あったが、今は美代子と幸せに暮らしている。聡子の事を忘れた訳ではない。しかし何となく二人が交わる事は無いような気がしている。それに激動過ぎる人生の中で、流される様に生きてきた自分は少し疲れてしまったのかもしれない。大切だった筈の聡子の面影が今は薄れてしまっている。それを認めたくなくて美代子との生活に没頭している事からは、目を逸らし続けてきた。だがこれでいい。もう、これでいいんだ……。
「光男さん。ご飯出来たよ。」
いつものように美代子が食事の用意をしてくれる。そして二人で食卓を囲む。その日にあった取り留めのない話に笑い合う。絵に描いたような幸せ。光男がずっと欲しかった生活だった。それを叶えてくれた美代子には感謝しかない。もうこの人だけの為に生きよう。そう思っていた。しかし宿命はやはり俺を許してはくれない。美代子が体調の変化を打ち明けて来たのは秋も深まった季節だった……。

「光男さん。私が死んだら聡子さんの所に戻ってね。」
病室の窓外を見詰めながら、美代子が歌うように呟いた。
「美代子。弱気になったら駄目だよ。長い治療にはなるけど治らない病気ではないんだ。諦めないでね。」
美代子はこちらを見て微笑んだ。
「それに聡子は関係ないよ。俺は今、美代子と一緒に居られて本当に幸せなんだ。そんな事言わないでくれ。」
美代子は何も答えない。沈黙が続いた。秋晴れの空が澄み切っている。すっかり高くなった薄い雲がゆっくりと流れていく。院内の庭に立っている木々達から舞い落ちた枯れ葉が、開けていた病室の窓から入り込み床に落ちた。
「光男さん。お願いしましたよ。」
もう一度にっこりと微笑み、美代子は眠りに就いた。
その日を境に、美代子の病状は悪化の一途を辿った。自らの命が残り少ない事を彼女は感じ取っていたのだろうか?あの日の言葉が耳から離れない。何もかも理解した上で俺と一緒に居てくれた。彼女の優しさに何度も救われた。結局俺は彼女に何も返せなかった。
思い返せば美代子の気持ちを深く考えた事などなかった。今になって後悔が募る。聡子の事ばかり考えてきた俺をいつも見守ってくれた。晩年は一緒に過ごせたが、俺は幸せだったけど彼女はどうだったろう?全ては今更の話。意識を失った彼女の、もう真意を聞き出す事は出来ない。
年が明け春を迎える前に、美代子はこの世を去った。心の整理をする余裕など全くなかった。


第四章③に続く


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